社会・地域貢献

教養番組「知の回廊」15「豊かな市民スポーツの創出」

中央大学 商学部 早川 宏子

1、始めに

2000年9月13日、文部科学省はスポーツ振興法に基づくところの「スポーツ振興基本計画」を告知した。ス ポーツ振興法とはスポーツ振興に関する基本施策を国が定めたもので、1961年に制定されている。1972年には保健体育審議会答申が「体育・スポーツの 普及・振興に関する基本方策について」を出しているが、振興法の「基本計画」が出されたのは今回が始めてである。「基本計画」では豊かなスポーツ環境を目 指す為に「総合型地域スポーツ・クラブ」を全国展開で作る(2010年までに各都道府県に3000カ所は設置させる)ということを「最重点施策」としてい る。そのために「広域スポーツセンター」を都道府県に1箇所以上育生する事を課題としている。

さてスポーツ振興法の制定以来40年も放って置かれていたものを、今何故「基本計画」で急浮上させたのだろうか、とい う疑問はどうしても拭いきれない。文部科学省が「総合型地域スポーツ・クラブ」へスポーツ行政を方向変換しようとするねらいはいったいどこにあるのか、そ して何故「総合型地域スポーツ・クラブ」として浮上してきたのか、その背景、そして文部科学省の考える理想の「スポーツ・クラブ」とはどういう内容のもの なのか、今回はこれらの点を分析し、理想のクラブ像と行政のあるべき姿についてを考えてみたい。

2、「基本計画」のねらうところの3本柱

2-1

「総合型地域スポーツ・センター」を全国展開で設立する。
「生涯スポーツ社会の実現に向けた、地域におけるスポーツ環境の整備充実方策」というものを解決するためには「総合型地域スポーツ・クラブ」 をつくるべきであると述べている。成人の週1回以上のスポーツ実施率を50%以上に上げるために、中学校区単位でつくっていき、これを「最重点施策」とし て全国展開をする。そしてその支援するために「広域スポーツ・センター」を2010年までに都道府県に1つづつは設置するのだという。

2-2

「わが国の国際競技力の総合的な向上方策」をねらう。
保体審では「我が国の国際競技力の総合的な向上方策」として'76年オリンピックではメダルの獲得率が3.5%であったのに対し、'96年で は1.7%であったから、ジュニアからの一貫指導体制を整備し、ナショナル・トレーニング・センターを設置して、指導者の養成も狙おう」としている。即ち 「基本計画」でメダルの獲得をねらっている、即ちメダルの数を上げるということを国家目標にしたという点では多少問題性を感じる。

2-3、学校施設と地域スポーツ活動を連動させる。

「生涯スポーツ及び競技スポーツと学校体育・スポーツとの連携を推進するための方策」として、学校施設を開放して部活と 地域スポーツ活動とをつなぐ、競技団体や地域の指導者が部活を指導できるシステムを作る、部活動の土・日曜日の休止等をねらうとしている。この様な審議会 の施策のねらいについては理解ができなくはない。学校の施設を利用しながら地域の指導者達がこれらのクラブ活動について指導が出来るような配慮をしている が、その裏には市民ボランティアに依存をしたり、はたまた民間活力導入と合わせてそのようなものだけで市民のスポーツ行政を賄っていこうとしている文部科 学省の姿勢が見え隠れしている。今回の「基本計画」が出てくる経緯を見てみると、1999年9月、文部大臣からの諮問を受けた保健体育審議会が、2000 年の8月には「スポーツ基本計画の在り方について」を答申し、そして12月には「基本計画」の告知に至っている。文部科学省はなぜこの様に急いだのだろう か。その根拠として「サッカーくじ(スポーツ振興投票)」制度が考えられる。反対の強かった「サッカーくじ制度」を是が非でも2001年1月1日からス タートさせる為には、国会付帯決議での「スポーツ振興基本計画の策定」しか方法がなかった様だ。従って「サッカーくじ」が何としても大事で、文部省が諮問 を出し保健体育審議会が答申を出して、これを受ける形で文部省が計画を策定し、告知に滑り込ませたという「基本計画」である。日本で始めて地域スポーツ施 策に触れたその予算の裏付けが「スポーツくじ」(TOTO)というのでは少々お粗末なスポーツ行政だと考えられてしまうのだが、思い過ごしであろうか。

日本のこれからのスポーツ行政について、以上のような3本柱を立てた文部省であるが、2010年までの日本のスポーツ 振興の基本策がここに出てきたわけで、大幅な予算的裏付けの心配はさておき、捨てておけない内容にもなってきている。日本で学校や企業以外の「地域スポー ツ行政」に話が及んだ、即ち地域住民の為のスポーツ施策が出てきたという点ではかなりの進歩ではある。

「総合型地域スポーツ・クラブ」としてはヨーロッパのスポーツ・クラブを手本に考えていると思われるが、ヨーロッパの スポーツ・クラブというのは地域住民や学生達の自発性の中から誕生したものであって、それらが市民活動によって国と地方公共団体とから財政的援助を勝ち 取ってきたという長い歴史がある。官が主体で作り上げるクラブへ住民が加入をし、各自何かスポーツを始めなさいと言われても、はたして住民がそのクラブで ダイナミックな活動を展開させる事ができるのかというと、そこには無理がある。そして市民のためのクラブが何故「総合型」でなければならないのか。単一種 目例えば卓球やテニスだけというのであっても、卓球やテニスの大好きな人達が活発に参加する事でいい。もし複合化が必要であれば徐々に規模を大きくして複 数の種目へと拡大していけば良いのだ。「総合型」とすることで「地域コミュニティーの形成」を求めているが、まずはスポーツの愉しさを知り合うことから始 めた方が自然である。

3、日本のスポーツの特徴

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学校教育でスポーツを指導してきた。
日本におけるスポーツは1870年代に欧米から伝えられた。それまでの日本には集団競技の様なものは無かった。相撲・剣道・空手・長刀・拳法 のような格闘技は早くから日本に存在していたが、それらは全て個人の種目であり、むしろ戦いのための技術と精神訓練を目的とするもの(道を極める領域)で あって、スポーツというよりは「武道」である。欧米の文化として日本に伝藩されたスポーツは、初期の頃は主に大学生と旧制中学生がその担い手であった。 (資料1)

輸入文化、特に欧米の文化であるスポーツについては、文明開化の明治期に政府は列強に「追いつけ・追い越せ」の中で学 校教育の中に取り込んできたのである。そして学校にスポーツ施設を充実させてきた日本では地域にスポーツ施設を作らずにすんできたとも云える。しかし学校 だけに頼ったために、スポーツ・エリートを養成するシステムは出来ていない。即ち学校クラブで作り上げられた選手達が上の学校へ上がったときに指導者を失 うという現実に直面し、選手達はその時々の指導者任せということになる。さらに地域住民のスポーツを保障する事はできにくかった。

スポーツは教育的でない部分を沢山に持つ。勝利至上主義からくる八百長やドーピング、フーリガンなど、さらにスポーツ は夢中になると健康を損ねたり、怪我を招いたりする事だって多い。しかしスポーツが学校教育の中を出ないでいるから、文化として本来の形のまま発展させる ことも出来にくい側面を持つ。必要以上にアマチュアリズムが強調されたり、精神面を重視したりするのもそれである。技術の上達について「自分はこう思う」 と例えばフォーメーションについてなど分析をし意見を述べるというより、「精進をする」とか「忍耐」や「服従」を重視する、自主性は殺して「社会性」や 「協調性」を望んだりする。スポーツを丸ごと「文化」として発展させない。スポーツが「根性作り」や「体力作り」の為の教材として取り組まれる時、例えば バスケットボールを体育の中で取り上げながら、学習のねらいとして「敏捷性を高める」・「脚力をつける」・「社会性を養う」等が強調される。本来なら 「シュート(得点)の為のコンビネーション・プレイを求めた仲間の共同作業」などがバスケット・ボールの面白さである。最近では小学校の3年生位から体育 での「落ちこぼれ」が起こると言われているが、この様な現象も、スポーツを通して「集団行動」を学習させたり「社会性」を培う事を必要以上にねらう、ある いはルールを覚えることだけが「体育」の目標になってくるところから起こる現象ではないだろうか。

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大学のスポーツ(体育連盟運動部) 
大学の運動部の歴史は明治の初期にまで遡るのであるが、我が国にスポーツが紹介されて以降長い間スポーツは大学生がその担い手であった。一般 庶民の為にスポーツ施設が作られて来なかった為に、大衆スポーツが普及しないままの時期が長く続く。初期の大学生あるいは旧制中学生らが自主的組織を作り 起こしてスポーツに取り組みだしたのが日本におけるスポーツの始めであったが、その後競技会等の規模が次第に大きくなり全国的なものへと拡大をしていっ た。

中央大学の体育連盟運動部は他大学のそれと同じように明治の頃からの歴史を有し、現代に至るまで日本のスポーツ界を 担ってきた。近年プロ・スポーツが出てきたり、民間の水泳クラブが全国ネットで広がりを見せた中から、多少の変化は見せてきているが、基本的には日本のス ポーツ界が学校に依存してきた姿に変化は無い。現在中央大学には45以上にのぼる公認の体育連盟クラブが存在し活躍を見せている。その中にはオリンピック でメダルを獲得しているクラブもあるし、ユニバーシアードやインカレ優勝を狙うクラブ、全日本出場を果たすクラブ、あるいは全日本選抜チームの候補選手を 出しているクラブもある。昨今のスポーツ界は競技技術のレベル・アップが激しいために、学生で選手として存続する事の困難さもでてきてるし、世界大会参加 への費用などが個人の問題になっていることも含めて、トップアスリートの養成についてはすでに学生個人の問題にしておくだけではすまされないところまで問 題が大きくなってきている。

大学運動部は自由意志で行う活動であるが、学生選手は本来は勉学に励まなければならない本業があるわけで、朝から晩ま でスポーツだけしかしていない学生という姿はあまり誉められたものではない。そのため精進をする清く美しい姿をいたずらなまでに強調したり、先輩と後輩の 厳しい人間関係を作り上げたり、歯を食いしばって頑張る「根性」等が強調されてきた。大学体育連盟クラブの中で行われてきた勝利のための過度な練習やしご きの問題については教師の側でチェックが出来ないでいたり、クラブ員が封建的な人間関係からスポーツマンとしての自主性や独立性を培わないできたという面 も確かにあった。数々の問題を孕みながらも地域でスポーツをするという環境を日本政府が手着けずにきた100年のツケは、スポーツのあちらこちらで露呈し てきている。

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企業スポーツの特徴

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企業スポーツ(実業団チーム)の設立 
企業がスポーツのチームを抱えているという現象は非常に日本的な特質であり、世界でもあまり例を見ない。その形態は近年少しづつ崩れかけてき ているが、しかし何故企業がスポーツ・チームを設立するに至ったのか。そこにはスポーツの持つアマチュアリズム(資料2)と、戦後の経済発展の為の国の政 策とが関係をしている。日本のスポーツは、初期の頃地域に施設がなかったために、学校だけに頼らざるを得なかった。しかし第二次世界大戦後新制大学になる と、「一般教育が重視」され、「保健体育」が必修となり、スポーツ人口が急激に増えた。そこでかつて大学の運動部コーチや職員の身分で受け入れてきたス ポーツ選手達の枠にも限度が生じた。選手達自信も競技生命の短さを思うと会社へ就職する事を希望したであろう。一方で国は戦後大企業を育成し、大企業の経 済活動を支える社会基盤の整備を優先させてきた。朝鮮戦争特需があって高度経済成長が始まり企業が業績を伸ばし始めると、国は企業が土地を買い社員の福利 厚生に当てることに免税措置を取る。従ってその頃多くの企業が土地を物色し、グランドを作り体育館を建てた。そして社員チームを作っていったのである。

1972年にIOC委員長のアベリー・ブランデージ会長(アマチュアリズムの権化と言われた)が引退し、1974年、 アマチュア規定がオリンピック憲章から消える。それまでの日本では、1964年東京オリンピック・1972年サッポロ冬季オリンピック、それぞれの誘致に 対し何の詮索もされずに、美しく神聖なものとしてアマチュアリズムを掲げ、それをスポーツの原点として捉えて誘致を受けたことに酔いしれてしまっている。

今まで高校・大学で選手だった者がアマで選手を続けるためには、自分の母校で受け入れて貰い、大学院生や教職員とし て、あるいはコーチ等の身分で自分のプレーを継続し磨いてきた。これは地域社会にスポーツのための施設が作られてきていなかった事にも原因の一端はある。 このような中で日本では「スクール・アマ」、「ミリタリー・アマ」、「企業アマ」という形のアマチュアの選手を作り上げた。かつての東の国等でも「ステー ト・アマ」という形でアマチュアリズムに対応してきている。実際にはプロ選手と云えるほどの選手達を、世界各国で「アマ」と称したのであるから、日本のア マチュアリズムだけが特別おかしかったという訳ではない。しかし実業団チームという企業アマについては、世界にも例を見ない日本独特な形態である。何れに してもアマチュアリズムという思想は、言葉の上で帳尻を合わせただけの様な「ウソ」がそこには潜んでいる。

★1960年代~1970年代:会社のレクレーションでチームを編成し、野球や陸上競技、球技などの試合を企画した り、あるいは他社と対抗戦などを進めるに至ると、社員の健康管理のみならず、帰属意識を高める事ができる。それによって社員の統制、あるいは志気高揚に繋 がっていった。やがて企業は強い選手を社員にスカウトする事を始めた。

★1980年代:強いチームで社会人リーグを戦い勝ち上がっていく事が、会社の宣伝効果をあげるという事に通じると企業が認識し始める。大企業が強い実業団チームを作ることに力を入れていく。

★1990年代の半ば:バブルの崩壊に端を発して実業団チームの崩壊が始まる。

アマチュア主義を標榜しながら学校中心できたスポーツは、

  • 国が地域スポーツ行政を施策してこなかった(即ち学校外に地域住民のためのスポーツ施設を作らなかった)ということ
  • 高度経済成長及び国の大企業優遇税制で企業に余力が出来たために、企業の抱えるチーム(実業団運動部)が日本のトップアスリートの受け皿になったという現状がある。言い換えると国がトップアスリートの支援を怠ってきたという歴史をもここに見る事ができる。

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企業スポーツ(実業団チーム)の特徴 
企業チーム、選手は企業に雇用されアマを標榜し、実際にはプロの様な存在を作り上げてきているのであるが、企業の社員の形を取るために、一度 社員になってしまうと他のチームへの移動がない(即ちトレードがない)。コーチやトレーナーの企業間の連係プレイは勿論ない。それぞれのチームは日本シ リーズで勝つことが至上命題になるために、配下の選手が全日本選抜選手などに抜擢された場合にも彼を連盟に出したがらない等、全体として日本選手のレベル アップに繋がりにくい体質を持つ。

また高校や大学でトップアスリートとして活躍した選手は、実業団でさらに活躍をしようとすると、強いチームを持つ会社 へ入らなければ活躍が出来ないのであるから、自ずと職業選択の自由はなくなってしまう。そしてこのような企業クラブへは、地域住民は入ることができない。 実業団チームとは企業の抱える選手だけがプレーをするクラブなのである。

さて、最近の不景気の波の中で企業が運動チームを抱え込む事ができずに休部・廃部をする事を決めたところが多く出てき た(資料3)。企業スポーツ(実業団運動部)というのは極めて日本的形態であるが、その誕生から崩壊まで戦後の日本の社会システムそのままを写し出してき ていると言える。日本のトップアスリートは「学校」と「企業」で練習を積むために、一貫した要請システム制度を持たないできた。今回の「スポーツ基本計 画」では「総合型地域スポーツ・クラブ」を各市に作り、それによってメダルを上げる事をねらっていくということであるが、文部科学省がスポーツ選手養成に 関する一貫した政策を怠ってきた点について反省するのなく、取って付けたようなヨーロッパ的クラブの形態(「総合型地域クラブ作り」)を今持ち込むことに よって、責任をはぐらかしているような気がしてならない。なぜならヨーロッパの「スポーツ・クラブ」というはスポーツを愛する住民の主体性から作られてき たものである。
さて、以上見てきたように日本では、スポーツを作り上げたヨーロッパとはスポーツの取り扱いに関して大きな違いを見せてきた。日本 のトップアスリートは高校や大学、企業に育生をすべて任せっぱなしで、地域住民のスポーツをする場は常に不足をしているというのがこれまでであった。

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テレビの出現はスポーツを多いに変化させた 
テレビが始めて日本に登場するのが1953年で、当時NHKの一日の放送時間は4時間であった。受信契約数が伸びるのは1960年代に入って からで、それまではNHKもまだ放送権料などの問題はなく、大相撲やプロレスの中継に際して「協力金」や「助成金」という名目の放送権料を払っていたとい う。1960 年ローマ・オリンピックでNHKはIOCに5万ドル、アメリカはこの時CBSが50万ドルを支払った。1968年メキシコ・オリンピックではABCがメキ シコ市の組織委員会に400万ドル支払っている。この放送権料の中からIOCは15万ドルを受け取った。これがIOCの放送権料を受け取った始めであっ た。これを期にIOCが放送権料の販売に積極的になり、オリンピック憲章で組織委員会に入る放送権料の3分の1をIOCに支払うよう定めた。さらに 1984年ロス・オリンピックでは「ユベロス・マジック」と言わせたように、ロスの市長はオリンピックで巨額の黒字を出した。従って次のソウル・オリン ピック(1992年)からIOCは、自身がTV放送権料の契約当事者となり、40%を受け取って残りを組織委員会に分配する事を決めている。何れにしても オリンピックやワールド・カップは今や巨大な儲けを上げる一大イベントなのである。

サッカー・ビジネスが盛んなヨーロッパのビッグ・クラブでは、経営の大きなポイントとなっているのがテレビ中継であ り、今日ではTV中継がクラブの生命線にすらなってきている。カップ戦やリーグ戦で中継されることでスポンサーが付く事が約束される。例えば少し前までは テニスやサッカー等で、スタジアムの広告板や選手のユニフォームにロゴをつける事によって宣伝効果が上がるところから、まずはアディダスやコカコーラがス ポーンサーとしての成功を納めた。しかし最近ではこうした宣伝効果の捉え方にも変化が出てきていて、スタジアムに見に来たファンの目にだけしか映らない場 合は数万人に対してのプロパガンダであるが、テレビによるサテライト中継によれば何百万人の目に企業をアッピールする事ができる、従ってTV視聴者にむけ てどれだけ莫大な額をスポンサートしても見合うと考えられるようになった。

最近では地上波だけでなく、衛星放送(CS、BS)やさらにはCATVでのペイ・パー・ヴューによる放送も多くなりつ つある。メディア王マードック(BスカイB)がイギリスの名門マンチェスター・ユナイテッドを買収しホームの試合の中継契約を結んだ時には、ユニバース・ アクセス権(誰でもが無料で視聴出来る権利)の問題で大騒ぎになったが、こうした問題もテレビによるスポーツ中継がヨーロッパのビッグ・クラブにとってど れ程大きな存在かを物語っている。同じ様な理由で選手の移籍金問題も上げられる。世界最優秀選手に選ばれたフランスのジダンは、昨年ユベントスからレア ル・マドリードへ約81億円で移籍した。ポルトガルのフィーゴがバルセロナからレアル・マドリッドに移籍した時に61億円と言われていたから今回のジダン が桁はずれの額で移籍をはたしたことになる。スーパー・スターの移籍金が天井知らずの高騰を続けているが、ヨーロッパのサッカーでは、トップリーグに属し ているクラブはそれに見合ったビジネス価値があるのだ。良い選手を多く集めて優勝をするとスポンサーも確約させるし、選手の移籍金もさらに上乗せして得る ことができて、好循環が巡る。選手は投資でもあるのだ。中田選手がローマからパロマへ移った時の移籍金が約31億円と言われている(イタリアのプロ・リー グにおける連盟の働きが、フランスやイギリスの連盟と違ってはいる)が、マードックからすると広大なアジアに対して未曾有のケーブル・テレビ契約獲得を考 えれば、今どれだけつぎ込んでも日本選手を獲得しておきたいところであろう。しかしそうまでしなくてもリーガ・エスパニョーラやセリエA、プルミエ・リー グ等のファンを自称する日本の若者は増えてきている。

このような「サッカーのマードック化」(Jhon HORNE,「テレビ・メディア報道、そしてサッカーのニュー・ビジネス」, 現代スポーツ評論 , p.54 , 3)に対して、ブルデューは次のようにテレビがスポーツを変質させると指摘している(Bourdieu,p."The State Economics and Sport"1999)。「クラブの試合数が増加する」、「テレビ放映される試合数が増加する」、「有料テレビや加入テレビが、こうした独占放映権を獲得 する傾向を醸成する」、「スポーツ・イベントのスケジュールや時間調整に対してテレビ局が規定をする」、「試合構造に変化をみる」、「贈賄・汚職などのス キャンダルが増加する」、「国家の境界にとらわれない世界的な選手の移動が増える」等。

アメリカの3大テレビ局(NBC、CBS、ABC)はオリンピックに何千億円という巨額な放映権料を払っている。テレ ビ局は視聴率を上げなければならず、そのため競技連盟に圧力をかけて放映時間をアメリカのテレビ時間にあわせさせた(決勝時間をずらさせた)り、2時間で 試合が終わるようなルール改正を迫ったり(バレーボールのポイント制)、試合の中によりスリリングな場面を多くする要求をだしたり、広告タイムを多く取れ るようにハーフ制からクォーター制を要求してきたり等、金も出すが口も出すという現状が起こってきている。アメリカのプロ・スポーツではアメフト、野球、 バスケットボール、アイスホッケー、カート等が大きな興業として成功を収めているが、スポンサー料や、放映権料、選手の移籍金なども鰻登りの高騰をしてい る。

テレビが登場してからまだ日が浅いにも関わらず、テレビは地上波による放送からサテライト放送によるBS・CS、 CATVが出てきて、そのうちにアナログからデジタルへ完全に移行をするだろう。デジタル化が持たらすものは多チャンネル化だけではなく放送形態もデジタ ル・ハイビジョン放送やデーター放送が出てきて、双方向放送を可能にした。そのような中でスポーツは、ブロードバンドやモバイルといったインフラとコンテ ンツを一体化させた事業の中へどの様な形で参入をしていくだろうか。いずれ地上波は消えるだろうが予想はまだつかない。テレビの出現でテレビを通してス ポーツを「見る」という活動へ、人々の新たな活動形態を生み出した。この「見る行動」は地球規模で同じ興奮を同時に何百万人が共有するという活動である。 従って「見るスポーツ」という形態、新たな文化活動へと昇華しつつあると云えそうである。

私たちはスポーツ文化をどの様に発展させ、そしてそれを次代へどの様に継承すべきなのだろう。スポーツはプロ・スポー ツが誕生をした頃から変化を遂げて来たが、もはや学校教育の中だけではとらえ切れない。テレビによって近代スポーツは益々人にとって過酷なルールを生みだ してきた。私たちにかかって来る責任は重いと云える。

4、ヨーロッパにおける「スポーツ・クラブ」の実体

スポーツ振興法の基本計画では「総合型地域スポーツ・クラブ」を全国的に作りあげる事をこれからのスポーツ行政の指針としているが、近代スポーツを作り上げたヨーロッパのスポーツが地域スポーツを母胎に成り立っているので、ここでヨーロッパのスポーツの特徴についてを見ておくことにする。

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スポーツ・クラブを作る中で近代スポーツが誕生をした。
近代スポーツを作り上げたのはイギリスで、今から140年前の頃の話である。当時のイギリスは産業革命を起こした国で、いち早くヨーロッパを リードしていた。1000年も2000年も前から伝えられてきた土着の祭りや儀式と結び付いていた人々の活動(遊び:ゲーム)が、殆どイギリスで、ある一 時期に一斉に連盟を作り、ルールが成文化した、即ち近代スポーツとして誕生をしていった。なぜそれが19世紀の後半で、なぜイギリスなのかについては、既 に社会学の領域から研究が進められてきた。蒸気機関の発明によって鉄道が敷かれ、通信網が可能になり、人々の合理的な物の考え方を可能にした時代、統一規 格できちんとした用具が作られるようになる、あるいは議会制度の確立が土着の遊技をルールで戦うゲーム(文化)へと昇華させたことなど、理由がいろいろと 挙げられている(N.Elias / E.Dunning , スポーツと文化)。イギリスが植民地政策を取っていたために、アジアやアフリカへ進出をしていたが、植民地を統括するエリート達が青白い秀才では話になら なかった事であろう。理想のジェントルマン像にスポーツで鍛えた「逞しい男」を上げたのも納得のいく話である。貴族のエリート校(パブリック・スクール) でフット・ボールを教材にとりいれるところが多くなり、荒くれたフットボールがスマートなルールを生み出すようになる。今から140年前の出来事であっ た。以後100年近くアマチュアリズムの思想をともなってスポーツは上層階級の人々の愛好者としての活動で続けられていった。ヨーロッパでは文明が南から 北上をしている。イギリスで出来上がった近代スポーツの原形は全てフランスのノルマンディーを通り、ドーバー海峡を渡って14世紀以降にイギリスに入った と言われている(RAYMAND Thomas , Histoire du sport , Que sais-je?)が、イギリスで統一組織(連盟)を作り、ルールが文章化されたという事が非常に大きな意味を持つ。すなわち土着の祭りや慣習の儀式が世 界共通の文化になったという点で画期的な出来事であった。それぞれの種目ですぐにヨーロッパ・カップが行われるようになった。アメリカや日本へもすぐに流 れてくる。サッカーは明治6年(1873)ダグラス少佐以下30余名の英国海軍軍人が築地の海軍兵学校寮に指導に来ていたときに教えたのが日本における始 めであると言われている(F.P.マグーン,「フットボールの社会史」岩波新書)。ロンドンでFAが成立した10年後のことであった。日英同盟が締結され た明治35年(1902)以降、英国人教師が日本の各地で指導をするようになったためにサッカー以外のスポーツもまずは学校へ入っている。高等師範の学生 が卒業して全国高校へ、あるいは師範の学生が卒業して全国小学校へとスポーツを広めていった。やがてスポーツは文部省の扱うところとなる。

近代スポーツは、同じ頃アメリカ固有の野球、アメフト、バスケットボール、バレーボールが出来上がった。これらの種目以外の「近代スポーツ」はイギリス育ちが多いというのも一つの特徴であるる。

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スポーツ権思想 
1975年ベルギーでヨーロッパ・スポーツ担当大臣会議が開かれ、スポーツは万民の権利であることが確認され、「みんなのためのスポーツ」憲 章が採択された。これをうけてヨーロッパでは各国でスポーツ法が制定されている。1978年ユネスコで「スポーツ憲章」が出ていよいよスポーツ権思想は ヨーロッパで徹底されていく。
フランスでは1936年に人民戦線内閣がヴァカンス法を成立させたが、戦争のために頓挫し、戦後になってロング・ヴァカンス45日が保障され ていく。現在では週35時間の労働法と相まって、スポーツ権は余暇権の保障と伴に確固たるものになってきている。アヴィス法は1975年のマゾー法からス ポーツ権を引き継ぎ、スポーツ産業が華やかになり時代差も生じたため不都合になった部分を数々改訂してできたスポーツ法である(1984)。

成長期の子供達に運動の必要性が有るので学校教育の中にも体育が必要であるという取り決めがスポーツ法に盛られてはい るが、現実には学校に施設やスタッフが充足していない。スポーツ青年省が作る「地域スポーツセンター」(CREPS)が朝から晩までスポーツのプログラム を提供しているから、子供達に体育が必要と考える先生は、自分の担任の子供達をそのセンターのスポーツ教室へ連れていく。「陸上競技」とか「ハンドボー ル」など数々のスポーツのプログラムがある。学校にスポーツ施設は無いが、区のスポーツ・センターの提供するプログラムに乗っかる形でスポーツが指導され る。初心者サッカー教室から、その後教室卒業者に準備された「ちびっ子クラブ」へ入ることも可能だ。伝統的にフランスの学校は水曜日か土曜日を休むところ が多いので、CREPSの「子供クラブ」あるいは「子供のための教室」は水曜日や土曜日に多く集まっている。そこでのクラブは上の連盟(NF、例えばサッ カーではFFF)へも繋がっていくので、初心者から国の代表選手までの一貫性が保たれている。日本のようにJリーグ下部組織で養成されたユースの選手が高 体連の全国大会へ参加出来ない、などというややこしい問題も出てこない。

絵画や音楽・庭いじり等と同様に余暇生活を豊かに過ごす為の文化の追求の一端をスポーツ青年省が担うという取り組みが そこにはある。そのためにスポーツを全然行わないという住民(とことん音楽派とか、とことん絵画派等)も生み出している。日本ではスポーツ教育は学校で行 うために、高校までにバレーボールやバスケットボール、水泳その他スポーツに触れずにいるという事はない。一件フランスより充実した指導を行っている日 本、しかし学校卒業と同時にスポーツを行う「場」を失うという現状も、日本のスポーツの大きな特徴であると言える。

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いろいろな種類のフランスのスポーツ・クラブ 
在外研究年でフランスに滞在をした1年間(1997年~1998年)に、健康作りの意味もあってあるスポーツ・クラブ(「スタッド・フラン セ」)へ入会した。このクラブは1883年に誕生をしたフランスで最も老舗の大型クラブであった。時々そこへテニスをしに行くようになってから私の「フラ ンスのスポーツ・クラブと日本のスポーツ」という興味の対象が生まれた。

フランスには様々な立場から(階級、思想、宗教、傷害有無等)からスポーツ連盟ができ、そこに登録するクラブが存在し ている。M.レブロン(Michel LEBLANC)によるとフランスのクラブは3つの時期に区切れるという(Le club de l'an 2000, Insep-Publication)。
1880年から1930年まで、スポーツを文化として形成していった栄光の時代。1930年から1970年までは社会のモデル及び民主的形式に対応した活力に満ちた時代。1970年から現代まではスポーツの形や実践のモデルが大きく変化した戦略的時代と分析している。

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フランスでスポーツのクラブというと、まずはドイツから入ってきたギムナスティーク(体操)を行っ たクラブがあった。その後イギリスから「近代スポーツ」が入ってきて、「ラシン・クラブ」と「スタッドフランセ」を作り上げたリセの卒業生達が「走競技 サークル連合:1887」(後にフランス・スポーツ連合 USFSA:1890となる)を打ち立てた。クーベルタンなどもこの連合に関わっていくが、1908年にはナショナル・スポーツ協会になり、1911年に はナショナル・オリンピック・スポーツ協会へ改組していく。近代スポーツの多くがここへ加入をし、ほぼ100年後(1990年)の連盟登録クラブは 99,735クラブへ膨らみ、登録選手は8,748,825人に上る。

4-3-2 
労働者たちもスポーツ活動をしたくなり、自前のサークルを作り出す。
1907年の社会党のスポーツ同盟、のちにソシアリスト・スポーツ連盟に、そして労働者スポーツ体操連盟を経て現代では労働者体操スポーツ連 盟(FSGT:1951)と労働者スポーツ同盟(UST:1951)の二派に分かれて、それぞれ3,125クラブ・286,519登録選手と、415クラ ブ・26,500登録選手がいる

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各種宗教団体のスカウト活動の中でのクラブ。
フランスは伝統的カトリックの国であるがプロテスタントも存在するし、アラブやアフリカが植民地であったところからイスラム教や土着の宗教、 そしてユダヤ教も地続きである。それぞれの団体が青少年のスカウト運動にスポーツ施設をつくる(アメリカ・プロテスタントのWMCAやYWCAのような機 関)ので、数々のクラブがそこにできている(1920年段階で120グループ:この時カトリックの少年団グループは800あったという)。又フランスでは 教育では必ずと言っていいほど宗教教育になってしまう伝統があったために、教育から宗教を排除する思想(ライック:laics )の側からも青少年にスポーツ教育を行った。

4ー3-4
青年団(Jeunesse)、今でもフランス各地に広大な敷地と宿泊施設、スポーツ施設を持つ。歴史の中では非常に軍隊との結びつきも強く、保守的な団体である。しかしここでも現在全国展開で青少年にスポーツ施設を提供している。

4-3-5 
ハンデキャップ・スポーツ連盟 
「口がきけない・目が見えない」という人のためのクラブ(77団体、2465登録会員)、身体障害者スポーツ連盟(295協会、11,023登録会員)、精神障害スポーツ教育フランス連盟(419協会、16,664登録会員)

4-3-6 
学校のクラブ 
いくつかの県では20世紀の初頭、スポーツ連盟(USFSA)に対抗して、学校教育の中で戸外身体運動の日(Lendit)を組織していた。 それらが後のフランス南西部のラグビー・クラブ設立へも繋がっていく。1923年ブリュッセルに作った体育国際連盟で86の国をまとめ、ユネスコとも合体 していく。 1951年には学校教育ナショナルリーグは502の協会になり、会員は14,382人になる。1962年には875クラブ、73,076人、1968年に は600クラブで28,455の人会員。その後いろいろな組織の変化を見ながら1984年には会員333,505人になる。近代世界身体トレーニング連盟 (FFEPMM)へとつながり、1985年2,397協会で140,025人会員へと発展する。そうした中から「フランス退職者スポーツ連盟」 (FFRS)も生まれる。しかしある大学の教員に言わせると、「大学や高校でのリーグ戦は組織されてはいるが、実際に学生が練習をしているのは各自自分た ちの所属している学校外のクラブでという形態が多い」そうだ。

4-3-7 
地域スポーツセンターのクラブ 
青少年スポーツ省の管轄下に各市のスポーツ局があり、そこに「地域スポーツセンター」(CREPS)と協会(Assossiation)、ア ロー・スポーツ(スポーツ電話相談)が設置されていて、CREPSの中にはCIS(スポーツ指導センター:7才から17才までの子供のスポーツ初心者教 室)とCP(8才から16才までの進んだクラス:CISの推薦で入会する、パリでは13の施設で体育館種目・競技場種目・水泳等が行われている。希望に よっては小学校選手団(l'usep)へ参加し全国大会へも出る事ができる)。こうした地域スポーツ・センターは青少年スポーツ省と地方公共団体からの補 助金で賄われている。630の連盟があり、約3000カ所この様なタイプのセンターがある。

4-3-8 
軍隊のクラブ等々 
19世紀の終わり頃は、スポーツを愛好する層は身分の高い層であったが、そうした人々がクラブを組織しても施設は常に不足していて、政治家や 財界のクラブ員が軍を動かした。大きなクラブの会員達は軍の施設へ通うということが起こっていたという。軍隊は強い兵隊を作るところであるから、施設は豊 かであったのだ。

4-4

国立スポーツ研究所(INSEP) 
INSEPはスポーツに関して全てを研究している国立の機関である。パリ市の東、ヴァンセンヌの森に続く広大な敷地に、社会学、心理学、哲 学、バイオメカ、医学等の研究室を持ち、スポーツの施設と図書館を持つ。体育・スポーツに関するあらゆる疑問に応えるよう国民に開かれている。様々な協 会・クラブの中で、国のランキングが一定程度以上に達した選手に対してはINSEPでトレーニングを受ける事ができる。ここは選手養成機関ではないがトッ プ・アスリートの指導には応えられるように準備されている。

4-5

行政の補助 
クラブに対して国と地方公共団体が3分の1づつの補助をしている。残りの3分の1を会費で賄うという形でクラブは運営されている。プロのチー ムを抱える様な大型クラブ(例:ラシン・パリ等)は、FIFAが放映権やら移籍金を管理しているので分配金が配られる。その方法は、ナショナル連盟も強い クラブへは思い入れも手伝って多く配ったり、あるクラブへは少なかったりと一律にはいかないそうだ。従って強いプロ・チームを抱えるクラブ程財政が豊かだ という。

5、総合型地域スポーツ・クラブ」を日本に根付かせる為には今後どの様な取り組みが必要か。

5-1

クラブの組織はクラブ員の主体的な活動で成り立つ。
誰でもがスポーツを楽しむ人になる必要がある。行動をする人でなければ理想のクラブ作りなどはでき上がらない。スポーツをやってみるかという 気をまずは起こす。汗を出す爽快感、楽しい仲間との交流が楽しい仲間作りに発展をする。さらに市民運動などが行政をも動かす事を可能にしていく。官主体で はクラブ作りは頓挫する。あくまでも自主的クラブ作りが先で、行政がそれらを後押しすべきである。

5-2

休日の学校開放をはかる。
日本はヨーロッパの学校と違ってスポーツ施設については、どんな学校にも多目的グランド(陸上競技のトラック)と体育館、夏に2月間しか使用 しないにもかかわらず屋外プールを備えている。ハードの面では日本はヨーロッパの教育機関よりも充実しているのだ。学校教育におけるスポーツ施設の市民へ の休日開放をはかる努力をする。

5-3

豊かな市民スポーツは豊かな予算によって保障される。
施設だけあっても市民スポーツ活動は発展していかない。組織・運営の面では金も人も必要となる。クラブを維持・管理し、年間のスケジュールや 楽しいイベントを企画するなどマネージメントに携わる人や、技術的な面での専門家(トレーナーやコーチ)はスポーツ・クラブには必須の人材である。民間活 力の導入だけで問題の解決をはかろうと考え、フィットネス・クラブを経営する民間企業などにだけ頼ったり、あるいはボランティアの指導にゆだねる等という のでは、将来限られた領域のスポーツ以外は地域で出来なくなっていく。なぜなら民間企業は経営の採算性を考えるために、水泳やダンス、テニス、ゴルフ、ト レーニング等全て個人種目だけを扱っていく。そのためスポーツをする場が学校から地域へとシフトされて行ったとき、今まで学校で行ってきたバレーボールや バスケット・ボール、ハンドボールや野球、ラグビー等のチーム・スポーツについて地域住民の行える場所がなくなっていく。またボランティアのコーチが何時 までもクラブに留まるということもないであろう。ボランティア頼みのクラブはいずれ尻つぼみで発展をしていかない。
現在ある地域スポーツ活動の拠点を、国及び地方公共団体は援助をし、あるいは優遇措置をはかっていく。多摩での私立テニス・クラブは近年税法 上の理由からバタバタと施設をたたんできた。流行の先取りというよりは明らかに税法上の措置によりクラブは営業不可能に追いやられている。私立テニス・ク ラブはマンションに変わってしまった。さて一度マンションになってしまったら最後、二度とテニス・コートだった広い空間は戻ってはこない。ここ十年の間 に、民間テニス・クラブが多摩地区だけで20件近くマンションに変わった。国はマンションを建させて一時的にでも「復興がはかれる」という考え方をしな い。民間施設であってもその公共性を重視し、国及び地方公共団体はこれを援助するという施策の転換をはかる。(現在残っている多摩のテニス・クラブは平日 は退職者で満員である‥‥これらについてもオーナーが施設維持が出来なくなる時テニスコートはマンション化する。日本のスポーツ政策は貧困の何物でもない ということになる)

5-4

草の根スポーツ活動を行政が応援をする必要がある。
地域で人々が楽しむ草の根的活動については全てを拾い上げる。その上で行政側がそれらの全てを保護していく位の必要があるだろう。市の施設や 学校の施設、民間施設、河川敷や公園等の広場で楽しんでいるサークルは全て市民主体のクラブへ発展する条件が整っている。Jリーグはこれまでのプロ野球球 団が親会社の名前を付けていたのに対して、これを外し地域名だけを名乗るようにして1993年に発足している。この時に始めて「地域密着型」という呼び方 が出てきた。ここ数年で実業団チームの休部あるいは廃部が続いて来ているが、企業が抱えなくなってきたチームが生き残り策を出してきている中でも「地域密 着クラブ」にしたいと対策を立ててきている。しかし今の日本で行政がチームの親会社に取って変わるだけの財政援助をしてくれるかというと、そんなに情勢は 甘くない。住民を巻き込んで、住民が主体的参加ができるような(サポーターとしても、スポーツ実践者としてもの)クラブ作りをしなければならないだろう。 行政も後押しをするいろいろな形態のスポーツ・クラブが地域に存在するという状態は、果たして贅沢な話であろうか。子供達も含めて利用できる集会室や図書 館、そこに隣接する施設でママがクラブ員達と、例えば卓球やバトミントン、ビーチバレー、テニスなどに興じる、指導者がいてコーチを受けられればさらに活 動に対する興味は深まるのだ。企業の施設や学校の施設、あるいは市の公園施設を定期的に使用し、施設管理その他に付いては行政からの補助を期待する、勿論 クラブ会費だって集める。ヨーロッパ型スポーツと学校主体の日本のスポーツ、どちらも国がしっかり予算を当てている。今後方向を「地域密着型」へ転換させ ようとするなら、日本のスポーツは、「サッカーくじ」で賄うだけであとは民活とボランティアでなどという考えだけでは、望ましい発展がはかられないであろう。

5-5

柔らかいスポーツというジャンルをこれからは考えに入れる 
「誰でもが」、「何時でも」、「誰とでも」楽しむ事のできるスポーツであるためには、過酷なまでに「高さ」や「距離」や「時間」を問題とする 従来型の「近代スポーツ」だけを捉えていては、理想のスポーツ・クラブを創造していくことは出来ない。ルールを人に優しく改変したり、新しい用具を使用し た新しいジャンルの身体運動であったり、健康作りの為のトレーニングや東洋養生法のような領域のもの、自然の中に繰り出す活動やエクス・スポーツまで、こ れからのスポーツは、「より強く」・「より早く」・「より遠くへ」という標語を掲げた「近代スポーツ」とは少し違ってくる。ルールが甘かったり運動量が少 ない等から、これまでは「スポーツまがい」とかあるいは「スポーツの二流品」位で考えられがちであったが、実際にはオリンピックやワールドカップを目指す 「近代スポーツ」と「大衆の楽しむスポーツ」を同一視していると問題が生じやすい。

メダルを挙げる為にスポーツ・クラブを地域に作るというのでは、大衆の為のスポーツ権は保障されない。近代スポーツ (硬いスポーツ)は、効率を求める世界にあっては確かに面白い。今年のツール・ド・フランスではどこが優勝するだろうかとか、今年の世界一のスプリンター は誰か等は万人の興味をそそる出来事である。しかしスポーツのルールは変化をしながら人々を阻害してもいく。地域住民が生涯スポーツとして取り組むスポー ツとして、「柔らかいスポーツ」即ち人に優しいスポーツを考えに入れて取り組む必要があるだろう。

5-6

国立スポーツ研究所を設立する。
フランスの国立スポーツ研究所(INSEP)では、プロ・スポーツの経営・管理から、スポーツの技術や栄養・生理学・心理面等、スポーツに関 する研究の一切を行い、トップアスリートのトレーニング等の相談にも応じられる機関である。スポーツが社会とどの様に関わっているのか、現在の社会で起 こっているスポーツの現象やこれからのスポーツの在り方など人文・社会学的研究が「柔らかいスポーツ」までも視野に入れて研究を始めてきている。日本のス ポーツ界は学校を母胎にして存在してきたから、それぞれの種目の連盟が非常に幅を利かせてきた。スポーツの近代化をはかりにくい要素がそこにあった。新し い考え方でスポーツに取り組む必要性が出てきている。

資料1

1 日本のスポーツ史

1872年(明5)学制が敷かれる:我が国のスポーツは教育との関わりが強い。学校教育によってスポーツ観はたたき込まれてきたといっても言い過ぎではないだろう。この様な現象は欧米にはない日本独特のものでもある。*1

1878年(明11)新橋鉄道局のベースボール・チーム(新橋倶楽部)創設される

1883年(明16)「アウト・ドア・ゲームズ」、東大教師のF.W.ストレンジ、小冊子で、ベースボール、フットボール、ホッケー、ボート、テニス、クリケット、陸上競技(ヤード競走、棒高跳び、ハンマー投げ等)を紹介している。

1885年(明18)「西洋戸外遊技法」

1886年(明19)学校令

1889年(明22)大日本国憲法の制定→1890年教育勅語の発布 義務教育の確立

1911年(明44)大日本体育協会

1912年(明45)第5回オリンピック(ストックホルム)へ初参加:この頃までにスポーツを行う層(大学生)が出来上がっていた事を意味する。
明治期のスポーツは野球だけでなくあらゆる種目が「富国強兵」・「殖産興業」という目的で行われ発展をしていったため、精神修養の一方法として捉えられる。
猛練習が繰り返された。ヨーロッパではすでにスポーツが貴族のものというだけでなく、労働者 達の自前のクラブなども出てきて、地域社会の中でスポーツを楽しむという雰囲気が出来上がってきていたが日本では学校教育の中で欧米先進国の文化として、 文部省が一括して取り上げてきた。*2

1915年(大4.6.)青年団の設立と組織の統一を促す文・内省の共同訓令公布 高校野球大会、新聞社が主催する。

1916年(大5)保健衛生調査会

1917年(大6)第3回極東大会(大阪)

1941年(昭16)国民学校令、「体錬科」が成立*3

1944年(昭19)文部省訓練科要項

1945年(昭20)敗戦による占領政策(8.15.ポツダム宣言受諾 連合軍からの条件‥‥非軍国化‥‥を飲む)

1945年(昭20.11.6)終戦にともなう体連科教授要目
「軍艦」・「魚雷」・「兵隊」等という遊びは止める。
剣道・柔道・長刀などの格技は止める。
画一的・一斉授業は一切これを禁止し、児童中心の自主性を重視した民主教育を行うべき、ということで「バスケットボール」や「バレーボール」等の種目を行うようにした。

1946年(昭21.3.)第一次米国教育使節団:民主体育の必要性を提案。
体育は身体を強化する事の他にスポーツマンシップを育てる必要が有り、大学においても勉強だけでなく体育が必要であることを指導した。

1947年(昭22)5.3. 日本国憲法施行、学校教育法公布

1950年(昭25.6.23.) 朝鮮戦争勃発:アメリカの占領政策が変わってくる。
復古主義がもどる*4

1950年 柔道復活要求

1951年 弓道復活要求

195?年 剣道復活要求 剣道が竹刀競技として復活

1952年 剣道が復活

1953年「体育」の中で「格技」という名称で戦前の教育がよみがえる

1954年 50年代、反植民地主義がおこり、アメリカの借りもの主義の教育だけではいけないという主張がなされる。

1958年(昭33)文部省令学習指導要領がでる(学力テストの導入 勤務評定が制定される)。東京オリンピックの6年前で、体育は(1)競技力の向上と、(2)体力重視の教育へと偏りを見せる。「弱肉強食の体力」を重視するようになる。

1961年(昭36)スポーツ振興法:スポーツ振興に関する国の施策にふれる

1964年(昭39)東京オリンピック

1972年(昭47)保健体育審議会答申「体育・スポーツの普及・振興に関する基本方策について」

1980年(昭55)高校の「体育」が週3時間中、1時間を「武道」必修とする。
武道館ができる。武道教師を作る(1963年国会通過)。
国際武道大学設立。

1987年(昭62)リゾート法制定(第3セクターが国有林を伐採し始める。2000にのぼるゴルフ場、マリン開発等)

1989年(昭64)保健体育審議会答申、'72年答申の軌道修正版

1991年(平3)大学設置基準の大綱化(文部省大学設置基準委員会)がはかられる。
大学の「保健体育」は必修から外れる。中央大学でも1949年から幅広い人間教育を目指すために「一般教育」を重視し、「語学」と「体育」を必修としてきが、50年続いた教育は現在学部改革の中で、専門性を重視したカリキュラムへと変更をしつつある。
「ゆとりの教育」(高校までの時短教育)では「保健体育」を縮小し(3時間必修から2時間履 修へ)、さらに民間活力導入の方向へ向かわせる。学校だけで充実させてきたスポーツは、現在学校外へ向かわせようとする動きが出てきた。さらに学校のス ポーツ指導にも民間活力導入の行政指導の方向がみえる。

1991年(平7年)文部省は、「スポーツ振興基本計画」(2000年9月13日)で突如出した「総合型地域スポーツ倶楽部」について、そのモデル事業を起こした。補助金によるクラブが各地で試みに作られていく*5

2000年9月13日「スポーツ振興基本計画」の告知

2001年1.1. サッカーくじを施行する

*1 アメリカにおける始めての野球倶楽部設立シンシナティー・レッド・ストッキングス‥‥既にプロ・スポーツを捉えた企業家が出現した。1869年にはこの倶楽部は対戦相手を求めてアメリカ諸州を転戦している‥‥(プロ・スポーツの出現)

*2「軍事訓練」と「保健衛生」の観点からスポーツに対するねらいを設定していく。子供達が家の近所で遊びまくってい る頃、「遊ばせる」という意味からだけなら学校の中へスポーツを取り入れる必要はなかったのである。北欧のドイツやスウェーデンの体操をアメリカ経由で導 入し、「強い身体」、「強い兵力」を目指した。「保健衛生」としては、当時結核を予防する決定的な薬が発明されていないため、結核の予防としては休養・栄 養・新鮮な空気・適度な運動くらいしか方法がなかった時代である。

*3「体錬科」:中味は「教錬」‥‥軍事訓練を施し忠臣愛国の精神を培う 
「体操」‥‥「体操」・「遊技」・「衛生」 
「武道」‥‥武道の精神を養う(大和魂・優秀民族・天皇一家)、「銃剣道」が入っていた。大 和魂・国防強化・保健衛生をねらいに据える体育は、第2次世界大戦まで、その中味として 1)服従 2)衛生 3)しつけ=道徳教育を扱ってきた。天皇を 頂点とした我が民族が如何に優れているかを徹底し、服従奉仕する国民になることを教えられた。

*4 兵式体操など、軍事訓練の様相を呈した戦前の体育が、終戦で民主体育へと生まれ変わる。しかしアメリカの占領政策の変換で1950年代に入ると、戦前の復古調体育が戻った。

*5 1961年スポーツ振興法(第4条「文部大臣は、スポーツの振興に関する基本計画を定めるものとする」)に由来 しているが、「基本計画」が出てくるのかの感が否めない。これは2001年度から実施される「サッカーくじ(スポーツ振興投票)」制度の成立にあたって、 国会付帯決議で「スポーツ振興に基づく基本計画の策定」を求められたからに他ならない。是が非でも必要であったために「スポーツ振興基本計画」を主体的・ 積極的に策定しようと着手されたのではなく、「サッカーくじ」制度成立のために策定せざるを得なかったからというのが実状である。

資料2、アマチュアリズム

アマチュアリズム(Amateurism)とは「生計のためにスポーツをするのでなく、楽しみの活動としてスポーツをするという考え方・態度・主張をして いくことである。(「新修体育大辞典」不昧堂)、アマチュアーとは「愛好家」、即ちスポーツで金品を手にしないという態度を厳密に守る事は、スポーツを生 んだ階級社会から出てきていて(英国の19世紀)、長いことスポーツマンとはお金と結びつかない清く正しい者でなければならないという規制を受けてきた。 労働者(=プロ)であることで参加資格を失ったり、大会での賞を剥奪されるということが内外で起こってきている。

1839年 ヘンレー・レガッタ

1866年 全英陸上選手権大会でアマチュア規定ができた

1879年 アメリカ運動競技協会:アマチュア定義(「最新スポーツ大事典」大修館書店)

アマチュアリズムの根拠 
‐スポーツは、自由時間に行われる楽しみのための活動である。金銭的・物質的利益を得る事は、スポーツ活動からプレイ要素を失わせ、スポーツを仕事(職業活動)へと変質させてしまう。
‐職業として自分の全時間とエネルギーを使っている者(プロフェッショナル)と、生計をたてるための職業を持ち、その余暇に楽しみのために行っている者(アマチュア)が一緒に競技をすることは、競技の公平かつ平等の条件に反する。
‐プロ・スポーツの世界は華やかなものであるが、選手生命は短い、将来の職業に備え、人間形成にとって重要な時期をスポーツに専念する事により、将来を不安定なものにしてしまう、という青少年に対する教育的配慮からくるもの。
アマチュア規定とは有資格規定(=排除規定)であり、クーベルタンもアマチュアリズムを厳密 に支持したため、近代オリンピックはアマチュアの大会である事が厳しく定義された。日本へは明治期にスポーツが紹介された時にこの思想が丸ごと入り込み、 担い手となった大学生の中へと伝えられて行く。
1974年10月、オリンピック憲章で参加規定が緩和される。「アマチュアであること」の部分が削除されたが、日本ではスポーツにその精神は長く残った。

アマチュアリズム衰退の根拠 
‐共産圏諸国の国際大会への参加 ステート・アマの出現 
‐国際試合の巨大化。競技人口の拡大化と技術の高度化(アマチュアが私費で参加することが不可能、プロ・スポーツの出現、ステート・アマ、軍隊アマ) 
‐プロに対する社会的偏見等の減少 
‐日本での企業アマ(実業団の出現)

日本でプロ野球が誕生したのは1934年
「アマ」という言葉 は、初期の貴族階級がスポーツを独占したいという発想から来ていて、その意味では不純な動機が内包されている。言い換えると欧米において貴族を擁護する思 想であった。そのために矛盾は常にあって、日本でも1911年ストックホルム・オリンピック選考大会の時に「アマチュア規定」が成立するが、1917年第 五回陸上競技会では「過去及び現代において脚力・体力を職業とせる者は無資格とする」という部分が加筆され、抵触して失格する選手を出している。「体育教 師はプロだ」、「軍人、警察官は射撃競技に出られない」‥‥「人を打つのはプロだが、的を打つのだからアマだ」、「瀬古選手の得た報奨金は連盟が一次預か る(連盟員を抜けるときに返すことにする)」等々。シドニー・オリンピックでもプロ選手の要請をした社会人野球連盟に対し、セ・リーグでは「オリンピック はアマチュアの大会だから」と訳の分からない理由を出して参加を拒み、実際に日本選手は韓国に負けている。アマチュアリズムは始めから非人道的思想で、日 本ではスポーツをアマチュアリズムに則って学校の中だけにとどめ、その純粋生を守ってきたかにみえるのであるが、そうした扱いそのものが間違っていたと言 える。

資料3、実業団チームの休部・廃部

野球

新日鉄室蘭(北海道)、新日鉄堺(大阪)、新日鉄光(山口)川崎製鉄神戸(兵庫) 
1995 JA岩手県経済連(岩手)、佐藤工務店(東京)、岩手銀行(岩手)、丸勝(東京) 
1998 新神戸電機埼玉、日本通運名古屋(本社の野球部は存続)、オールカメイ(宮城)、大仙(愛知)、鹿島石油(茨城)、王子製紙米子(鳥取)、第一紙工(京都)、NTT関東(千葉)、ヨークベニマル(福島‥‥99年の都市対抗を最後に)、ニコニコ堂 
1999 東芝府中(本社チームと一体化)、小西酒造(経営状態が向上すれば再開すると社長のコメント)、中山製鋼(大阪)、住友金属(和歌山)、NTT(北海道、東北、信越、北陸、東海、中国、九州)、三和銀行(大阪)、大和銀行(大阪)、王子製紙(苫小牧) 
2001 河合楽器

バスケット

1994 熊谷組 
1996 男子バスケット アンフィニ東京(所沢ブロンコスとしてクラブ 
1997 女子バスケット NEC 
1998 男子バスケット ジャパンエナジー(女子チームだけに限定)、住友金属工業チーム 
1999 男子バスケット NKK、三井生命(日本リーグ1部)、丸紅(日本リーグ2部)、大和証券(2000年3月休部) 
女子バスケット 大和証券、積水化学、東芝 
2002 いすず自動車(休部:2月)

サッカー

1997 鳥栖フーチャーズ(JFL)、日本アイ・ビー・エム(東京)、ヤオハンジャパン(静岡)、リョーユーパン(福岡)、ヴィガしらおい(サガン鳥栖の誕生) 
1998 女子サッカー 日興証券 
1999 男子サッカー 佐藤工業(東京FC存続断念)、読売新聞社(ヴェルディーの株式譲渡)、女子サッカー 松下電器

バレーボール

1998 男子バレーボール 住友金属工業、象印(大阪)、コスモ石油 
1999 女子バレーボール 東芝(Vリーグ‥‥「シーガルズ」と結成)、小田急電鉄 
2000 女子バレーボール ユニチカ、日立

陸上競技

1998 東邦生命保険、大和ハウス ニコニコ堂(女子陸上部 
1999 神戸製鉄所、九州産交(熊本)、横浜銀行(女子陸上) 
1998 地崎工業(スキーとバドミントン)、リクルート 
1999 ニッカ・ウイスキー、イセトー(京都)

アイスホッケー

1999 古川電工(市民クラブ・日光アイスバックスとして存続)

ラグビー

1998 ニコニコ堂 
1999 新日鉄 
2000 伊勢丹

テニス

1998 岩田屋、日本生命(日本リーグ参加を辞退) 
1999 女子テニス 豊田自動織機(男子は既に休部)

卓球

1998 武田薬品湘南 
1999 女子卓球 松下電器、さくら銀行、第一勧銀(日本リーグ1部)、北陸銀行(日本リーグ2部)

アメリカンフットボール

1998 東海銀行(Xリーグ1部)、住友銀行(Xリーグ1部) 
1999 マイカル
2000 オンワード(Xリーグ1部)、さくら銀行(Xリーグ1部)

ハンドボール

1999 日新製鉄 中村荷役 、女子ハンドボール 大崎電気 ジャスコ

ソフトボール

1999 日新製鉄