中央大学について

卒業期繰り上げ、学徒出陣

大学生など将来の社会をリードすることが期待された「エリート」に、20歳で一般の国民が負った徴兵を猶予する制度を「在学徴集延期」(徴集猶予)といいます。当初、大学等に在籍する学生は27歳になるまでの間、徴兵を行なわないこととされていました。後には以下のように年齢が下げられてゆきます(中央大学関係部分のみの説明です)。

1927年公布の兵役法で初めて定められ、修業年限3年または4年の専門学校、および、大学令による大学予科については25歳まで、大学令による大学学部については27歳まで徴集を猶予しました。

その後、1939年の兵役法の改正で以下のとおりとしています。
1)修業年限3年または4年の専門学校について23歳(1月2日-4月1日生)、24歳(4月2日-1月1日生)まで猶予。
2)大学令による大学予科について22歳(1月2日-4月1日生)、23歳(4月2日-1月1日生)まで猶予。
3)大学令による大学学部(医学部を除く)について24歳(1月2日-4月1日生)、25歳(4月2日-1月1日生)まで猶予。

この改正では、「戦時又ハ事変ニ際シ特ニ必要アル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ徴集ヲ延期セザルコトヲ得」という事項が追加され、政府の判断で猶予しないことが可能となります。

そして、1941年10月16日公布の勅令第924号「大学学部ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」で、修業年限を短縮しました。徴収猶予の年齢を変更することではなく、卒業時期を繰り上げることで兵として徴集する時期を早めたのです。

さらに、1943年10月1日公布/即日施行の勅令第755号「在学徴集延期臨時特例」で、在学中であっても一般の国民と同様20歳で徴集されることとしました。以降「学徒出陣」と呼ばれました。

なお、『タイムトラベル125中大』に参考記事があります。

学徒出陣・戦没学徒(429KB) <本学サイト>

1)卒業期繰り上げ

1941年9月初旬、政府は本来の卒業期である明年3月を3か月繰り上げて12月とすることを各大学をはじめとする高等教育機関に通達します。

徴集延期制度自体はそのままとし卒業時期を繰り上げることで、効果としてこれまでよりも早期の徴集(兵として召集)を可能とするものです。

本来の学校制度では、大学の場合修業期間は3年で、1939年4月入学者は1942年3月に卒業することとされていたところを、1941年12月に繰り上げて卒業させるものです。また、それまでは、卒業後に徴兵検査を受けて、その翌年に入営(陸軍)とされていた規則を、卒業後まもなく徴兵検査を行ない、翌年に入営させる規則に改めました。したがって、1939年入学者は通常1943年に入営する予定が、1942年に入営することとされたわけです。

1941(昭和16)年09月12日

発文120号 卒業期繰上ニ関スル件(381KB)

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文部省は、発文120号文書で9月6日に通知した卒業期の繰り上げについて、報道機関などに口外せぬよう学長に指示しています。「極秘」の印が捺されています。

この文書を受け取った中央大学は、学内回覧を行なっています。また、文書には9月6日付発専177文書の概要が手書きで加えられています。具体的には"177号ハ左ノ通達|昭和16年度卒業者ハ其ノ在学年限、修業年限ヲ3ヵ月短縮シ昭和16年12月ニ卒業セシムルコト"と記されています。回覧は、教務、会計、庶務、図書、学生の各課長、学生主事、予科長、教務主任、教官室に回され、それぞれ押印あるいはサインをしています。

1941(昭和16)年10月8日

卒業期繰上実施ニ関シ留意方ノ件[内報](544KB)

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文部省は、この文書で9月6日に通知した卒業期の繰り上げに伴って学事上留意することを内報しています。

「教材ノ取捨繁簡宜シキヲ得教授効果ノ完璧ヲ期スベキコト」、毎週の授業時間数は5時間を標準として増加させることができること、卒業式は12月26日から28日の間に行なうことなどを内々に指示しています。

1941(昭和16)年10月16日 陸軍省/文部省令第2号 在学徴集延期期間ノ短縮ニ関スル件 <文書所蔵せず>

陸軍省、文部省の両省はこの省令で、徴集を延期する期間を改訂します。

中央大学に関係する区分では、予科について21歳/22歳、専門部22歳/23歳、大学の学部(医学部を除く)23歳/24歳とします。それぞれの歳の前部は1月2日から4月1日生まれの者、後部は4月2日から1月1日生まれの者です。したがって、かりに1年生であっても兵として徴集される確率が上昇したのでした。

3か月の繰り上げ卒業措置と相まって、多くの若者を兵として徴集します。

注:この項は『学徒動員・学徒出陣 : 制度と背景』(福間敏矩;第一法規;1980年)所載の省令を要約しました。

1941(昭和16)年12月20日

発専239号 昭和17年度在学年限又ハ修学年限ノ臨時短縮ニ関スル件[通牒](1006KB)

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文部省は、発専239号文書で学部について、2回目の卒業期繰り上げとなる1942年度卒業に関し以下の事項等を指示しています。
1)現大学2年生の卒業期は1942年9月とすること。
2)これを実現するため毎週の授業時間数を工夫すること。
3)3年生の授業科目を前倒しして2年生で履修させても構わないこと。
3)冬休みは短縮し新年は遅くとも1月8日から授業を実施すること、春季休業も短縮すること。
4)現在の1年生の在学年限は未定だが今回と同じように短縮となることを想定しておくこと。
5)現在の1年生と1942年4月入学者は1942年10月をもって進級(2年生)させること。
6)1942年10月以降は高等学校、大学予科の修業年限短縮に伴い、学年の始期を10月とし、終期を9月とすること。
7)現在大学予科の2年生の修了期は9月であること。

1941(昭和16)年12月20日

発専239号 昭和17年度在学年限又ハ修学年限ノ臨時短縮ニ関スル件[通牒](986KB)

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文部省は、発専239号文書で専門部について、2回目の卒業期繰り上げとなる1942年度卒業に関し以下の事項等を指示しています。
1)現専門部2年生の卒業期は1942年9月とすること。
2)最高学年の授業は1942年9月までに終了すること。
3)これを実現するため毎週の授業時間は5時間を標準とすること。
4)最高学年の学科目の一部を1942年1月から開始して構わないこと。

5)冬休みは短縮し新年は遅くとも1月8日から授業を実施すること、春季休業も短縮すること。夏季休業は30日の範囲で決めること。

6)1942年9月卒業予定者の大学学部等への進学については改めて通知する。
7)現在の1年生の在学年限は未定だが今回と同じように短縮となることを想定しておくこと。
8)1942年度の学期は、4月から9月を第一期、10月から3月を第二期として構わない。
9)現在の1年生と1942年4月入学者の進級はこれまで通りとする。

2)臨時徴兵検査

卒業期の繰り上げは、学生を兵として召集する時期を前倒しする目的で行なわれました。繰り上げ卒業後には徴兵検査が即座に行なわれ、学生は兵となっていったわけです。

1941(昭和16)年10月30日

発文141号 臨時徴兵検査ヲ受クル学生ニ対スル試験期日ニ関スル件[通牒](513KB)

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(再掲)
1941年11月01日

照専50号 [貴学(校)学生生徒ニシテ本年ノ臨時徴兵検査受検ノ為在学徴集延期期間満了届提出者数等ニ付11月8日迄ニ提出ノ件](986KB)

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1941年11月06日

[昭和16年度臨時徴兵検査ニ関シ市内受検者数調及在学徴集延期期間満了届等提出者数報告ノ件](1790KB)

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卒業期繰り上げに伴う臨時徴兵検査が1941年12月1日から全国一斉に始まります。

発文141号で文部省は、12月に臨時徴兵検査の受ける第1学年の学生の入営時期が2月であることから、学年試験を繰り上げるなどの措置をとることを指示しています。

照専50号で文部省は、在学徴集延期満了届提出者数等を調査のうえ11月8日までに提出するよう指示しています。

最後の報告は、照専50号への回答文書で、在学徴集延期満了届提出者数などについて中央大学が回答した控えです。学年ごとに在学生数、満了届提出者数、延長願提出者数などを集計しています。さらに、都内(当時は東京市内)での受検者数を区ごとに算出した文書が附属しています。この表によれば、学部/専門部の在学生約9,000人のうち約1,800人が徴集延期満了者で臨時徴兵検査を受けて召集されたものと推測されます。なお、都内で受検した者が約900人ですから、そのほかの約900人は本籍地に帰郷して受検したものと推測されます。

1942(昭和17)年01月31日

発文13号 昭和17年臨時徴兵検査施行ニ関スル件[通牒](2000KB)

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政府は、6か月繰り上げ卒業を決定し、臨時徴兵検査を4月11日から30日にかけて行なうこととしました。

発文13号文書で文部省は、その準備のため、各区分に該当する学生に手続きを取らせるよう学校が徹底することを求めています。学生一人一人についてどの区分に該当するかを何らかの方法で通知し、必要な手続きを取らせたものと推測します。

区分のひとつに、(5)在学徴集延期期間延長届があり、該当する者として"専門学校又ハ高等師範学校在学者ニシテ大学学部ニ入学スベキモノ"とあります。

この文書の発出時期(1942年1月当時)は、すでに前年の12月に繰り上げ卒業が行われていますので、3年生は在学していません。ここで対象としている"大学学部ニ入学スベキモノ"には、中央大学が1942年1月に開講した「臨時補習科」に在学する「専門部生徒」も含まれていたのかもしれません。臨時補習科については以下の「専門部臨時補習科の設置」の項で紹介します。

[1942(昭和17)年05月15日]

第1表(大学々部)臨時徴兵検査受検者等調 中央大学部(532KB)

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[1942年05月15日]

第3表(専門学校)臨時徴兵検査受検者数等調 中央大学専門部(567KB)

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2つの文書は文部省への回答文書控えと推測しますが、文部省からの通知文書が残っていません。上記で紹介した発文13号(1942年1月31日付)と密接に関係する文書であろうと推測します。日付は専門部の回答控えの欄外に記された日付を採用しました。

1942年の6か月繰り上げ卒業決定、臨時徴兵検査実施を承けて、満了届提出者数(在学徴集延期期間満了届)、延長願提出者数(在学徴集延期期間延長願)、延長届提出者数(在学徴集延期期間延長届)、臨時検査(4月11日から30日実施)受検者数(臨時徴兵検査受験届)を報告しています。

学部では満了届提出者約1,380人、専門部では満了届提出者約850人、延長届提出者約250人、臨時検査受検者220人としています。専門部の延長届提出者は大学の学部への進学が予定されることが条件ですから、3年生1,718人のうち約250人(約15%)は、学期はじめの5月に大学進学が予定されていたことをものがたっています。

延長届については、上記「1942年01月31日 発文13号 昭和17年臨時徴兵検査施行ニ関スル件[通牒]」を参照してください。

なお、第2表の存在は確認できていません。

3)学費の設定

卒業期の繰り上げは、修業年限の短縮と同義で、文部省は学費の設定について指示を出しています。

1941(昭和16)年11月17日

発専212号 在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ伴フ授業料等ノ取扱ニ関スル件(945KB)

da20130630a0003-da20130630a0004
 

修業年限ノ臨時短縮ニ伴フ授業料等ノ取扱ニ関スル件 [草稿](712KB)

da20130630a0001-da20130630a0002

文部省は発専212号文書で、授業料は年総額の12分の9を原則とするが、今年に限り卒業学年の授業料は増徴することができるとし、その場合増徴額は12分の3相当額を限度とすると通知しています。また、増徴する場合は遅滞なく文部省にその内容を「開申」(自分の職権内でしたことを監督官庁に報告すること)することとしています。

この通知に対して、中央大学は授業料年額の12分の3相当額をを増徴する旨、文部省に報告したと推測する草稿が残されています。

1942(昭和17)年03月26日

発専239号 昭和17年度在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ伴フ授業料等ノ取扱方ニ関スル件[通牒](515KB)

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文部省は発専239号文書で、1942年9月に繰り上げ卒業する学生、同年10月入学する学生の授業料について学則に定める年総額の12分の6相当額とするよう指示しています。また、これ以上の授業料を徴収しようとする場合は文部省に対して「認可申請」を行なうよう指示しています。

1942(昭和17)年04月04日

昭和17年度在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ伴フ授業料ノ取扱方ニ関スル件[申請](491KB)

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  同上 草稿(809KB) da20134282a0001-da20134282a0002
1942年09月05日

学専173号 昭和17年4月4日附申請昭和17年度在学年限又ハ修学年限ノ臨時短縮ニ判フ授業料増減の件認可 (317KB)

da20134337a0001

上に紹介した発専239号文書で文部省は授業料は12分の6相当額とするよう指示していますが、中央大学は4月4日付でこれ以上の額を徴収したいとする認可申請を行ないます。授業料の設定について、1)諸物価高騰、2)人件費を理由に年総額の12分の9相当額としたい旨の認可申請を提出しています。大学学部、大学予科、専門部を合計すると新入生の定員換算で24万8,000円あまりの収入が失われるとしています。このお金を支弁するためには市中から借り入れるか、基金から振替るかであるが、「経営上多大ナ困難ヲ感ジル実情」としています。

この申請書にとは別に草稿と見られる文書が残されています。

ちなみに、日本銀行が公表している企業物価指数による換算では、25万円は2016年現在価値で約8,200万円となります。

この認可申請から5か月後の9月5日、文部省は学専173号文書で授業料を12分の9まで徴収してかまわないとする内容で認可しています。

4)専門部臨時補習科の設置

中央大学専門部を1941年12月に卒業して中央大学学部に入学を希望する者に対して補習授業を行なうことを目的に、文部省に対して臨時補習科の設置認可申請を行ないます。

1942(昭和17)年01月08日

専門部臨時補習科設置ノ件 [設置認可申請書草稿] (1530KB)

da20130636a0001-da20130636a0004
1942年02月13日

学専38号 [昭和17年1月17日附申請臨時補習科学則制定認可](335KB)

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文部省は、「発専195号 専門学校の修業年限臨時短縮ニ関スル件」(専門学務局長発;官公私立専門学校長あて;1941年10月16日)で、臨時補習科設置を認める旨通知し、希望する専門学校は認可申請をするよう指示しています(この史料の学内所蔵は不明です)。

中央大学は、専門部を1941年12月に繰り上げ卒業となった卒業生で、学部への進学を希望する者に対して補習科を設置する認可申請を行ないます。

就業期間は1942年1月から3月としています。カリキュラムは、昼間部、夜間部の2つに分け、勤労作業を昼間部に置くほかは昼夜共通で、毎週、国語2時間、日本史6時間、漢文7時間、英語9時間の授業を行なうとしています。また、授業料は徴収しないとしています。

約1か月後、学専38号として文部省は申請を認可します。

5)卒業試験の追再試験

中央大学では、繰り上げ卒業対象学生への追試験、再試験を実施しました。以下に紹介するのは1941年度から1943年度の史料です。

1941(昭和16)年12月24日 追試験再試験施行ニ関スル件(754KB) da20130633a0001-da20130633a0002
1942年01月28日 卒業追再試験成績決定発表ノ件(746KB) da20130639a0001-da20130639a0002

1941年度繰り上げ卒業時の卒業試験での追再試験に関する稟議書です。

1941年12月24日の文書は試験内容に関するもので、1月16日から試験を行なうこと、追再試験で受験できる科目数の限度などを内容とします。

1942年1月28日の文書は学部、専門部の実施結果に関する稟議書です。成績評価が丙科目2科目まで合格(卒業)としています。丙評価3科目17人、一部未済56人、未到者1人とあります。

1941年度卒業は3か月繰り上げの12月卒業とされました。中央大学の卒業式は12月26日に行われ、追再試験は卒業式から3週間ほど後に行なわれています。

なお、当時の成績評価は、甲乙丙の3段階評価で、丙は不合格を意味します。

1942(昭和17)年09月22日

昭和17年度卒業未済者ニ対スル追試験再試験施行ニ関スル件(662KB)

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1942年10月21日

昭和17年9月卒業試験未済者ニ対スル追再試験施行ノ件(644KB)

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1942年度繰り上げ卒業時の卒業試験での追再試験実施に関する稟議書です。

9月22日付の文書は、理事、学長の決裁を受けた後に青色鉛筆で×印が書かれています。

とくに、2枚目の今後は在校生に対して追再試験は実施しない旨書かれた部分に×印が書かれていることから、この点が決裁後に見直されたものと推測します。

10月21日付の文書は再提出した文書と推測します。決裁を受けて試験が実施されたものと推測します。

内容は、試験日は11月14日から3日間、追再試験で受験できる科目数の限度などです。

1942年度卒業は半年繰り上げの9月卒業とされました。中央大学の卒業式は9月27日に行われています。追再試験は9月を過ぎて1か月半を経過した時点で行なわれています。

1943(昭和18)年11月06日

昭和18年度卒業者追再試験成績決定ニ関スル件(733KB)

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1943年度繰り上げ卒業時の学部、専門部の卒業試験での追再試験結果に関する稟議書です。

成績評価で「丙評価」科目が2科目までの学生を合格とし、3科目以上ある学生に関しては"個別・調整し決定"としています。その結果、受験した191人中133人が丙評価2科目以下で合格して卒業認定を受けています。

6) 学徒の徴集(学徒出陣)

徴集猶予制度を中止し、一般国民と同様に満20歳に達した学生生徒を徴集するものです。これがいわゆる「学徒出陣」といわれるものです。

徴集猶予は、1939年の兵役法改正により、大学予科の徴集延期は満23歳、専門部は満24歳、大学学部は満25歳までとされていましたが、その後引き下がられ、1943年3月には予科満21歳、専門部満22歳、学部満23歳になっていました。これを廃止して、満20歳の者はすべて徴集対象としたのです。このときの徴兵検査は、「昭和十八年臨時徴兵検査規則」により10月25日から11月5日に本籍地で実施されました。

中央大学には「学徒出陣」に関する文書がほとんど残っておらず、以下に紹介するのは外部の資料が中心です。

1943(昭和18)年10月01日 勅令第755号 在学徴集延期臨時特例(公布/即日施行) <国立公文書館サイト>
1943年10月19日 発専241号 昭和18年臨時徴兵検査ヲ受クルベキ学生生徒ノ取扱ニ関スル件

内閣は、9月21日の閣議において兵役法で規定していた在学徴集猶予制度を中止し、満20歳以上の男子を学籍に有るかどうかにかかわらず兵として徴集することを決定します。そして、10月1日に在学徴集延期臨時特例を公布し、即日施行します。

この勅令を承け、文部省は10月19日付発専241号で以下の指示を全国の高等教育機関に出します。

1)入営(陸軍)、入団(海軍)に至るまでは本人の便宜を考慮し重点的に教育すること。

2)入営、入団する学生に対して服役中(徴兵中)は休学とすること。

(1)大学、予科、高等学校、専門学校の学生で明年9月卒業の見込みある者については、仮卒業証書を授与し、明年9月に卒業させること。

(2)上記以外の学部学生については、除隊後復学する場合、休学時の学年に復学させ、予科、高等学校、専門学校の学生については上級学年に復学させること。

3)休学期間中は授業料等を免除すること。

4)入営、入団する学生について学籍簿のほかに徴集者名簿を作成すること。

5)以上のことは学則の定めにかかわらず実施すること。

(以上『学徒動員・学徒出陣 : 制度と背景』(福間敏矩;第一法規;1980年)収録文書から要約)。

<中央大学の状況>

中央大学には、この措置によって徴兵された学生を直接に記録した資料はほとんど残されていません。

しかし、当時の学籍原簿(学部および専門部)に記録された兵役関係情報から以下のことが推測できます。この調査は、1941年から1945年の入学者について2015年から行なっています。

その作業はまだ完了していませんが、1943年の「学徒出陣」で対象となった学生は2,000人を超えることがはっきりしてきました。予科に関する史料が学内に存在しない可能性があり、はっきりとした人数は確定できませんが、この人数を超える学生が学窓を離れたと推測します。

7) 植民地出身学生の兵への志願(半強制的な勧誘)

上で紹介した徴兵猶予制度は日本国籍を持つ者が対象ですが、一方で日本が当時植民地としていた朝鮮半島、台湾出身の学生にも兵に就くよう、その受け皿として1943年10月20日に陸軍省令第48号「陸軍特別志願兵臨時採用規則」が公布されます。

1943(昭和18)年12月03日

発専279号 朝鮮人台湾人特別志願制度ニ依リ志願セザリシ学生生徒ノ取扱ニ関スル件(1115KB)

da20130696a0003-da20130696a0004
1943年12月28日

朝鮮人、台湾人特別志願制度ニヨリ志願セザリシ学生生徒ノ取扱ニ関スル件(530KB)

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発専279号で文部省は、陸軍特別志願制度によって植民地出身学生を兵に志願させるよう、大学から学生に勧誘すること、自発的に休学や退学をしない場合は大学において学則の規定の有無にかかわらず積極的に休学処分とすること、志願しない学生について氏名、年齢、原籍地などを12月15日までに報告すること、休学を命ずる期間は事態の継続のある場合さらに延長してかまわない、などとしています。

これに対して中央大学がどのように回答したかは充分な資料が残っておらず不明です。

また、12月28日付文書で、特別志願制度により合格した学生生徒の軍隊への入営時期は1月20日ころとなるので、志願しない学生生徒に対してそのころ発専279号での措置(休学措置)をとるよう求めています。

<参考>

「中央大学所蔵「学徒出陣」関係史料を巡って」(奥平晋) 中央大学史紀要, 第20号, pp.170-183(本学サイト)