中央大学について

18人の創立者と初代校長 増島六一郎

18人の創立者

中央大学は1885(明治18)年7月、東京府神田区神田錦町2丁目2番地に、英吉利法律学校(イギリス ホウリツ ガッコウ)として創設されました。
明治維新後、わが国では文明開化のスローガンのもと急速な西洋化が進んでいました。そうした状況の中で、法律関係の高い学識が求められるようになり、法学教育への需要も高まっていました。
創立者たちは、いまだ欧米先進諸国のように体系化された法典を持たない日本にあっては、欧米列強の模範国としての地位を占めていたイギリスのような慣習法の国を自らのモデルとし、実社会と密接に結びついた英米法を学ぶことこそが「法律実地応用ノ道」に達する最良の方法であるという固い信念を抱いていました。
英吉利法律学校は、その信念を実現するため、必要な講師の充実、書籍の刊行、図書館の開設を設立趣旨とし、法学教育を通じて近代社会にふさわしい人材、なかでも法律家の育成をめざしました。

創立者は、増島六一郎、高橋一勝、岡山兼吉、高橋健三、岡村輝彦、山田喜之助、菊池武夫、西川鉄次郎、江木衷、磯部醇、藤田隆三郎、土方寧、奥田義人、穂積陳重、合川正道、元田肇、渡辺安積、渋谷慥爾の18人の少壮法律家です。
18人は、英米などで法律学を学んだ海外留学組(岡村・菊池・土方・穂積・増島)、日本の近代化を支えた官僚組(合川・江木・奥田・高橋健・西川・藤田・渡辺)、実務家として近代法制度を支えた代言人(弁護士)組(磯部・岡山・渋谷・高橋一・元田・山田)に分けることができます。さまざまな出自の法律家が集い、叡智を結集して創設されたのが英吉利法律学校なのです。

創立者の出身/生没年(氏名50音順)

姓名 出身(現在の名称) 生没年  
合川正道(アイカワ マサミチ) 岐阜県不破郡関ケ原町 1859年-1894年
磯部醇(イソベ ジュン) 岐阜県羽島郡笠松町 1859年-1936年
江木衷(エギ マコト) 山口県岩国市 1858年-1925年
奥田義人(オクダ ヨシト) 鳥取県鳥取市 1860年-1917年
岡村輝彦(オカムラ テルヒコ) 千葉県市原市 1855年-1916年
岡山兼吉(オカヤマ カネキチ) 静岡県掛川市 1854年-1894年
菊池武夫(キクチ タケオ) 岩手県盛岡市 1854年-1912年
渋谷慥爾(シブヤ ゾウジ) 佐賀県鹿島市 1854年-1895年
高橋一勝(タカハシ カズマサ) 埼玉県川越市 1853年-1886年
高橋健三(タカハシ ケンゾウ) 千葉県千葉市 1855年-1898年
西川鉄次郎(ニシカワ テツジロウ) 福島県会津若松市 1853年-1932年
土方寧(ヒジカタ ヤスシ) 高知県高岡郡佐川町 1859年-1939年
藤田隆三郎(フジタ タカサブロウ) 愛媛県宇和島市 1856年-1930年
穂積陳重(ホヅミ ノブシゲ) 愛媛県宇和島市 1855年-1926年
増島六一郎(マスジマ ロクイチロウ) 滋賀県彦根市 1857年-1948年
元田肇(モトダ ハジメ) 大分県国東市 1858年-1938年
山田喜之助(ヤマダ キノスケ) 大阪府大阪市 1859年-1913年
渡辺安積(ワタナベ アサカ) 山口県岩国市 1859年-1887年

青春を駆け抜けた18人の創立者たち(PDF)

海外留学組(209KB)  
官僚(205KB)  
弁護士 (1.3MB)

初代校長 増島六一郎

「神童」、「暴れん坊」、「謹厳朴実」。
1857(安政4)年6月17日、彦根藩士・弓道家の家に生まれた増島六一郎には、こんな呼び名が後に付けられました。
少年の頃から、語学に秀でた才能を示した六一郎は、22歳で東京大学を卒業。岩崎弥太郎の後援を得て、イギリスのミドルテンプルに学びました。帰国後、『英吉利(イギリス)法』の理念を伝えるべく、仲間の法律家達と『英吉利法律学校』を設立。これが、後の中央大学となりました。

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