社会・地域貢献
教養番組「知の回廊」32「イスラーム世界のパン」
中央大学 文学部 松田 俊道
イスラム世界は周辺地域の古代の文化を受け継ぎ、巨大な文明体系を形成し、現代文明に大きな影響を与えたことは良く知られている。食文化についても同様である。
現 代に暮らす我々にとって、パンやチーズ、バターを食べ、ミルクを飲み、ビールやワインを飲む食生活はきわめて身近な食文化である。それは、何となく欧米に 広く普及した欧米の食文化のようにイメージされる。しかし、この食文化はもともと中東で古代に発明され、それが欧米や日本をはじめ世界中に広まったもので ある。また、今日コーヒーに砂糖をいれて飲む食文化も我々の生活から切り離すことができない。コーヒーも砂糖も原産地は違うが、中東で開発され世界にひろ まったものである。コーヒーを飲みながら情報交換をしたり、くつろいだりする場としてのコーヒーハウスもイスラム世界が発明した食文化なのである。
(1)古代のパン
パンはいつ頃から現れたのであろうか。
人間が食料とする代表的な穀物は、ムギとイネであろう。一般的にムギは粉食(粉にして食べる)、イネは粒食(粒のまま食べる)として知られて いる。ムギが粉食になったのは次の理由から。まず、ムギの皮は人間が食べても消化しないということです。取り除かなければならない。ムギの皮は固く粒の中 にまで入り込んでいるため、つぶして取り除かなければならない。すると、柔らかい中の胚乳までつぶれて粉になってしまう。それをおいしく食べるための最も 簡単な調理法は、おそらく水でねってそれを焼くことであろう。するとパンができあがるわけである。
ではムギの栽培はいつ何処で始まったか。
中東は乾燥した地域として知られる。その乾燥した中東の中で、イランとイラクの間にあるザクロス山脈からパレスチナにかけて広がる「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる地域は比較的雨が降り、野生の麦が自生していた。
いまからおよそ12,000年前にパレスチナで人間が食料としてムギを栽培し始めた。10,000年前には、ユーフラテス川上流で農耕は始まり、ムギが栽培される。
土器はまだ発明されていないが(石器時代)、パン焼窯または焼いた石があれば充分であったから、おそらくパンもこの頃から作られていたものと思われる。
エジプトの実り豊かなムギ
カイロ近郊のギザ県の農村、5月初め、ちょうど麦秋。日本の小麦の倍以上もあり、肥沃な大地を産み出すナイルの恵を感じる。
古代エジプトのパン
エジプトのカイロ博物館にある、ムギを粉にしてパンを作る女性の像
これは小さな石像ですが、パン作りの様子を伝えるもの。
古代エジプトでは、タンヌールと呼ばれる甕のようなオーブンでパンが焼かれていた。インドカレーとともに有名なナンを焼くタンドールと同じ言 葉です。タンヌールは現在も使われております。映像はイエメンの首都サナアのパン屋で使われているタンヌールです。古代エジプトで使われていたものとほと んど同じ構造です。
農業博物館の本物のパン
古代エジプトの本物のパンが展示してある。現代のパンとあまり変わらない。無花果(いちじく)を詰め込んだパン、アニスやコロハをのせたパン、中心が丸く空いているパン(この穴には卵か野菜を入れたと思われる。ピッツァの原型か)
農村の女性のパン焼風景
ナイルデルタにある典型的なエジプトの農村で、パンを焼いている農家を訪ねてみた。古代から続いているパン作りとほとんど同じ方法で作られているものと思われる。窯は泥で作ったもので、収穫後のトウモロコシの幹を燃料にしていた。週2回、家族が消費する分を焼いている。
中世のパン
(1)施しとしてのパン
中世になりますと、パン文化がもう少し発展してきます。パン屋も登場してきます。
マムルーク朝時代の歴史家によりますと、26種類のパンがあったことがわかります。
中世の頃、パンはそれほど安い食べ物ではなかった。パンは小麦の価格の影響を受けた。季節により変動した。突然高騰したりした。貧者にはパン が支給された。それは中世のイスラーム社会で発達したワクフという寄進財産制度によって行われた。その仕組みを述べてみよう。イスラームの教えでは、財産 を得た人がそれを全部自分のために使って死んで行くのは恥ずかしいことです。お金は皆のためにも使うのが立派なイスラーム教徒なのです。そこで財産の一部 の所有権を放棄し神のものにしてしまいます。そこからあがる収益の半分は自分のために、残りの半分は公共や慈善のために使いましょうという制度です。その お金で、学校や病院、モスク、町の飲料水、公衆トイレなどが運営されたのです。学校の教授の給料や学生の奨学金、貧者への施しもそこから支払われたので す。この制度はイスラーム世界に広く大規模に普及しました。なぜならば、この制度は大変良く出来た制度だったからです。財産を寄進する人は、寄進財産の収 益の半分は公共や慈善のために使われますが、残りの半分は確実に自分及び一族のものになります。税金も免除されます。このため慈善行為をしたという宗教的 満足感が得られると同時に経済的なうまみも十分あったからです。パン窯と製粉所も作られ寄進されました。そして多くの宗教施設がパンを必要としていまし た。というのは、そこで働く多くの人々に給料の一部としてパンが支給されていたからです。この制度のおかげで学生はただで自由に各地を旅して学問を修める ことができましたから、学問が発達しました。病人もただで治療を受けることが出来ました。学生や教授にも毎日パンが支給されました。
(2)薬用としてのパン
イスラーム世界では、パンは食用だけではなく、薬用としても使われていました。
西暦10世紀に活躍したアラブ人の医者でイブン・アルジャッザールという人がいます。イブン・アルジャッザールは『旅人の食糧と定住者の食 物』という医学書を書いています。この本はかつて西洋医学に大きな影響を与えました。11世紀にはギリシャ語に翻訳され、12世紀にはラテン語に翻訳され ました。そして、サレルノやモンペリエの医学校、パリやオックスフォード大学の医学の教科書にもなっていました。
この本によりますと、様々な熱病の治療にパンが使われていました。いくつか例をあげてみましょう。
- 高熱性疾患の患者に薬を投与しても改善されない場合、水で柔らかくしたパンをスープに入れて患者に与え、回復を促した。また、ザクロの甘いジュースに浸したパン粉を与える場合もある。
- 三日熱の患者に熱が下がったら、水と砂糖で煮たパンを与える。
というような記述がなされており、パンが重要な食べ物であったことがよく分かります。
(3)市場監督官(ムフタシブ)による取り締まり
中世イスラーム世界では、アラビア語でムフタシブと呼ばれる 市場監督官が市場を取り締まった。商品に欠陥がないか、計量器具に不正がないかなどを歩き回って検査したのである。パン屋もその対象となった。市場監督官 には職務を遂行するためのマニュアルがあった。それを「ヒスバの書」という。イブン・ウフーワという人が記したものには以下のように記されている。
パン屋
パン屋の天井は高く、煙抜きを備えていなければならない。ムフタシブ(市場監督官)は、オーブンがよく掃除されていること、粉をこねる鉢が綺 麗に洗われて麦のマットで覆われていることを確かめなければならない。粉をこねる者は、足や膝、腕を使ってはならない。汗が滴り落ちるからだ。ぴったりし た袖の仕事着を着て、顔は覆っておかなければならない。日中は、誰かが蝿を蝿払いで追わなければならない。ムフタシブはパンに混ざりものがないかどうか注 意しなければならない。
パンは十分発酵するまで焼いてはならない。パンは塩が不十分ではならない。また、その上にクミンのような上等の香辛料がちりばめられていなければならない。オーブンで十分焼かれていなければならないが、焦げてはならない。
ムフタシブは各店の一日の供給量を割り当てなければならない。彼は一日の終わりにパン屋を訪れ、パン種を置く場所に人が寝るのを許してはならない。また、煙突が正常であるか、オーブンの前の床が清潔であるか確かめなければならない。
(14世紀、イブン・ウフーワ『ヒスバの書』より)
現代のパン
現在カイロには数多くのパン屋がある。フランスパンや食パンのような逆輸入されたパンとは違って、 エジプトで昔から作られているパンは、エーシュと言います。丸くて平らなパンです。エーシュはアラビア語の動詞アーシャの派生語です。意味は「生きる」と いう意味です。エーシュは生きるために必要なものという意味なのです。エーシュは大きく分けると二種類あります。一つは、エーシュ・バラディーといい、田 舎風パンという意味で、前粒粉で焼いたパンです。もう一つは、エーシュ・シャミーといい、シリア風パンという意味で、皮を取り除いた粉で焼いた白いパンで す。エーシュはエジプトジンの食卓には欠かせないものと言っていいでしょう。
ビデオの紹介。
エジプトのエーシュを焼くパン屋さんのビデオがあります。今では粉は機械で練りますが、まと まった生地から一つひとつのパンになるパン生地を同じ分量だけ取り丸めて、ふすまを敷き詰めたコンテナに放り投げる人、それを丸く平らに伸ばす人、窯に運 ぶ人、焼く人が分業してパンを焼きます。見る見る間にふっくらとふくらんだ黄金色のエーシュが焼きあがります。
イスラム世界におけるパンとは
古代のメソポタミアやエジプトで作られ始めたパンは、やがて人類の基本的な食糧に発展していきました。また、パンは古代エジプトでは神聖なも のでした。古代エジプト人たちは死後の世界を信じていましたので、パンは死者と共に埋葬する最も重要な物の一つでした。これらの地域はやがてイスラムを受 け入れ中世に移行します。しかし、古代の文明を受け継いでおりました。パンは重要な食糧でした。裕福な人々は貧しい人々にパンを施しました。人が亡くなっ た時にも遺言によってパンや食料を施しました。
現代においても、同じです。1977年にエジプトのサダト大統領はパンの値段を上げようとしました。パンは国家の莫大な食糧補助金で安く価格 が抑えられていたのです。原価より安く売られていたのです。この時は、暴動が起きまして値上げは成功しませんでした。 パン屋の社会における地位は結構高 く、地域社会のリーダーとなりました。時には地域共同体のまとめ役を行いました。もめごとを調停したりして尊敬されていたようです。
最近でも、バァラディー・パンのパン屋の開業をめざして、13000件もの申請が政府に出されているという。
私は、エーシュはエジプトがあるいがイスラム世界が世界に誇れるパンの一つだと思っています。個人的ですが本当に美味しいパンです。
古代からほとんど変わることなく受け継がれてきたものです。小麦粉と塩と水、酵母菌だけで作るシンプルなものですが、シンプルだからこそ長い間不変であったと思います。
皆さんもぜひエーシュを味わってください。