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モンゴル首都にて日本語教育、都市開発及びグル地区の実態調査

文学部人文社会学科 社会情報学専攻 4年
大野 日菜

活動概要

2017年7月30日から8月25日に及び約一ヵ月間、モンゴルの首都ウランバートルにて日本語教師のインターンシップを体験した。そこでの活動は、サマースクール期間中である高校生へ日本語をサポートすることが主目的であり、クラス担任や日本語授業の担当、その他イベントや試験の企画運営を業務として活躍した。インターンシップの現場となる新モンゴル学校のサマースクールは、日本語を学ぶモンゴル人高校生を対象としており、学習意欲の高い学生たちが希望する参加自由型の夏季講習である。ここで、日本人の先生として普段アウトプットの少ない生徒たちへ日本語のフォローやサポートを行い、モチベーションアップとなるようなことを提供することが課題となった。また、活動期間中のほとんどの活動が学校内で行われるものであったが、休日や授業後の時間を利用して街中をフィールドワークしたり、博物館や寺院へ行き歴史や宗教に触れたり、郊外へ出てモンゴルの田舎や草原地帯、ゲルや遊牧民の暮らしの側面にも触れる機会を持つことができた。

モンゴルへ行くにあたり掲げた目的が二つある。一つ目は、「モンゴルで行われている日本語教育について知る」ということ、二つ目は「ウランバートルにおける都市開発の実態を調査する」ということであった。つまり、教育面と社会面との二つの側面を軸としてモンゴルへの理解を深めようと試みた。そこでこれらの目標が生まれるに至った経緯と理由を説明してみたい。 まず、日本語教育に関しては大学二年次の頃に文学部が主催するSENDプログラム(日本語教育養成課程)に参加したことがきっかけとなり興味が続いていた。自分の母語が世界の至る所で学ばれているということに不思議さと嬉しさを感じ、学習者である外国人はどうして日本語を選び勉強しているのか、どうして日本に興味を持ってくれているのか、彼らのニーズや背景を深くまで知り理解を深めたいと感じていた。また、外国人とコミュニケーションを取り交流することに幸せを感じる自分は、日本にいる外国人や日本に興味を持つ外国人のサポートとなるような貢献がしたいと感じていた。そこで、日本語教師は自分の強みである日本語を通じて外国人と繋がることができる理想的な職業であった。SENDプログラムを受講していた時に、日本人教師としてイギリスとオーストラリアへ派遣し、日本語のアシスタントや指導を経験したが、多くの反省点が残り消化不足に終わった。一番の心残りは、アシスタントという役割での活動が中心的となってしまい、自分から何かを作り出すことに消極的であり守りの体制に入ってしまっていたという点である。ただ学生たちの中に入って用意されたことをするだけではなく、自分から動き日本語を広げる企画を作り出したり、工夫した授業を作ってみたりと、生み出す側としての姿勢が全然足りていなかったと後悔をした。また、欧米圏での日本語教育には触れることができたが、日本から近いアジア圏の国において日本語がどのように教えられ受容されているのか全くの無知であった。これらの反省点を残したままにしておくことを遺憾と感じ、再び日本語を通じてのインターンシップができる場を模索することになる。多くのインターン先がある中でも今回のインターンシップ先が決め手となったのは、単に日本語を教えたりサポートをしたりという役割だけでなく、高校生のクラス担任になることができるという点が大きかった。教育が専門であるわけでも、高校教師を目指しているわけでもなかったが、クラス担任という立場は、日本語という側面以上に言語を超えたコミュニケーション力や活発性が鍛えられるのではないかと思ったのだ。今の自分のラインを越えることがしてみたかった自分にとってまさにぴったりのインターンシップであった。 二つ目の目標、「ウランバートルの都市開発における実態調査」について。最初に挙げた日本語教育とは別の視点でモンゴルに興味を持っていた。それは、「都市開発の途上にある国」ということである。それについての興味の創出は、社会学のゼミの中で都市やリゾート地の開発問題や地域格差の問題を勉強する中で芽生えた。日本は、太平洋戦争が終結して戦後復興のため都市開発が推し進められてきて、交通や情報、身の回りの物が豊かに便利になっていった歴史がある。その過程の中で、選択と集中によって地域格差が生まれてしまい、取り残された土地や見放された人々について考えるようになり世界を広く理解することの大切さに気づかされた。今のウランバートルはアジア諸国の中でも最も活発に都市開発が進んでいる地域であり、同時にゲル地区と呼ばれるところに住む人々との間で格差が広がっている実態を知った。広々しい草原と動物たちを引き連れる遊牧民たちの印象を持っていた狭いイメージしか及ばなかったところから、草原地帯のモンゴルの地で都市がどのように食い込まれて存在しているのか気になっていた。また、遊牧生活と都市生活を行き来して生きている子供の存在や、マンホールチルドレンと呼ばれる家を持たない子供が路上をうろついているという人の暮らしや社会の側面にも関心が広がっていた。そして、今回の目標としては「都市計画の実態調査」としたが、広い範囲でモンゴルの社会や街並み、風景、文化、人々の暮らしに関心を寄せられるような心構えで臨む意気込みでいた。 以上のことをまとめると、日本語教師としてモンゴルの高校で一か月間先生となり、モンゴルの日本語教育に携わることが一つ目の目的としてあった。そして二つ目として、自分が社会学のゼミで関心を深めている都市開発や地域格差への理解を海外の視点から深めることを望んだ。最終的にはモンゴルという国の社会や風景、文化や人々の暮らしにまで興味を寄せられるようになりたいと感じていた。

3. 奨学金応募のきっかけ

この度、文学部学外活動応援奨学金の力をお借りしてモンゴルへ無事辿り着き、かけがえのない体験を持ち帰ることができた。この奨学金があったため、自分がやろうとしていることに具体的な意味を与えることができたし、目的意識も明確なものとして持つことができたのでとても有難いきっかけであったと思う。奨学金に応募した理由としては、金銭面での援助を受けたいという理由ももちろんあったのだが、それ以上に新たな一歩への背中を押してほしいという思いが強かった。正直、時期的にも自分の進路状況的にも何か新しいことに時間を費やすということをしてよいものなのか不安と懸念があった。しかし、海外で働くことへの憧れや外国人とコミュニケーションを取ることが好きという思いを現時点での範囲で実践してみたい気持ちが強くあった。そこで、「学外活動応援」という言葉に惹かれ、また全く自分のことを知らない他者に自分を発信してみるチャンスとしてこの奨学金制度の場は非常に良い機会だった。何か小さなきっかけや後に残るようなものとして経験してくることが求められることで、自分の本当の想いを知りやる気を生み出すチャンスとなると知った。この奨学金制度への応募は、自分の熱意や本気度を試される場としてでもあり、異国へ旅立つ前のファーストステップともなっていたと思う。

4. 活動内容

ここでは実際現地で活動してきた内容について具体的に詳細を報告する。

(1)全体スケジュール

薄青…学校内活動 濃青…課外活動

7/29(土) 日本成田発 モンゴルウランバートル着
7/30(日) 新モンゴル高校初参入、他インターン生や学校職員と顔合わせ
7/31(月) 開校式、オリエンテーション
8/01(火) 授業開始、クラス担任業務開始
8/02(水)-04(金) 平常授業、沖縄高校生や静岡県知事訪問への企画運営
8/05(土) セレブ川ゴミ拾い、生徒と交流
8/06(日) ウランバートル市内散策(ザイサンの丘、国立公園、サイクリング)、生徒と交流
8/07(月)-11(金) 平常授業、プロジェクトワーク開始(ウランバートル市内フィールドワーク・観光マップ制作)、中間試験・スピーチ大会等のイベント企画と運営
8/12(土)-13(日) 校外学習(カシミア工場見学、田舎ゲルへ宿泊)
8/14(月)-18(金) 平常授業、プロジェクトワーク運営
8/19(土) スポーツ大会、ホームステイ
8/20(日) 郊外散策(テレルジ)夜のウランバートル散策(ライトストリート)、生徒と交流
8/21(月)-23(水) 平常授業、プロジェクトワークの発表準備
8/24(木) 期末テスト、教員反省会、インターン生反省会
8/25(金) 修了式、プロジェクトワーク発表会、反省会(校長先生と共に)
8/26(土) 登山&ハイキング(ボクド山)、ウランバートル市内観光、生徒と交流
8/27(日) 日本へ帰国
①学校生活

表に記載した通り、約一か月間丸々学校内での活動がメインとなる。休日は課外活動としてあるが、学校内で企画された校外学習やスポーツ大会なども含まれているのでモンゴル人学生と常に行動を共にした学校行事へのアクションが中心的であった。基本平日は平常授業が行われ、朝8:30までに出勤し、授業全体は16:30前には終了した。そこでは、学年やクラスによって時間配分や授業のスケジュールは異なるが、日本語試験の対策授業の時間とアクションリサーチやプロジェクトワークといった実践授業の時間を午前と午後で分けて授業構成が組まれた。その中で自分の担当となるクラスや授業に入り、毎回の教案づくりと授業準備、日誌記入が大きなタスクとしてあった。また、インターン生内や先生全体の中でミーティングや反省会が開かれることが多く情報共有を怠らずに徹底させていた。

②生活面

生活面では学校が提供する寮に滞在した。学校の裏側に位置し歩いて1.2分という最適な立地場所である。部屋は二段別ベッドが二つ用意された4人ドミトリールームを個室とし、ご飯やキッチン等は共同ルームという大きな部屋で共有する形であった。また、シャワーや洗濯機、トイレは男女別で全部の部屋共通であり生活環境のありとあらゆるものは共有であった。食事について、昼は学校の学食で食べることができるが、朝夕は自炊か外食、デリバリーをする必要があった。一番大変だったのが自炊で、一緒に生活している人数が多い分、作る量や食材の調達に頭を抱えた。また、料理担当の割り振りをしたこともあったが、結局仕事や忙しさの状況の違いなどでうまく機能しなかった。それでも、料理で頑張れない人はゴミ出しに行ってくれたり、シャワー室をきれいに掃除してくれたり、日常品の調達をしたり、各自自分ができることを探し生活することができていた。お金に関しては全体の共有財布を作り、全体で必要となる水や食材や日用品等はこの中から出すようにした。慣れてくると要らないと思う物や個人で買うべきものも買ってしまっているという事態が発生していたが、残金が少なくなるとみんなで節約をしてお金の使い方について話し合いをしてうまく調整させていた。

(2)インターンシップ活動の詳細

*到着から活動スタート前まで
7月29日(土)に成田空港から直行便の飛行機に乗り、翌日深夜にウランバートルへ到着した。空港まで学校職員の方に迎えに来てもらいタクシーで生活の場となる寮まで向かう。深夜にタクシーから眺めるウランバートルは日本のどこかの都市のようで、モンゴル文字だけが国を超えてきた事実を証明していた。
翌日10:00からインターン生と新モンゴル学校の職員の方との顔合わせと自己紹介等があり、サマースクール及び自己開発プログラムのオリエンテーションをした。そして、明日からいよいよはじまるサマースクールに向けて確認や準備をした。また、この日から16人との寮での共同生活がはじまり、プライベートがほとんどない初めて会う人との集団生活を経験していく。
31日は開校式がありモンゴル人学生と初対面をした。学校の5Fに小規模なホールに拍手で迎えられ、ステージの上で日本人教師一人一人自己紹介と意気込みを発表した。その後は明日から始まるクラス運営と日本語授業の教案等の準備やリハーサル等に時間を費やした。

拍手で迎えられました。スピーチは少し緊張した。

*1週目(8/1~8/6)
8月01日(火)から日本語教師としての実践活動がスタートする。私が担当したことは、クラス担任業務(SHRや出席確認等)と日本語の授業(聴解の授業)の運営が中心であった。まず、クラス担任業務だが、私の受け持ったクラスは日本語レベルN3(日本語能力検定の指標)の下級生(高校二年生に当たる)にあたるクラスであった。クラス人数は最終的に24人となり、女子生徒が半数以上を占める大人しく穏やかな雰囲気のクラスだった。一つのクラスを受け持つという経験や外国人高校生に授業をするという経験ははじめてのことであり全てが新鮮であった。そして、何より初日の緊張感と焦りは今でも忘れることができない。朝8:30にある先生ミーティングを終え、各担任の先生は朝SHRのため自分のクラスへと向かうのだが、正直自分が「先生」になるという意識はこの時まだ全く持てていなかった。教室の前のドアを開くとき、日本語を教える以前に、自分が先生としてこれからやっていけるのだろうかという重みと不安を思い知らされた。「ここでは、アシスタントや単なる雑用要因として来ているんじゃない。自分はこのクラスの担任の先生なんだ。」と責任感の意識が芽生えはじめる。クラスに入ると、真顔でしっかりと座っている生徒たちの雰囲気に圧倒されてしまった。生徒たちもこの日からサマースクールのクラスが始まり初日であったので緊張している様子だった。どうにか笑顔をつくろうとするが、顔が引きつってしまっていた気がする。また、20人以上の生徒を前に立ち指揮を取ること自体はじめてのことで緊張していたのに、馴染みのない日本人が話す日本語で生徒に言葉を理解してもらうのは大変な労力であった。返事やアクションが返ってこない悲しさや指揮を取ることの難しさを感じ先生の大変さをはじめて知った。

*2週目(8/7~8/13)
二週目の活動は、プロジェクトワークの企画運営が中心となる。プロジェクトワークとは、クラスの生徒たちと何か一つテーマを決め課題に取り組み、最後に他クラスに向けて発表するという夏休みの自由研究のようなワークである。その際に日本語を必ず使うこととクラス全員で取り組むことが鉄則となる。プロジェクトワーク授業の進め方や取り組み方はあらかじめマニュアルや教案があるわけではなかったので、どのようにしてはじめるかというところから担任教師に任さていた。私のクラスでは、まずプロジェクトワークをするのはなぜか、どういう目的があるのかというところから生徒に考えさせ、クラス目標と各自の目標設定をしてもらった。自分たちがこれから取り組もうとしていることに意味を見出し、そこから全体の目標と各々の目標を決めることでモチベーションアップを図りたかったためである。そして、できるだけ生身の日本語を聞くということに慣れてもらいたかったため、全体に向けて日本語だけで指示を出したり板書しながら解説をしたりすることに丁寧に取り組んだ。また生徒一人ひとり個人と話す時間も意識的に作るようにして心の距離を徐々に縮めていった。プロジェクトワークの内容は、クラスの話し合いの中でいくつかテーマの候補が上がっていたが、最終的には「ウランバートルでは一日1000円で何ができるか」という素晴らしいテーマに決まった。まず、日本円とトゥグルグの比較をしたり、1000円あれば日本で何ができるか日本人にインタビューをしたり、スカイプ通話を通じて日本のリアルタイムと繋げたりと色々なことに取り組んでもらうワークを作った。どんなワークを作れば生徒は楽しく学べるのか、日本語を好きになれるかを毎日常に考えていた。難しかったのは、クラス全員に役割分担を割り振り責任感ややりがいをもたせることをつくることであった。そして、日本語へのモチベーションをあげる工夫だ。やはり積極的で意欲的な生徒はコミュニケーションがとりやすかったのだが、日本語を話すことに抵抗感や不安を持っている生徒ややる気がいまいち見いだせない生徒の興味をどう引き出すかが自分の大きな課題点となった。クラス全体を把握しながら個人の生徒についてもしっかり見ないといけないという責任を感じるようになっていた。また、自分ひとりのアイデアや考えを疑わず独りよがりになってしまう傾向が自分にはあると気がついた。他の人に相談し意見を交換することでたくさんの引き出しを持つことができるし、自分の盲点に気づくことができる。しかし、あまり相談せずに自分のやり方で進めていたことは次への反省点として留めておきたいと思った。また、この週から新たなインターンメンバーが増えたことや各自やっていることがクラス単位で異なるため、情報共有がうまくできていないというトラブルが発生した。例えば、先生方から受けた指示を把握できていない人がいて全体の動きが鈍くなったり、自分の担当箇所でないためイベント等への協力に貢献できなかったりと他の事情を理解しておくということが未発達であった。そこでミーティングの時間を設け、各自の進捗具合を報告すること、大切な連絡事項は前の黒板を利用して書き込むこと、必ずそれを朝夕確認することなど、「報連相」の徹底を行うように話し合った。各々でやっていることは違っていてもゴール地点は同じチームでやっているので情報共有の大切さを学んだ。
週末にはウランバートルから遠く離れた場所へ校外学習に行った。カシミヤやウールで有名なモンゴルであるが、ゴビ工場へ行きそこで働く人々や一つのマフラーやストールができる過程を見学した。繊細な毛や糸でできあがるマフラーやコートは機械の力ではなく、一編一編人の手で成されていた。ちょうど、前期の大学の授業で、工場で働く女性労働者の労働状況や背景を学んだばかりであったので実際に自分の目で見ることができたのは大きな経験となった。彼女たちが見学者である我々に向けてくる視線は中身がなく冷たくも暖かくもなかった。私たちがお土産に購入し、各地に輸出され、様々な人の手に渡るようになることが信じられないくらい、たった一つの衣類を作ることは大変で時間がかかる作業であると知った。ただの消費者となるだけではなく、生産者である人の背景や労力を理解しておくことが大切と気づかされた。

*3週目(8/14~20)
モンゴルの風景や食べ物、寮での共同生活、先生としての自分であることがルーティンとなりここでの生活が大好きになっていた。三週目には生徒と一緒にウランバートルの街を歩き、博物館や図書館へ行き歴史や文化や社会の側面に触れるという機会を多く持つことができた。今回の旅は、日本語教育について知るという目標と合わせて、ウランバートルの都市開発について知るという視点も目的に入れていたため街歩きの時間を多く持つことができたのは有意義だった。ウランバートルの都市は、旧ソ連社会主義時代の建築様式の名残がある中で急速に建てられた新しいビルディングやマンションが立ち並び、どこでも交通渋滞しているのが印象的であった。ウランバートルの都市といえ、今回私が見たところは本当に中心部であるところでしかないのだが、その小さな都心を囲むように旧市街地、ゲル地区、山々と広がっている構造を理解した。生徒と一緒にザイサンの丘へ登り、丘の頂上からウランバートルを一望したときにようやく地域格差のことを考えさせられた。発達して基本的な良い暮らしができている地域が一番小さな範囲のエリアにあるということを知り、自分が理解した現実はとてもちいさなものであったことを思い知らされた。丘からの帰り道はゲル地区を歩いて街へ向かった。インドやフィリピンで見たスラム街とまではいかないが、ゲルを都市の周辺に作り、そこで洗濯をして食器を洗っている女性の姿や、裸で走り回って遊ぶ子供の姿を目にした。生徒から、場所によってお金や職業に格差があることや、特別寒い冬場にゲル地区から出る石炭の煙が大気汚染になって街が真っ黒になるという話を聞かせてもらった。日本で生活しているときは、自分の住んでいる場所と学校など所属している場所の往復の中でしか街や人の暮らしを見ようとしていなかったので、こんなに近い場所同士で抱える問題の大きさや重さが異なっているということに衝撃を受けた。また、ウランバートルのシンボルマークとしてあるスフラバートル広場(チンギススクエア)にはかつての黄金時代のモンゴル帝国主導者チンギスハーンが君臨されているが、これは昔からあるものではなくて数十年前にできたばかりの新しい広場であった。ウランバートルは急速に都市化や社会主義体制が進められてきた国であるため、歴史物や遺跡の生き残りがほとんど残されていなかった。外国人観光客の呼び寄せや外へ自国の文化を発信するためには観光資源なるものが必要不可欠となり、歴史や伝統を継承していくような取り組みが求められるためこの広場も作られたのだと知った。また、ここで現地職員として勤務するJICA職員の方からウランバートルが抱えている社会問題、主に大気汚染やゲル地区の問題、都市計画の実際の話を聞く機会を持つこともできた。日本人として来ているという立場や現地の暮らしへの慣れやモンゴルのよい面、困難な面を教えていただいた。モンゴルの社会や人の生活、歴史や文化と触れることができた充実な時間を過ごせた。

4週目(8/21~27)
最終週である四週目は怒涛な毎日であった。プロジェクトワークの発表準備や期末テストや修了式の準備など集大成となる課題が一気に押し寄せてきたのだ。修了式の前日はインターン生の中で大きな目標を特に決めていなかったという話題から反省会が開かれ、深夜の2:00過ぎまで学校に残り最終日どのように過ごせばよいのかをひたすら話し合った。今思い返すとよい思い出だが、徹夜もミーティングも得意ではなかった自分にとっては体力も気力も限界を迎えていた。また、クラスの発表準備に追われ寝ないで作業をする人も多く、ラストスパートまで全力で頑張るという周りの人の熱い姿勢に揉まれ励まされ奮闘していた。
いつの間にか自分の目的は、より良いクラスづくりと生徒のモチベーションアップを最優先として考えるように変化していた。生徒たちが上手く言葉が出てこなくとも何かを一生懸命伝えようとしている様子や、できる限り日本語で意見や質問を言おうとする前向きな姿勢が私の心を動かしたのだ。先生となり、生徒たちに教えるという立場であるはずが、逆に生徒たちから学ばされているということが多かったように思える。前向きな姿勢でいることや、失敗を恐れず間違えても言葉にしてみる度胸や積極性が知識や頭の良さを上回るということを教えてもらった。自分の語学勉強にも当てて考えることができたし、まずは失敗を恐れずやってみようとする人が最終的に夢を掴むことができるという事実を見ることができた。
クラス最後の日はこんなに泣いたことはない!というくらい涙を流した。プロジェクトワークの発表でパワーポイントがうまく流れないという私の失態があり、一生懸命準備をしてきた生徒への申し訳なさへの思いで涙が止まらなかった。また、最後のホームルームで生徒一人一人にその人を表す漢字を送り、「十人十色、みんな違ってみんないい」というメッセージを送った。クラス全体にも涙をすする音が響き、笑顔が輝き、この瞬間にはじめて本当にクラス全体が一つになったという感覚を得た。日本へ立つ最後の朝には、早朝であるのに生徒たちが見送りに来てくれて手紙やメッセージをプレゼントしてくれた。そんな生徒の存在は、日本に戻ってもここで過ごした時間と経験を忘れないように一生懸命頑張るという力を与えてくれたのだった。

5. 目標の到達点と課題点

(1)テーマへの返答

①モンゴルの日本語教育の実態

今回の旅の主目的であったモンゴルにおける日本語教育への視察及び体験から得たことを報告する。まず、私が今回派遣された学校はモンゴルの中でもトップクラスに入る優秀な功績のある学校であり、日本式学校であった。新モンゴル学校は、日本留学経験のある方が日本の高校をモデルにカリキュラムを作り2000年に建設されたばかりの新しい学校だ。日本式学校であるため、制服や教室や学校内の雰囲気、先生方の立ち居振る舞いなど日本の学校とほとんど変わらないためすぐに打ち解けることができたといえる。モンゴルの中で、ウランバートルでは日本語を第三言語として学ぶ生徒が毎年少しずつ増えてきているようであり、日本へ留学する生徒への奨学金制度や支援を積極的に設けているようであった。学校の廊下には、大手企業や教育機関の代表者である日本人の肖像画がずらりと掲示されていた。また日本だけでなく、アメリカや韓国、ロシアなどへの留学生も増加している。ちなみに新モンゴル高校の近くには、韓国式学校があった。
授業はモンゴル人の先生がモンゴル語で日本語を教える授業と日本人の先生が日本語で教える授業のツーパターンで、語彙、読解、聴解、作文、漢字とありそれぞれ担当の先生が受け持った。テキストは日本語能力試験のレベル別(N5~N2)で用意されたものに沿って進められた。しかし、自分が用意したオリジナルの教材や授業を行うことも可能で柔軟で自由さがある程度認められた授業展開であったと思う。ちなみに、私が担当した聴解の授業では授業を前半と後半に分け、前半はアクティビティとして早口言葉や方言の紹介、リズムゲームなどを行い、生徒たちのテンションを持ち上げ、後半にテキストの内容をやるという形であった。他の先生の授業見学で印象的だったのが、絵本の読み聞かせや人間漢字パフォーマンス、習字などであり色々な発想で面白く授業を展開させていた。日本からやってきた先生が色々な工夫や創造性を発揮して行われる授業は生徒にとっても新鮮で楽しいものであったはずだと思える。
日本式学校で学ぶ生徒であるに加え、自由参加で費用がかかるサマースクールに参加している生徒は日本語や日本のサブカルチャーに対する興味やモチベーションが高く色々な事情に詳しかった。しかし、せっかく学んだ日本語を運用するという機会が少ないというために、日本から日本人の先生を呼んでアウトプットを有効的に行うことを目的としたサマースクールができたのである。これは、日本の英語教育においても共通する部分ではないかと思われる。つまり、授業や試験でいくら勉強としての語学習得をしてもそれをアウトプットする機会が与えられなくては本当の理解や能力にはなっていないということである。留学のための勉強や試験対策に加え、日本人の先生と何か一つのプロジェクトやリサーチに取り組むという課外学習は生徒のモチベーションアップにつながり、また異文化交流で学びを得る素晴らしい経験であると思った。生徒にとって、慣れない言語と毎日触れ合い続けることは相当モチベーションや労力の維持が必要であるはずだ。特に、積極的な生徒は日本人教師にどんどん話しかけ質問をして自分の能力の向上を進められているが、消極的で話すことにまだ抵抗感を持っている生徒に対してどのようなアプローチでアウトプットをさせるかは難しい問題だと感じた。 今回私が経験したモンゴルの日本語教育は、授業計画や指導方法の自由度は高くしかし求められる質は高いものであった。そして、生徒の学習能力やモチベーションの向上が第一と考えられていて多様な角度から学びの方法を取り入れていたように思える。例えば、日本語の本に一時間のうちにできるだけ触れる多読授業や紙芝居芸人の方を招いたイベントや自分で書いた作文をステージの上で発表するスピーチ大会など多様な手段で日本語の学びや実践を推し量っていた。途中にやっぱりよくないとなり予定していた計画が突如中止になったり、突然の来校者に向けてその場で歓迎会を考えることを求められたり、日本の計画通りとは違い、その場その場で予定が決まっていくことが多いのもモンゴルらしい一面としてあり臨機応変力がかなり必要となった。今回私が見たのは、ほんの一面としての日本語教育であったが今後日本語教育に携わることをする時に有力な実体験として発揮できるものとして残ったと断言できる。

②ウランバートルにおける都市開発の実態調査

(2)反省点と新たな課題点

今回の反省点としてまず挙げたいのが、事前準備の不十分さである。モンゴルに渡航する前に、日本語教育のことやモンゴル事情についての知識や情報の事前学習をもっとやるべきだったと反省する。また、日本語授業にしても現地で閃いたことに頼っていたが、日本でも面白そうな日本の紹介や授業内容を幾つか用意できていれば現地での負担が減ったと思われる。特にウランバートルの都市開発についての知識があまりにも不十分であったたこと、現地に行けば何かが分かるという考え方に依存してしまっていたのがよくなかった。そのため今後の事後学習が何よりも大事になると思われる。自分が体験したことと照らし合わせてより学問的な研究となるように、そしてモンゴル社会を通して日本社会とも結び付けて考えることができる広い視野を獲得するために今後の学習に精を費やしたい。次に、発言力・発信力が足りていなかった点を反省する。今回のインターンシップの中でミーティングや反省会をする機会が多く、自分の意見や経験したことを大勢に向けて発信するという場が非常に多かった。そこで、自分の中にあるものを何も知らない他者に理解してもらうためにはどう話せばよいのか、どう伝えればよいのか常に考えさせられた。特に発言することが苦手であった自分は他人の意見を聞くことはできても、自分の話をすることがうまくできず自信を持てなかった。そして、発言量が少なくなってしまい全体の話し合いで受け身となってしまいうまく貢献できなかった。そこで次の課題点は、はじめて話を聞く人の立場になって、自分の考えや思いを丁寧に簡潔に伝えられるようになることだ。うまくできなくてもとりあえず声を出さなくては何も伝わらないということが分かったので、まずは全体の中で自分の意見や思いを言ってみるということに積極的になっていきたい。最後に多声を取り入れるということである。発言が少ないという点とも被るのだが、人に相談したり報告したりすることが少なく自分ひとりの考えで貫いてしまっていたことがよくなかった。自分自身を疑ってみることが必要で、色々な人の声を聞けばもっとよいものに仕上がるということを忘れてしまっていた。そして、自分の仕事や課題に追われ周りの人への配慮や助けることに自分から気づいていくことがあまりできていなかったことも反省できる。自分ばかりのことを考えたり見つめたりするのではなく、周りや全体を俯瞰しつつやっていくことができるような余裕と忍耐力をこれからも鍛えていきたい。

6. 今後の進路

私の大きな夢は、世界中に自分の居場所と友人をつくり世界平和に貢献することである。大学生になって、海外と出会い、外国人とのコミュニケーションや異文化交流に幸せと刺激を受け、大学を卒業したら日本の外に出て活躍したいと夢を描いてきた。今回のモンゴルでの日本語教師の経験は自分の進路の大きな転換期となったと思える。まず、大学を卒業したら日本で就職をするという型にはまる必要はないということを気づかせてくれる素敵な人たちとの出会いがたくさんあり自分の決心を貫く自信となった。また、やはり自分は海外で生活して活動することで自分のラインを超えるような力を発揮できると気づき、次はもっと長期的に滞在して自分を試してみたいと感じた。これまでの海外経験は長くて1ヵ月程度の短期的なものであったため、次なる目標は一年間、もしくはそれ以上の期間長期的に一つの国に漬け込み、その国で語学を習得し、実践活動をして、グローバル力をさらに養うことだ。次の目標はもうすでに決まっている。来年度、卒業延期をしてインドへ一年間留学することだ。日本でネガティブなイメージをもたれ避けられがちな国をポジティブなイメージに塗り替えるような発見をしてきたいと思っている。今回の経験がきっかけとなり次なる目標も生まれ、今からでも遅くない、なんでも頑張れるという意気込みが生まれた。ぜひ、次に挑戦する後輩たちにも自分のラインを超えるような高い目標に向かって頑張って欲しい。