陸上競技部

陸上競技部・全日本インカレ4連覇記念特別連載(谷口耕太郎)

2016年11月02日

試行錯誤のシーズンで貫いた「感謝の心」

 6月26日、愛知県の瑞穂パロマスタジアムで行われた第100回日本陸上競技選手権大会200㍍決勝。ゴール後の谷口耕太郎(商4=弥栄)は電光掲示板で自らの順位を確認すると、グラウンドに仰向けになりしばらくじっと空を見上げていた。

▲日本選手権200㍍決勝、ゴール後の谷口

 序盤から大学の先輩である飯塚翔太氏(平26卒・現ミズノ)に先行されると、直線に入ってさらに離され1位と0秒7差の7位でゴール。不調に苦しんだ今シーズンを象徴するようなレース展開だった。

 「(4年間で一番苦しんだのは)今年ですね。今年しかないです。苦しい。納得できる走りが1回も出来ずに終わった。自分の基盤となっていたもの、ここは絶対曲げないというものが今年はなかった。今までは『でも僕はこうなんで』と言っていたものが、今年は『ああじゃあそうします』みたいな。吸収しすぎたかなと」(谷口)。

 昨年5月、バハマで行われた世界リレー選手権。絶望的なピンチに陥った日本代表を救ったのは谷口の勇敢な走りだった。リオ五輪の出場権を争う最重要大会だったが、主力選手の相次ぐ代表辞退により十分な戦力を集められず予選敗退もささやかれていた中での船出だった。

 男子400㍍リレー決勝のレース、谷口は予選と同じアンカーとして出場。3走・桐生祥秀(東洋大)が好走し、谷口がバトンを受けた時点で日本は2位に着けるも、そのすぐ後ろにはボルト(ジャマイカ)が控えていた。谷口はスムーズなバトンパスで加速すると、その後ボルトに交わされるも、背後に着けていたブラジルの猛追を振り切り3位でゴール。シニア大会では08年の北京五輪男子400㍍リレー以来7年ぶりのメダルを獲得すると共に、この種目のリオ五輪の出場権を獲得した。

▲昨年の世界陸上直後の全日本インカレ、谷口は200㍍で準優勝

 「(シーズンを通して)『自分はこういう走りをしたい』という芯に持っているものがあった」という言葉通り、その後も安定した結果を残し、7月のユニバーシアード、続く8月の世界陸上でも日本代表に選出。まさに日本代表として欠かせない存在となっただけに、シーズン途中に「(次の目標は)来年のリオ五輪でメダルを取りたい」という言葉が出るのは自然な流れだった。

 しかし迎えた今シーズン、思うように調子が上がってこない。5月には、過去に20秒45の自己新をマークした静岡国際陸上に2年ぶりに出場するも21秒37で予選敗退。続くGGP川崎、関東インカレ、個人選手権に出場し少しずつ状態を上げるも時すでに遅し。調子をピークに乗せた状態で日本選手権を迎えることはなかった。

 8月のリオ五輪。谷口を含む昨年の世界リレー組の活躍で早々と出場権を獲得した日本代表は、昨シーズンから合宿などを重ねて本大会に向けて調整、下馬評以上の走りを見せ銀メダルを獲得する。テレビで観戦していた谷口は自らの姿がない日本代表を複雑な心境で見ていた。「悔しいというか、『なんとなく見ていた』という感じ。リレーのメンバーは結構仲良くさせてもらっているので、『すげーな』っていう。その中でも自分ならもっと行けただろうという期待というか、自意識過剰みたいに思われちゃうかもしれないですけど」。

▲今年の全日本インカレ、400㍍リレーでは4連覇を達成

 大学生活の総大成となる9月の全日本インカレ。個人ではタイトルを逃すも、400㍍リレーでは悲願の4連覇を達成した。最終学年としての責任感もあったという4年目。個人としては不本意な1年に終わったが、谷口は収穫を口にした。「この場所で4年間できて感謝しかない。改めて僕らは陸上競技を好きでやってて、こういう素晴らしい環境とメンバーでやってこれているんだと。失敗から学ぶことが多いし、(今シーズンを通して)失敗した時、こうすればいいのかなとか1個にまとまった感じはある。もっと自分が大きくなれると思わせてくれた」。

 中大を卒業し、来季からは凸版印刷に就職し競技を続ける。32年前の東京五輪で公式ポスターの印刷に関わり、04年アテネ五輪では身分証を製作するなど五輪との関わりが深く、4年後の東京五輪の公式スポンサーも務める。車いす陸上の渡辺勝や女子7人制ラグビーの谷口令子らが所属するが健常者の陸上選手の在籍は谷口が初めてとなる。

 「細かいことは言いたくないが東京五輪や東京の次はもちろん目指していきます。陸上ができることに感謝して、身体を日々作っていきたい」。競技と真剣に向き合い、己と周囲の環境に誇りを持ち続けた先に、谷口の求める「真のゴール」があるのかもしれない。(手塚健太)

・谷口耕太郎(たにぐち・こうたろう)プロフィール

1994年11月3日生まれ/184㌢73㌔/神奈川県出身/弥栄高卒

▲10月某日、多摩キャンパス陸上競技場で諏訪主将と共に取材

写真・記事:「中大スポーツ」新聞部