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オスマン帝国の多民族・他宗教共存社会についての調査

文学部人文社会学科 東洋史学専攻 3年
岡本 多久実

初めに

 今回私は、『オスマン帝国の多民族・多宗教共存社会についての調査』というテーマで文学部の学外活動応援奨学金を受給し、トルコで調査を行った。この活動の目的は、様々な宗教・民族が共存していたオスマン帝国の社会について、主に市民生活に焦点を当てて理解を深めることである。

 今回の活動の軸は大きく分けて4つだ。まず1つは教会やシナゴーグといったイスラーム以外の宗教施設を訪れたり、ユダヤ教徒に関する博物館を見学したりすることによって、オスマン朝の非ムスリムについての理解を深めることだ。2つ目は、オスマン朝時代から大衆に親しまれてきたカラギョズという伝統的な影絵芝居について調べることである。カラギョズは劇中に様々な民族・宗教に属する登場人物が出てくるという点や、ムスリムだけでなくユダヤ教徒の担い手もいたらしいという点から、オスマン朝の多様性を考えるうえで興味深い要素である。3つ目は、伝統的な街並みの残るジュマールクズクを訪れ過去の人々の市民生活全般について知ることだ。そして4つ目は、キリスト教、ユダヤ教、そしてイスラームといったこの地域に存在する各宗教のパンフレットや、歴史に関する書籍など、研究に有用な史料を集めることである。これらの活動を行うために、私はイスタンブール、エディルネ、ブルサ、コンヤの四か所を訪問した。活動期間は移動日も含めて3月11日から27日にかけての16日間の予定であった。

1. コンヤ(3月12日~3月15日)

今回まず初めに訪れたのはコンヤだ。ここはトルコ中部に位置する地方都市である。かつてはイコンの町を意味するイコニウムと呼ばれており、使徒パウロが訪れたことがあるなど、キリスト教徒にとって重要な都市であった。中世以後はイスラームの支配下に置かれ、ルーム・セルジューク朝の首都にもなったが、キリスト教徒も居住し続けており、ムスリムと非ムスリムが共に暮らしていたという。飛行機で日本を発ったのは3月11日で、コンヤに到着したのは12日だった。

 

 今回まず初めに訪れたのはコンヤだ。ここはトルコ中部に位置する地方都市である。かつてはイコンの町を意味するイコニウムと呼ばれており、使徒パウロが訪れたことがあるなど、キリスト教徒にとって重要な都市であった。中世以後はイスラームの支配下に置かれ、ルーム・セルジューク朝の首都にもなったが、キリスト教徒も居住し続けており、ムスリムと非ムスリムが共に暮らしていたという。飛行機で日本を発ったのは3月11日で、コンヤに到着したのは12日だった。

メヴラーナ博物館の前で

メヴラーナ博物館の前で

 コンヤでの第一の目的はメヴラーナ博物館を見学することだった。ここはイスラームの神秘主義教団、メヴレヴィー教団について取り扱っている博物館であると同時に、教団の創始者とされる13世紀の詩人・哲学者、メヴラーナ・ジェラーレッディーン・ルーミーの霊廟でもある。彼はイスラーム以外の宗教に対して寛容であったことが知られている。彼の思想に基づいたこの教団について博物館で調べることは、ムスリムと非ムスリムとの共存の在り方について理解が深めることにつながると思ったため、ここを見学した。幸いこの博物館は宿泊しているホテルから近く、しかも無料で入館することができたため、滞在している間何度も見学をし、見損ねた展示やもっと知りたい部分を見直すことができた。

メヴラーナと非ムスリムの関係についてわかったことは、彼の逸話に、非ムスリムと関わったものがいくつかあるということだ。現地で手に入れた一般向けのメヴラーナに関する日本語書籍によれば、当時のコンヤではユダヤ教徒とキリスト教徒がムスリムとともに暮らしていたが、彼は非ムスリムに対しても敬意を払っていたとされる。道で牧師に会った際には互いに挨拶を六度も交わした後、更に牧師に対してもう一度挨拶をするなど、謙虚な姿勢で応じていたらしい。そのような性格の彼はムスリムだけでなくユダヤ教徒やキリスト教徒からも尊敬を得ており、彼が死去した際には様々な宗教の人々が一緒になって彼の死を悼んだという。葬儀には非ムスリムも参加した。混乱を避けるためにムスリムによって葬儀場から去るように言われたが、彼らは「メヴラーナはあなたたちのものかもしれないが、私たちもイエスやモーセを彼から学んだのだ」といい、そこから離れようとしなかったという。このように、メヴラーナは他宗教の人々を尊重し、そのことによって非ムスリムからも慕われていたことが逸話において語られている。また、「イエスやモーセを彼から学んだ」という話からは、彼がムスリムだけでなく非ムスリムに対しても自身の知識を教えていたことがうかがえる。この教団はオスマン朝時代においても重視されていたようで、それはメヴラーナの霊廟に付随する小モスクやセマーハーネ(修行僧がセマーという回転舞踊を行う場所が16世紀にオスマン朝のスルタン、セリム2世によって増設されたことからもわかる。信じる宗教に関わらず人々に接したメヴラーナの教えをもとにした教団がその後も影響力を持ち続けたことは、ムスリムと非ムスリムの共存社会が形成されるうえで興味深いことである。また、この博物館にあるメヴラーナの棺の前では多くの人が立ち止まり祈りをささげているのを見ることができ、現代でも彼が敬意を持たれていることを実感した。

スィッレ全景

スィッレ全景

 コンヤでの第二の目的は、近郊の町スィッレを訪れることである。スィッレはコンスタンティノープルからイェルサレムへ向かう巡礼路の宿場町であり、東ローマ帝国時代には60もの教会、修道院が存在したらしい。先述のメヴラーナもこの町を訪れ、修道士と対話したとされている。1923年にギリシアとの間で行われた住民交換以前は、多くのキリスト教徒が住んでいた。ここにあるアヤ・エレニア教会はローマ帝国皇帝コンスタンティヌスの母后、ヘレナがニカイア公会議を記念して327年に建てた、とても由緒のある教会である。建物は19世紀のもので、2013年に修復され、博物館として一般に公開されている。イコンなどの人物像が描かれた壁画で装飾された室内は、抽象的な装飾が多いモスクとは全く違う雰囲気が漂っていた。私は教会に入ること自体が初めてであり、ここを見学できたことは「ムスリムと非ムスリムとの関わり」というテーマに興味を持っている身としては非常に勉強になる経験であった。

アヤ・エレニア教会の前で

アヤ・エレニア教会の前で

教会の内部

教会の内部

また、ここには19世紀ごろに実際に使われていた儀礼用の道具や、第一次大戦中に教会が医療施設として利用された際、そのことを示すために使われた看板もあり、近代オスマン朝におけるキリスト教徒の生活や教会利用のされ方を知ることができた。

Zaman Müzesi

Zaman Müzesi

 スィッレではこのほかに予期せぬ新しい発見もあった。その一つが、アヤ・エレニア教会から少し離れたところにあるZaman Müzesiである。ここは現在、時計や時間計測に使われた機器が展示されている小さな博物館だ。しかしかつてはSüt Kilisesi(ミルク教会という意味)という名の教会だったのだ。事前調査の段階ではアヤ・エレニア教会以外の教会が現在もあることは確認できていなかったため、これには驚いた。また、この博物館の周りには墓地が広がっているが、のちに調べたところによるとここにはムスリムと非ムスリムが双方とも眠っているらしい。(非ムスリムの墓石は少ししか残っておらず、アヤ・エレニア教会に展示されている。)

 また、アヤ・エレニア教会から少し離れ、Karhane Camiの近くを歩いているときに見つけた建物も興味深かった。内部には水が流れており、そこから少し奥には炉のようなものがいくつか並んでいた。近所の人に話を聞いてみると、ここは洗濯場と料理用のかまどが一緒になった施設らしい。これだけでもこの地域の人々の生活を知ることができる重要な情報であるが、ここで最も目を引いたのは建物の壁に刻まれた碑文だった。円形の石には上半分にアラビア文字、下半分にギリシア文字が刻まれていたのだ。このことからは、ムスリムと非ムスリム双方がこの施設を利用していたことがうかがえる。

 このようにこれらの施設を新たに見つけたことで、スィッレに多くのキリスト教徒がいたことを実感することができるとともに、それらの人々の生活の一端を知ることができた。実際に現地に行くことで得られたこれらの情報は、貴重な収穫である。

クドゥム (打楽器)とともに

 コンヤでできた予期せぬ体験はもう一つある。宿泊しているホテルに共に泊まっていた男性が実はメヴレヴィー教団の一員であり、メヴラーナ博物館の近くに住む他の教団員の作業場に連れて行ってくれたのだ。ここでは教団について話を聞いたり、儀礼で使う楽器を触らせてもらったりすることができた。実際に教団関係者と交流することができたのは、貴重な経験であった。ただ、私がトルコ語をあまり話すことができず、相手も英語があまり話せなかったため、スムーズに会話することが難しかったのは残念だった。

2. ブルサ(3月15~3月19日)

コンヤの次に私が向かったのはブルサである。ここはオスマン朝初期の首都として有名であり、多くのイスラーム建築があるが、ユダヤ教徒のシナゴーグもいくつか存在する。東ローマ帝国の支配下にあった時代からここにはユダヤ教徒が住んでおり、オスマン朝時代にはレコンキスタ後のスペインから追放され、オスマン朝にやってきたユダヤ教徒たち(セファルディムと呼ばれている)の移住先にもなった。また、伝統的な影絵芝居カラギョズの発祥の地ともいわれる。

ゲルシュ・ナゴーグ内部

ゲルシュ・ナゴーグ内部

 私はブルサにあるシナゴーグの内の一つ、ゲルシュ・シナゴーグを訪れた。ゲルシュとはセファルディムの言葉で「追放された」という意味で、その名の通りスペインから追放されたユダヤ教徒たちが新たに建てたシナゴーグである。この施設を見学できたのは幸いであった。なぜなら、トルコにあるシナゴーグの中を見学するためにはトルコのユダヤ教徒コミュニティに対し、所定の申込用紙を自身の名前、連絡先、訪問日などを記入した上で提出しなければならないが、出発前にコミュニティの連絡フォームからメールを送った際にはそのファイルが添付できなかったからなのか、許可をする旨の返信が来なかった。コンヤ滞在中に改めて申込用紙を添付したメールを自身のGmailから送信したが、その時はすでに見学予定日まで3日ほどしか時間がなかったので、間に合わないのではないかと心配していた。しかし、先方が迅速な対応をしてくれたおかげで、何とか予定通りシナゴーグを見学できた。

 スィッレで教会に初めて入ったのと同じように、ここで私は人生で初めてシナゴーグに入った。シナゴーグは教会ともモスクとも違い、独特の雰囲気があった。ヘブライ文字の書かれたプレートやメノラー(燭台)を象った装飾があることや、室内の中心に説教壇があることなどが特徴的であった。また、シナゴーグの建物に隣接する小さな礼拝所を見学させてもらうことができたが、ここの本棚には古書に加え、ユダヤ教徒に関する遺物なども陳列されており、興味深かった。

事務所にて。左が Leon Elnekave 氏

事務所にて。左が Leon Elnekave 氏

 シナゴーグを見学する前後には、シナゴーグの道向かいにある事務所のような場所でブルサのユダヤ教徒コミュニティの責任者、Leon Elnekave氏と話をすることができた。言語面での問題から会話には手間がかかったが、ブルサにおけるユダヤ教徒の歴史やユダヤ教徒について知ることのできるサイトの情報など、色々なことを聞くことができた。この中で最も印象的だったのは、私がトルコにおけるユダヤ教徒とムスリムとの関係について質問した時に言われた、「トルコに反ユダヤ主義は存在しない」という言葉だった。私はオスマン朝の多宗教共存社会について興味がもっているが、そうはいってもやはりムスリムと非ムスリムとの間には少なからず壁があるのではと思っており、そのためこの言葉を聞いた時も初めは半信半疑だった。しかし、ちょうどその話をしている最中ムスリムの男性が事務所の中に親しげに入ってくるのを見たことや、私がこのシナゴーグに向かう際に案内をしてくれ、事務所で話を聞いているときもずっと隣にいた男性もブルガリア出身のムスリムであることを知ったことで、考えが改まった。確かに、このことのみを以てトルコ全体に反ユダヤ主義が少しもないという結論を出すことはできないかもしれない。しかし、親しげに話す彼らを見て、自分が過度にムスリムとユダヤ教徒を区別していたのだということを実感できたことは、自分の宗教に関する意識を改めることができる、大きな経験だった。ブルガリア出身の男性はシナゴーグ見学の後も私の市内見学についてきてくれ、様々な場所を案内してくれた。

カラギョズ博物館 付近にて。

カラギョズ博物館 付近にて。

 そんな彼の案内で訪れたのが、カラギョズ博物館である。先述のようにカラギョズはオスマン朝時代からあるトルコの伝統的な影絵芝居であり、かつては宮廷や都市内のコーヒーハウスなどで盛んに演じられていたが、現在は担い手も減り、衰退の一途をたどっている。しかし、ブルサはカラギョズ発祥の地と考えられていることもあり、このような専門の博物館が建てられ、カラギョズ文化について発信している。毎週決まった曜日にはカラギョズの上演もなされている。ここでは劇で使用される人形や、伴奏用の楽器などの実物を見ることができたことがよい経験であった。今までもカラギョズには興味があり、論文や本を読んで知識はつけていたが、日本では人形の実物を見ることができていなかったためだ。また、カラギョズの上演も見ることができた。ただ、演じられた内容には驚いた。


カラギョズの舞台裏にて。奥が Tayfun Özeren 氏

カラギョズの舞台裏にて。奥が Tayfun Özeren 氏

 私は初め、オスマン朝時代から残っている古い演目の中の一つが演じられるのだと思っていた。しかし、その日演じられたのは、カラギョズが家の屋根に乗ったドローンを取ろうとして失敗し、地面に落ちて気絶している間に見た夢で宇宙人に連れられて宇宙へ行くという奇想天外なものだった。伝統的な芝居を見るつもりだった私は少し戸惑ったが、一緒に劇を見ている現地の子供たちは楽しんでいるようで、滑稽な場面やカラギョズの特徴である言い間違い、聞き間違いなどの笑いどころが出てくると、大きな笑いが起こっていた。日本でもスーパー歌舞伎など、伝統芸術を現代風にアレンジするという例があるが、トルコでも似たようなことが起こっているのだなと思った。劇が終わった後は、先述した付き添いのムスリム男性が口利きをしてくれたおかげで舞台裏に入ることができ、この日の劇を演じたカラギョズ師のTayfun Özeren氏と話すことや、使われた影絵人形を実際に触ることができた。

Şinasi Çelikkol 氏と

Şinasi Çelikkol 氏と

 ムスリム男性と別れた後、私はアイナル・チャルシュ(ウル・ジャーミーの近くにあるバザールの内の一つ)にある、カラギョズ・アンティークというカラギョズ関係の品物や骨とう品を扱う店へ向かった。この店の店主であるŞinasi Çelikkol氏はとても親切な方で、私がカラギョズに興味があり、そのことについて勉強していると話すと、カラギョズの研究者にはどういう方がいるかということや、勉強に有用な商品はどれかということを教えてくれた。また、影絵人形の図像についても説明してくれた。その話を通してユダヤ教徒の人形には行商人やハマム利用者などいくつかの種類があり、カラギョズにおいてはユダヤ教徒も様々な役割で活躍することを知った。この店で私は、トルコの文化史家Metin And氏の書いたカラギョズについての本や、主人公であるカラギョズやハジワトの実際に使われるものと同じ大きさの影絵人形、劇に登場するユダヤ教徒やアルメニア人を象った小さな影絵人形、劇において効果音を出す際に使われる葦笛(ナーレケという名前)やテフ(タンバリンに似た打楽器)といった楽器類、そして今回見ることができなかったカラギョズの伝統的な演目を収録したDVDを購入した。

ジュマールクズク

ジュマールクズク

 ブルサで最後に訪れたのは市街地から少し離れたジュマールクズクである。この町には100年以上の歴史のある古民家が立ち並んでおり、オスマン朝時代から共和国期初期の町並みをうかがい知ることができる。ここでは公開されている古い家屋を見学したり、民俗博物館を訪れたりすることで、かつての人々の日常の暮らしについての理解を深めた。また、ブルサ市街地と同じように、ここでも現地に住んでいる男性が案内をしてくれた。彼は村の見どころだけでなく自分の家の畑まで案内してくれ、そこでサクランボやイチゴなど、様々な作物を栽培している様子を見せてくれた。彼と一緒に行動したことで、トルコにおける一般の人たちの日常生活に触れることができた。また、彼と町中で食事をしている際には町の人々が集まって踊っている様子を見ることができ、更にはそれに飛び入り参加もした。この踊りがどのような由来のものかはわからないが、現地の民衆文化に触れられたのは良い経験であった。


3. イスタンブール及びエディルネ(3月20~27日)

 ジュマールクズクに行ったのはイスタンブールへ移動する日の昼だったため、イスタンブールに着いたのは夜になってしまった。そのあととあるトラブルに巻き込まれたが、とりあえずその日はやり過ごし、翌日には何とか活動を始められた。

 イスタンブールでの第一目的は、新市街にあるユダヤ博物館を訪れ、オスマン朝やトルコ共和国におけるユダヤ教徒について英語で取材をすることであった。アポイントは事前にメールでとっており、その際質問内容も相手に伝えていた。対応してくれたのは博物館の館長であり学芸員であるNisya İşman Alloviという女性だった。

ユダヤ博物館内部

ユダヤ博物館内部

 私がまず質問したのは、「オスマン朝においてユダヤ教徒はムスリムやキリスト教徒とどのような関係を築いていたのか」ということだった。彼女によれば、紀元前4世紀からアナトリアにはユダヤ教徒がいたが、キリスト教を国教とした後のローマ帝国では、ユダヤ教徒によってイエス・キリストは死に追いやられたということから、彼らは迫害の対象になってきたという。しかし、この地域一帯がオスマン朝の支配下に置かれ、支配的な勢力がキリスト教からイスラームに変わったことで、状況は変化した。ユダヤ教徒は、自分が住んでいる国の支配には従うよう自身の聖書に書かれていることもあり、政府に対する反乱を起こさなかったため、オスマン朝とその支配下のユダヤ教徒たちは良い関係を保ち続けた。

 そのあと質問したのは、「オスマン朝時代ユダヤ教徒はどのような場所に住んでいたのか、そしてイスタンブールにおいてユダヤ教徒と非ユダヤ教徒が共に暮らしていた街区はあったのか」ということであった。オスマン朝に関する本を読んでいると、「オスマン朝では宗教によって緩やかな住み分けがなされていたが、ムスリムと非ムスリムが混住する街区もあった」というような記述を目にする。イスタンブールにはバラット地区などユダヤ教徒街区として有名な場所があるが、ムスリムと非ムスリムが混住していた街区には具体的にどのようなものがあるのか気になり、私はこのような質問をした。これに関しては、オスマン朝時代のイスタンブールではどこでもユダヤ教徒、キリスト教徒、ムスリムが共に暮らしていたとのことだった。先述のバラットにしてもその隣の地区はギリシア正教の総主教座があるフェネル地区であり、ユダヤ教徒とキリスト教徒の重要な地区が隣接していた。つまり、ユダヤ教徒だけが住む地区というのはなかったようである。なお、現在バラット地区に住むユダヤ教徒はわずかであり、そこにあるシナゴーグはもっぱら礼拝の際にのみ利用されているようである。

 ムスリムと非ムスリムとの関わりについては、職業面についても気になることがあった。オスマン朝における職業ギルドには、ムスリムと非ムスリムが共に所属していたものがあるということは概説書で知ることができたが、具体的にどのギルドがそのような特徴を持っていたのかということまではわからなかった。今回の取材では、オスマン朝におけるユダヤ教徒がどのような職についていたのかを知ることができた。ユダヤ教徒の有名な職業としては金融業や貿易商、医者などが挙げられるが、それだけではなく、小店舗の経営者や織物の染色業、金物屋などの職業についていたようである。ユダヤ教徒にすべての仕事が解放されていたわけではないが、それでも様々な分野でユダヤ教徒は活躍していたようだ。また、船の漕ぎ手や火消しなどの職業には、非ムスリムとともに働いていたらしい。ここではユダヤ教徒がついていた職業を具体的に知ることができ、オスマン朝における彼らの活躍について理解をより深めることができた。

 また、ユダヤ教内部にある派閥の違いについても質問した。この地域のユダヤ教徒には、もともと住んでいたギリシア語を話すユダヤ教徒であるロマニオット、ポーランドやドイツから移住してきたアシュケナジム、イベリア半島からやってきたセファルディムといったいくつかのグループが存在することは知っていたが、具体的にはどのような違いが彼らの間にあるのかということを私はよくわかっておらず、気になっていたのだ。Allovi氏によれば彼らの間には結婚儀礼や建築などにおいてたくさんの違いがあり、ここですべてを話すことは難しいという。ただ、例を挙げるならば、アシュケナジムの儀礼の音楽はオペラのようであるのに対し、セファルディムのそれはマカームというムスリムの音楽に似ていると言われている。ただ、アシュケナジムに関してはセファルディムとの違いなどを今でも保っているが、ロマニオットはセファルディムの中に吸収されてしまったという。

 上記のこと以外にも「オスマン朝のユダヤ教徒についての史料はどのようなものがあるか」など、質問をいくつか行ったが、そのすべてにAllovi氏は丁寧に答えてくれた。このような取材を通し、私はこの地域のユダヤ教徒の文化や歴史、非ユダヤ教徒とのかかわりについて多くのことを知ることができた。ただ、事前に作っていた質問に、いくつか重複する内容のものがあったことは失敗であった。取材の後、博物館側のご厚意により、館内の見学を無料でさせてもらうことができた。ここにはオスマン朝の政府が発布したユダヤ教徒に関する勅令や儀礼用の器具などが展示されているほか、オスマン朝やトルコ共和国においてユダヤ教徒が文化面や社会面で行ってきた活動についてパネルなどを使って紹介していた。ユダヤ教徒の歴史・文化について本格的に取り扱った博物館を訪れるのは初めてであり、ここにあるモノ史料を通して様々なことを学ぶことができた。また、この日は新市街にある教会もいくつか見学した。

オクリダ・シナゴーグ内部

オクリダ・シナゴーグ内部

 翌日からはイスタンブールの各地を回り、歴史的建造物や宗教施設の実地調査を行った。まず行ったのは、先述の取材の際に触れたバラット地区にあるオクリダ・シナゴーグである。Ozbilge氏の書籍によると、この施設は1427年に建てられたもので(18世紀に再建)、東ローマ帝国時代から残る数少ないシナゴーグの内の一つであり、イスタンブールで最も大きなシナゴーグでもある。内部には船を象った説教壇があり、装飾面では今回の調査で最も印象に残ったシナゴーグだった。また、建物の周辺を調査していると、シナゴーグから徒歩数分の場所に古くからある教会やモスクが存在しており、別々の宗教にかかわる施設が密集していたことがわかった。ユダヤ博物館での取材で教えてもらった、「イスタンブールではどこでも様々な宗教に属する人々が混住していた」ということを実際に目で見て確認することができたのである。

 複数の宗教の共存を実感できた場所としては、イスタンブールのアジア側にあるクズグンジュックも印象的だった。

シナゴーグ付近にあった Surp Hresdogabed church

シナゴーグ付近にあった Surp Hresdogabed church

 また、同じ日にはフェネル地区にあるコンスタンティノープル世界総主教座も訪れた。もともと総主教座はアヤソフィアにおかれていたが、コンスタンティノープル征服後に移転を繰り返し、1601年にこの場所に落ち着いたという。この教会はギリシア正教会の中心的存在であることもあり、スィッレで見た教会と比べると規模も大きく、内部もより豪華に装飾されていた。ここで注目したのは、教会内に安置された聖遺物である。この教会には聖エウフェミアなどの聖人の遺体や遺物があるが、私と同じようにここを訪れていた女性がそのような遺物の入った箱の前にひざまずき、接吻をしている様子を目撃したのだ。コンヤにおけるメヴラーナ廟で見たのと同じように、ここでも現代における信仰の様子を見ることができた。

 複数の宗教の共存を実感できた場所としては、イスタンブールのアジア側にあるクズグンジュックも印象的だった。

コンスタンティノープル世界小主教座内部

コンスタンティノープル世界小主教座内部

 ここにはかつてユダヤ教徒のコミュニティがあったようであり、今もシナゴーグがいくつか存在する。私はそのうちの一つであるBeth Yaakovシナゴーグを訪れた。ここは今までに見たシナゴーグとは違い、19世紀に建てられた比較的新しい施設である。建物内部の天井には聖書の時代に関する絵が描かれており、これは今回訪れたほかのシナゴーグにはない特徴であった。ただ、ここを案内してくれたユダヤ教徒のNiso Yeruchalmi氏によれば、バラットと同じようにこの地区のユダヤ教徒も数を減らしており、今では数人しか残っていないという。他の人々はイスタンブールの新市街にあるシシュリやイスラエルなどに移住してしまったそうだ。それでもサバトの際には礼拝をしに100人ほどのユダヤ教徒たちがイスタンブールの他の地区から集まってくるそうだ。また、このシナゴーグの中庭にはYerchalmi氏以外にも数人の人がいたが、彼らの中にもムスリムが混じっており、ブルサの時と同じように、ユダヤ教徒とムスリムが共に談笑し合う様子を見ることができた。この他にクズグンジュックで印象的だったのは、モスクと教会が隣り合って存在しているのを見たことである。この地区にあるスルプ・クリコル・アルメニア教会はなんとクズグンジュック・ジャーミーというモスクのすぐ隣に建てられており、他宗教が共存している光景としてとても印象的だった。

隣り合う教会(手前)とモスク(奥)

聖ゲオルギウス修道院の前で

聖ゲオルギウス修道院の前で

 私は期間中、ボスポラス海峡にあるプリンスィズ諸島の島の一つ、ビュユック島も訪れた。ガリマール社のガイドブックによればプリンスィズ諸島には様々な民族、宗教に属する人が住んでいるとされており、修道院も数多く存在している。ビュユック島には聖ゲオルギウス修道院があり、今日まで多くの巡礼者がいるそうである。修道院に向かうには島にある小高い丘の頂上まで石畳の道を歩いて登らなければならないが、この道のわきの茂みには白い布がいくつも結び付けられていた。これは聖ゲオルギウスに関する恋愛成就のおまじないだそうである。このような民間信仰の現場を見ることができたのは収穫であったが、何よりも印象に残ったのは修道院の中にあるゲオルギウスのイコンの前に、貴金属や時計など多くの捧げ物が置かれていたことである。トルコというとどうしてもイスラームというイメージを持ってしまうが、このようなキリスト教修道院も人々の信仰を集めているということを実感した。

白い布が結び付けられた木

白い布が結び付けられた木

 イスタンブールでは史料の収集も進めることができた。私は三沢伸生氏の論文を参考に、イスタンブールの新市街にある書店、古書店を渡り歩いた。ただ、この論文は2009年度のものなのでそこから現在までの間に店舗が移転したりなくなってしまっているところも多く、書店探しは少し難航した。それでも、入った古書店では様々な書籍を見つけることができた。今回私はTurkuaz古書店でトルコ語-英語辞典を購入したほか、ガラタサライ・リセの近くにある古書店街、Aslihan Pasajiにてエヴリヤ・チェレビの『旅行記』の現代トルコ語版や、アルメニア人文筆家エレミヤ・チェレビの『イスタンブール史』の現代トルコ語版などを購入した。

グランド・シナゴーグ

グランド・シナゴーグ

 エディルネにはイスタンブール滞在期間の内一日を使って行った。ここはブルサと同じくコンスタンティノープル(イスタンブール)征服以前のオスマン朝の首都の一つとして有名であるが、ここにもかつてはユダヤ教徒の大きなコミュニティが存在していた。私はここで、20世紀になってから新たに作られたシナゴーグであるグランド・シナゴーグを見学した。最近になって修復されたこともあり内部はきれいで、壁面の装飾や六芒星を象ったシャンデリアなどを見ることができた。

 上記の活動を終えたところで予定の滞在期間は終了し、27日の午前一時ごろに出発する飛行機で帰国するつもりだったのだが、ここで予期せぬ事態が起こった。航空会社がダブルブッキングをしてしまったせいで、もう一日トルコに滞在することになったのだ。(帰国日は28日となった)思いがけず増えた行動時間を利用して、私はスレイマン図書館へ写本のコピーをしに行った。ここは予定期間中の25日(土曜日)にも訪れてはいたのだが、土日は複写を受け付けていなかったため、閲覧だけしかできなかったのだ。ここでは写本を手に取って読むことはできず、閲覧室に並ぶパソコンをつかって写本の画像データを見るというシステムを取っている。複写をしたい場合は複写申請用紙に記入して係員に提出すると、ディスクにデータを焼いてくれる。大きな写本を一冊丸ごと複写するとなると金額もばかにならないため、どの写本を複写してもらうかは悩んだが、結局自分が読んでいる論文において利用されていた、19世紀のイマームの日記を複写してもらった。私はまだオスマン語を読めないのですぐに利用することはかなわないが、文書館で行う文献調査~複写までの手続きを実際に体験できたことはとても勉強になった。

 以上で、全ての日程が終了した。

まとめ

 今回の調査を行うことで、私はオスマン朝の社会に関して、国内で本を読んでいるだけでは得られない知識を得ることができた。オスマン朝時代から存在するシナゴーグや教会を見学することで彼らの文化を知ることができた。また、街を自分の足で歩くことでモスクや教会、シナゴーグの位置関係もわかり、ごく近くでムスリムと非ムスリムが暮らしている場合もあったことを実感した。さらに、現地の人々と実際に交流したことで、この地域の社会に関し、彼らの生の声を通して知ることができた。

 課題としては、言語能力不足が挙げられる。私はトルコ語ができないため、海外の人とコミュニケーションをとる際は英語を使わざるをえないのだが、トルコでは会話をする相手がそもそも英語を不得意とする場合も多かったため、うまく意思疎通ができない場面が多々あった。トルコ語をもっと習得していれば、より多くの情報を得ることができたのではないかと思う。また英語に関しても、実際に取材で使ってみると自分の英語がかなりたどたどしいものであることを実感した。このような言語面の課題は、これから学習を進めていく上で改善していかなければならないものである。

 また、先程は現地の人との交流がよい経験になったと語ったが、そのことが原因で失敗することがあることも今回痛感した。イスタンブール到着直後にトラブルに巻き込まれたと書いたが、その原因も私がイスタンブールで会った人物を何の根拠もなく信用してしまったことにある。このような失敗をしないためにも、交流する相手がどんな人間であるかを見極めなければならないのだ。今回の経験から今後本奨学金を利用して海外でフィールドワークを行う学生に対して言えることは、「私もあなたと同じ旅行客である」といって近づき、食事や外出に誘ってくる輩には注意した方が良いということである。

 恥ずかしい話をしてしまったが、最後に、奨学金を受給して下さった中央大学文学部や、計画をチェックしていただいた東洋史学専攻の新免康先生、取材依頼に快く応じてくれたユダヤ博物館のNisya İşman Allovi氏や、ブルサのユダヤ教徒コミュニティの現地で案内をしてくれたLeon Elnekave氏、そして現地でお世話になった人々など、この計画の実行を助けて下さったすべての人たちに感謝の意を表しながら、本報告を終わらせていただく。

【参考資料】

  • ガリマール社、同朋舎出版編.『イスタンブール』.同朋舎出版,1994年.
  • 野中恵子.『史跡・都市を巡るトルコの歴史』.ベレ出版,2015年.
  • Bakırcı, N.『メヴラーナ』.Aki Yasuo Kankılıç訳.İpekyolu Turistik Yayınları,2010年.
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  • SELÇUKLU BELEDİYESİ. “MEZARLIKLAR”. KÜLTÜR VADİSİ - Sille, http://selcuklusille.com, (参照 2017年6月30日).