大学院

【究める vol.61】活躍する修了生 冨川 雅満さん(法学研究科 博士後期課程 2016年度修了)

2021年10月05日

「究める」では、大学院に関わる人や活動についてご紹介しています。
今回は、2016年度に法学研究科 博士後期課程を修了し、現在は九州大学法学研究院で准教授として勤務されている、冨川 雅満さんにお話を伺いました。

冨川 雅満(とみかわ まさみつ)さんは、

2016年度に法学研究科 博士後期課程 刑事法専攻を修了し、博士(法学)を取得しました。

大学院修了後は、2017年4月から2019年3月まで日本学術振興会特別研究員(PD)として立教大学で研究しながら、中央大学や流通経済大学で兼任講師・非常勤講師を務められ、2019年4月より九州大学法学研究院の准教授として勤務されています。

本記事では、ご自身の研究テーマや大学院生時代の過ごし方をはじめ、大学教員としての日々の様子について伺いました。大学院進学を目指す受験生へのメッセージも掲載しています。大学院に関心のある方や研究者を目指している方は、ぜひご覧ください!

ご自身の研究テーマについて教えてください。

私の研究テーマは、刑事実体法を研究分野とし、いわゆる刑法解釈学を扱っております。刑法解釈学とは、簡単に言ってしまえば、刑法典の条文を現実の事案に適用する際の、解釈指針を提示する学問です。

私の研究キャリアは、詐欺罪における「人を欺(あざむ)く」行為(欺罔(ぎもう)行為)という要件に関する研究から出発しました。「人を欺(あざむ)く」行為は、はっきりと嘘を述べた場合にのみ認められるわけではありません。はっきりと嘘を言っているわけではないけど、コミュニケーションのコンテクストを踏まえると、「嘘を言った」と評価してよい場合もあります。無銭飲食が典型となりますが、無銭飲食を計画する者が飲食店に対して「私はお金を払います」と発言することはあまり考えにくく、その意味ではっきりと嘘を述べているわけではありません。ですが、飲食店で商品を注文するということは、「食べ終わったあとにちゃんとその分の代金を支払います」ということを暗黙の了解としているはずで、代金を支払う意思もないのに飲食店で注文する行為は、そのコンテクストに照らすと、「代金支払い意思がある」という嘘を黙示的に伝達していると解釈できます。それゆえ、無銭飲食では、「人を欺(あざむ)く」行為があったといえます。もっとも、このような理解は、言外のコンテクストを媒介とするものですから、自ずと限界事例での判断に窮することがあります。そこで、この「人を欺(あざむ)く」行為の判断基準の明確化を目的に、我が国の過去の判例・裁判例を調査し、諸外国での法解釈を学び、研究を行ってきました。その成果を博士論文にまとめています。

現在では、詐欺罪の他の要件に関しても研究を進めておりますし、詐欺罪以外にも研究テーマが広がってきました(特殊詐欺に関わる研究、AIと刑事法に関する研究、環境刑法に関する研究など)。いずれのテーマについても、現行の刑法規定を前提とした解釈論を扱っており、大量の裁判例を渉猟して分析し、判例実務の大まかな動向・問題点を把握したうえで、諸外国との法比較をするなどして、事案処理の判断指針を提示するというプロセスで、研究を行っております。
 

院生時代は、どのような大学院生活を送っていましたか。

博士前期課程では、とにかくドイツ語(時々、英語)漬けでした。中央大学の刑法専修では、伝統的にドイツ法との比較法研究を学びます。修士論文はドイツ語文献を使って書くことが条件として課されていましたので、ドイツの法律論文を一人で読み解けるようにならなければならなかったのですが、私はドイツ語を大学院に入ってから学び始めたこともあり、中々に苦労しました。当時の大学院の授業では外国語文献講読がメインでしたが、院に入りたての私はドイツ語でのアルファベットの読み方も知らないような初心者でしたので、初学者向けの文法書を読みながら、授業に向けてドイツ語和訳を作る日々だったように思います。例えば、分離動詞の存在も知りませんでしたので、「Haben Sie schon etwas vor?」を「あなたはなにか持っていますか?」と訳すような有様で、先輩から「冨川くん、最後にvorがあるんだけど、これはなんだと思う?」と聞かれても、「わからなかったので、無視しました(!)」と答え、呆れられるような状態でした(ドイツ語に触れたことがある人はこの酷さがわかると思います)。1日に1段落も訳せない(しかも、間違っている)ような状態から、指導教授である只木誠先生をはじめ、先輩方に根気よく指導をいただき、博士前期課程の二年目が始まるころには、なんとか一人で専門文献を読むことができるようになりました。このように、博士前期課程はドイツ語(時々、英語)まみれで、時折、自分の専攻が刑法だったのか、ドイツ語だったのか不思議に感じるほどでした。

博士後期課程に入ると、大学紀要に論文を載せる資格をもらえたり、研究会に出席できるようになったりしましたので、論文執筆の準備、研究会報告の準備に追われる日々でした。博士前期課程の時よりも多くの人に自分の研究成果を見てもらえるようになったことに、緊張と楽しみを感じていたように思います。また、他の大学の院生や先生方と交流する機会も増えてきました。思い返せば背伸びしていたと感じますが、研究者の仲間入りができたような想いになったのを記憶しています。

一方で、博士後期課程に入ると将来のことにも漠然とした不安を感じるようになっていました。就職のことです。その当時、上の世代の(中大内外の)方の話を聞いていると、どうにもすんなりと大学教員としての職を見つけることはできなさそうだな、と考えておりました。そこで、どうせ就職まで時間がかかるのなら、と思い、その頃にはドイツ語読解にもある程度手応えを感じられるようになっていたこともあり、ドイツ留学を希望するようになりました。幸いなことに、DAAD(ドイツ学術交流会)から長期留学奨学金をいただけることになり、博士後期課程3年目に入ってすぐ、約2年間の留学に行くことができました。ドイツでは、私生活の面でも、研究の面でも多くの刺激を受け、とにかく良いことばかりでした(強盗には遭いましたが)し、これまた幸いなことに、その時期に他大学の刑事法研究者も多く留学に来ておりましたので、国内では接する機会に乏しい関東圏以外の大学の院生や先生と知り合うことができ、研究交流の輪を広げることができました(同じDAADの奨学生であり、同時期にドイツ留学をしていた横濱和弥先生(現・信州大学准教授)とは、帰国後に3年半ルームシェアをするほどの仲に)。ドイツでの経験は帰国後も良い方向につながったと思います。

大学院での生活は、辛いことも多かったはずなのですが、大学院の友人、先輩、後輩とよく議論し、飲み明かし、今思い返すと楽しかった思い出ばかりです。
 

研究者、そして大学教員となった現在、どのような日々を過ごされていますか。また、今後の抱負についてお聞かせください。

私は、現在、着任3年目で、大学教員としてはまだまだ駆け出しです。大学での授業経験も不十分ですから、講義やゼミの準備にかなりの時間を割かなければなりません。授業準備は確かに大変な一方で、自身の研究にも新しい視点をもたらしてくれているように思います。これまでの研究では、どうしても自分の関心に寄せたことばかりに焦点を当てていましたが、授業を行うにあたり、自身がこれまで理解していた「つもり」になっていたことがいかに多いか、自分の不勉強を日々痛感しています。そのような気づきをもたらしてくれる学生との交流は、大学教員としてはもちろんのこと、研究者としても私を成長させてくれる糧となっています。

今後、研究者として、教員として、やりたいこと、やらねばならないことは多くあります。研究者としては、現実に起こった、起きうる紛争を解決するためのツールを提供することが法学研究者の役割だと思っておりますので、わが国の社会状況、諸外国の状況を観察しつつ、何が法解釈論として必要とされているのかを感じ取り、研究成果を発信しなければなりません。例えば、今なお被害の絶えない特殊詐欺については、実のところ、解釈論としての難題が次々に現れていますから、その解決手法を模索する研究が喫緊の課題となります。

教育者としては、刑事法学の楽しさ、大切さを学生に知ってもらうために、授業に創意工夫を尽くさねばなりません。残念ながら、新型コロナウイルスの感染状況は収束の兆しが見えず、勤務校においても、これまで通りの対面授業の実施はできておりません。他方で、オンラインツールを活用した授業に利点も感じ始めております。どのような状況にあっても、学生の成長につながるような教育を行なっていきたいと思っておりますし、そのための試行錯誤を続けていきます。
 

研究者を目指すみなさんへのメッセージ

私は、指導教授から多くの金言を頂戴しましたが、そのうちの1つとして、「研究者の人生はマラソンだよ」と言われたことがあります。今、思い返しても、その時の私にはまさしく必要な一言だったように思いますし、何気なくお話された言葉ではありますが、今なお私の心に深く残っております。この言葉には、2つの意味合いがあると私は感じております(本人に聞いたわけではないので、冨川の解釈ですが)。1つには、急がずとも良いが走り続けること、すなわち継続が大切であるということ、もう1つには、ひとまずのゴールを設定するということです。

継続する能力は、研究者にとって重要な資質だと思います。継続には、もちろん、自分自身の強い信念と努力が必要です。が、それだけではないように思います。やはり、周囲からの支援が欠かせないのでしょう。私は、良い人に囲まれ、良い機会を得ることができ、多くの幸運に恵まれた人間です。本当に色々な人の助けを得て、今日まで研究を続けることができました。他の人から見れば、苦労というほどの苦労はしていないと思います。もし、「自分なりに取り組んだ」ということがあるとすれば、色々な場所にいき、多くの人・考えと触れる機会を得るようにしていたことでしょうか。例えば、様々な研究会に参加しました。知らないテーマに関するものでも、事前に予習し、報告者に質問をするように心がけていました。その新しい出逢いは、次の新しい出逢いをもたらしてくれました。好機は偏在しているようで、遍在しているように感じます。私が色々な幸運に恵まれたのは、もしかすると、活動の場を広げていたことがきっかけだったのかもしれません。

次に、マラソンにはゴールがあり、終わりがあります。研究においても、それが暫定的なものであったとしても、ひとまずのゴールを設定しなければなりません。ひとまずのゴールを設定するというのは、研究に区切りをつける勇気を持つことだと思います。研究には大きな魔力があると思います。知的好奇心に際限はありません。研究を進める中で、とことん知りたい、調べたいという欲求に囚われ、まだ知らない、調べきれていない見落としがあるのではないかと不安に駆られ、インプットに終わりをつけられないことがあります。が、研究は調査と同義ではありません。調査の成果を発表し、世に問うことも必要です。今の調査状況ではもしかすると不十分かもしれません。しかし、仮に途上であっても、それまでの調査成果をまとめ、言語化して、他の人の批判を受けなければ、研究とは言えないように思います。最終的なゴールが今なお遥か先にあるのだとしても、そこまで走った成果を他の研究者と共有することで、学問全体の発展に繋がるのだと思います。そして、研究成果を世に出すことは、どのように受け止められるか恐怖心を抱きつつも、それが不十分なものであれ、確かに喜びを抱かせるものです。

私は、これまで充実した研究生活を歩んできました。研究者の道を志して良かったと思っています。皆さんが、希望ある研究の道を進んでいかれることを心より祈っております。

 

※本記事の内容は、2021年10月現在のものです。

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