学部・大学院・専門職大学院

留学体験記

宮本 絢(みやもと あや) 2003年度卒業生

東洋史専攻在籍中にアジアの様々な国を訪れ、国際文化交流のボランティアに参加するなどして、アジアの人々の国際社会進出を支援したいと思うようになりました。社会人としての3年半、私はIT系コンサルタントをしていました。毎日が充実していて、順調にスキルを積むことが出来ていましたが、それでも、アジアの人たちと働きたいと願う気持ちが色褪せることはありませんでした。そのために私が選んだ答えが留学だったのです。

私は現在、カリフォルニア大学サンディエゴ校で、英語コースを履修しており、3月からはビジネスマネージメントコースを履修することが決まっています。ビジネスコースでは一定の英語力が要求されているため、留学の約1年前から毎日英語の勉強を続けてきました。働きながら勉強するというのは大変なことでしたが、自分自身に時間制限を設けて努力した結果、早い時期に合格証を得ることが出来ました。ビジネスコースを修了したら、日本や欧米諸国への社会進出を目指すアジアの人たちの人事トレーナーになりたいと考えています。

私の留学と言う航海はまだまだ始まったばかりです。この先、たくさんの困難や挫折を経験することがあるかもしれません。それでも、初心を忘れることなく、自分の描く未来のためにゴールを目指したいと思っています。

中谷沙緒里(なかや さおり)2005年度入学

ダマスカス留学記

私がアラビア語を学ぶため、シリアを訪れたのは去年の2月後半のことであった。当時、シリアの隣国イラク、レバノン両国内は戦争状態であったが、幸いにもシリアの治安は極めて良好であった。以下は、首都ダマスカスに2ヶ月滞在した折の記録の一部である。

当初、アラビア語はダマスカス大学付属の語学学校で学ぼうと思っていた。しかし、留学生の方から家庭教師のI先生を紹介していただき、この方に2ヶ月間お世話になった。I先生は50歳過ぎの男性で、非常に優しく冗談好きな先生だった。授業は一対一、専らアラビア語のみであったが、それでも分かりやすく楽しかった。しかし宿題は非常に多く、一回の授業の予習が半日?一日かかった。また、私が既習事項に関する質問に答えられないものなら、先生の「ダラスナッ!」(#1)の声が飛んできて、孫の手で叩かれるのがお決まりであった。その甲斐あって、私のアラビア語力は飛躍的に伸びていった。I先生に感謝したい。

#1 アラビア語で「習ったぞ!」の意

滞在中、生活拠点となる家はダマスカス旧市街の中にあり、下宿という形をとっていた。一軒の家に大家さん家族が暮らし、余った個室が留学生に貸し出されていた(写真1)。留学生はその個室で寝食、勉強をし、風呂とキッチンは共同使用となる。留学生の多い家にお邪魔すると、アラビア語のみならず、日本語、英語、仏語、独語など多彩な言語が聞こえてきた。また、イスラーム教徒の礼拝時間にはモスクからアザーンが(#2)、キリスト教徒(#3)のお祈りの時間には教会から鐘の音が聞こえてくるが、この地が古来より民族・宗教の十字路であったことが思い起こさせる。

#2 礼拝への呼びかけ。肉声で行われる。
#3 シリア総人口の10%程といわれている。宗派はギリシャ正教、マロン派、アルメニア正教など様々。

そんなダマスカスだが、残念ながら歴史を感じさせる建物、遺跡などはあまりない。だが、その中でもイスラーム教第四の聖地として名高いウマイヤド・モスク、初夏の緑が美しいアゼム宮殿は圧巻の一言である。ウマイヤド・モスクはウマイヤ朝時代に建てられたモスクだが、今日に至ってもなおシリア人の生活に溶け込んでいる(写真2)。ここから聞こえてくるアザーンは特に美しく、滞在中、早朝はその声で起こされた。モスクの正面にはスーク(#4)があり、カラフルなアラビアドレス、螺鈿細工の家具、コーラン、ファーティマの手(#5)といった、いかにもシリアらしいものが売られている(写真3)。また、「アラビアのロレンス」で有名なヒジャーズ鉄道の駅もあり、ほぼ完全な形で保存されている。

#4 アラビア語で「市場」の意。生活必需品や土産物などあらゆるものが売られている。
#5 魔除けの護符。ファーティマとは預言者ムハンマドとその妻ハディージャの娘。

たった2ヶ月という短い留学期間であったが、アラビア語を学び、彼の地で生活し、多くの事・物を見聞きすることができた。最後に、私の留学を後押しして下さった先生方、現地の留学生の方々、I先生、事前に相談に乗って下さったHさんに心よりお礼申し上げます。

2008年1月24日 記