中央大学について
入学者数、在学生数、卒業生数など
日本が中国などと戦争を行なったアジア太平洋戦争時の入学者数、在学生数、卒業生数、年齢構成などについて紹介します。作成目的の異なる文書に記録された数字を紹介しますので、調査や報告に基準日のずれなどがあり、また、集計上の誤りなどを含んでいます。当時を理解する補助的な情報としてご理解ください。
この項では、1938年から戦争終結後の1946年までの入学者数等について紹介します。大学に残された史料が限られていること、学外の資料によって補うことも困難なことから1943年から1945年にかけての数字は断片的なもの、極めて不正確なものを含みます。
なお、中央大学が毎年文部省に提出した「年報」を紹介していません。その理由は「年報」が実態を表さないことが多いためです。文部省認可の入学定員を超えて学生を受け入れていたことから、実態の数字を報告していないことが散見されるからです。
また、『中央大学百年史』通史編下巻の129ページでは「年報」に基づいた在学生数を掲げていますが、実態を表すものではないとご理解ください。
1)1938(昭和13)年当時の年齢構成
1938年07月07日 |
照専32号 現在生徒ノ年齢調査ニ関スル件(1460BK) |
da20133928a0001-da20133928a0004 |
1938年08月 |
現在学生々徒ノ年齢調査ニ関スル件報告 鏡(427KB) 法学部(1303KB) 経済学部(858KB) 商学部(856KB) 予科(872KB) 専門部(法科、経済学科、商学科)(902KB) |
da20133927a0001-da20133927a0012 |
照専32号文書で文部省は、学部/学科等の単位で、学生の年齢構成を20歳未満、20歳から25歳までを1歳刻み、そして26歳以上で区分けして報告するよう指示しています。但し書きで、女子および外国人は集計から除くことと指示しています。
8月の中央大学から文部省専門学務局長あての報告(控え)で、大学学部、大学予科、専門部について文部省の指示のとおり年齢区分に従って報告しています。
たとえば、法学部(昼間部/夜間部合計)の1年生484人中204人は23歳以上で全体の42%を占めます。20歳未満は一人も在籍していません。
大学予科(昼間部)の1年生179人中130人は20歳未満ですが、49人は20歳以上で全体の27%を占めます。
専門部法学科(昼間部/夜間部合計)の1年生1,196人中261人が20歳未満ですが、935人は20歳以上で全体の78%を占めます。また、23歳以上は287人で全体の24%を占めます。
2)1939(昭和14)年当時の学生数
1939年01月28日 |
[学生生徒本籍地調ニ関スル件](文部省専門学務局発)(405KB) |
da20133980a0001 |
1939年01月28日 | [学生生徒本籍地調メモ](945KB) | da20133981a0001-da20133981a0003 |
文部省専門学務局発文書で、1938年5月1日現在の本籍地ごとの学生数の報告を求めています。
メモには、学部、予科、専門部について学年ごとに本籍地が東京府、東京府以外の区分で人数を記入しています。おそらくこの数字が文部省に報告されたと推測します。
1枚目は学部、専門部ごとに昼夜合計の学生数を、2枚目は予科について昼夜別の学生数を、3枚目は学部、専門部について昼夜、学年を区分した学生数を算出していると推測できます。
たとえば、学部(法、経済、商学部/昼夜合計)1年生でみると、東京本籍者228人、その他の府県本籍者471人です。専門部(法、経済、商学科/昼夜合計)1年生でみると、東京本籍者810人、その他の府県本籍者1,014人です。
文部省の調査の目的は文書からはわかりません。1939年3月30日付で文部省は「大学教練振作ニ関スル件」(振作は盛んにする意)を発して、4月以降は大学学部在籍学生全員に学校教練を課すと指示しています。このことが調査につながっているのかもしれません。
なお、この史料によればこの時期おおむね下記の学生数(植民地出身者等を除く日本国籍を持つ者)であったと推測できます。(1)専門部 約4,800人、(2)予科 約1,600人、(3)大学学部 約1,900人、計約8,300人。
3)1940(昭和15)年度入学者の年齢構成
1940年05月11日 | 発専89号 学生生徒ノ在学年齢調(1528BK) | da20134096a0001-da20134096a0003 |
1940年06月01日 | 学生生徒ノ在学年齢調報告ノ件(1554BK) | da20134095a0001-da20134095a0003 |
発専89号文書で文部省は、「学生生徒ノ兵役ニ関シ必要有之ニ付」き、1940年入学者について大学学部は、19歳未満、19歳から26歳まででを1歳刻み、そして27歳以上という区分で在学生数を報告するよう指示し、大学予科および専門学校(専門部)は、19歳未満、19歳から25歳まででを1歳刻み、そして26歳以上という区分で在学生数を報告するよう指示しています。この調査では、さらに当時の植民地である朝鮮半島、台湾出身者について、年齢区分なしに外数として報告するよう指示しています。
6月の中央大学の文部省専門学務局長あての報告(大学の控え)で、大学学部、専門部について文部省の指示のとおり年齢区分に従って報告しています(予科に関する報告控えは所蔵が確認できません)。
たとえば、法学部1年生では昼間部329人中47人は23歳以上で全体の約14%を、夜間部196人中66人が23歳以上で約34%を占めます。
4)1941(昭和16)年当時の年齢構成
1941年07月15日 | 照専43号 教員並学生生徒ノ年齢調(2390BK) | da20134211a0001-da20134211a0005 |
1941年07月31日 | 教員並学生生徒ノ年齢調ノ件(1999BK) | da20134214a0001-da20134214a0004 |
照専43号文書で文部省は、在学生について大学学部は、19歳未満、19歳から26歳まででを1歳刻み、そして27歳以上という区分で在学生数を報告するよう指示し、大学予科および専門学校(専門部)は、19歳未満、19歳から25歳まででを1歳刻み、そして26歳以上という区分で在学生数を報告するよう指示しています。この調査では、さらに当時の植民地である朝鮮半島、台湾出身者について、年齢区分なしに外数として報告するよう指示しています。「極秘」の印が捺されています。
7月の中央大学の文部省専門学務局長あての報告(大学の控え)で、大学学部、専門部について文部省の指示のとおり年齢区分に従って報告しています(予科に関する報告控えは所蔵が確認できません)。
たとえば、学部の昼間部全体では1468人中653人は23歳以上で全体の約44%を、夜間部全体では941人中521人が23歳以上で約55%を占めます。専門部の昼間部全体では1199人中150人は23歳以上で約13%を、夜間部全体では3526人中1141人で23歳以上で約32%を占めます。
ちなみに在学生数は、植民地出身学生を含めて学部(昼夜合計)2793人、専門部(昼夜合計)5403人、計8196人であることがわかります。
5)1941(昭和16)年度入学者数および在学生数
1941年06月05日 |
照専34号 学生、生徒数及退学者数等報告ノ件(2337KB) |
da20133546a0001-da20133546a0005 |
1941年06月05日 |
学生、生徒数及退学者数等報告[稟議書](377KB) |
da20133546a0006 |
学部 [下書き](866KB) |
da20133546a0008-da20133546a0009 | |
専門部 [報告控え](1526KB) |
da20133544a0019-da20133544a0021 | |
専門部 [下書き](837KB) |
da20133546a0010-da20133546a0011 | |
da20133546a0012-da20133546a0013 | ||
予科 [報告控え](1882KB) |
da20133546a0014-da20133546a0017 |
照専34号文書で文部省は、学部、予科の1941年度の入学者数、1941年5月1日現在の在学生数/退学者数、1940年度卒業者数について報告するよう求めています。おそらく専門部あてにも同様の文書が発出されたと推測します(中央大学には残されていません)。
6月5日付中央大学教務課長起案の稟議書は、学部、専門部の報告に関する稟議書と推測します。7月17日付の「報告ノ件」は予科に関する報告の控えの鏡に相当するものと推測します。
学部は下書き、専門部は報告控えと下書きの2種と推測します。予科については報告控えと推測します。
この史料で注目すべきは、1)学部について指示どおりの集計を行なっていないこと、2)学部、専門部について2種類の数字が残されていること、3)予科に関する数少ない史料であること、です。
1)学部の作表
文部省の指示は、予科を設置する大学においては、志願者、受験者、入学者欄にカッコに入れて、予科出身者を内数で報告せよとされています。しかし、中央大学は、回答欄外に"受験者ニハ本学予科卒業者ハ計上セズ"と注書きして指示を守っていません。
2)学部と専門部の2種類の数字(いずれも下書き版)
学部について、朱字で記入された数は昼間部、夜間部の合計で4,316人としています。黒字で記入された数は同じく2,793人とあります。
専門部について同様の比較を行なうと、朱字9,696人、黒字5,397人です。
朱字で記載された数字が何を意味するかは不明です。
3)予科
当時の予科は第一予科(昼間部/3年制)、第二予科(夜間部/2年制)でした。この史料から以下のことが確認できます。
(1)第一予科に関しては編入出願者/入学者が相当数に上ること。2年次に568人が入学しています。これには当時の学則の定めがあります。予科入学資格に、ア.中学校4年次修了者、高等学校尋常科修了者などは予科1年次への入学、イ.中学校修了者、高等学校高等科1学年修了者は予科2年次への入学、と定めています。旧制の中学校は5年制で、4年次修了で高等学校高等科の入学資格を得ることができました。このような背景から、予科2年次への編入学の需要は多かったものと推測します。
6)入学定員の厳守
1942(昭和17)年01月27日 | da20134308a0001 | |
1942年01月27日 |
発専11号 学生生徒定員ニ関スル件[通牒][専門部あて](495KB) |
da20134307a0001 |
発専11号文書で文部省は、学部、専門部に対して以下のように定員管理の指示をしています。
1)具体的な認可定員を示して入学者を定員以内に収めるよう指示。
中央大学
法学部(昼間部、夜間部)各240人、経済学部(同)各120人、商学部(同)各80人。
予科(昼間部、夜間部)各440人。
専門部(昼間部)法学科260人、経済学科140人、商学科100人。
専門部の夜間部は後日連絡する。
2)従来の方法を改め、毎年入学を許可する人数を定める。学則改正が必要なら別途手続きをとること。その場合、定員を超過する現員については卒業までの間、定員外として認める。
3)定員を超過した場合は、"厳重ナル措置ニ出ヅベキコト付有之付御了知相成度・・・"。
7)1942(昭和17)年度入学者数および在学生数(専門部)
1942年04月02日 |
発専70号 生徒数等調査ニ関スル件(929KB) |
da20133547a0014-da20133547a0015 |
1942年05月08日 |
生徒数等調査ニ関スル件報告(1509KB) |
da20133550a0006-da20133350a0008 |
da20133550a0023 |
発専70号で文部省は、専門部の1942年度の入学者数、1942年4月10日現在の在学生数、1941年度卒業者数について報告するよう求めています。
5月8日付の報告書は、鏡に続いて、昭和17年度専門部の入学志願者、受験者、入学者、在学生徒数報告の控えです。
下書きは、この報告を作成するためのものと推測します。
昼間部、夜間部の合計で学生数は、朱字で8,340人、黒字で5,479人とあります。
8)1942(昭和17)年度入学者数および在学生数(学部)
1942年04月02日 |
発専70号 学生生徒数等調査ニ関スル件(1779KB) |
da20133547a0001-da20133547a0004 |
da20133550a0003-da20133350a0004 | ||
da20133550a0022 |
発専70号文書で文部省は、学部の1942年度の入学者数、1942年4月10日現在の在学生数、1941年度卒業者数について報告するよう求めています。
報告書控えの入学志願者、受験者、入学者の項には()に入れた中央大学予科からの進学者数も記載されています。
下書きは、この報告を作成するためのものと推測します。
昼間部、夜間部の合計で学生数は、朱字で4,213人、黒字で3,167人とあります。
9)1942(昭和17)年度学部入学者の学歴
1942年04月09日 | 大学学歴別入学状況調(897KB) | da20133548a0001-da20133548a0002 |
大学学歴別入学状況調 [回答控え](601KB) | da20133550a0005 | |
大学学歴別入学状況調 [下書き](454KB) | da20133550a0024 |
文部省は、1942年度の学部入学者について入学志望者数、受験者数、入学者数を学歴別に集計するよう求めています。
中央大学には回答控えと下書きが残っています。回答控え、下書きとも、法学部の昼間部では中央大学の予科から進学した者だけを404人を受入れたとしています。しかし、上で紹介した「1942年04月02日 発専70号 学生生徒数等調査ニ関スル件」への回答下書きでは朱字で455人が入学したとしています。
このことは、他の学部にもあてはまり、「学歴別・・・」では学部の昼間部総数で1,044人ですが前項の発専70号への回答下書き朱字数では1,174人とあり、130人ほどの差があります。
10)1942(昭和17)年度学部入学者の学歴、1941年度専門部卒業者の進路、1942年度専門部入学者の学歴
1942年05月22日 |
照実11号 卒業生及入学者に関スル件(467KB) |
da20133549a0002 |
[1942年05月22日] |
大学入学者ニ関スル調査表 [回答様式](541KB) |
da20133550a0012 |
1942年07月03日 |
卒業生及入学者に関スル件(343KB) |
da20133549a0001 |
大学入学者ニ関スル調査表 [回答下書き](1348KB) |
da20133550a0009-da20133550a0011 | |
da20133550a0016-da20133550a0018 | ||
da20133550a0013-da20133550a0015 | ||
da20133550a0019-da20133550a0021 |
照実11号文書で文部省は、1942年度学部の入学者に関する調査、1941年度専門部卒業者に関する調査を依頼しています。回答様式の一部が残っています。
7月3日付の「卒業生及入学者に関スル件」は回答に関する稟議書の鏡です。
4種類の回答下書きが残されています。
「大学入学者ニ関スル調査」では、実業専門学校出身者の入学状況を学部単位に実数や募集定員/入学者総数に対する割合などについて回答しています。
「第一表・・・」では、1941年12月(繰り上げ卒業)に中央大学の専門部を卒業した者のうち上級学校入学出願の状況について回答しています。
「第二表・・・」では、1941年12月に中央大学の専門部を卒業した者のうち上級学校入学者数、不合格者数、校長の推薦書発行状況などについて回答しています。
「第三表・・・」では、1942年度専門部の入学状況について中学校出身者、実業専門学校出身者、その他に分けて、志願者数、受験者数、入学者数を回答しています。
11)1942(昭和17)年度入学者の年齢構成
1943年07月30日 | 昭和17年度年報報告ノ件(866KB) | da20133515a0016-da20133515a0017 |
毎年度の文部省への報告「年報」に掲載の1942年度入学者の平均年齢は以下のとおりです。いずれも昼間部/夜間部の総平均です。
学部 法学部 21.1歳 経済学部 21.1歳 商学部 21.7歳
専門部 法学科 19.0歳 経済学科 18.1歳 商学科 18.8歳
12)1942(昭和17)年度入学者数と11月現在の在学生数
1942年11月27日 | da20133551a0001-da20133551a0002 | |
1942月12月05日 | [発専209号への回答草案](1965KB) | da20133551a0003-da20133551a0006 |
文部省は、発専209号で学部について、1942年度の入学者、および、1942年11月1日現在の在学生数の報告を求めています。
中央大学には回答草案が残されています。これをまとめると以下のとおりです。
1942(昭和17)年度入学者数と11月現在の在学生数(90KB) | - |
13)1942(昭和17)年9月卒業者数
1942年11月27日 | da20133551a0001-da20133551a0002 | |
1942月12月05日 | [発専209号への回答草案](1965KB) | da20133551a0003-da20133551a0006 |
文部省は、発専209号で学部について、1942年度の入学者、および、1942年11月1日現在の在学生数、1942年9月の卒業者(繰り上げ卒業)の報告を求めています。
中央大学には回答草案が残されています。これをまとめると以下のとおりです。
1942(昭和17)年9月卒業者数(84KB) | - |
14)1946(昭和21)年度の入学者数
1946年08月31日 | da20134398a0001 | |
1946年11月12日 | 昭和21年度入学者に関する件報告(856KB) | da20134397a0001-da20134397a0002 |
二復人第1号ノ10ノ11の文書は、復員省第2復員局人事部長から1946年度の入学者について回答するよう求める文書(督促)です。回答書式には、入学者の出身について海軍関係、陸軍関係、一般に分け、海軍関係についてはさらに兵学校、経理学校、機関学校、予科練特練に分けて回答するよう求めています。
中央大学は、学部について11月12日付で回答しています。内訳をみると、全入学者1,432人中、海軍関係79人、陸軍関係118人であったことがわかります。
1946(昭和21)年度の入学者数(82KB) | - |
15)1946(昭和21)年度の旧軍の学校出身者の入学状況
1946年11月2日 | 20134416a0001 | |
1946年11月20日 | 20134415a0001-20134415a0001 |
発学518号で、文部省は「陸海軍諸学校在学者および卒業者」の1946年度の学部における入学状況の報告を求めています。
11月20日付の中央大学からの報告控えによれば、在籍者総数3,002人のうち旧軍学校出身者は281人と報告してます。
報告様式には入学者総数を含めて記入することとしていることから、1946年度(11月現在か)の入学者数がわかります。入学者総数を1,397人としています。
上記で紹介した「1946年08月31日 二復人第1号ノ10ノ11 昭和21年度入学者に関する件照会」への回答では1,432人としており30人以上の隔たりがありますが、いずれが正しいのか不明です。
16)1946(昭和21)年度の在学生数
1946年11月26日 | 年報報告に関する件[学部](抄)(827KB) | da20134421a0001-da20134421a0002 |
1946年12月14日 | 年報報告に関する件[専門部](抄)(1280KB) | da20134425a0001-da20134425a0003 |
1946年11月26日の文書は、5月31日付発文46号(この文書は残っていません)への回答文書の控えで、学部に関する報告です。在学生数は昼間部1,586人、夜間部1,359人、総計2,945人です。旧植民地出身学生およびタイ国出身者の計110人(あるいは106人)が内数か外数かは不明です。
この回答控えには他に、1946年度の(1)入学者年齢/(2)出身学校別人数/(3)出身学校所在地別人数、(4)卒業生数、(5)卒業者就職状況、(6)退学者数について回答しています。基準日が不明ですが、(4)卒業生数、(5)卒業者就職状況は、1946年9月卒業生に関するものと推測します。
1946年12月14日の文書は、発文46号への回答文書の控えで、「戦後の状況」の項の「女子学生の受け入れ」で紹介した文書と同じ専門部に関するものです。在学生数は昼間部2,766人、夜間部2,594人、総計5,360人です。
予科に関する報告が残っていないことから全学生数は正確にはわかりません。
17)1946(昭和21)年度に報告した前年度以前の学生数
1946年11月16日 | da20134428a0001 | |
1946年12月16日 |
昭和22年度大学入学予定者数等に関する調査報告[第1表大学学部入学予定者数調、第2表昭和21年度以前入学者学歴別調査](1360KB) |
da20134429a0001-da20134429a0003 |
文部省は発学534号で、1947年度大学入学予定者数、および、1942年10月以降の入学者数について予科修了者とその他とで分けた数値を求めています。目的は示されていません。
12月16日付で中央大学は回答しています。
1947年度入学予定者については、予科からの入学予定者数を入学定員から差し引いて回答していると推測します。
1942年から1945年にかけて入学した学生については、実数ではなく予科からの入学者数を入学定員から差し引く方法で回答しています。つまり実態とは異なる数値を報告しています。そのことは、発学534号に下書きした鉛筆書きの数字を見ることではっきりします。たとえば、1943年10月入学者について、法学部(昼間部)は予科からの進学者206人、その他542人で計748人としています。ところが回答では予科からの進学者74人、その他166人で計240人としています。他の学部でも同様の回答を行なっています。このように実態とは異なる(過小評価)した数字を報告した意図がどこにあったかについては不明です。