学部・大学院・専門職大学院

トルコでの発掘、見学を終えての報告書

文学部人文社会学科 西洋史学専攻 3年
大谷 亮介

私は7月20日から8月10日まで、トルコにて発掘に参加し、主に古代ローマの遺跡・遺物に関わる事物を中心にした見学を行った。そのことをこの報告書にて奨学金を頂いた中央大学に報告するために、これを記した。なお、このトルコでは私一人の個人行動ではなく、他に筑波大学の学生2人と行動を共にしているため、一人称は単数、私と複数、私たちの時が有る。

7月20日、日本を出発し直接イスタンブールに到着した。到着後すぐに、すでに予約してあったイスタンブールのアタテュルク空港近くにあるWOW Airport Hotelに地下鉄で向かった。そのホテルの値段は高価ではあったが、私たちの長時間のフライトでの疲れと、次の日すぐにアンカラへ飛行機により移動するということを考えるあわせ、空港から近いこのホテルに泊まった。

7月21日、私たちはアンカラのエセンボア空港へ向けアタテュルク空港から飛び立った。アンカラは現在トルコの首都であり、正午に到着したクズライ駅周辺は非常に都市化が進んでおり、日本の渋谷のような若者の街だった。ホテルに到着後、私の希望によりクズライ駅から少し離れたウルス地区へ向かった。というのもそこには、今回のトルコの見学で最も興味があったアウグストゥス神殿があるからであり、その周辺にはユリアヌスの柱も立っていると聞いていたからだった。アウグストゥス神殿は最も長いラテン語碑文が記されているとして有名であり、それを見たいと考え向かったが、近づけないように周りには囲いがあり、現在では掠れてしまっているラテン語を遠くから見ることは難しかった。

図1、アウグストゥス神殿

7月22日、私たちはアンカラから発掘作業の地であるカマンに出発するため、アンカラからバスで二時間以上かけてカマンに到着した。アンカラでは全くアジア系の人を見ておらず、アンカラの人々から非常に注目を集めたのに対し、カマンに到着後迎えの車を待っている間どうしていいかわからなかった時、地元の人たちは第一声で私たちを「日本人か?」と聞いてきて、私たちがどこに居るべきか、どうすればいいかを考えてくれ、迎えの車に乗る時には私たちの周りに4人も5人も地元の人たちが集まってくれている状況だった。迎えに来てくれたカマンの研究所の人たちとあったときは仲良く話していて、どれほどこのカマンの地で日本のアナトリア研究所が馴染んでいるか、親しまれているかがすぐに分かった。その日はその施設の中を案内してもらったのだが、日本で聞き考えていたものをはるかに超えていた。

図2、カマンにある中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所

まず、私たち学生や海外の若い研究者が泊まる場所に案内された。そこで私たち日本人の学生4人の他にトルコ人の大学生が一緒に発掘に参加することを伝えられた。また研究者としてイギリスからコンサーベーター、アメリカから人骨の研究者、後から合流することになるギリシャ、またオーストラリアからドクターの論文のために調査に来た人もおり、様々な国からの研究者が集まっていた。次にミーティングルームや所長の大村氏たちが泊まる部屋などがある建物内、そして隣接するビュックカレ遺跡を発掘指揮している大村幸弘氏の主に仕事をする部屋、その中には重要な遺物、例えば完形品の土器や青銅品、鉄製のものなど、の保管場であり洗浄場にもなっていた。他には私たちの食事をする場である食堂にも案内されたが、ここでトルコ人の人が働いていた。話を聞くと経済面でこのカマンでの研究所施設には多数の地元のトルコ人の人を雇っていて文化面でもこのカマンの地と深く結びついているようだった。最も感動したのは、研究の部屋や図書館がある建物だったのだが、なぜなら図書館にはもちろん多数の本が貯蔵してあり、中央アナトリアの遺跡の報告書など貴重な資料が多数残っていたが、その他に例えば大村氏の師であるオズギュッチ氏の遺産である多数の著書を遺書によりこの図書館に寄贈してくれるよう頼んでここに置いてあったということだった。規模的には大きいとは言えない図書館だがが、貴重な本が多数あるところだった。また研究部屋の施設がとても、考古学上必要な研究施設をここに詰めてある感じだった。例えば、人骨研究部屋、獣骨、史料保存部屋、コンサーベーターの部屋、また実測図をコンピューターに取り込むなどしている部屋など沢山の部屋が存在していた。外に出てみると、カマンで出土した遺物などが多くの倉庫の中と乾かすために日に当てられて置かれていた。一通り施設内の説明を終えたあと、夕食になったのだが、もちろん日本人以外の人も一緒に食事を取る。その日はネイティブな英語に圧倒され全く話すことが出来ず、また日本人で固まって日本語で話していた。

7月23日、カマン・カレホユック遺跡でのフィールドワークが始まった。ここで最初に発掘がある日(平日)のスケジュールを書き出しておくと、まず朝5時起床、5時15分には一回目の朝食、5時45分に施設を出発し、6時から発掘開始、9時に二度目の朝食休憩を取り、12時に休憩、14時に発掘終了、18時からミーティング、そして20時30分から私たちがこれからこのフィールドワーク中に行う活動についての説明と最後の土曜日に行う遺物研究とプレゼンテーションの方法と準備を行うというスケジュールだった。23日は初日ということもあり、カマン・カレホユックの歴史的な関係と全体的なカマン・カレホユックについての説明をしてもらい9時から発掘に参加ということになった。カマンではセクションという多くの区で区切られ、そこにトルコ人の一人のリーダーとトルコ人のアルバイトの学生たち、7,8人程で構成されていた。私たち学生は一人づつ分けられ、そのセクションごとで発掘をすることになった。しかし問題は大勢のほとんど理解できない言語を話す人たちの中に私たちが入ったということで、その問題点としてまずこれから何の目的のために何をしなければいけないのかがきちんと伝わらないということであった。少し発掘を経験したことはあったが、掘られている場所も掘られているものも、掘っている目的も異なる、そうなると全く今までの経験は意味のないものになってしまった。それなのに正確な情報が手に入らないということは非常に大変なことであった。トルコ人のリーダーの人は私たちのような日本人学生が大勢きており、また大村氏たちが日本語を多少教えていることもあり、英語と日本語でなんとか説明しようとしてくれたのだが、ある程度は理解出来てもやはりどこかが異なるようですぐに注意されるということを繰り返し、この日の発掘を終えた。18時から初めてのミーティングに参加し、これから二週間一緒に生活することになるので自己紹介を行なった。自己紹介はもちろん初めてではないが英語で、ネイティブの研究者たちの前で行うのは、今までのものとはことなり、自分の英語の未熟さが分かった。20時30分からは発掘時に必要なこと、日誌、出土遺物の取り扱い方など、発掘時に必要でありこれから私たちも行わなければいけないことを教わり、初日を終えた。

図3、カマン・カレホユック遺跡の発掘風景

7月23日から7月27日までのフィールドワーク一週間目は、発掘時23日のようにトルコ語がほとんど理解出来ずジェスチャーと英語、そして時々日本語混じりの説明でなんとか発掘を行なっていたが、同じセクションで発掘を行なっていた地元の学生たちとは挨拶や話しかけられたことをよく理解できず反応だけをしていた。そこで私はどのようにしたらこの二週間で会話は出来ないにせよトルコ語とジェスチャーで理解でき、こちらからもトルコ語で話しかけられるのかを考え始めた。ある学生はトルコ語の指差し会話本を持っておりそれを用い、コミュニケーションをとっていたと聞き、私が持ってきたトルコ語の文法の本が全く役に立たないことを理解した。大事なのは会話ではなく話しかけることだとも数日の間に気づいた。もちろん発掘で使用する物の名前は必ず覚えなくてはいけなかったが、コミュニケーションを取る上で、最初に始めたのはhowやwhatのような疑問詞を覚えることだった。これはこちらから話しかける上で重要なことでもあるし、次に覚えようと考えていた動詞と合わせることで例えば「これは何?」という文章から「君は何を好きなの?」というように会話にバリエーションが生まれるからだった。最後にトルコ語-英語辞典を用い、使えそうだと考えた単語を片端から書き写していった。二週目の忙しさにより、辞書を書き写すことは終わらなかったがこの努力は報われた。二週目の月曜日、大村氏は私と同じ発掘区の人々に向かい英語は使わずトルコ語だけで話すようにと注意し、これにより私は今までの英語の中にトルコ語と日本語が混ざっていた会話からトルコ語だけでのコミュニケーションをしなければならなくなった。(もちろんアナトリア研究所の方々はトルコ語を流暢に話せる状態であった。)しかし一週目に比べると確実にトルコ語を理解できており、ジェスチャーとトルコ語で話している内容が理解出来ていた。また私の方も以前は英語で話しかけていたところを簡単なトルコ語でも話しかけられるようになり、トルコ語で話しかけることをためらっていたように見えた人たちが積極的に話しかけてきてくれるようにもなった。この体験はトルコ語を学ぶことだけでなく別の言語を実際に現地で学ぶ時にも役立つのではないかと考えられた。発掘作業はこのような状況の中で行われ、自分たちの発掘区は日々状況が変わり出土物もその中のいくつかは彩紋土器でもある土器や、ブロンズ、住居跡の崩れた壁など様々出土した。二週目に入り、トルコ語だけでも理解出来るようになったというのは確かに自分でのトルコ語の勉強の成果もあるが、それだけでなく一週目ではただ言われるがまま掘ったりしていたことが、二週目では自分の発掘区が何を目的として掘っているかを理解して何を次にする必要があるかを考えられるようになっていったことも関係していると考える。私はこの二週間の発掘で、基本的なトルコでの発掘の仕方から仮層シートや日誌の書き方、そして考古学的な考え方も学ぶことが出来たと考える。

図4、一緒に作業したトルコ人の人々

18時からのミーティングはフィールドワーク4日目からほぼ毎日、私たち学生が割り当てられた発掘区の状況を、プロジェクターを用い報告を行なった。私にとってはプロジェクターを使用することが初めてであり、また専門的な人々の前で報告を行うことは非常に大変なことであった。もちろん英語で行わなければならず、一週目は英語の文章を考えるだけでも1時間以上かかっていた。しかし報告するのに重要なのは相手に伝わることであり、そのためには難しい語句よりもむしろ簡単な語句を用いた方が文法としての間違いも少なく、また聴く人にも伝わり易いということが分かった。また報告すると分かりにくいところは確実に質問され、人に教える、説明するためには自分に完璧な理解が無いと出来ないことを改めて思い知らされた。このミーティングでは私は報告での資料の作り方から報告の仕方、そしてこれから先就職活動でも就職してからも役に立つ大人数の専門家を前に説明できる度胸が手に入ったとも考えられた。

私たち学生は最終日行う遺物研究のプレゼンテーションとレポートのため、毎日夕食終了後から就寝まで活動を行なった。具体的に言うと、過去のカマン・カレホユックでの日誌やまたは自分の研究する遺物が出土している他の遺跡の報告書、全体的なその遺物に関連する本などから情報を集めるだけでなく、実測図の作成、また実際に現場でも行われている本格的な写真撮影をプロのカメラマンから教わり自ら行うということも行なった。私たちは考古学的な知識を得るだけでなく実際に自分で経験することもでき、通常では体験出来ない別の専門的なこともこれにより知ることができた。最終日2週間調べてきたことを一人10分から15分ほどでプレゼンテーションを行い発表し、このフィールドワークを終えた。

私はこの2週間のフィールドワークで多くのことを学んだ。一つ目はもちろん、大村氏や松村氏から考古学とは何か?カマン・カレホユックで出土した土器の特徴、土器についてなど様々な講義を受け多くを学んだこと。しかし講義だけでなく、体験により様々なことを学んだ。例えば、それは考古学資料を作る発掘について、発掘とはもちろんただ掘れば良いというだけでなくその場所がかつてどういう場所であったのか?どのような人々が住んでいたのか?ここでかつてどのようなことが起こったのかということを、一つの村という単位でなく一つの住居、施設単位で詳しく把握し、予測しなければいけないこと、などこの他にも様々に知っておかなければいけないことがあった。また実際に経験して一番強く感じたことは、広い場所を発掘するには沢山の人が必要である、ということだった。当然のことながらみんなが異なる性格であり、真面目な人もいればそうでない人もいる。発掘を指示するには、そのような人たちの信頼を得て、その人たちをまとめ、そして間違ったことをしないように指導、教育も行わなければならない。同じ日本人でも大変なことをトルコというトルコ語を用いる人々に行わなければならない大変さを、身をもって体験出来た。二つ目は考古学のことだけでなく実測図のとりかた、遺物の撮影の方法などの別分野の体験が出来た、そしてカマンで共に暮らした研究者たちの研究も知ることが出来たこと。例えば土器や土壌の分析、人骨の研究、土器や青銅などで作られた異物の保存・修復など一つの遺跡を発掘するにも本当に様々な分野の人たちの協力により成り立っていることが分かった。三つ目は上記のように発掘を行い、遺跡を研究するには様々な人が必要であり、重要な遺跡には様々な国から研究者たちが集まってくる。もちろんその人たちとコミュニケーションを取らなければいけないため英語も堪能にならなければならないだけでなく、良好な人間関係を築くためにも語学が必要であるということが分かった。公式な場ではもちろんだが、日頃の生活の中でも情報交換が必要である。なぜなら公式の場は1対1の場合ではないため質問は出来ても本当に細かいことはあまり質問がしにくいことや時間も限られているため、個人的に話し合うことが出来ないと貴重な情報が手に入らないこともある。また学問の場としても、個人的な感情は持ち込むことは控えるべきだが、関係が良好でないとマイナスな印象を持った状態で発表を聴き、正確な判断が出来ないかもしれない。逆に良好なら、例えば大村氏の場合は教わった教授の貴重な著書を遺言により受け継いだということもあり、プラスになることを改めて理解した。私は英語が堪能でないため、公式な場で質問が出来なかったがその後に直接質問を、行い疑問を解消した。このように私はこの2週間で様々なことを経験し学んだ。このフィールドワークに参加出来たことに感謝し、大村所長、松村氏、師田さんを含む中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所の皆さんに感謝を申し上げる。

図5、カマンにある中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所

8月5日、私たちはカマンからイスタンブールへ直行した。私たちはイスタンブールの旧市街にある様々な歴史的建造物や博物館を見学しやすいように、ブルーモスク、アヤソフィアから徒歩5分程のドミトリーに泊まる予定だった。私たちがイスタンブールの旧市街についてまず感じたことは、少なくともこのイスタンブール旧市街は街全体で歴史を受け入れ共存しているということを実感させられた。なぜなら私たちが降りた~(駅の名前)駅の近くにはブルーモスク、アヤソフィア聖堂、トプカプ宮殿、地下宮殿、オベリスクなど密集して存在しており、ブルーモスクに至っては未だに毎日その中で礼拝が行われ、沢山の人が観光以外にもそこを訪れていた。また博物館に関しても考古学博物館、モザイク博物館など歴史的な遺物が多数展示されていた。そして驚いたことに、私たち観光客のために地元の学生たちによる無料の道案内、観光についての相談が出来た。このような点でイスタンブールは非常に観光に力を入れていると分かった。

8月6日から私たちは予定通り9日まで旧市街にある歴史的建築物と博物館を周り始めた。イスタンブールにはいくつもの古代ローマに関わる建築物や遺物が存在したため、まずトプカプ宮殿を訪れた。そこでいくつもの博物館を回る予定のある観光客向けのミュージアムパスというもので、72時間以内ならこのパスに書かれている博物館やモスクなどが自由に入れるというものであり、72トルコリラで購入した。トプカプ宮殿はオスマン朝の支配者の居城として400年近く政治や文化の中心であった。宮殿内は非常に広大であり、いくつものエリアが存在した。皇帝の門と中庭、スルタンの調理場、謁見の間、宝物館、そしてハレムなどがあり、また秘宝も膨大な量が存在した。400年の歴史の中でそのエリアのどれにもエピソードが存在するため音声ガイドを聴きながら三時間かけて宮殿内を見学した。次に4世紀から6世紀、コンスタンティヌス帝からユスティニアヌス帝の時代に作られたと言われている地下宮殿を訪れた。本来の目的は貯水池であり、ビザンツからオスマン朝にかけても主要な貯水池として用いられ、後にトプカプ宮殿のスルタンたちの喉を潤したとされている。

図6、地下宮殿内部

私たちは7日、一日をかけて考古学博物館を回った。その博物館はギリシア・ローマ時代、ビザンツ時代、トロイと旧石器時代からフリュギア時代、キプロス、シリア、レバノンなど様々な時代の展示品があり、その他古代東方博物館、装飾タイル博物館も同じ敷地内に存在していた。アレキサンダー大王の立像を初めいくつもの有名な展示品を間近で見ることが出来るが、一つ一つの展示品に歴史的背景があるため音声ガイドを聴きながら回ることにした。その中で、有名なアレキサンダー石棺があるが、かつて中近東文化センター附属アナトリア研究所の勉強会の時にそれについて詳しく話しを聞いていたこともあり、実物を見るとより一層理解しやすいことが分かった。また私がトルコに来たフィールドワークともう一つの目的である古代ローマ、特にラテン語で書かれた一般市民の墓碑を発見することが出来たことがこの考古学博物館を訪れたなかでの大きな発見だった。

図7、ローマの一般市民の墓碑

8日はモザイク博物館、ブルーモスク、そしてアヤソフィアを見学した。モザイク博物館はビザンツ帝国の大宮殿にあったモザイクを復元して展示しているものであったが小さいものから大きなものまで非常に精密に作られており、大きなものは上から見下ろす形で地面に置かなければ飾れないほどの大きさのものもあった。次にブルーモスクという名で親しまれる、スルタンアフメット・ジャーミーは、観光客はもちろん、現在でもイスラームの信者が集まっていた。また、私たちが訪れた時間帯はちょうどドーム内で礼拝が行われている最中だったが、礼拝中でも観光客はドームに入ることが可能だったことは、イスタンブールが観光に力を入れていることを証明していると感じた。アヤソフィアは325年にコンスタンティヌス1世により建築が開始され始め、その後ビザンツ帝国の下でギリシア正本山として崇められた。そして1453年にコンスタンティノープルが陥落し、スルタンであったメフメット2世によりジャーミーに変えられた。まずアヤソフィアのドーム内に入ると非常に大きなシャンデリアと非常に高い天井、そして柱の上方にそれぞれ付いているメッカの方向を示すミフラープに目を惹かれた。一見すると全くジャーミーになる以前の面影は見られなかったが、薄くなり、また剥がれ出した漆喰の中にモザイクを見ることが出来た。十字架が描かれたモザイクも天井にいくつか見つけることができ、ギリシア正教時代の名残りを見ることが出来たのが印象的だった。

図8、アヤソフィア

トルコの人々は明らかに私たち日本人に比べ英語だけでなくフランス語やイタリア語、日本語までもスピーキングがとても上手であると感じた。それはフィールドワークで会ったトルコ人の学生たちにも、イスタンブールで会った店員たちにも言えることだった。私たち日本人は、日本に居る間にも、そしてフィールドワークで他の学生や研究員たちと英語で話す間にもリスニングの力はどんどん伸びていったと感じ、フィールドワークが始まって一週間後には自分の知らない単語以外はほとんど全ての会話を理解出来るまでになっていた。しかし、スピーキングに関してはそこまで進歩があるとは言えなかった。確かにフィールドワークが始まる前に比べ英語での会話は格段に増え、積極的に話していた。ただあくまで英語で話す積極性が出てきて、少し日本語から英語へ脳内で変換する速度が上がっただけで、ネイティブや他の学生たちに比べ明らかに言葉にするのが遅かった。イスタンブールで店に入ったときに女子高生が働いていたが、その子に言われた言葉がショックで今でもはっきりと覚えている。それは次の通り、「英語話すのが下手だね。私はまだ高校生だけどこのとおり英語はしっかり話せるし、大学生になったらフランス語とかスペイン語も勉強するつもり。」

確かに私は英語のスピーキングは得意ではなかったが一緒に行った学生や私が知っている人も大抵同じようなスピードだった。どうしてこんなに日本人は英語を話すのが苦手なのかと考えたとき日常的に英語を話す機会が少ないからであることは確かだった。それはトルコの人にも適用出来た。イスタンブールは様々な国から多くの人が来る観光地であり、そこでは共通語である英語が必要だった。しかし私たちが訪れたカマンのトルコ人の学生には英語を流暢に話すことができる人も居たが、大抵は英語を話せずトルコ語だけしか使わない人が多くいた。これはやはり必要性の問題があるのが分かった。また一緒にフィールドワークに参加したトルコ人の大学生でイズミルから来たと行っていた人はとても流暢に英語を話しており、何故そこまで話せるのか聞いてみるとやはり多く英語を話すことが必要であると教えてくれた。これから私が英語のスピーキングの力を高めるためには常日頃からの英語の使用が必要なのではないかと考えさせられた。

またこのトルコでの生活の全体を通じて学んだことは、実用的な言語を覚えるためには本で単語と共に文法を学ぶことも必要だが、やはり実際に話すことが必要だと実感した。トルコに行く前に勉強した多少の文法と単語は実際の人と話してみるとほとんど役にたたなかった。それは実際の発音と違うとか話すスピードが速いとかもあるが、必要な単語を知らないということが決定的に思い知らされた。挨拶はもちろん覚える必要があるが、例えば英語でもHiやHelloなど話しかけるだけでも違う単語が存在し参考書などに載っている表現は文語的であり、普段使用されているのは口語的表現がほとんどだった。つまり書面上などでは私たちが教授に教わっている表現でも問題なくても、実際に現地で使用するとなると口語的表現を知っておかないと分からない言葉が多数出てくるということだった。このことは特に一緒に発掘していたトルコ人の学生と過ごしていたときに実感した。しかし実際に話すことは近くに話すことが出来る人は居ないと簡単なことではないので、現在世界中で利用されているfacebookを利用したり、これは以前シュリーマンの伝記を読んで学んだことだが、学びたい言葉、例えばトルコ語ならトルコ語で日記を書き、そしてそれを添削してもらうという方法は以前知り合った人ともコミュニケーションが取ることができ、自らもスキルアップが期待できる方法ではないかと考えた。

上記のように、私はトルコに来て様々なことを経験し、感じ、学ぶことが出来たと考えている。ここまで私の望み通りに活動出来たのは中央大学から頂いた奨学金の御陰であり、このことに感謝し、これからの就職活動そして大学を卒業してからも役立てることが出来たらと感じます。これを持ってこの報告書を終えます。