キャリアセンター(文系)

柔軟性と行動力で世界へ

アズールマリタイム シンガポール ダイレクター 
平野 耕史

はじめに

■柔軟性と行動力を磨く

 大学生のとき、地元の神奈川県小田原市で知り合った外国人に「日本語を勉強したいんだけど、小田原には日本語学校がないんだよな」と言われ、私はその足で市役所へ行き「自分が日本語学校を作るのでサポートしてくれ」とお願いした。外国人住民への支援ということで行政からの協力も得られることとなり、結果的に、外国人が私の学校で日本語のみならず小田原での生活のルールを学び、なおかつ日本での生活に溶け込めるような活動を展開することになった。イラン、中国、ブラジル、インドネシア、アメリカ、ロシア……。さまざまな国からの生徒たちは最大時で200人、ボランティアの日本人も100人を超える規模にまでなった。週末はよく皆で一緒に過ごし支え合った。価値観、国籍、立場の違う人々をまとめる苦労が、柔軟性と行動力を育て将来の糧となった。就職後も日本語の授業がある毎週水曜日夜と週末は、小田原に帰りこの活動に邁進した。

私の学生時代

■辞達学会

 神奈川県立小田原高等学校を卒業、中央大学法学部法律学科へ進む。「税研」というサークルで簿記を勉強し、「辞達学会」とういう弁論部で弁論とディベートを学ぶといった活動をした。仲間との議論を通して新しい視野、価値観を得て、自分自身を成長させることができたと考えている。辞達学会では、思想や考えが違えども学会内でとことん議論し、また議論を通して相手を理解し、熱くなり過ぎて気が付けば朝になっているなんてこともしばしば。そんな仲間の真剣さ、柔軟性、懐の深さに感動したものだ。当時の仲間とは現在も関係が続いていて、ほかでは得難い財産になったと思う。

■船会社へ

 就職活動時に知った「船会社」という業界に衝撃を受けた。「なんて素晴らしい、ロマンを掻き立てる仕事なんだろう」。そして外航船会社のみを受け、第一中央汽船という船会社に入社。入社後、ますます船会社の仕事が好きになった。楽しくてしょうがない。会社に行きたくてしょうがない。そんな毎日だった。大きな貨物船を自分の指示でアメリカやオーストラリアに行かせ、大きな金額を扱う。最初のお客様はインド国営の製鉄会社で、住友金属、オーストラリア鉱山会社BHP等々、世界的な大会社と渡り合うことができ、大学出たての新入社員をまったく飽きさせない魅力が船の仕事にはあった。日本にも多くの配船をしていた若かりし当時は、「私が風邪で1日休んだら、日本経済は大丈夫だろうか?」と本気で心配していたことを思い出す。

■外資系カーギルへ

 ある日、新聞を読んでいたとき、カーギルの社員募集をたまたま見つけた。カーギル扱いのオーストラリアの塩を運んだことがあり、カーギルという名前は知っていた。突然なぜか転職する気になり、カーギル・ジャパンの船舶部に転職。これが人生の一つの転換期になった。カーギルはユダヤ系アメリカの私企業で実態はあまり知られていないが、当時から18万人もの社員を抱え、世界人口の4分の1の食料を扱う世界最大級の穀物商社である。太平洋戦争直後に東京にも事務所を開き、日本の食文化を裏で支えてきた企業であり、世界中の食文化を現在も作り続けている企業でもある。アメリカ政府とも関係が近いようで、4年の東京事務所勤務を経て転勤したスイス・ジュネーブの食料事業本部では、食料を使った世界戦略を垣間見た。ジュネーブではカーギルと同じユダヤ系アメリカ穀物商社が軒を並べ、世界戦力を展開していた。カーギル、ルイドレイファス、ブンゲ、ADM、オーストラリアウイートボード(後にカーギルに買収される)等々。ジュネーブに店を構える穀物商社で、世界の約半分の食料を扱っているように思えるほどだった。そのトップ企業であるカーギルで、私は船舶、運賃、それに関わる先物等を扱った。すべてがチームでの議論を通して決断、実行されていく。世界中から選ばれた約35カ国の人たちが船舶部で働いており、皆世界トップレベルの人材だった。その中で要求される能力に及ぶには、日本の学校教育で学んだことはほとんど役に立たず悩んだ。その能力とは、船が関わるマーケットや世界各国のGDPのほか、食料、電力、セメント、鋼材、ニッケル、アルミニウム、塩、砂糖、木材等々、それぞれのコモディティの需給を頭に入れること。そして、世界中の天候や天気、政治情勢、経済状況の予想を踏まえ、日々の戦略を議論し決定していくこと。さらに、話を聞くこと、臆せず話せること、人に話を聞いてもらえること、話す情報があること、自分の考えがあること、話した内容に共感してもらえること、決断はその場その場ですること、自分の考えを実行に移せるチームをその場で社内外に作れること、能動的にチームを動かすこと、もしくはチームに貢献できること――。そういった能力は、自分の努力だけでは得られない。人を引き付ける魅力も必要である。世界的企業での仕事の進め方を目の当たりにし、カルチャーショックを受けたものの非常に良い勉強にもなった。ちなみに当時、妻と子こどもを連れてスイス・ジュネーブに引っ越したのだが、到着した日に「東京事務所は閉鎖するから東京にはもう帰れないよ」と言われた。それを聞いて家族で驚いたものだ。

■シンガポールへ

 スイスに着任して2年したころは、定年までスイスにいようと考えていた。そんな中、カーギル・シンガポールに家族で2カ月間出張する機会があった。シンガポールに着くと、すぐにタクシー運転手が「ありがとう」と日本語で言ってくれた。スイス、フランスで人種差別に悩んでいた私は、この言葉を聞いてシンガポールに引っ越すことを決意。シンガポール事務所のトップに私を雇ってくれと頼み社内転職をした。シンガポールは雰囲気が明るく、活気があり気に入った。太平洋、インド洋を管轄し、特に東南アジアマーケットがブームの時期でもあり楽しかった。

■香港へ。再びシンガポールへ

 7年ほどシンガポールで働いたが、インド人家族が香港で立ち上げる商社(カラベル社)に参加しないかと誘われ、家族を連れシンガポールから香港へ移住した。香港では2年ほど頑張ったが、その後、縁あってシンガポールにあるデンマークの会社から誘われ、再びシンガポールに移住。1年後、カナダの会社からシンガポールに立ち上げる事務所を手伝わないかと声を掛けてもらい参加することにした。4年働いた後、現在の会社に入社。何回かの転職を経た現在、ファミリーオフィスの船会社「アズールマリタイムシンガポール」で働いている。実務はほぼ私1人でこなし、オペレーション担当が1人いるだけの小さな会社だが、小さいからこそ楽しく、やりがいを感じる。ここ17年、同じチームや会社に日本人がいたことがなく、常に多国籍の環境下で仕事をしてきた。常に自分の仕事の価値は何かと考えながら仕事をすると、自然と自分は何をすべきなのか自明になる。そのおかげで毎日、目標を持ちながら楽しく働けるのだ。

後輩へのメッセージ

 芯を持ちつつも柔軟性を。あとは行動力。

Profile

1970年生まれ。

1994年 中央大学法学部法律学科卒業、第一中央汽船入社

2005年 スイスジュネーブへ(カーギルインターナショナルでフレートトレーダーに)

2007年 シンガポールへ(カーギルアジアでフレートトレーダー)

2014年 香港へ(カラベル香港でフレートトレーダー)

2016年 シンガポールへ(デンマーク、カナダの会社のシンガポール支店勤務後、現在アズールマリタイムシンガポールでダイレクターに。妻と娘とシンガポール在住。息子はオーストラリア在住)。

OB・OGからのMessages Vol.37
(学内広報誌『草のみどり』2022年5月号掲載)