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三宗教の信者にとっての聖地エルサレムの重要性の確認と、ユダヤとシオニズムに関する書籍の収集

文学部人文社会学科 東洋史学専攻 3年
倉野 靖之

~はじめに~

私は中央大学から学外活動応援奨学金の給付を受け、2017年度夏季休業中にイスラエルに赴き、ユダヤ教、キリスト教、イスラームにとっての聖地エルサレムの重要性の確認とイスラエル建国前後のユダヤ人、ユダヤ教、シオニズムなどに関する文献資料の閲覧と書誌情報の収集活動を行ってきた。イスラエルおよびエルサレムに関しては、世界史の中におけるそれらの描かれ方やそれらに対する評価に疑問を感じることが少なくなく、以前から関心があったので、今回このような形で渡航させていただけたことを大変うれしく思っている。6月中ごろから7月下旬にかけて、エルサレム旧市街で警官隊が襲撃され、死傷者が出ているなどの情報を耳にしていたこともあって不安を感じながらの渡航であったが、当初想定していたよりもはるかに多くの成果を得られたことをうれしく感じている。

~活動の目的~

  • シオニズム、国民国家、イギリスによるパレスチナ委任統治、イスラエル人(ユダヤ人)の国家意識についての書籍の閲覧および書誌情報の収集
  • ユダヤ教、キリスト教、イスラームにとっての聖地エルサレムの重要性の確認

~日程~

8月7日 羽田空港発、韓国で乗り換え
8月8日 ベングリオン空港着(テルアビブ)
8月9日 テルアビブ・ハ・ハガナー駅からエルサレムに移動、平日のエルサレム旧市街の 見学
8月10日 ヘブライ大学図書館で書籍の閲覧
8月11日 旧市街、クネセット、イスラエル博物館の見学
8月12日 安息日のエルサレム旧市街の見学
8月13日 ヘブライ大学図書館で書籍の閲覧
8月14日 ヘブライ大学図書館で書籍の閲覧
8月15日 ヘブライ大学図書館で書籍の閲覧
8月16日 ヘブライ大学図書館で書籍の閲覧、新市街で書籍の購入
8月17日 テルアビブに移動しベングリオン空港より出国
8月18日 成田空港着

~活動期間を通して感じたイスラエルの印象~

ベングリオン空港に到着してすぐに黒いジャケットとつばの広いハットというユダヤ教徒の正装を身につけたハレディーム(正統派ユダヤ教徒)と思われる男性を見かけた。噂には聞いて知っていたが、まさか夏場でもそれを着ている人を見かけるとは思っておらず、非常に驚いた。しかしこれは序の口で、二日目に訪れたエルサレムでは街中で見かける人のほとんどが正装を身にまとい、髪形はもみあげ部分を長く伸ばして巻き髪にしている男性や髪の毛をすべて布で覆ってコンパクトにまとめた女性をいたるところで見かけ、この上ない衝撃を受けた。というのも、イスラエルでは他国のユダヤ人共同体とは違ってハレディームが多数を占めているのは知っていたが、正装を見につけるのはその中のごく一部の方たちだけのことだと思っていたからだ。私自身の先入観の強さを恥ずかしく思った。
また大き目な店の入り口など、町中のいたるところに金属探知機やエックス線の持ち物検査機が設置され、武装警官が絶えず巡回を行っている風景は良くも悪くも印象的であった。鉄道の中では乗務員のほかにも兵士や武装をした警官が必ず乗っていたし、旧市街の各門や要所には警官が常駐していた。またパレスチナ自治区とイスラエルの境には分離壁が建てられていているところもあり、これらからイスラエルの抱えるテロ問題や対外問題に関して考えさせられると同時に、これらによって自由を制限される人々がいる一方で観光客や巡礼者の安全や治安の維持が図られていることを思うと、何とも言えない感情を覚えた。短期間ではあるが、これらによって維持された平和を享受できた者として、自由や権利について、外から意見を申し述べる資格があるのかと疑問にも感じた。

~ヘブライ大学と図書館での書籍閲覧活動について~

ヘブライ大学の図書館(Bloomfield Library for the Humanities and Social Sciences)は開架式の図書館で、4階に歴史関係の文献、5階に地域研究や歴史に関する文献が置かれていて、文献がジャンル別に色分けされた本棚に保管されていた。私は渡航前に図書館のスタッフの方に私が必要としていた各地のユダヤ人の歴史やパレスチナ地域の近現代史、とりわけイギリス委任統治領パレスチナやこの地域における国民国家、シオニズム、イスラエルにおける国家意識に関する書籍が保管された場所をあらかじめ教えていただいていたので、それらの文献が保管されている5階の赤い本棚を端から順に見ていくことにした。初日に所蔵されている書籍を一通り見て、必要になりそうな文献の書籍と管理番号をメモしておき、2日目以降にそれらの目次ぺージを見て、必要なものはページを丸ごとノートに書き写す形で書誌情報を集めていった。手書きで写したのは、外部の者はコピー機を使用できなかったからだ。この作業も3日目のお昼過ぎには終わったので、残りの1日半はヘブライ大学の蔵書検索システムにアクセスして、キーワードごとに取りこぼした文献がないかを調べて文献リストを拡充する作業を行った。
ヘブライ大学の図書館はユダヤ教やユダヤ人、イスラエルに関する書籍が充実している点で優れた図書館であったし、ユダヤ人の国家意識やイスラエル建国にあたっての様々な文書まとめられた文献、イギリスのパレスチナ委任統治に関する文献が効率よく閲覧できたということで、有意義な時間を過ごせたと思う。また今回の活動期間中に現地で入手できたArthur Hertzbergの『The Zionist idea』のような、今後、役に立つと思われる書籍を見つけられたことは大変うれしかった。
ヘブライ大学の図書館のシステムで印象的であったのは、一度本棚から取り出した文献は本棚に戻さず、本棚を囲むように配置された閲覧スペースの机の上に置きっぱなしにしておくという規則であった。私は目次を写しては次の文献を取りに行くという流れを繰り返し行っていたので、かなりの冊数の本を書架から取り出し、図書館のスタッフの方にはご迷惑をおかけしていたと思う。所蔵されている文献のジャンルに関しては、ホロコーストに関するものが他の書籍よりも圧倒的に多く、ユダヤ人のホロコーストに対する意識や向き合い方というものが、そこからも伝わってきた。ヘブライ大学の図書館は特にユダヤ教やイスラエル、シオニズムに関する書籍の収集に力を入れていると聞いていた。実際、それらの書籍が世界中から集めているようで、日本語の文献もしばしば見かけることがあった。
図書館の話からは外れてしまうが、大学構内で迷ってしまった際に杉原千畝の写真が飾られているのを見つけた。特異な例ではあるとは思うが、日本人がイスラエルからどう見られているのかがわかるものを確認できたのは意味のあることであったと思う。

~旧市街の紹介~

旧市街全体に関して、旧市街の中にはムスリム地区、キリスト教地区、ユダヤ教地区、アルメニア人地区と別れてはいるものの、その境界は旧市街を歩いていて明らかにわかるほどはっきりと別れているようではなく、ムスリム地区でもキリスト教徒を見かけることはあるしほかの地区に関しても同様の印象であった。イスラエル、パレスチナという地域のイメージや日本におけるこれらの宗教のイメージや情報などから、それぞれが混在していると対立などが頻繁にあるように想像してしまうかもしれないが、決してそんなことばかりではなく、表立った対立を目にするのは極稀でむしろ多文化共生の街としての印象が強かった。
旧市街の史跡、遺跡としての状況に関しては、日本でのそれに対する意識の違いとのギャップを強く感じた。日本ではできる限りそのままの状態で保存していくものが多いと思うが、エルサレム旧市街の場合は現在も人が住んでいるということもあって、利便性を重視した状態であった。主要な通路のほとんどには簡易的なスロープがつけられていて、早朝には押し車に乗せた商品を見せまで運ぶ商人やトラクターなどを何度も見かけた。新たに設置中だったスロープもあったが、それらも決して景観を損ねるようなものではなく、古いものを残しつつ利便性も取り入れていく非常に良い例なのではないだろうか。

  • イスラームの関連施設(神殿の丘:ハラム・アッシャリーフ)

    神殿の丘(ハラム・アッシャリーフ)には、岩のドームとアル・アクサー・モスクが建てられている。

    岩のドームは、イスラームの開祖ムハンマドが「夜の旅」でジブリール(ガブリエル)に伴われ昇天する際に足をかけた岩を覆った宗教施設で、原則としてムスリム(イスラーム教徒)以外は内部に立ち入ることができない。ムスリムらしくない風貌の者が立ち入ろうとすると入り口の係員にムスリムかどうかを何度も聞かれ、コーランを暗唱させられ、認められれば立ち入りが許可されるようである。またこの岩はユダヤ教においてはアブラハムが息子のイサクを神にささげようとした場所としても信じられている。

    また、岩のドームの向かい側にはアル・アクサー・モスクが建っており、岩のドームのドームが金色であるに対して、こちらは銀色のドームで飾られていて、通常のモスク同様、礼拝施設である。内部ではムスリムがカアバ神殿の方を向いてお祈りをする。

    神殿の丘自体はムスリムが管理していると聞いたが、下の写真にもある通り、入り口はイスラエルが管理している。「トーラー(聖典)の法により、その場所が神聖な場所であるから、神殿の丘への立ち入りは厳しく禁じられている。」と書かれているとおり、ユダヤ教にとっても上記のアブラハムの伝説の場所として信仰されていることがここからもわかるのではないか。またこれをどうとらえるのかは個人の感性にもよると思うが、入り口で持ち物検査とセキュリティチェックのためにいくつか質問をされるが、治安面などを考えると妥当なものなのだろうと感じた。立ち入りに関しては、許可されている時間(夏季は7時半から11時)以外には非ムスリムの立ち入りは禁止されていて、ほかのユダヤ教やキリスト教の聖地よりも観光地としてよりも宗教施設としての性格の方が比較的強いように感じる。7時くらいに入り口に到着し、開門と同時に手荷物検査を終えて中に入ったので、私以外は現地の方しかいない聖地を見ることができたのはとてもうれしかった。開門待ちで並んでいるときにはユダヤ人の方々も並んでいるのを見かけた。
  • キリスト教の関連施設(聖墳墓教会、ヴィア・ドロローサほか)

    キリスト教の聖地である聖墳墓教会にはカトリックのほかにもギリシア正教やコプト教の信者も訪れる場所であり、教会内には様々な宗派の聖地が別個に存在しているため、教会の周辺では様々な国から来た方を見かけた。私が訪れた際は偶然にもミサを行っている時間帯で、他国から来た聖職者の方も多くいて、聖地としての性格を改めて認識させられた。巡礼に来ていた人はヨーロッパ系の方が多かったが、日本人を含むアジア系の方も数人見かけたし、聖墳墓教会の聖職者の方にもアジア系の方がいて、世界宗教としてのキリスト教を体現したような場所であった。聖職者の方々がしばしば自身のスマートフォン等で写真を撮っている様子を見かけ、聖職者とは言えどもそれほど熱心な方ではないのかと疑問に感じたが、ミサが終わってから尋ねてみると、「一緒にこれなかった同僚に見せるために撮っていた」とおっしゃっていて、信者でもない私が聖墳墓教会を訪れられたことに関して、ありがたく感じた。

    巡礼に訪れるキリスト教徒はヴィア・ドロローサという道を通って聖墳墓教会に向かう人が多い。ヴィア・ドロローサはエルサレム旧市街北東のライオン門から聖墳墓教会まで続く道で、イエスが判決を受けてから十字架を背負って歩かされ、はりつけに処されるまでに歩いた道のことである。巡礼者が団体で訪れ、ガイドから道の要所ごとで説明を受けているのを何度か見かけた。日本で寺社仏閣などの宗教施設であっても韓国地として見てしまう私にとって、彼等の熱心に話を聞き、思いを馳せる姿は非常に新鮮であったし、日本ではあまり目にすることのできないものであったと思う。
  • ユダヤ教の関連施設(嘆きの壁、ダビデの墓)

    ユダヤ人の方々を多く見かけたのは旧市街南西のシオン門付近のダビデの墓と神殿の丘の南にある嘆きの壁であった。ダビデの墓に関しても嘆きの壁に関しても、ユダヤ人以外でも特に立ち入り制限があるわけではなく自由に見学することができた。ダビデの墓は十畳ほどの小さな部屋で、中央の奥に布のかけられた棺のようなものが置かれており、ユダヤ人の方々がそれに向かって祈りをささげていた。しばらく部屋の入り口で見ていると、中にいた方に奥の棺を見てこいと促され中に入った。促されなければ入るのをためらうほどの厳粛な雰囲気であった。棺の前でユダヤ人の方々が祈りをささげている様子は嘆きの壁で行っていた者よりも熱心に見えた。少しお話を聞いてみたかったが、礼拝がまだしばらく終わりそうになかったのと礼拝の邪魔になってはいけないので、ダビデの墓からは出て、その後は嘆きの壁に向かった。

    嘆きの壁では壁に向かう水場やトイレに手を洗うための壺が準備されていた。そこで手を洗っていると礼拝に来ていた女性に声をかけていただき、ユダヤ人やイスラエルの関するお話をいくつか聞かせていただけた。特に興味深かったのは「誰がユダヤ人か」問題に関するお話であった。「誰がユダヤ人か」問題とは、イスラエルの帰還法(他国からの移民をユダヤ人として認めて、イスラエル国籍を与えるための法律)に規定された手順に基づいて移民をユダヤ人として受け入れる際に、そもそもどのような者をユダヤ人として定義するのかという疑問から発生した問題である。これに関しては問題提起がなされたのち、帰還法にユダヤ人の定義が追加され、ユダヤ教徒であり、かつ他宗教の信者でない者、もしくはユダヤ人の母親から生まれた者とされた。これについてはそういった問題があったということは知っていた。しかし二つ目の条件について、なぜ母親がユダヤ人でなくてはいけないのか、ユダヤ人の父親と非ユダヤ人の母親の子はなぜユダヤ人ではないのかということに関しては、恥ずかしいことにまったく知らなかった。その方によると、ユダヤ人は家庭教育を非常に重視する人が多く、ユダヤ人の血筋に生まれた子供でもユダヤ人としての教育を受けなければユダヤ人とは認められないから、しっかりと彼廷教育ができるようにするためという理由なのだそうだ。宗教的ではなくロジカルな理由が含まれていたことは少し意外であった。よくよく思い返してみれば、もみあげを伸ばして巻き髪にしている小さい子供を見かける機会が非常に多かった。彼らも幼いころからユダヤ人としての教育を受けてきているのだろう。この方とはここで別れて嘆きの壁の周辺を見学した。ユダヤ教やユダヤ人、イスラエルに関して、現地の方にお話を伺うことができたのは大変価値のある経験であった。補足ではあるが、どちらの施設も貸し出し用のキッパ(ユダヤ教徒の被る帽子)をかぶり、水場で手を洗った後で近づく必要がある。また礼拝用のスペースは男女別になっていた

〜新市街の紹介~

新市街の様子はおおむね写真等で見るヨーロッパの風景と大差なく、トラムやバスも走っていて交通の便も非常に良かった。バスに乗る際、行き先のバス停がヘブライ語で表記されていてはじめは戸惑ったが、目的地を伝えれば最寄りのバス停までのチケットを渡されるので、特に不便に感じることもなかった。事前に少し聞いていた通り、新市街には書店が非常に多くあったが、ヘブライ語やアラビア語の書籍の取り扱いは豊富であった一方で洋書の学術文献を扱っている書店は少なく、歴史関係の本があってもホロコースト関係のものが大半を占めていて、求めている文献資料が当初の予定通りに集まらなかったのは残念であった。
旧市街とは違って新市街は日が沈んでも店がすぐに閉まることはなかったが、シャバット(安息日)は例外で、ユダヤ系の店舗はほとんど開いておらず、街灯以外の電気はほとんど消えていた。不注意でシャバット前に買い物を済ませておくのを忘れてしまったので、アジア系のスーパーで買い物をした。イスラエルのスーパーでは、値段が書かれていない商品がほとんどなので従業員にいくらか聞くことが多いが、このスーパーも同様であった。このスーパーの店員はアジア系の方で、値段を尋ねた方が別の方に確認している際にアラビア語を話しているのを聞いて、若干ではあったものの聞き取ることができたのはこの上なくうれしかった。新市街では何のためなのかはよく知らないが、馬に乗った警官を見かけた。

~博物館の紹介(イスラエル博物館)~

滞在期間中にはクネセットの近くにあるイスラエル博物館を見学する機会にも恵まれた。どれが目玉の展示品であるのかわからないくらいに素晴らしい収蔵品が多く展示された博物館であった。博物館の中はメソポタミアやカナーン、アラビア半島などのパレスチナ地域周辺に関する展示スペース、その他諸地域に関する展示スペース、ユダヤ教・ユダヤ人の歴史に関する展示スペース、現代美術と特別展の展示スペースに分かれていて、敷地内の別棟に死海文書が展示されていた。とくにイスラエル周辺の地域が多神教の時代から一神教の時代へと変遷していく過程を追ったスペースは特に収蔵品も豊富で素晴らしい展示であった。大きく立派な博物館なのでスペースにも余裕があるためか、視覚的にとらえやすい展示の仕方が印象的であった。神殿の一部や祭壇、壁画を遺跡から取り出した状態のまま博物館に移築して展示されていたのが印象的であった。またガラスケースに入っていない展示品はより間近で見ることができたのはうれしかった。ただガラスで保護されていないために入場者が展示品を触っている光景を何度か見かけたのは少し残念であった。
博物館の敷地内に併設されている死海文書館も見学したが、死海文書自体がヘブライ語で書かれていたので、さっぱり読めなかったのが残念であった。
考古学の授業でリュトン(角杯)と呼ばれる飲み物を注ぐ際に使う道具を紹介されてから研究テーマとは関係なく興味を持っていて、今まではヤギの頭が彫られたリュトンしか見たことがなかったが、ここではライオンや馬の頭が彫られたリュトンを見つけてしばらく眺めていた。別の博物館に行く機会にを得ることがあれば、ほかの動物の補られたものも探してみたい。

~エルサレム旧市街・ムスリム地区での滞在について~

活動期間中はアラブ人の経営する宿に泊まっていたので、期間中のほとんどをムスリム地区で過ごした。ムスリム地区に滞在できたおかげで、イスラームに関するお話も聞くことができたことをうれしく感じている。印象に残っているのはヒジャブをつけた女性との会話で、イスラエルはいつも暑いのにヒジャブをつけていて暑くないのかと尋ねた時の返答であった。その方曰く、嫌々着用しているわけではなくムスリムとしての誇りを感じているし、見た目とは違って機能的なのだそうで、機能的という点に関しては意外であった。おそらく私の英語のニュアンスが適当ではなかったが故の答えなのだろうが、ストレートには聞きづらかった質問に対する答えでもあり貴重なお話であった。
生活面に関しては新市街に比べて物価が非常に低く、限られた資金で滞在しなければならなかった身にとっては非常にありがたかった。はじめの頃はどこで何が売っているかもわからず困ることも多かったが、その際にも親切な方に手助けしていただけたし、人の温かさを感じる街であった。補足ではあるが宿では何人か日本人がいて、渡航の目的は様々であったが、巡礼で訪れている方がいたのは印象的であった。日本人がいたこともあり、様々な情報を共有できたのは非常に助かった。

~まとめ~

活動全体が終わってみると非常に充実した活動であったと思うし、また多くの成果を得られたと思う。しかしながら反省点もあり、今後の課題も得た。
まず反省点として、語学力の乏しさのために、話を聞くことができる人が限られてしまったことは最も残念なことであったと思う。また深いところまで質問できず、得られる情報が限られてしまったのは間違いないだろう。それと同時に多様な言語を話す人々が住む地域を研究の対象とすることの難しさを痛感させられた。
成果としては、聖地エルサレムに関して、日本で得ることができる情報から想像していたものとは違った側面も見れたことだと思う。私が見た限りにおいて、聖地エルサレムは以下のような側面を持った街であった。
1つ目は、言うまでもなく宗教の聖地としてのエルサレムであった。現地の人々や巡礼者の神への信仰心を垣間見ることができる都市であった。
2つ目は商業都市としてのエルサレムであった。毎日、早朝には市が開かれ、多くの人が訪れてにぎわっていた。
3つ目は多文化共生の都市としてのエルサレムであった。これは上記の2つともかかわってくるが、巡礼への往復や市場の利用などで同じ場所に複数の宗教の信者が混在する光景を頻繁に見かけ、それは日ごろ日本で得られる情報から想像されるエルサレムの様子とは少し違った多文化共生の街であった。
アラブ地域の国際関係の中で、聖地エルサレムは重要な都市であり、それ故に残念な出来事が起きることもあるのは事実ではあるが、そればかりでエルサレムやイスラエルのイメージが作り上げられるわけではないと思うし、そうあるべきではないと思う。今回の活動では現地の人々の生活をじかに見ることができ、私の中で今までとはまた違ったエルサレム像、イスラエル像が出来上がったと思う。それは今後の大学での研究でこの地域を扱っていくうえで重要で価値のあるものである。また世の中の多様性を改めて感じることができたのはうれしく感じている。
文献資料の閲覧・収集に関しては、十分な量の文献を把握できたと思うし当初の想定通りの成果を挙げられたと思う。
末筆で大変恐縮ではあるが御指導を賜った先生方に感謝申し上げ、また中央大学に敬意を表したい。