満たすのはおなかだけではなく・・・子供たちの笑顔と将来と

WFP(国連世界食糧計画)で働き始めて今年で10年目。2003年にスリランカでスタートし、スーダン、ソマリア、パキスタンを経て、現在はラオスで学校給食を普及させるための社会開発プログラムを担当しています。
現地ではだいたい7割が首都ヴィエンチャンのオフィスでの事務作業、3割が現場(学校、7地域のフィールドオフィスやカウンターパートの地域政府)への出張です。学校には1~2カ月に1回程度、中央・地域政府の役人や学校給食をメインで動かしていく地域オフィスのスタッフや地元の人たちと話し合いを持ちます。フィールドオフィスにはそれぞれプログラムスタッフがいて、現地事業の運営実行は彼らを中心に行います。
以前駐在したソマリアと南スーダンでは、紛争後の荒廃した状況の下での一般食糧配給事業や母子健康衛生に関わる主に緊急援助の仕事をしていました。テント生活で、仕事が終わっても遊びに行くところもなく、事務所兼住居でもある敷地内で24時間スタッフと一緒に住んでいました。それと比べると、今いるラオスは穏やかで治安もよく、週末遊びに行く場所もあり、“普通”の生活ができます。バックパッカーの若者たちが長期休暇を利用してボランティアに来たりもしますし、悲惨な状況下で苦しんでいる人たちを助けるわけではなく、現地の政府や地元の人と一緒によりよい明日を作り上げていく仕事とでも言えるでしょうか。
ラオスは現在、国連開発計画(UNDP)の「国連開発指標」で開発途上国の最低部類に入っているため、そこから抜け出すべく国を挙げて頑張っています。給食に限って言えば、入学率や卒業率、識字率などの教育指標の改善に役立つと考えていますが、この事業も今年で10年目になり、実際にどのようなインパクトがあったのかを再考し、これからの長期計画をたてるべき新たな局面を迎える時期に来ていると思います。
仕事をしていて感じるのは、この事業に関わる人たちのさまざまな思いや焦点の調整と積み重ねていくことの難しさです。国の底力をあげていかねばならない現状で中で、ただ食糧をあげればよいのではなく、事業の持続性や「誰のための事業か」といったことの理解の徹底、栄養価の高い給食を毎日食べる理由である、健康や栄養の理解や仕事をしていく中で必然的に異なる文化慣習に踏み込んでいく必要がある等、目標に向かってどう動いていくかにも神経を使います。カロリーだけではなく栄養面も考えねばいけない中で、たとえばまずは識字率を上げたいというドナーの意向などもある、など限られたキャパシティの中でいかにこれからにつながる給食プログラムを作っていくかが大きな課題です。ドナーからお金をいただくための申請書のためだけでなく、最終的にラオスが数年後に外部の支援なしでプログラムを持続させられるようなシナリオをこの人たちと一緒に考える必要があります。
大変なことも多いのですが、現場に入って子供たちがおいしそうにご飯を食べているのを見ると、「私たちの仕事の原点はここにある」という嬉しい気持ちになります。苦労して現場に届けたものが、確実に子どもたちのご飯になっていること、ロジスティックや栄養、地元の農家との連携や、地域政府を巻き込んだ事業計画など、仕事をする環境はなかなかダイナミックです。
神戸・ルワンダでの経験が世界と関わるきっかけに
大学時代に、ただ大学時代を満喫するだけでなく何か違ったことをしたい、人のために人と一緒に何かしたい、という気持ちがありました。大学1年の冬に起こった阪神・淡路大震災のときには、神戸に2カ月間住んで、ボランティア活動に参加しました。日本国内からくる物資やボランティアの調整にかかわり、ボランティアの人と「これからどう神戸を支えていくか」という熱い議論を夜な夜なやったこと、今もその当時の仲間と交流がありますが、「社会のフロントラインに関わりたい」という思いは、学生時代に膨らんだように思います。
当時新設されたばかりの総合政策学部には海外志向で、しかも大都市よりは普通の旅行では訪れないような場所を好んで中長期に出かける仲間が多く、海外に出る、ということがまったく特別なことではない環境にありました。私も触発されて休みのたびにバックパックをかついで中国、メキシコ、アフリカなどに出ましたが、とくに大学2年の夏に行ったルワンダは内戦終結後まもなく、国全体が荒んでいて、市民が虐殺された教会を訪れた時にはとくに大きな衝撃を受けました。焼け朽ちた教会の中に転がる無数の焼死体、散らばるノートやかばん、真っ黒で異様なにおいがこもる中に壊れた窓から差し込む太陽の強い光…、世界の重さ、「私が今生きている世界はこういうことが同時に起こっているのだ」という現実への覚醒とでもいいましょうか、ずんと重量感のある“実感”が自分の中に貫いた瞬間でした。歴史の残骸がまだ生々しく残るその場所から数百メートル離れた場所では新しい小学校の建設が始まっていて、「重いもの」と「希望」を強く感じたあの夏の経験がきっかけで、世界に関わる仕事をしようと決めたといってもいいかもしれません。
そのあとにボランティアで、世界のさまざまな被災地を訪れましたが、物事をきちんと動かしていく、ビジョン、資産、人脈、実力を考えたときに、自分がボランティアでやっていくことには限界があると感じ、卒業後1年半後に英国の大学院へ進学しました。
フィナーレの時の歓喜は今も昔も同じ

ミュージカルサークル“The座”でのひとコマ。1997年にオリジナルのミュージカルを作りました。今もあの時の仲間とは仲良しです
小学校時代には親の仕事の関係で韓国へ、高校ではアメリカへ1年間留学しました。両親は私がやりたいということに対して決して文句は言いません。好奇心をまっすぐ育ててもらえた生活環境でした。
大学時代には探検部とミュージカルサークルに入っていました。とくに同じ英語のクラスの友人と始めたThe座では、オリジナルミュージカルを制作するなど、参加者が一丸となってかなり熱中して作品作りをしました。仲間と一緒に一から話しを作り上げ、いい作品を作っていくなかで、人間関係に面白い化学反応が起きてくる、そしてそれをみた観客からも生き生きとしたリアクションが帰ってくる、やりたいことをやりきったとても刺激的な大学時代でした。ミュージカルの舞台のフィナーレの時にこみ上げるように感じた思い、一緒に物語を作り上げる仲間との濃い時間、いろいろな場所で、人とつながり、何かを作っていく、ということにワクワクする自分の根底にあるものは大学時代も今も、もしかしたら変わっていないのかもしれません。
世界はすぐには変わらない
WFPに携わって2年目のころ、ちょうど津波が起こって仕事環境が激変し、かなりストレスを感じた時期がありました。その時に同じ事務所で働いていたソマリア人の先輩に言われたのは、「今の時点で不満を言っても、敵を作るだけだ。まず10年続けてみろ。そうしたら自分のやれることとつきあう人たちが広がってくる。少しずつ変化を変えられる立場になっていくよ」と。今年がその10年目。確かにだいぶ自分の受け皿の余裕が出てきましたし、人脈も広がり、仕事がうまく回りだしている感覚の一端を掴み始めています。仕事は、毎日真摯に課題に向き合って、積み重ね、つなげてくことが大切です。まだ学ぶべきことがたくさんありますし、自分の課題も少なくありません。ただ、同じ道で積み上げてくることでこれからもっと私が還元するものが増えていくのだろうと思います。ラオスはあと1年の任期で、今年の末には次の赴任地を決めなめればなりません。新しい場所、新しい仕事でも一からではなく、今までの経験や蓄積を生かせるように、今後も自分の能力を伸ばして、感覚と情熱を感じる仕事に巡り合いたいと思っています。
国連で働いているというと、「世界をよくするために仕事をしているんだね」と賞賛の言葉をよく頂くのですが、現場で働いている人一人ひとりが世界はそんなにすぐには変わらないことを実感しています。不条理な物事も多く、無力感にさいなまれることもありますし、気持ちだけが先走って現実がついていかないことも多くあります。それでも私たちにできることは、自分の専門分野で、機会をいただけた場所でその大きな世界を構成する小さな1パーツに働きかけることです。何千万人もの命を救うことはなくても、そこの小学校で毎日給食を食べた子どもが大きくなるころには、今できてないことがいろいろできるようになるはずです。教育の分野だけでなく、栄養、統計、ロジスティック、保健、水衛生、ガバナンス、そういう思いと専門をもった人たちが集結して一緒に働くことで、その地域の現状が一歩も、二歩も進む、そういうことなんだと思います。自分ひとりがやれることは小さいのですが、働いている人たちが皆そういった情熱と決意を持って仕事をしていくことで、あとで振り返ってみて、社会がよい方向に変化していくのだと希望をもって毎日仕事をしています。毎日の仕事は地味な仕事の積み重ねでありますが、社会や世界、人を巻き込んで大きな明るいシナリオを現実に変えていく仕事、ダイナミックでやりがいのある職場です。