中央大学について

中央大学のあゆみ

中央大学は1885(明治18)年7月、東京府神田区神田錦町2丁目2番地に、英吉利法律学校(イギリス ホウリツ ガッコウ)として創設されました。
創立者は、増島六一郎、高橋一勝、岡山兼吉、高橋健三、岡村輝彦、山田喜之助、菊池武夫、西川鉄次郎、江木衷、磯部醇、藤田隆三郎、土方寧、奥田義人、穂積陳重、合川正道、元田肇、渡辺安積、渋谷慥爾の18人の少壮法律家といわれています。

明治維新後、わが国では文明開化のスローガンのもと急速な西洋化が進んでいました。そうした状況の中で、法律関係の高い学識が求められるようになり、法学教育への需要も高まっていました。
増島らは、いまだ欧米先進諸国のように体系化された法典を持たない日本にあっては、欧米列強の模範国としての地位を占めていたイギリスのような慣習法の国を自らのモデルとし、実社会と密接に結びついた英米法を学ぶことこそが「法律実地応用ノ道」に達する最良の方法であるという固い信念を抱いていました。
創立者たちは、そのために必要な講師の充実、書籍の刊行、図書館の開設を設立趣旨の中に謳い、英吉利法律学校での法学教育をつうじて近代社会にふさわしい人材なかんずく法律家の育成をめざしました。

英吉利法律学校新校舎

英吉利法律学校新校舎

設立当初の校舎は旧旗本蒔田家の屋敷で、約800坪の敷地にあった家屋300坪余を教場としました。同年9月10日に開校した同校の初代校長には増島が、また幹事には渋谷慥爾が就任しました。
1889年1月、凹字型の煉瓦造2階建て新校舎が完成し、施設の拡充が図られました。その年の10月には幅広い法学教育をめざして校名を東京法学院と改称しました。院長は当初増島が務めていましたが、1891年4月に菊池武夫と交代しました。
この校名変更は、時代の趨勢に応じて、わが国の法律を既設の学科目に加えて教授することを意図していたと同時に、東京医学院および東京文学院と連合して本邦初の私立総合大学をめざした布石でもありました。
この計画は折から民法・商法をめぐる論争の影響もあって実現しませんでしたが、法典論争では本学を拠点とした実施延期派が「法理精華」に論陣を張って、政府が起草した法典への批判論文をつぎつぎと発表しました。そのため同誌は、1890年7月に発行禁止処分となりました。その9ヵ月後、東京法学院は、「法理精華」の編集方針を受け継いだ「法学新報」を新たに創刊しました。以後、法学新報は現在に至るまで継続刊行され本学を代表する機関誌となっています。

1892年、本学は神田大火により校舎を全焼し、高橋法律文庫など貴重な財産を失いましたが、神田一ツ橋の帝国大学講義室に仮教場を設けて、同年8月の校舎再築までここで授業を続けました。 1903年、社団法人東京法学院大学が設置認可され、専門学校令により東京法学院大学と改称し、菊池が学長に就任しました。 1905年に至って校名を中央大学と改称し、経済学科を新設しました。この年は創立20周年に当たり、教職員・卒業生が一丸となって記念講堂の建設、記念式典が盛大に行われました。 1909年にはまた新たに商業学科が設けられ、法学、経済学、商学の3学科を有する大学となりました。

1917年6月、今度は失火のため再び校舎・図書館を全焼、奥田文庫(ビルクマイヤー文庫)を失いましたが、翌1918年8月校舎を再築することができました。この年、大学令が公布されると本学はそれに対応して翌年社団法人中央大学の解散と財団法人中央大学の設立を決定しました。
1920年、大学令による中央大学の設立認可を受け、法学部・経済学部・商学部・大学院・大学予科を擁する旧制大学の体系が整えられました。
1923年9月、関東大震災に罹災し、三たび校舎を焼失。その復旧をはかりましたが、さらなる発展をめざした本学は、1926年8月駿河台校舎を完成させ、神田錦町から駿河台へと移転し、以来50年余この地において充実発展してきました。

駿河台校舎

駿河台校舎

1931年、夜間学部を開設、また1944年には工業専門学校を新設、さらに1948年には通信教育部(法)を開設しました。 1949年、学制改革にともない新制大学が発足、工業専門学校を廃して工学部を新設しました。1951年には、文学部および新制大学院を設置したほか、この年財団法人中央大学から学校法人中央大学へ組織変更がなされ、さらにまた1962年には工学部を理工学部に改組しました。

多摩キャンパス

多摩キャンパス

1978年4月、教学施設充実計画にもとづいて文系4学部(法・経済・商・文)は多摩校地へ移転し、また理工学部は後楽園キャンパス(文京区春日)を増築してこの計画を完了しました。 1985年、創立100周年を迎え、1988年には100周年記念事業の一環として駿河台記念館が落成しました。その後、1993年に総合政策学部を多摩キャンパスに新設し、さらに2000年には市ヶ谷キャンパスを開設して、2002年に日本初のアカウンティングスクールである国際会計研究科を(~2018年)、2004年には法科大学院(ロースクール)を開校しました。そして2008年には、後楽園キャンパスに戦略経営研究科(ビジネススクール)を開校しました。2019年には、多摩キャンパスに国際経営学部、市ヶ谷田町キャンパスに国際情報学部を新設しました。

137年の歴史を誇る本学は現在8学部、大学院7研究科、専門職大学院2研究科のほか、9研究所、4附属高等学校、2附属中学校を擁する総合学園となっています。

2022年4月改訂

創立者の出身/生没年(氏名50音順)

姓名 出身(現在の名称) 生没年
合川正道(アイカワ マサミチ) 岐阜県不破郡関ケ原町 1859年-1894年
磯部醇(イソベ ジュン) 岐阜県羽島郡笠松町 1859年-1936年
江木衷(エギ マコト) 山口県岩国市 1858年-1925年
奥田義人(オクダ ヨシト) 鳥取県鳥取市 1860年-1917年
岡村輝彦(オカムラ テルヒコ) 千葉県市原市 1855年-1916年
岡山兼吉(オカヤマ カネキチ) 静岡県掛川市 1854年-1894年
菊池武夫(キクチ タケオ) 岩手県盛岡市 1854年-1912年
渋谷慥爾(シブヤ ゾウジ) 佐賀県鹿島市 1854年-1895年
高橋一勝(タカハシ カズマサ) 埼玉県川越市 1853年-1886年
高橋健三(タカハシ ケンゾウ) 千葉県千葉市 1855年-1898年
西川鉄次郎(ニシカワ テツジロウ) 福島県会津若松市 1853年-1932年
土方寧(ヒジカタ ヤスシ) 高知県高岡郡佐川町 1859年-1939年
藤田隆三郎(フジタ タカサブロウ) 愛媛県宇和島市 1856年-1930年
穂積陳重(ホヅミ ノブシゲ) 愛媛県宇和島市 1855年-1926年
増島六一郎(マスジマ ロクイチロウ) 滋賀県彦根市 1857年-1948年
元田肇(モトダ ハジメ) 大分県国東市 1858年-1938年
山田喜之助(ヤマダ キノスケ) 大阪府大阪市 1859年-1913年
渡辺安積(ワタナベ アサカ) 山口県岩国市 1859年-1887年