国際連携・留学

12月8日(土)シンポジウム 講演者1

国際労働機関(ILO)駐日事務所駐日代表 上岡 恵子 氏

皆さんこんにちは。ILO駐日代表の上岡です。
私が皆さんのような学生の時は、国連組織に入るなど全く考えていませんでした。本日は少し時間をいただいて、私が今の仕事に就くに至った経緯についてお話したい。

 

映画の字幕翻訳の興味から渡米

日本では経済的な事情があって大学には行けず、2年制の学校法人専修学校に通った。要するにビジネススクールのようなもの。30年ぶりに日本に戻って母校を訪ねようとしたところ、もうないと言われた。その程度の学校しか日本では出ていない。
卒業後8年、OLをやった。その間、映画の翻訳者になろうと思い、専門学校に1年間通った。理由は、映画の字幕は1回に5語しか書けない――つまり、一般聴衆は字幕を読むのに5語までが限界であるということに興味を持ったから。それで夜、翻訳の学校に通った。
しかし英語をもっと学ぶには、それを母国語とする人のいるところに1年くらい行かなくてはならないと思い、単純な思いでアメリカに渡った。大学のアプリケーションに何を専攻すべきか書かねばならなかったので、ちょうど銀行で6年間働いていた経験を生かし、借方と貸方くらいは理解しているということで、簡単にAccounting(会計)をチェックした。それが始まりで、1年で日本に帰ってくる予定が、主人と知り合い、向こうにずるずるといて、学位も取り、ニューヨークの大きな会計士事務所で日本語を使える人が欲しいと募集がかけられていた関係もあり、そこで働くことになった。

国連との出会い

私の場合は、全てプランなく事故的に物事が進んでしまったタイプといえる。
会計士事務所で働いている間に、アメリカの公認会計士の資格をとり、過労死寸前まで毎日夜中過ぎまで働いていた。そんな時、私をかわいそうに思ったクライアントのある方が、「こんな生活をするよりは国連か何かで働いた方がいい」と勧めてくれた。紹介いただいたのは、国連開発計画――というか、彼は、国連に知り合いがいるとのことで紹介してくれた訳で、私は早速履歴書を持ってその方を訪ねた。
訪問先は、廣野良吉さんという、当時はUNDPに出向されていた――もしかすると皆さんもご存じかも知れない著名な方。成蹊大学で先生もされており、その他、諸々国際関係を教えている方であり、当時はたまたま出向でそこにいらして、私にあってくださったのだ。
私はその時も何の予習もせずに訪ねて、入口に国連開発計画と書いてあったが、「なんだこれは聞いたことがない。国連かとおもったのに。」というくらいの知識しかなく、本当にドジで間抜けな訪問であった。。廣野先生はとても親切に国連開発計画について説明してくれたが、私の方は全く頭に入っておらず、的外れな質問ばかりしていたので、しまいには先生から「私は忙しいので。。。。」と出て行ってくれないかという感じで疎まれた。
たまたまその時にファイナンス部門にいた日本人に会わせてもらい、彼女が私の履歴書を見て、これはもしかしたら面白い経歴かもしれないと言われ、明日、ファイナンス関係のチーフに会うので、私の履歴書を見せてみるということになった。そしてその翌日にまた来てくださいということになり、5人くらいのチーフに会わされてインフォーマルな面接をした。そのうちの一人から、いつから来てくれるかね、と言われ、全く予期せぬ展開になった。
そういう意味では、私はJPOとか国連で行っている競争試験などにアプライしたなど、正規ルートで入った訳ではない。ある意味では裏というか、偶発的に人に紹介されて、UNDPの管理部門で早急にCPAを持っている人を探しているとのことで、そこから入った。

 

多種多様な国連組織へのアプライ方法

その後はもちろん、空席情報があったときに申し込んで色々な部門を回った。国連組織へのアプライには色々なやり方がある。インターンシップから入って、そこでいい仕事をして顔と名前を覚えてもらって、その後、正規の空席が出来たときに「よろしく」と、自分が行きたい部署のディレクターに話しておいてアプライすることもあれば、短期契約で3カ月くらい入って、そこでいい仕事をして認められて、長期契約の仕事が発生した時に改めて、というのもある。
私のように日本の大学も出ていないで――アメリカでも授業料の安い州立大学を出て、、それでも国連職員になれるというのは好事例かも知れない。あとはUNボランティアから始めるなど、エントリーポイントはいくつかあるが、どんなときにも必要なのは、なぜ自分は国連組織で働きたいのかということ。それは常に持っていないといけない。

 

常に自分で空席を見つけ、アプライし続ける

国連で働くのは外から見るほどスゴイことでもないが簡単でもない。自分とは全く違う常識を持った人々と何か一つのことを達成するというのは――日本人だけなら結構簡単で済むことも、何度も話し合ってお互い十分理解してから手がけなくてはならないなど、忍耐力や交渉力が要求される。
国連社会というのは、日本で皆さんが就職するのとは違う。日本の場合は基本的に、一度入社すると人事部でその後のキャリアディベロップメントプログラムを作ってくれるが、国連組織では、何も向こうから決めてくれない。常に自分から空席を探し、アプライし続けなくてならない。1つのポジションにだいたい300人くらい応募するので、そこで競わなくてはならない。キャリアの間はずっとそれを続ける。私もそれをずっとやって来たし、そういうのが苦手な人や嫌いな人には難しい。また、厳しい赴任地に自分だけならばいいが、家族その他を引き連れていかなくてはならない場合は、家族の理解も必要になる。
国連が世界の平和を構築することを常にやっているのかといえば、意外とそうでもない。それぞれの国益や自分たちの利害を出し合い、話し合いをしながら妥協点を探していかなくてはならない。そういう意味では、どうして自分が国連組織に入りたいのか、そこで何を貢献したいのか、確固たるものがないと続かない。私のようにそういうことが全くなく、なんとなく事故的に入って、中に入ってから色々気づいて対処し、そんなことをしながら23年が経過した。そのうち次第に、自分の中でミッションのようなものがだんだん確立されてきた。現実を踏まえてから、職場としての国連組織を考えることが大切であると気づかされた。

 

もう一度人生をやり直すなら、きっと国連職員を選ぶ

ニューヨークの会計士事務所で働いていた時、日本の若者たちが、まるでファッションのように――ブランドネームの会社にでも入るかのように、当時ビッグ8といわれる会計士事務所に入って来たが、有名な大学を出てMBAやCPAを取って入った割に、仕事が厳しく地味であると、さっさと辞めて行く人がたくさんいた。
もしかすると国連もそうかもしれない。外から見るよりも仕事は厳しいし、生き残るのも大変。しかしそれが自分に合っているということになれば、そこから得られるものも大きい。
私のキャリアはそろそろ終わるが、もしも自分がもう一度人生をやり直して仕事を探すことになったら、また国連で働きたいと思う。ただその時は、監査とか経営とかバックオフィスの仕事ではなく、もっとフロントオフィス的な仕事――Humanitarian Affairs(人道問題)とかEmergency Relief(緊急救援)といった仕事をしたいと思う。国連組織に入ると、ダイナミックなところ、面白いところもたくさんあるので、是非、皆さんもチャレンジしてほしい。

 

【上岡恵子(かみおか・けいこ)氏】

国際労働機関駐日事務所 駐日代表。1998年にILO本部、2010年に現職。米国ノースカロライナ州立大学にて会計学学士号取得。NPO、外資系銀行東京支店、米国公認会計士事務所ニューヨーク事務所を経て、1989年より国連開発計画(UNDP)に入り、経営管理・財務関連部門のポストを歴任。1998年ILO本部入局。財務会計部長、内部監査監督室室長、ILOアジア太平洋総局次長(管理運営担当)を経て、2012年4月より現職。