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セルビアとクロアチアにおける、卒業論文執筆のための参考文献収集
文学部人文社会学科 西洋史学専攻 4年
松田 将太
1.概要
2013年7月31日~9月3日:セルビア共和国とクロアチア共和国において、図書館や書店等で卒業論文執筆のための参考文献を収集する
2.目的
「ユーゴスラヴィア内戦時の同地域におけるサッカーと政治の関係」という漠然とした卒業論文テーマから、現地での文献収集を通して具体的な研究テーマを決定すること。
3.活動報告
«参考文献収集前»
昨年、本奨学金の給付を受け、セルビアの首都ベオグラードにおいてセルビア語の習得に励んだ私は、卒業論文執筆のための文献収集という目的で、このたび再び本奨学金の給付を受け、セルビアとクロアチアを訪問した。
昨年、アエロフロートロシア航空を利用してセルビアのベオグラードへと向かったが、その際に往復便共にロストバゲージをするなど大変な目に遭った私は今回、カタール航空を利用し、7月31日にクロアチアの首都ザグレブに到着した。文献収集はベオグラードをメインに行うことを決めていた私がザグレブへと向かった理由としては、2013年7月1日から、クロアチアが正式にヨーロッパ連合(以下EU)へと加盟したからである。まずはクロアチアにおいて、出来るだけEU加盟から日が浅いうちに、これに関する意識調査を行ってみたいと考えた。これは卒業論文等には一切関連が無く、ただ興味本位で行ったことであるので、詳細は割愛するが、現地の人々は概ねポジティブに捉えている様子であった。東側の貧しい隣国・憎きセルビアに差をつけ、西側の裕福な隣国・ほぼ同時にユーゴスラヴィアから独立したスロヴェニアに近づくチャンスであり、EU加盟が西側諸国のように裕福な生活を送るための第一歩というような声が多く聞かれた。懸念された物価の上昇に関しても、クロアチア人の友人曰くタバコ以外むしろ物価が下がっているということで、国民へのマイナス面の影響はそれほど大きくないと感じた。数年後には西側諸国への出稼ぎも容易になるということで、若者の就職難にあえぐクロアチアにとっては間違いなくいい影響を与えることになるのではないかと私も期待している。
フィールドワークには程遠い、この世間話をするためにクロアチアでも未踏の都市をいくつか訪問したのだが、その全ての都市から夏の紺碧のアドリア海と綺麗な街並みを目にすることが出来、感動すると同時に、観光立国としてアドリア海の向こう側のイタリアよりも有名になる日がそう遠くないかもしれないと感じた。実際、2年前にはほとんど見かけることのなかった日本人観光客を、あらゆる都市で頻繁に見かけた。数年前までは、日本人にとっては内戦の印象が強く残っていて、まだ訪問するには躊躇する国というイメージがあったと思われるが、最近では頻繁に旅行番組などで特集されていて、景色が綺麗で人も温かく、比較的治安も良い国と紹介されている効果は絶大であると感じた。私自身も、ヨーロッパを旅行する友人には、クロアチアを訪問することをお勧めしている。
写真:クロアチアの至るところで見られた国旗とEUの旗(ロヴィニィ=クロアチア)
写真:紺碧のアドリア海と空、そしてロヴィニィの街並み(ロヴィニィ=クロアチア)
ザグレブ、リエカ、ロヴィニィ、プーラといったクロアチア西部の都市での簡単な調査を終えた私は、どうしても行っておきたかった都市があり、セルビアのベオグラードへ向かう途中に経由した。その都市とは、クロアチアの東端、セルビアとの国境付近にあり、内戦によって街の建物の9割が破壊されたヴコヴァルである。実は2年前にも1度訪れたことがあるのだが、それから復興が進んでいるのか、非常に気になっていた。結論から言うと、復興はほぼ完了しているように見えた。2年前には修復中であったヴコヴァル市立博物館も、真新しい姿で開館しているなど、内戦の爪あとは確実に消えていっていると感じた。壊れたままになっている建物もいくつか見られたが、そこに多くの花が手向けられていたことから、内戦を忘れないため、そして有事の際にナショナリズムを高揚させるためにわざと残してあるのだろう。昨年の報告書で言及した、ベオグラードにある旧ユーゴスラヴィア連邦共和国軍司令部のように。
写真:ヴコヴァルに残っている数少ない戦争の悲惨さが伝わる建物
«ベオグラードでの文献収集»
クロアチアのヴコヴァルからベオグラードへはバスで3時間ほど。ヴコヴァルを出発してすぐに、Vukovar nikad neće biti Вуковар(Vukovarは決してВуковарにならない)という印象的な落書きが見えた。キリル文字は旧ユーゴスラヴィア、そしてセルビアで使われる文字であり、キリル文字で表記することはつまり、セルビア支配下の街になることを意味している。また、最近では少数民族に配慮した条例に基づいて設置されたキリル文字の標識が、すぐに住民によって破壊された事件も起きており、依然としてこのあたり(東スラヴォニア地域)では反セルビア意識を身をもって感じることが出来る。
国境でのチェックを終えてセルビアに入国し、昨年のセルビア語サマースクールへの参加以来1年ぶりにベオグラードに到着した。クロアチアがEU加盟もあってか街が非常に活気付いていた反面、ベオグラードは何も変わっておらず、ある種の安心感を覚えた。翌日、2年前まで中央大学に留学していたセルビア人の友人と共にセルビア国立図書館へと向かい、会員登録や文献の検索方法などを教えてもらった。その日から約2週間、セルビア国立図書館へほぼ毎日通い、参考文献の収集に努めた。
「ユーゴスラヴィア内戦時の同地域における政治とサッカーの関係」という漠然としたテーマから、具体的にテーマを絞ることも今回の目的の一つであったので、まずは当時の新聞(主にスポーツ新聞)から、大々的に扱われている事件等が無いかを調べた。卒業論文を執筆するに当たっては、ある程度の数の参考文献が必要となるので、大きな事件等を中心として扱う必要性があったためである。あまりにも膨大な量の新聞があり、ここで予定よりも大幅に時間を使ってしまったせいで、ベオグラードで延泊する必要が生まれてしまい、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォとバニャルカに行く予定は取りやめとなった。
写真:図書館でスキャンしてもらった1990年の新聞(Спортски Журнал)
そして最終的には「1990年5月13日にザグレブのマクシミールスタジアムにおいて、サッカーの試合中に起きた観客同士の乱闘事件」についての卒業論文を執筆することを決めることが出来た。この事件の簡単な概要は、ユーゴスラヴィア連邦内のクロアチアのディナモ・ザグレブとセルビアのレッドスター・ベオグラード(現地語ではツルヴェナ・ズヴェズダ)の試合中、両チームのサポーター(この場合、ホームのディナモ・ザグレブ側に陣取るクロアチア人と、アウェイ南スタンドのレッドスター・ベオグラード側に陣取るセルビア人)同士が煽りあったことから、椅子の投げ合いや殴り合い、さらにはピッチに乱入して機動隊や選手も入り乱れての乱闘になった事件である。クロアチアにおいて民族主義を掲げる政党が力をつけ、ユーゴスラヴィア(この場合、現セルビアと捉えたほうが理解しやすいかもしれない)からの独立の気運が高まっていた当時、クロアチアとセルビアの代表的なチーム同士のこの試合は、試合前から異様な雰囲気に包まれ、これは代理戦争になりかねないとインタビューで話す者もいた(スタジアム周辺でのインタビュー、そして事件の映像はYoutubeで視聴することが出来る)。クロアチアがユーゴスラヴィアからの独立運動を激しくさせる1つの大きなきっかけとなったこの事件の歴史的な背景を、「ユーゴスラヴィアにおけるスポーツと政治、そしてフーリガニズム(スポーツにおける暴力)」という観点から研究することで、この地域への理解をより深めることが出来ると感じた。
テーマ決定以降は、直接事件に言及している文献(英語文献の例: Ivan Đorđević, Twenty years later : the war did (not) begin at Maksimir)や、事件以前に刊行された「スポーツと暴力」というタイトルの論文集を読み、その中でも参考になる文献等(クロアチア語文献の例: Ivan Čolović, Fudbal, huligani i rat)、間違いなく卒業論文執筆に利用可能なものを収集することが出来、非常に充実した時間となった。
«セルビア国立図書館の利用方法»
ここで、写真を使ってセルビア国立図書館の利用方法を紹介したい。ちなみに、セルビア人の友人曰く、これほどシステム化された図書館はセルビアで唯一だろうとのこと。
セルビア国立図書館は、東方正教系では世界最大規模を誇る聖サヴァ教会(内部は常に工事中で、閑散としている)の隣にあり、周囲は緑豊かな公園に囲まれている。
写真:左の教会が聖サヴァ教会、右の建物がセルビア国立図書館
開館時間30分前頃になると、大学生(友人曰く、ちょうど大学生のテストシーズンであった)と思われる若者が席の確保のために列を作る。席によって利用出来る文献の種類が異なるため、人気の高い雑誌を閲覧するためには朝早くから並ぶ必要がある。
写真:開館前に列を作る利用者たち。日本人はおろかアジア人の姿も無く、周囲の人々からの目線を感じた。
入館後、受付に会員カード(10日間利用で700円ほどだったが、1年間利用でも3000円程度であった)を提示し、席の種類を選択する。新聞を含む雑誌を利用するためには、ПЕРИОДИКА(ペリオディカ)という席を選択する必要があり、それ以外の書籍を利用するためにはЦентар Читаоница(ツェンタル・チタオニツァ=中央閲覧室)等(他の席でも利用可能であると思うが、選択していないので不明)を選択する必要がある。この時期は午前中の段階で全席埋まっている様子であり、お昼過ぎには退館者待ちの人々が長い列を作っていた。
席を選択後には写真のレシートのような紙を受け取り、筆記用具やノート等以外の荷物をクロークに預け、2階に上がってPCで閲覧したい新聞や書籍等を検索する。PCを利用するためには紙に書かれたIDとパスワードを入力する必要があるが、紙もPCの画面もセルビア語のみなので、多少困ることがあるかも知れない。書籍の検索に際しては英語も利用することが出来る。インターネットも自由に利用することが出来るので、インターネットカフェのような利用の仕方も可能で、非常に便利であった(ベオグラードにもインターネットカフェはあるが、この国立図書館からは遠い場所にある)。書籍に関してはPCで予約し、約20分後にカウンターにてIDが記載された紙を提示して受け取ることが出来るが、新聞等の雑誌に関しては写真の紙(セルビア語のみ)に記入し、提出しなければならない。受け取りにも書籍よりは少々時間がかかった。
写真:席を選択後に受け取るレシートのような紙。席番号や名前、ID等が記載されている。
写真:書籍等を検索する際のPCの画面。貸し出し不可のものが非常に多かった。
写真:新聞等の雑誌を閲覧する際に記入する紙。キリル文字のセルビア語のみ。
書籍をコピーしたい場合には、専門のスタッフが常駐している場所に行き、コピーを申し込めばよい(A4用紙30枚で300円程度)。少々料金が高かったが、スキャンしてメールで送ってもらうことも可能である。
また、入館後には指定された席を自由に利用することが出来るので、大学生と思われる現地の人々の半数以上は、特に書籍を借りるでもなく、席のみを利用して勉強している様子であった。館内には休憩用のカフェもあり、勉強環境は整っていると感じた。
«ベオグラードでの生活»
ベオグラードでの生活に関しては昨年の報告書でも言及したので、今回ベオグラードで国立図書館の利用以外にはじめて経験した真新しいこととして、映画鑑賞のみを記述したい。
セルビア人の友人に誘われて、ウシチェという大きなショッピングモールの中の映画館にて鑑賞した。友人は合気道を習っているのだが、合気道の先生も一緒に鑑賞することになった。日本から遠く離れたセルビアの地で、日本人の私よりも日本の文化について詳しく知っているセルビア人2人と行動するのは嬉しいことであったが、私ももっと日本について勉強しなければならないと感じた。チケット料金は、日本では1800円程度なのに対して400円程度であり、全体的な物価が日本の6割から7割程度なのを考えると、非常に安いと感じた。今回鑑賞した映画は、アメリカで制作されたものだったので、英語音声にセルビア語の字幕であったが、音声より字幕のほうが理解し易かった。もちろん英語を勉強する必要性を感じたが、それ以上にセルビア語字幕をほぼ理解することが出来たことに非常に嬉しさを感じた。
映画鑑賞以外のベオグラードでの生活に関しては、昨年同様にサッカー観戦や、ベオグラードビールフェスタへの参加など、非常に充実したものとなった。
«スロヴェニアでの生活»
2週間程度を過ごしたベオグラードを離れ、当初はザグレブに戻りクロアチア人の友人宅に宿泊させていただく予定であったが、友人がバカンスから3日間程度遅れて帰ってくることになり、宿泊費が安く、ザグレブからも近いスロヴェニアの首都リュブリャナに急遽行くことにした。セルビアのベオグラードからはバスで約8時間、5000円程度である。旧ユーゴスラヴィアの国々の中でも最も裕福で、過去には西側諸国との窓口のような役割を果たしていたスロヴェニアは、セルビアと比べると洗練されていて、明るい印象を受ける。2年前にもスロヴェニアを訪れた経験があるのだが、その際にはコソヴォへ行くために空港を利用した程度であったので、今回改めてスロヴェニアについて知るためのいい機会となった。
まず、観光客の数が非常に多い。セルビアにおいて多くの観光客(ツアー客等)を目にすることは滅多にないのだが、スロヴェニアは、クロアチアと同様に観光地ではスロヴェニア語以外の言語を耳にすることのほうが多い。ブレッド湖のような観光地では、スロヴェニア語を耳にすることが一度もなく、ブレッド湖からリュブリャナへと向かうミニバスの乗客は私以外皆ヨーロッパ各地からの観光客であった。また、私が感じた限りでは国民のほとんどが英語を話すことが出来るので、教育水準が旧ユーゴスラヴィア諸国の中では最も高いと感じた。
写真:スロヴェニア屈指の観光地であるブレッド湖
そして、リュブリャナにおいて最も便利だと感じたのは、自転車のレンタルである。市内のあらゆる場所にレンタル用の自転車と自転車置き場が設置されていて、英語表示可能な機械を操作するだけで簡単に自転車を借りることが出来る。また、借りた自転車は、市内の別の自転車置き場にも返却することが出来る。市の中心から少し離れたスタジアムでサッカー観戦をするために、市の中心で自転車を借りて、スタジアム近くで返却するといった利用も出来、私にとっては非常に便利であった。
また、些細なことかもしれないが、他の旧ユーゴスラヴィア諸国では滅多に見ることの出来ない自販機がリュブリャナ中央駅付近を中心にいくつか設置されていることから、上記のレンタル自転車の制度も含めて、治安が良い国という印象を受けた。
ちなみに、上記の自転車レンタルについての話で触れたが、リュブリャナでははじめてのサッカー観戦も経験した。これでコソヴォを除く旧ユーゴスラヴィア諸国すべてでサッカー観戦を経験したことになったのだが、スロヴェニアはその中で最もサッカー人気が無い国であると感じた。観戦した試合の対戦カードにも問題があったのかも知れないが、おそらく観客は500人程度で、アウェイ側のチームを応援する者は誰一人としてスタジアムにいなかった。スタジアム自体は新しく、運営等もしっかりしているだけに、もったいないと感じた。また、セルビアのサッカーとの共通点としては、チームの愛称が「色」で表現されていることであった。例えば、セルビアのパルチザン・ベオグラードの愛称が「ツルノ・ベリ(黒白)」、レッドスター・ベオグラードの愛称が「ツルヴェノ・ベリ(赤白)」であるのに対してスロヴェニアのオリンピア・リュブリャナの愛称が「ゼレノ・ベリ(緑白)」である(この場合のゼレノ=緑とベリ=白は、スロヴェニア語もセルビア語も共通の語彙)。
写真:リュブリャナのサッカーチームの応援団。
非常に人数が少なかったが、この国でも他の旧ユーゴスラヴィア諸国同様に、やはり発炎筒は欠かせないものである。
スロヴェニア語に関しては、セルビア語の知識では半分も理解出来なかった。テレビを見ていても、話し方がセルビア語や他のスラヴ語とは異なっているように感じて、スラヴ語系かラテン語系かすら注意して聞かないと分からないことが多かった。ただ、街中にある看板等を見ると、格変化(これについては前回の報告書で触れた)もセルビア語と似ていて、理解できる文章も多々あった。スロヴェニア語を理解することが出来ても、スロヴェニア以外では使用することが出来ないが、旧ユーゴスラヴィアを研究する上では間違いなく役に立つ言語であるので、基礎知識だけでも学んでおきたいと思う。
«ザグレブでの参考文献収集»
リュブリャナを拠点にスロヴェニアで数日間を過ごした後、列車でザグレブへと向かった。ザグレブまでの所要時間は2時間強であったが、コンパートメントタイプの車内で、おそらくザグレブ出身(直接尋ねたわけではないが、ザグレブ周辺の方言を話していた)のクロアチア人家族と仲良くなるなど、楽しい道のりとなった。ザグレブ到着後には、過去に何度もお世話になっているザグレブ在住のクロアチア人の友人(3年前に中央大学に留学生として来ていた)と1年半ぶりに合流し、その日は彼の友人たちと夜の公園で飲み会をした。毎回この地域に来るたびに思うのだが、人々のホスピタリティーは本当に素晴らしく、この日もお酒はもちろん、クロアチアお土産(サッカー好きだと告げると、初対面でもサッカーチームのグッズをプレゼントしてくれることも多々ある。この日はその場で使っていた昔のチームエンブレムが入った貴重なキーホルダーをプレゼントされた)など、数多くのプレゼントを頂き、心から歓迎されていると感じた。
卒業論文のテーマに決めた事件に関しての参考文献は、ベオグラードのセルビア国立図書館で十分すぎるほど収集出来ていたので、ザグレブでの参考文献収集は、書店を巡って書籍を2冊購入する程度にとどまった。しかしながら、ザグレブには多くのサッカー好きな友人がいるため、彼らから卒業論文のテーマに決めた事件についての見解を伺うことが出来た。それは一個人の考えに過ぎないため、直接卒業論文に参考として載せることは出来ないが、執筆するに当たってのヒントのようなものが多く詰まっていたと感じた。中には父親が事件の現場にいたと話す友人もいて、帰国後にも連絡を取り合うことで、彼の父親からも話を伺うことが出来るかもしれない。
«ザグレブでの生活»
今回ザグレブを訪れたのは通算で3回目であり、ベオグラードと同じように馴染みのある都市である。しかしながら、前回はザグレブはおろかクロアチアのどの都市も訪問していないので、本報告書でははじめて述べることになる。
まず、ザグレブは市内の交通機関が非常に分かりやすい。主にトラムに関してであるが(バスもあるが、市内の主要箇所への移動にはトラムのみで十分)、各停留所にマップが掲載されていて、はじめて訪れた人でもどのトラムがどの場所へ行くのか一目瞭然である。また、切符に関してもキオスクで簡単に買うことが出来る(90分利用可能な1回券で200円程度。いつの間にか値上がりしていた)。クロアチア語が分からないと多少困ることもあるとは思うが、若者はほぼ確実に英語を話すことが出来る上に親切であるので、困った時は積極的に周囲の人に尋ねてみると良いだろう。ザグレブは首都の割にそれほど大きな都市ではないが、宿が郊外に点在していることも多く、その際にトラムは利用価値が高い。ちなみに、後述するスタディオン・マクシミール(ザグレブにあるサッカースタジアム)へも、市の中心からトラムで簡単にアクセスすることが出来る。
また、昨年ベオグラードに関して記述した際に、観光名所がほとんど無いと述べたのだが、ザグレブに関しても同じことが言える。私が見る限り常に工事中の聖母被昇天大聖堂と、聖マルコ教会程度しか見どころは無いように感じる。実際、私がはじめて訪れた際に、クロアチア人の友人が観光案内できる場所は少ないと言っていた。最近非常に増加している、日本人も含むクロアチアへの観光客に関しても、その多くはザグレブを経由はするものの、クロアチア中部から南部にかけてのドゥブロヴニク等のアドリア海沿いの観光地(それに加えてプリトヴィッツェ湖群国立公園が定番のルートである)を中心に旅行計画を立てていると感じた。しかしながら、ザグレブには博物館や美術館が数多くあるので、そちらに興味がある方にとっては観光のしがいがある街なのかもしれない。
ザグレブにあるスタジアムで起きた事件を卒業論文のテーマとして掲げるのであれば、クロアチアのサッカーについても触れるべきであろう。今回も含めると、私はその事件が起きたザグレブのスタディオン・マクシミールに4度訪れ、サッカーの試合を観戦している。今回は2試合観戦したのだが、その2試合目がザグレブのチーム(前述した事件概要にも登場するディナモ・ザグレブ)にとって非常に重要な試合ということもあって、スタジアムは満員であった。しかしながら、超過激派で有名なディナモ・ザグレブのサポーター組織であるバッド・ブルー・ボーイズ、通称BBBは、クラブの会長への不満から(ザグレブの街中では、その会長を激しく侮辱する落書きが至るところで見られる)長きに渡ってスタジアムでの応援をボイコットしており、スタジアムは至って穏やかな雰囲気であった。4度の観戦歴のうち、1度だけボイコットを撤回して応援している試合を観戦することが出来たのだが、試合中の発炎筒はともかく、試合後に催涙ガスをスタジアム周辺に撒き散らしていて、私も被害に遭ってしまった。しばらくの間目が開けられず、呼吸も困難な状況になったのだが、その試合はディナモ・ザグレブが勝利していたので、腹いせでもないはずであり、何を目的として撒き散らしたのか不明であった。今回、満員となった試合は、ディナモ・ザグレブが惨敗したため、もしBBBがスタジアムにいたらと考えると少し恐ろしい。
写真:スタディオン・マクシミールの北スタンド2階最上段から
昨年の報告書で、ベオグラードでは「ヘイ、キーネ(中国人)!」と侮辱にも近い話し方で中国人と揶揄されることが多いと記述したが、ザグレブのみならずクロアチアのどの都市においても、そのようなことを言われることは無かった。これは、観光客の少ないベオグラードでは、「東アジア系の顔=現地に住み着いて、迷惑行為を起こすことも多い中国人」という認識であり、観光客の多いクロアチア全体では、「東アジア系の顔=観光客としてやって来て、地域に貢献してくれる日本人、韓国人もしくは中国人」という認識であるからだと考えている。ベオグラードにおいてセルビア語を話してもあまり驚かれず(現地に住み着いている中国人ならセルビア語を話せて当然だという認識から?)、クロアチアにおいてクロアチア語を話すと驚かれて、好意を持って接してくれるという違いからも、この考えで間違いないのではないかと感じる。しかしながら、それを現地の人々に直接尋ねて回ったわけではないので、機会があればもう少し具体的な調査をしてみたい。
«活動を振り返ってみて»
今回は、前回のようにサマースクールに参加したわけでも、具体的なフィールドワークをしたわけでも無いが、非常に充実した時間を過ごすことが出来た。渡航前の段階ではあまりにも漠然としていたテーマも、現地での参考文献収集を通して、具体的なものを決めることが出来た。それ以降は、現地に滞在しているというメリットを最大限に活かして、卒業論文に利用出来そうな英語もしくはセルビア・クロアチア語文献を数多く収集することに努めた。その結果、卒業論文執筆には十分な量の参考文献を収集することが出来、後悔の無い滞在になったと感じる。
おそらく今回が最後の旧ユーゴスラヴィア地域での長期滞在となったが、1年次から一貫してこの地域に興味を持ち続けてきて本当に良かったと感じる。大学生活の学業面すべてを捧げたと言っても過言ではないこの地域の研究を通じて、全ての面において成長することが出来た。1、2年次には西洋史学専攻の講義を通して歴史研究の基礎を学ぶとともに、長期休暇には2度現地への渡航も果たした。そして、それまで学んだことと、本奨学金を存分に活かして、高校生以前よりずっと興味を持っていた同地域の歴史研究に励むことが出来、それを最終的には卒業論文にまで繋げることが出来た。今、改めてこの過程を振り返ってみると、中央大学文学部に入学して本当に良かったと感じる。大学入学当初には、こんなにも充実した素晴らしい時間を過ごすことが出来るとは、全く想像もしていなかった。
最後に、現地での参考文献収集に積極的に協力してくれた、ベオグラード大学のナターシャと、ザグレブ大学のスヴェンという2人の元中央大学の留学生にはこの場を借りて感謝したいと思う。彼らの協力が無ければこんなにも今回の活動は充実しなかったであろう。また、昨年に引き続き、今年も文学部学外活動応援奨学金の給付を受けて、素晴らしい経験をすることが出来、感謝するとともに非常に嬉しく思う。