
姉が東アフリカのウガンダ共和国に1年間渡航していた。
それまで全く知らなかった「アフリカ」をきっかけに
高校3年生だった私は、途上国支援の道に関心を持つようになった。
入学した中央大学で、国際協力を中心に学んでいくにつれ、
アフリカへの想いが強くなっていった。3年次に休学して、
JICAのインターンシップに参加しタンザニアで半年間活動した。
そこで見たもの、経験したこと、アフリカの人々との出会いによって、
国を代表するような大きな組織で大きなインパクトを与えるよりも、
目の前にいる人々のために自分ができることをしよう、
挑戦してみようと思うようになった。
アフリカとの出会い、中央大学に進学して
アフリカ、ウガンダで活動していた姉(当時大学3年)がウガンダ人の男の子を紹介してくれた。
「ブライアン君」という高校3年生だ。彼は、私と同じく父親を病気で亡くしている遺児学生だった。初めてできたアフリカの友だちとのやり取りは、とても新鮮で楽しかった。あるとき、彼が自分の生活について教えてくれた。

▲大学3年の夏休み。FLP佐々木ゼミの活動として、ミャンマーで現地調査を実施。有名なパゴダの前で
「僕は大学進学するために勉強しながら、
家族のために遠い村まで働きに出ているんだ」
この事実にとても衝撃を受けた。親を亡くした境遇は同じでも、日本に生まれた私とウガンダで生まれた彼の生活は、異なるものがあることに気が付いた。
そのときは 「何かしたい!」という思いだけは芽生えても、何もできない自分にひどく落胆した。しかし、もっと知識を付けて自分ができることをしてみたいと思うようになった。
中央大学に進学すれば、自分に足りていないものを習得できると感じた。世界情勢のこと、国際経済のこと、そして開発に関すること。それらが学べる環境であると思った。特に、学部の壁を越えたファカルティーリンゲージ・プログラム(FLP)には、国際協力について学べるゼミがある。進学を決めた大きな理由のひとつになった。
大学2年生からFLPのゼミに所属し、活動をしてきた。このゼミでは、交換留学でベルギーやスウェーデンに行った学生、休学して世界一周に飛び立った学生、ケニアでのインターンに参加した学生らと一緒に学んだ。数人の留学生もいた。グローバルに活動する、国際性豊かで刺激をもらえる仲間と出会えたことは私の中での大きな財産である。

▲FLPの仲間であるミャンマー人留学生おすすめの店でランチ。ミャンマーの民族衣装、ロンジーを着ました
FLPのゼミ活動の中で、アフリカのザンビアに焦点を当てた栄養改善の問題を解決する取り組みがあった。当時、私はアフリカに行ったことがなく、現地での問題を自分事として考えることに苦労した。
もっと現地のことを知りたい、国際協力の道で生きていくためには自分に何が足りていないのかを明確にしたい、将来自分がどのように途上国と関わっていくのかをイメージできるようになりたい……。
FLPの活動で味わった、さまざまな思いを胸に、開発援助を行っているJICAの在外インターンシップに応募した。
そして大学を休学し、3カ月間タンザニアの公用語であるスワヒリ語を勉強する環境に身を置いた。そこで、アジア圏・アフリカ圏・中東圏に派遣される青年海外協力隊の方々と出会った。
それまでは、大学を卒業したら途上国支援の道に進みたいと思いながらも、それは現実的に厳しいからとりあえず就職しないといけない と考えていた。しかし、協力隊員たちとの出会いにより、もっと幅広い選択肢があることを知った。
さまざまな想いを胸に、いざアフリカへ

「インターンシップ」という経験も、1人でアフリカに行ったことも、海外に長期滞在したこともなく、とても不安だったが、現地で知り合った日本人の方や、現地スタッフの方、みんなが優しく受け入れてくださった。そのおかげで、毎日が新鮮で学ぶことばかりだった。
◀タンザニアのインターンにて。干し芋やドライフルーツを製造・販売する会社のメンバーは、とても明るく、よく働くたくましい女性たち!
タンザニアでは主に3つの活動を行った。
①JICAタンザニア事務所にて、イベントの補助。または青年海外協力隊員の活動視察。
②現地企業での経理業務(営業・工場の業務補助・買い付けなどその他多数業務)。
③JICAが行っているコメ振興支援計画プロジェクト視察。
憧れていたJICA事務所にてインターンシップができること、そして現地法人でのインターンシップができること、現地で行われている全国的なプロジェクトを視察できることに非常に魅力を感じた。

▲タンザニアの街を現役で走る、日本の幼稚園バス
タンザニアで生活して、驚いたことがあった。それは、たくさんの日本の中古車が街を走っていることだ。私がお世話になっていたホストファミリーの車もすべて日本の中古車で、「ETCが挿入されていません」というアナウンスを何度も聞いた。街を走る路線バスも同様だった。写真のように、日本のどこかの幼稚園で使用されていたバスもあった。日本とタンザニア、地理的には遠いのに、このような繋がりがあることを初めて知った。
干し芋や芋けんぴを製造・販売している現地の企業では、タンザニア人スタッフと共に働いた。長い時間を一緒に過ごして仲良くなり、従業員の仲間からは、彼らの生活、恋愛、趣味なども聞くこともできた。
はじめは語学力も乏しく、人見知りだった私を従業員の皆は優しく受け入れてくれた。休みの日になると一緒に街に出かけてショッピングをしたり、スタッフオススメの仕立て屋さんでオーダーメイドの服を作ったことも思い出深い。毎日の昼ご飯は、従業員の誰かが全員分作るというルールがあった。キッチンにお邪魔して、現地のご飯の作り方を学んだこともある。大きなお皿にご飯を乗せ、それを囲むようにみんなで円になって手で食べる。昼ご飯の時間は、何よりも従業員と仲良くなれる時間だった。
半年間のインターンシップから学んだことはたくさんあるが、その中でも、「ビジネスという視点から見る国際協力の在り方」を体感できたことが最も印象に残っている。それまでは国際協力といえば、大きな組織が途上国に支援をする形しか知らなかったが、ボランティア活動やビジネスなど、さまざまな形での関わりがあることを知った。漠然とではあるが、途上国ビジネスというものが「支援」と対照的な印象を持っていた私にとって、大きな学びであった。
タンザニアでのインターンシップを終えて、「国際協力の道で生きていきたい」と心から思うようになった。そして、今、目の前にいる人々のために何かをできる人になりたいという気持ちが強くなっていった。支援という一方的なものではなく、ビジネスを通して共に活動するような関わり方に関心を持ち始めた。それが帰国直後の2019年3月の出来事だった。
日本に帰国。自分にできることや将来の目標を模索する

半年ぶりに帰国した日本では、逆カルチャーショックを受けることが多くなった。
タンザニアでは、毎日知らない人から挨拶されたり、話しかけられたり、人との繋がりが密にあったが、日本の生活では人との繋がりが薄く感じられた。また、タンザニアで出会った学生が「こうなりたいという大きな夢や強い意思があっても働く場所がない」と悩んでいたことと比較して、日本の学生たちにはそもそも夢や希望さえもなく、周りに流されてなんとなく就職活動をしているような気がした。
さらに、私の中で身近になった「アフリカ」も、他の人にとってはまだまだ遠い存在だということにも気が付いた。
◀帰国後にスワヒリ語弁論大会に出場。アフリカの光をテーマに、スワヒリ語で5分間のスピーチを行い、2位を勝ち取った

▲JR有楽町駅前広場にて、あしなが学生募金事務局の街頭募金活動を実施。初めてメンバーお揃いのTシャツを作り、街頭へのインパクトを大きくさせた
私は早くに親を亡くした遺児学生だったけれど、支えてくれる団体や周りの人たちがいたおかげで、東京の大学に進学できたり、海外に渡航する経験を得られたなど、さまざまなことに挑戦することができた。私を支えてくれた方々に感謝している。
「私を支えてくれた方々への恩返しをしたい」
「日本とアフリカをもっと身近に感じてほしい」
この想いもあって、高校生の時からお世話になっている「あしなが育英会」とかかわりの深い「あしなが学生募金事務局」の代表としての活動にも挑戦した。
あしなが学生募金事務局で活動する学生は、主にあしなが育英会から奨学金を借りている人が多い。この活動は、約50年前から続いている。交通遺児支援から始まった活動は、災害遺児、病気遺児、自死遺児へと支援の輪を拡大させ、2016年からは、世界で最も貧しいといわれるサブサハラ・アフリカ地域の遺児への支援もスタートさせた。
( 「アフリカ遺児高等教育支援100年構想」というプログラムをあしなが育英会が実施。その活動に対する寄付活動を行うのが、あしなが学生募金事務局である)
「日本とアフリカの遺児学生のために!」と活動していながらも、私を含めてアフリカの現状を詳しく知っている学生は少ない。そのため、日本全国で活動するリーダーが集結する全国会議ではアフリカについて学ぶ時間を増やしたり、ウガンダや南アフリカから日本の大学に進学した留学生に現地のことを話してもらう機会を作るなど、活動の内容を広げている。
私が高校3年生の時に出会ったウガンダ人の青年、ブライアン君との出会いから早くも5年が経った。

▲2019年秋、中央大学インターナショナルウィーク。ガボン共和国からの留学生、モーリシャスに留学&エチオピアでインターン参加をした中大生と共に、アフリカでの体験を発表
「大学に進学したら、いろんな国を知る経験がしたい! 海外に行く!」という熱い想いを抱いて、アメリカ1人旅をしてアメリカの文化を知った。大学2年の夏休みには、フィリピンでの海外ボランティア活動に参加し、誰かのために活動することの大切さを知ったと同時に、短期間のボランティアで行えることの限界を感じた。そして、大学3年には、休学をして参加したタンザニアでのインターンシップを通して、国際協力の中でも「ソーシャルビジネス」の分野で活動したいと思うようになった。
高校生の頃から持ち続けてきた大きな問、「親を亡くすという同じ境遇をした子どもたちのために、自分は何ができるか?」。
中央大学に入学してからのさまざまな経験を通して、さらに問い続けた大学生活になった。
大学卒業後の春からは、貧困問題などのさまざまな社会問題を「ビジネス」で解決する企業で働くことが決まっている。これまでの経験を通して、自分が本当にやりたいことを見つけることができ、それを実現できる環境に巡り会えたことに感謝したい。
そして、社会起業家の卵としてこれからも挑戦を続けていく。