中央大学について
勤労動員
1930年代後半から学生の勤労動員が盛んになります。たとえば、1938年6月に文部省は「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を各大学に通達します。
政府は、戦況が厳しくなるにしたがい動員の頻度、期間を増やしてゆきます。1944年以降は通年動員が行われました。
1)勤労奉仕、勤労動員
1938(昭和13)年07月13日 |
発専153号 帝都青年団勤労奉仕ニ関スル件(2578KB) |
da20133910a0001、 da20133911a0001-da20133911a0003、 da20133912a0001、 da20133913a0001 |
発専153号で文部省は、集団勤労奉仕を効率よく実施するため、あらかじめ学校等に参加希望を募ることを表明しています。同「要綱」には"集団勤労奉仕ヲ実践セシメ以テ心身ヲ鍛錬シ国民精神総動員ノ実ヲ上ゲ皇国ノ隆昌ニ貢献センコトヲ目的"とするとあります。
中央大学がどのような意思表示をしたか史料は残っていませんが、中央大学年表には勤労作業や勤労奉仕に関する以下のような記事があります。1938年8月には具体的内容はわかりませんが集団勤労作業に参加という記事があります。
1938年07月15日 予科生徒が明治神宮清掃の勤労奉仕(-7.16)
1938年07月 夏期休業中の勤労奉仕に関する注意事項を告示、『学生夏期勤労簿』配布
1938年08月 集団勤労作業に参加
1938年10月22日 多摩川畔で第1回集団勤労作業(10.26同)
1939年07月 学生に「学生夏期勤労簿」を配布
1939年07月14日 練馬運動場で専門部3年、吉祥寺野球場で第1予科全学年が集団勤労作業(-7.17)
1939年07月 学生に「学生夏期勤労簿」を配布
1940年05月12日 紀元2600年祝賀宮城外苑整備作業に学部生、予科生、専門部生参加
1941年10月 専門部経済学科2年勤労作業を陸軍機甲整備学校で実施
1941年11月10日 報国隊予科隊・学部隊中の商学部学生、深川陸軍糧秣本敞で勤労作業
1942年04月15日 予科2年生、陸軍某廠で勤労奉仕(-4.22)
1942(昭和17)年02月21日 | da20134275a0001 | |
1942年02月21日 | da20134276a0001 |
文部省専門学務局長名で、1942年度の国民動員計画を作成するうえで、1941年12月の卒業生数、1942年9月の卒業予定者数を報告するよう指示しています。
中央大学は2月21日付で、学部、専門部について回答しています。
政府はこのような調査を行ない、『昭和17年度国民動員実施計画』(企画院)を策定します。その51ページの学生生徒の項で学校種別ごとに、基礎数(学生生徒総数)、供出可能見込数(男子の場合基礎数の85%)などを試算しています。供出可能とは勤労動員などに就ける学生数と推測します。
この計画は下記の国立国会図書館サイトで参照することができます。
1944(昭和19)年08月16日 (消印) |
[学生生徒ノ勤労出勤交代ニ関スル件](電報)(650KB) |
da20130708a0003-da20130708a0004 |
1944年08月18日 起案 |
学生生徒勤労出動に関する件(721KB) |
da20130708a0001-da20130708a0002 |
電報は、文部省は9月の繰り上げ卒業学生に代わって1年生を動員する計画だが、支障があれば申し出よという内容です。
以下に全文を漢字かな交じり文に翻刻しました。
ニカ[親展]
工場事業場に対する学徒の通年動員に関し本年9月卒業する学徒の交代として1年をも動員いたしたきも重大なる支障により交代困難なるむきはその理由をグシ8月22日までに遅滞なく回答ありたし[。]なお支障なきは場合は回答に及ばず 文部省
これに対して中央大学は、学部生1年生については10月初旬からの動員は差支えない、専門部生徒1年生については入学から日が浅いので通年動員を避けて臨時の場合に動員するよう取り計らっていただきたい、との回答を行なったものと推測されます。提出控えではなく決裁日の記入のない起案書だけが残されていることから断定はできません。
こうしたなか、戦争が終結する1945年の状況をものがたる以下の資料を紹介します。
1945(昭和20)年04月30日 |
大学高等専門学校学徒動員ニ関スル件[照会](478KB) |
da20134361a0001 |
この文書は文部省学徒動員本部第一部長名で出されています。内容は、学生/生徒が動員されている工場などが空襲などの被害により事業継続ができなくなった場合、あるいは、所定の計画が終了する場合、学生/生徒は学校に復帰することとなるが、その際には学生/生徒を緊急業務に動員するので、遅滞なく至急報告するよう指示しています。
1945(昭和20)年4月28日 | da20134360a0001-da20134360a0002 | |
[1945年05月] |
[大学高等専門学校学生生徒数調ニ関スル件第1表調査報告](402KB) |
da20134362a0001 |
[1945年05月] |
[大学高等専門学校学生生徒数調ニ関スル件第2表調査報告](390KB) |
da20134363a0001 |
[1945年05月] | da20134364a0001 | |
以上3点の表の翻刻(49KB) | - |
文部省は、発専80号で、4月の新入生が入学したので、学徒動員上現時点での学生数を把握する必要から回答を求めています。
中央大学からの回答控え自体は残っていませんが、メモが残されています。[大学高等専門学校学生生徒数調ニ関スル件第1表調査報告]などの3点(いずれも1年生が対象)です。これらのメモから以下のことがわかります。
1945年4月時点で、実際の就学者が在籍者に比して極端に少ない。専門部(法)で7%、専門部(経済)で11%、法学部でも44%、経済学部でも38%となっています。全体で20%の学生しか就学していない状況を表しています。
このような状況は、1944年から強化された勤労動員の結果と言えます。以下に「中央大学年表」掲載の記事を掲げます。
1944年5月 学部2年勤労動員(日本冶金川崎工場・5月20日-6月18日)
1944年5月 予科3年勤労動員(大同製鋼熱田工場・5月23日-9月5日)
1944年6月 専門部3年勤労動員(日本鋼工川崎工場・6月17日-9月20日)
1944年6月 学部3年勤労動員(日本冶金川崎工場・6月19日-9月20日)
1944年10月 学徒勤労令により板橋陸軍造兵廠などに通年動員
2) 勤労動員先での授業
1945(昭和20)年09月10日 |
出張教員ノ講義料増額ニ関スル件(380KB) |
da20130728a0001 |
勤労動員されていた専門部1年生に対して7月7日から約1か月間、動員先の工場において授業を行なった教員に講義料を支出したいとの稟議書です。教員の人数は記載されていませんが、時間給講師、固定給講師とあることから複数であることがわかります。
3) 勤労動員と授業実施
1945(昭和20)年02月26日 | 学期末授業及試験施行等ノ件(719KB) | da20130719a0001-da20130719a0002 |
原文を以下に翻刻します。(句読点などを[]内に補い、適宜改行した)。
1 昼間部
学部2、3学年及専門部経商2学年ハ勤労出動ヨリ帰校シ授業ヲ開始
シタ計リニ付
又学部第1学年可成[ナルベク]授業ヲ進メ置ク必要アルニ付3月中
授業スルコト[。]
専門部第1学年残留者ハ勤労出動者近ク帰校スベキニ付夫レ迄休講トス[。]
[2] 夜間部
専門部第1学年ハ2月末マデ授業シ3月3日ヨリ8日迄学年試験ヲ行フ[。]
第2学年ハ已ニ12月学年試験終了シタルニ付学部ト共ニ3月9日ヨリ
末日迄休講トス[。]
要点をまとめると以下のとおりです。
1 昼間部について
(1)学部の1年生はなるべく授業を進めておく必要があるので3月中は授業を行なう。
(2)学部の2、3年生、および、専門部の経済学科、商学科の2年生は勤労動員から帰校し授業を開始したばかりであり、3月中は授業を行なう。
(3)専門部1年生で勤労動員されていない者は、近日中に勤労動員から帰校の予定の者もあるので、休講とする。
2 夜間部について
(1)学部は3月9日から月末まで休講とする。
(2)専門部1年生は2月末まで授業を行ない、3月3日から8日にかけて学年試験を行なう。
(3)専門部2年生はすでに12月に学年試験を終えているので3月9日から月末まで休講とする。
1945(昭和20)年07月27日 |
学期末授業終了及学期始開始ノ件(400KB) |
da20130725a0001 |
この稟議書は、戦争終結から3週間前の日付の文書です。
内容は以下のとおりです。
1)学部、専門部とも8月中は休暇とする。
2)9月3日から授業を開始する。
3)学部の1、2年生は10月新学年と同時に授業を開始する。
4)夜間部の1、2年生は9月3日から2、3年生の科程を開始し、2月下旬から3月にかけて休暇とする。
実際の授業開始は9月11日でした。