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ドレスデン、ハノーファー、ニュルンベルクにおける第二次大戦後の戦災復興の比較調査

文学部人文社会学科 ドイツ語文学文化専攻 4年
髙井 綾香

1.概要

 私は卒業論文で「第二次大戦後のドイツの戦災都市における戦災復興の比較」をテーマとし、街の大部分が被災したドレスデン、ハノーファー、ニュルンベルクの3都市を研究の対象としている。今回、8月19日(水)~9月1日(水)の14日間、研究対象の都市であるドレスデン・ハノーファー・ニュルンベルクにて調査を行った。

 調査の内容としては、①資料収集、②実地調査、③インタビューの3つの観点から、文献や資料を現地で収集し、各都市の主要な建築物や施設を見学し、テーマに関する各都市の専門家から話を聞くことで3都市の戦後の復興を比較した。

 本報告書では、それぞれの都市での調査結果を述べた後、総括で3都市の比較の結果を論ずる。

2.テーマと都市の選出理由

 ドイツでは多くの都市が第二次大戦で被災し、街の大部分が瓦礫と化した。しかし、現在わたしたちは、戦前から残されているかのような歴史的建築物や美しい街並みを目にすることができる。どのようなコンセプトに基づいて、戦後街を復興していったのだろうか。昔と同じ姿のように見える街並みや建築物は、どこまで忠実に再建されているのか、また戦前と変わった部分はあるのか。

 ドレスデン、ハノーファー、ニュルンベルクは戦災時の被災規模が大きかったこと、歴史的に重要な建築物が現在でも保存されていること、現在の人口規模からして中規模都市に分類される、という三点において共通する。一方、この3都市は地域的には分散しており(ドレスデンは旧東ドイツ、ハノーファーとニュルンベルクは旧西ドイツ地域)、復興後の街並みが大きく異なっているという違いもみられる。こうした理由から、ドレスデン・ハノーファー・ニュルンベルクを選出した。

 また今年2015年は戦後70年にあたるが、戦争を実際に経験した方は高齢を迎え、これからは戦争を経験していない世代が多く生きる時代になっていく。そのため戦争の記憶を継承していく、ということが非常に重要であり、大きな課題である。どのように記憶を継承していくことができるだろうかと考えた時に、普段暮らしている街やそこにある建築物は生活する中で目にするものであり、その存在が人々に影響があるのではないかと考えた。戦争の被害を受けたそのままの状態で保存されている遺跡としての建築物が街に残されている、というのは戦争の悲惨さを日常的に強く訴えるであろう。

 戦災都市の戦後の再建に注目することで戦争の記憶の継承の可能性を考え、また各都市の戦後復興の在り方から、都市復興コンセプトを考えるうえでの比較の基準やさまざまな特徴を見出したいと考え調査をすることとした。

3.活動計画

 滞在期間の延長、航空券の都合から、当初の計画より少し変更し下記の日程にて調査を行った。

8月19日(水)東京→ドレスデン
19日~22日 ドレスデンに滞在、調査
8月23日(日)ドレスデン→ハノーファー
23日~26日 ハノーファーに滞在、調査
8月27日(木)ハノーファー→ニュルンベルク
27日~31日 ニュルンベルクにて調査
9月1日(火)フランクフルト→東京
9月2日(水)東京着

 なお、ニュルンベルクでの調査においては、1日目はニュルンベルク市内のホテルに宿泊、その後はニュルンベルクから1時間ほどのヴュルツブルクに住むドイツ人の友人宅でホームステイをし、そこからニュルンベルクへ通った。

4.活動概要

4.1.事前の準備

①インタビューに関して

 調査に行く前の準備として、第一にテーマに関する専門家へのインタビューをお願いするため、各都市の都市計画課・文化財保護課・市立博物館・古文書館のHPから担当者の方にメールしコンタクトを取った。私の訪問期間がちょうど多くのところで夏休みの期間と重なってしまっていたため、当初は返事がなかったり断られてしまったりしたところもあったが、最終的にドレスデンでは市立博物館の主任研究員の方と都市計画課・文化財保護課の方、ハノーファーでは古文書館の歴史家の方、市立博物館の主任研究員の方、都市計画課の方、ニュルンベルクでは古文書館の「戦後ニュルンベルクの復興」に市内で一番詳しいという方とインタビューを行うことが決定した。了承して頂いた後には、質問したい内容をリストにしてあらかじめ送付し、またインタビューの際に録音してもいいかどうかの許可も取った。第二に、お礼に渡すためのポストカードを用意した。今後もお世話になることがあるかもしれないということも考えて、名刺の代わりとしてお礼のメッセージと自分の名前、連絡先を記載した。

②各都市に関して

 日本で手に入れることができる文献や情報で、あらかじめ都市の歴史や建築物などを調べ上げまとめた。特に建築物について詳細に扱っている文献は、観光地としても人気のドレスデンについてはいくつかの先行研究がある一方、ハノーファーとニュルンベルクについてはあまり研究がなされておらず、都市に偏りがあった。それでもわかる限りで実際に行ってからすぐに街を理解することができるように、重要な建築物や地区について調べた。この準備により文献だけでは知りえなかった建築物と街並みの関係性や内部構造などの多くの点に気づくことができた。

 以下、各都市における活動の内容であるが、詳細やテーマの研究の結果は卒業論文や今後の研究で詳しくまとめる予定なので、ここではインタビューや、実際に行って調査をした結果感じた各都市の印象など卒論で書かない点についても報告する。

4.2.Dresden

 東ドイツ、ザクセン州の州都。人口は53万人ほどで、旧市街と、エルベ川をはさんだ新市街に立ち並ぶ見事な建築物の多くは、バロック時代にその建設をさかのぼる。多くの美術館、劇場があり芸術や音楽のある文化都市ドレスデンには、世界中から多くの観光客が訪れている。エルベ川から眺めることができる、荘厳な建築物が一体となって並ぶ美しい光景は、「エルベのフィレンツェ」と呼ばれている。

新市街側から見た、エルベ川と旧市街の街並み

<歴史>

 1945年2月、他のドイツ諸都市がすでに攻撃され大きな被害を受けていた中、ドレスデンは一切の攻撃を受けていなかった。文化的にも重要であるこの都市は、このまま被災せず守り抜かれるであろうと多くの人が思っていた。しかし、2月13日、14日の夜、連合国により連続して爆弾が落とされた。わずかこの二日間で市の中心部は火の海となり、いくつかの建築物を残し、街のほぼ大部分、文化史的にも非常に価値のあった多くの建築物もが瓦礫と化した。

 その後ドレスデンはソ連占領地域となり、1949年から東ドイツの一都市となる。50年代にかけて街の瓦礫の撤去が完了すると、ソ連をモデルとした社会主義の都市が目指され、かつてのドレスデンの都市像にはそぐわない広場の拡張や新しい建築物の建設が行われ大きな議論を呼んだ。東ドイツ全体として経済的に困窮していたことは、再建に長い時間を要した原因の一つでもあった。 1989年、ベルリンの壁が崩壊した後1990年に東西ドイツが統一すると、ドレスデンの復興は新たに発展していくこととなる。財政的にも復興作業の推進が可能となり、文化の栄えた歴史的に価値のある建築物を再建しようという関心が一層高まった。DDR時代に再建されることのなかった重要な建築物の再建が進められ、「バロック時代の街並み」を取り戻すことが目指された。統一後のドレスデンの復興において特に注目されたのは、フラウエン教会とその位置するノイマルクトの再建である。市民の呼びかけから始まったフラウエン教会の再建は、世界中からの支援を集めることに成功し、10年以上の歳月をかけ2005年にかつての姿への再建が完了した。現在では多くの歴史的建築物を見ることができるが、ドレスデンの復興は未だなお続けられている。

<建築物の再建>

 ドレスデンの建築物の再建は、長い期間にわたって行われてきた。その再建は1949年~1989年のDDR(東ドイツ、ドイツ民主共和国)時代と1990年以降の統一後に分けられる。DDR時代では、50年代から60年代初頭にかけてはソ連をモデルとしたコンセプトのもと社会主義的な建築物・広場や道路などの建設がすすめられたが、一方でその反動から60年~70年代にかけて文化財保護を目指した市民の活動が動きを見せ、一部の建築物が再建されることとなった。DDR時代に再建された歴史的建築物のほとんどは、この時期にすすめられたものである。ドレスデンには文化史的にも大変重要な建築物が多かったことから、それらの学問的な研究にも時間がかかり、例えばドレスデン城は70年代になってようやく研究が始まり、その再建の完了は統一後に及んだ。また経済的・技術的な理由から、90年代まで廃墟のまま残された建築物は数多く、統一後に再建が積極的に行われることとなった。ドレスデンでは1967年まで総合的な復興計画が存在せず、建築物、場所ごとの個別の計画のみによって再建が行われていたため、とくに統一後、具体的に戦前のような魅力ある都市像を目指した復興がすすめられてきた。

 ドレスデンには数多くの重要な建築物や場所が存在するが、ここでは代表的なものを紹介する。

●DDR時代に再建された建築物、場所

・ツヴィンガー宮殿

 

・王宮教会

・アルトマルクト広場

 

・Kulturpalast

1950年初頭、スターリン主導の社会主義都市の計画がすすめられた時期に、社会主義の政策を具現化した例としてアルトマルクトの拡張とそれに伴ったKulturpalast(文化ホール)の建設が行われた。かつてのドレスデンの街並みでは考えられない極端な広さに変えられたアルトマルクト広場と、西欧の新技術をいち早く取り入れ建設されたKuluturpalastは、景観を損なうものであるとして多くの議論を引き起こした。

・Prager通り

 

 

ドレスデン中央駅から旧市街に続くPrager通りも、戦後に新たに作られたものである。社会主義の復興コンセプトのもとでの建設だが、西欧にすでに見られた先進的なデザインや技術を取り入れている。

・ゼンパーオペラ

 

・警察省

●統一後

・フラウエン教会

 

 

ドレスデンの復興のシンボルとされている。DDR時代には旧市街の中心に巨大な瓦礫の山のまま残されており、その廃墟は戦争の悲惨さを伝える「警告の碑」として見る人に強烈なメッセージを与えていた。ベルリンの壁の崩壊後、市民の呼びかけから始まり、復興への準備がすすめられた。再建に必要な金額は世界中からの寄付で集められた。1994年に再建が始まり、かつての姿を忠実に再現しようという様々な試みが行われ、11年の工事の後2005年に完成した。写真では見づらいが再建にあたっては元の破片が使われており、新しい石との違いがはっきり分かる。

・Kunstakademie

 

・ドレスデン城

・Stallhof

・Coselpalais

 

・Albertinum

<インタビュー>

(1)Stadtmuseum(市立博物館), Dr. Erika Eschebachさん

 

左:かつてはLandhausとして使われていた建物であるが、戦後の再建により現在は市立博物館として使われている。

 最初のインタビューは、市立博物館の主任研究員のEschebachさんを訪れた。市立博物館のEschebachさんの研究室にて行った。あらかじめ質問は送ってあったため、その質問のリストを見ながら、私がインタビューをしたことに対して答えて頂いた。Eschebachさんはドレスデンに昔から住んでいてドレスデンの歴史を研究している方だった。私が質問した内容に加え、当時の写真や資料も見せて頂いた。Eschebachさんからのお話で、戦前までドレスデンで唯一のゴシック建築として残されていたが第二次大戦で被災し、東ドイツ時代にウルブリヒト(ドイツ社会主義統一党の書記長)によって残された部分も取り壊されてしまったという"Sophienkirche(ゾフィーエン教会)"について初めて知ることができた。かなり多忙な方であったが、お忙しい中質問に答えて下さり大変ありがたかった。

(2)Weißmannさん(文化財保護課), Dr. Blätterleinさん(都市計画課)

左:Weißmannさん、中:私、右:Blätterleinさん

 2つ目のインタビューは、文化財保護課の担当の秘書の方が取り合ってくれ、市の文化財保護課と都市計画課の両方の担当者の方が、インタビューに協力してくださった。

 インタビューは市立博物館のカフェスペースにて行った。こちらもあらかじめお送りした質問リストを用意し、それぞれの観点から私の質問内容について話してくれた。Blätterleinさんは、市が発行するドレスデンの復興やさまざまな情報についてのあらゆる冊子や、私が論文で使うことができそうな文献の情報とその該当ページのデータをまとめたCDまで作ってくれ、用意してくれていた。1時間ほどのインタビュー終了後は市立博物館の展示を一緒に見て回ったうえで、都市の歴代の姿のモデルや絵画などについて、かなり丁寧に解説してくれた。数日後には、私の送った質問リストに回答を書き加えたものまで作って送ってくださり、感謝してもしきれないほどの親切な対応であった。お二人は今回が初対面だったということで、わざわざこのインタビューのために時間を割いていただき感謝の気持ちでいっぱいだった。

 前日にすでに情報を得ていたということもあり、お話を聞いてさらにドレスデンについての知識が深まった。またドレスデンの復興を担当する二つの異なった課の方からも話が聞けたということで、大変貴重な時間であった。

 

博物館内の展示、中世のドレスデンの模型

 

このインタビューのみで頂いた資料

4.3.Hannover

 人口約51万人、ニーダーザクセン州の州都であるハノーファーは、北ドイツ地方の政治、経済、文化の一つの中心的な位置を占め、鉄道や道路などの交通上の要衝でもある。メッセの開催地としても有名で、サッカーチーム「ハノーファー96」の拠点ともなっている。

 

1902年に建設された新市庁舎

 

市庁舎の展望台からの眺め

<歴史>

 1940年より連合軍の爆撃が始まり、1943年までの5つの大きな爆撃によって都市は大部分が破壊された。とくに1943年10月9日夜中の空爆により、中心市街地の90%が破壊、北ドイツの歴史ある美しい建築物も破壊された。

 ハノーファーの再建は、西ドイツの都市の中でも特徴的である。大戦前からの都市計画評議員であったKarl Elkartにより1943年にはすでに再建の構想が考えられていたが、今のハノーファーの街を作り上げたのは、1948年から1975年まで都市計画評議員を務めた、Rudolf Hillebrechtであった。彼は旧市街の建築物と街並み、また都市の交通の共存そして市民の快適な暮らしをつくるために、被災前まではいろいろなところに見られた歴史ある建築物をすべてマルクト教会のある旧市街、街の中心へと集め、そこには車が入れないようにしその「島」になった旧市街の周りを車など交通が通るという計画を打ち立てた。現在では昔とは用途が異なっているものもあるが、旧市街では建築物が歴史ある姿に再建されており、木組みのファサードを持つ建築物が立ち並ぶ姿はまるでずっと昔からそこにあるかのような美しさである。

 

 

 

旧市街の様子

 

 ドレスデンとは対照的に、復興はかなり速いスピードで進められた。1960年にはほぼ復興が終了し、その後は市民の意見を取り入れて街中の至る所に現代的なアート作品が置かれるなど、新たな都市の魅力を作り上げている。

 

ニキ・ド・サンファルによるオブジェ

 

 

いたるところに現代的なアート作品がある

 

<Roter Faden(赤い糸)>

 ハノーファーの街を歩いていると、歩道の中央に赤いラインがひかれていることに気が付く。ハノーファーの現在の街の特徴的な点としてもう一つ、この「赤い糸」と呼ばれるものがある。これはハノーファー市の観光政策の一つとして 年に取り入れられた。中央駅をスタートとして中心市街地の歩道にこの赤いラインが引かれている。この線をたどっていくと、およそ30か所の主要な名所をすべて見て回ることができる。

 

 

 

<建築物>

・エギーディエン教会

 

エギーディエン教会は、大戦時の爆撃により外壁と塔の一部を残し破壊された。戦後の復興計画の中で廃墟のまま残すことが決定され、現在に至るまで街の中心で戦争に対する警告の意を伝え続けている。

 

広島市との姉妹都市を記念し設置された、警告の碑としての鐘

・オペラ座

・マルクト教会

・クロイツ教会

・ライプニッツハウス

・ヘレンハウゼン王宮庭園

 

<インタビュー>

(1)Stadtarchiev(古文書館):Christian Heppnerさん、Kevinさん

左:Heppnerさん、右:Kevinさん

 

左:Heppnerさん、右:Kevinさん

 

 古文書館の閉館日に、Heppnerさんと8月の1か月実習をしている大学生のKevinさんがインタビューに応じてくれた。前もって送った質問リストをもとに、テーマに関しての古文書館にある文献、資料を用意してくれていた。古文書館には主に「文字の資料」や歴代の地図、戦後復興に関しては例えば市内の建物の破壊された度合いを色分けして示した、戦後直後に作成されたという地図や復興にかかわるさまざまな第一次資料などがあるということで、その多くを見せていただいた。インタビューは質問リストをもとに資料を参照しながら説明してくれるという形で進んだ。建築物や復興で新しく再建された地区などの説明に関しては、市内の地図を広げてその場所や戦前との比較もして教えていただいた。ハノーファーと広島が姉妹都市ということで、広島・ハノーファー友好協会についての情報も教えてくれた。この日のインタビューは1時間ほどで、次の日が古文書館の開館日のため用意してくれた資料をすべて閲覧室にとっておいてくれ、翌日また訪問して多くの資料・文献を詳細に読むことができた。資料の写真を撮ることが可能だったので必要と感じたものは写真に撮らせていただいた。また古文書館で買うことができる、Rudolf Hillebrechtの本も紹介して頂き購入することができた。第一次資料だけでなく、テーマに関する多くの本や辞典なども紹介して頂いたので、このインタビューと訪問だけでも大量の資料を手に入れることができた。また、古文書館に行くのは今回が初めてだったので、その点でもとても良い機会であったと感じている。

(2)Stadtmuseum(市立博物館):Dr. Andreas Urbanさん

 

 

 ハノーファーの市立博物館では、数年前にちょうど私のテーマとしている戦後のハノーファーの復興についての企画展を開催していたということで、ハノーファーの歴史に詳しく今回のテーマに精通していて、この企画展も主導していた主任研究員のUrbanさんがインタビューに応じて下さった。この日は小学生の学外活動で館内が騒がしかったため、講演会をやるような部屋を貸し切ってくれそこでお話をしてくれた。送っていた質問リストの質問に答える形で話してくれ、送った質問は古文書館とほぼ同じであったが、さらに詳しい知識が加わり大変詳細にテーマに関して知ることができた。市立博物館には古文書館と違って写真や絵などの資料が圧倒的に多く、インタビューに行く前にすでに館内でそれらの展示の一部を見ていたので、それについても説明してくれた。同じ質問でもHeppnerさんと返答内容が異なっていたのは、「ハノーファーは戦後復興のための資金をどこから(誰から)得ていたのか」というものであった。またつい最近に再建の終わった、ヘレンハウゼン城にある博物館の展示(ハノーファーの歴史やヘレンハウゼン家の歴史など紹介している)にもUrbanさんは中心となってかかわっていたということから、その再建についてのお話もしてくれた。さらに、数年前の企画展の担当者であったということから、その時の展示やテーマに関しての論文をまとめた現在非売品の本を1冊プレゼントして下さった。またミュージアムショップでは、政府が作った戦後復興を紹介したDVDのシリーズが売っており理解を深めるのに良いとお勧めして頂いたので、その中のいくつかも購入した。今後も研究を続けていく予定だと伝えたところ、その時はいつでも連絡してと言っていただき、またハノーファーに来る際には協力して頂けるとのことだった。

(3)Stadtplaningsamt(市の都市計画課):Hans Achim Körberさん、主任のMichael Heeschさん

 

Körberさん、記念建築物に指定されている都市計画課の建物の前で

 

インタビューを行った部屋の外観

 最初にコンタクトを取った際、担当者の方が夏休み期間だったため、この方々とのインタビューが決まったのがドイツに到着してから、それもハノーファーに行く2日前だった。そのため、質問リストをあらかじめ送ることができず、当日直接訪問する形となった。また古文書館の訪問の後に予定されていたのだが、古文書館で資料を丁寧に探してくれたためにかなり時間がかかってしまい、さらに都市計画課だけ市役所の建物とは別の棟にあり、それを知らなかったため時間よりも少し遅れて伺うことになってしまったため大変反省している。

 インタビューは都市計画課の担当者の方が他の部屋に通していただき、そこで2人と会い行うことになった。ドイツへ行く前にコンタクトをとった際に、日本で資料の手に入らないHillebrechtについて特に関心があるということを伝えていたため、質問リストは送っていなかったが、文献の記載してある資料やHillebrechtに関して特集した1950年の、雑誌「Spiegel」の記事を用意してくれていた。Heeschさんは仕事の方でかなりお忙しく少しお話を聞くだけになってしまったが、Körberさんがハノーファーの都市形成から市街地の特徴、戦後の再建について教えていただいた。1時間弱という時間で私から多く質問することができなかったのは残念だったが、親切にお話してくれ貴重な機会であった。このインタビューでは、都市計画課のあるその建物自体が文化財の一つとして復興後においても重要であるということ、都市交通についてや景観について詳細に新たに知ることができた。

4.4.Nürnberg

 南ドイツ、バイエルン州にある人口約50万人の都市であるニュルンベルクは、中世には帝国自由都市として栄え、手工業や商工業も盛んな伝統のある都市である。ヒトラーはこの街を愛したため、ナチの最初の党大会が開催され、その会場は現在でも残されている。おもちゃ、文房具のとしても有名で、クリスマスマーケットには世界中からの観光客が訪れる。

 

ニュルンベルクの旧市街の街並み

 

フラウエン教会とマルクト広場

 

<歴史>

 1945年1月2日、旧市街が爆撃され、甚大な被害を受けた。12万5000棟あった家屋のうち、60,000棟が全壊、51,000棟も大きな被害に見舞われた。1945年5月の時点では、被災面積はドイツで1番だった。戦後の最大の中心的な課題は、歴史的に価値のあった旧市街を再建することであった。街の建造物は瓦礫と化し、広場は荒野のようになってしまった。

 1946年の時点では、被災した都市を、「二度と戦争を起こすことがないように警告するための記念碑」のような存在として、戦後のその廃墟の街の姿のまま残すということも考えられたが、1947年には協議の結果再建することが決定し、再建計画のコンペが公募された。1950年にはニュルンベルクの建築家、Heinz Schmeißner、Wilhelm Schlegtendalによって復興基本計画が提案された。その内容は、中世からの街としての核を残して重要な建築物を再建していく、というものであった。この計画は成功し、ニュルンベルクの旧市街は戦前まで存在していた中世の街並み・建築物を再現した。

 戦後の住居不足の対策として注目されるのは、ニュルンベルク市の南東に位置する「Langwasser」という地域における復興で、現在でも多くの市民がこの地域に暮らしている。

<建築物>

・ロレンツ教会

・ゼバルトュス教会

・カイザーブルク

 

ニュルンベルクの旧市街は現在でも城壁で囲まれている。カイザーブルクは旧市街の北側に位置している、中世に建設された城である。これもまるで中世から残っているかのように見えるが戦後再建された。

・デューラーの家

 

再建されたデューラーの家

 

 

 

ドイツ中世を代表する画家、アルブレヒト・デューラー

 

・Pellerhaus

 

現在

 

 

 

戦前までの姿

 

ルネサンス様式の貴重な邸宅であったPellerhausだが、第二次大戦で破壊された。その再建は現在も続いており、工事中の内部は見学することが可能になっていた。

<インタビュー>

・Stadtarchiev(市の古文書館)、Steven Zahlausさん

 

古文書館

 

Zahlausさんと

 ニュルンベルクでのインタビューは、市の古文書館のZahlausさんが引き受けてくださった。彼はニュルンベルクの戦後の復興に関して市で最も詳しく知っているという方で、残念ながら今回はインタビューができなかった市の都市計画課の方々からもZahlausさんとのコンタクトをとることを取ることを進められていた。ニュルンベルク唯一のインタビューとなったが、大変貴重なお話を多く聞くことができた。インタビューは休暇中の主任研究員の方の部屋を貸し切って頂き実施した。訪問前に送った質問リストをもとに、古文書館にある資料やZahlausさんの知っている情報をまとめて用意して下さっていて、こちらでも2009年に行われたという「ニュルンベルクの戦後復興」の企画展の時に出版された本をプレゼントして頂いた。ニュルンベルクに関しては、建築物・街並みの復興という観点からの研究が日本でほとんど行われておらず、事前の準備でも詳しく知ることができていなかったため、Zahlausさんからのお話により理解が大変深まった。

5.総括

●3都市の比較

 計画していた①~③に基づき、集めることができた文献や資料、実際の建築物の訪問、そしてインタビューで明らかになった点をまとめる。

 第一に、それぞれの都市の現在の街並みは大きく異なっており、それぞれの都市コンセプトに基づいた復興が行われていた。またその際に重要なのはかつての"元の姿"であり、その都市像を求める人々の思いの強さは復興するにあたっての新たな都市像に大きく影響していると考えられる。実際に訪れてみて、各都市の街並みの違いを自分の目で確認すると同時に、それぞれの都市の特有な点を多く発見することができた。

 第二に、第一の点とも関連して、都市の復興において重要なのは都市の復興コンセプトである。各都市とも現在の街並みを作り上げている基盤とされたのはそれぞれの復興コンセプトであり、個別の建築物の再建・改修・保存もそのコンセプトに基づいて行われている。再建にあたってどのような都市像を目標とするか、交通政策や住居の問題なども含め都市の方向性が体現化されたのが復興コンセプトであり、現在までに議論を引き起こすこととなった事例などもそのコンセプトをもとに計画が遂行されている。このような点からも、個々の事例のみでなく都市復興コンセプト全体に注目する必要があると考えられる。

 第三に、旧東西ドイツにおける違いが復興にも表れている。かつての西ドイツであったハノーファーとニュルンベルクは、アメリカやイギリスの援助があったこともあり復興が急速にすすめられ、60年までにほぼ復興が終了した。また建築物の再建や新築においても西欧の最新の技術が取り入れられ、現在の街でも様々なところに現代的な点を見ることができる。一方でドレスデンでは、東ドイツの社会主義的支配が建築物や街並みの復興にも影響を与えており、体制の状況の変化が街の再建にも明確に表れていた。この3都市だけで東西の違いを完全に判断することは難しいが、少なくとも復興のスピードや再建・新築された事例からは東西の違いが見受けられる。

 第四に、市民の影響が建築物、街並みの復興に表れているということが挙げられる。ドレスデンではフラウエン教会の再建、ハノーファーでは1949年に結成された「市民協議会」、ニュルンベルクでは中世の街並みに復興するという決定にあたって、市民の意見が大きく反映されていた。市や国の行政機関の力のみで、壊滅状態となった都市が現在の姿まですべて作り上げられてきたわけではない。そこに住む人々や、再建を望む多くの人々の意見・活動が街の復興にも影響があったということは、大変興味深い点であると考える。

 

●インタビューについて

 最初の計画では自力での資料収集のみの予定で、図書館や書店、もしくは市役所でもらえる資料のみで情報を得ようとしていた。しかし専門家の話を聞くことの重要性を感じ、まずはインタビューを受けてくれる方を探すことから始めた。多くの方が夏休み期間に入ってしまうということで、候補になりうるところすべてに連絡し、返事をして下さった方とドイツ語でメールのやり取りをした。かしこまったドイツ語でのメールをするということは今回が初めてだったので、調査に行く前の準備から緊張の連続だったが同時に学ぶことが多かった。今回の調査ではインタビューを行ったということが、資料収集やテーマに関する情報を得ること、また都市について知るという点でも大変意義があった。インタビューで多くの有益な文献の情報や文献そのものを得ることができ、また一緒に博物館をまわって解説してくださったり、本をプレゼントしてくださったり関係ある資料を用意してくれたり、一人で街にいるのでは知ることのできなかった情報を得ることができた。実際に行って自分の目で見たことに加え、テーマに関しての専門家でありその市に住んでいる一市民である方々と知り合えてお話を聞くことができたことは、本当に貴重な経験だったと思う。また事前に送った質問リスㇳは、ネイティブにチェックしてもらう時間がなく自力での作成であったが、問題なく通じていて、聞きたかったことも詳細に教えていただくことができたため嬉しく感じた。

 

●成果、反省点

 計画の時点で想定していたよりも非常に充実した日々を過ごすことができ、情報も十分に得ることができた、実りある滞在であったと思う。今回の調査の主要な目的は、卒論と今後の研究のために必要なドイツ語の文献、情報を多く手に入れるということであったが、この目的は、思いのほかインタビューを実施したことにより達成された。インタビューに応じてくださった各都市の専門家の方々の親切な準備と応対により、大変有用性のある文献や資料を手に入れることができた。実地調査という点に関しては、「地図を見てその場所の様子が頭に浮かぶ、その場所に行ったら地図のどこにいるのかがわかる」という状態になるという目標を立て、短い期間の中で毎日何時間も歩き調査し、この目標も達成した。街と建築物の関係、歴代の地図の比較などを研究の題材の一つとして扱おうと考えていたため、"地図"と"実際の建物"をよく理解するために、朝から晩まである限りの時間を使って街を歩き調査をした。帰国してからも、資料や地図がはっきりと頭の中に浮かび、調査に行くまでは漠然としていた都市像が鮮明になった。

 反省点としては、第一に短期間での調査であったために、日程の調整が困難であったということがある。設定した機関が多くの方の夏休み期間とかぶっていたこと、ハノーファーではインタビューを1日に2件もやることになってしまい余裕がなくなってしまったこと、ニュルンベルクにおいては日程で土日を挟んでしまったためインタビューが古文書館のみになってしまったということが悔やまれる点である。初めて訪れる3都市の情報をできる限り得ようと努めたが、短期間でのきついスケジュールであったことは否めない。しかしそれでも想定よりも多く、また重要な各都市の情報を得ることができ、今回の調査は今後の研究に際しても大変意義のあるものとなったと感じる。

 

●今後の展望

 今回はドイツの中でもドレスデン・ハノーファー・ニュルンベルクの3都市を対象とし実際に訪れたが、第二次大戦時の被災都市という観点からは対象となる都市はほかにも多く存在する。ドイツだけでなく、ほかのヨーロッパ地域や日本との比較も考えられるので、今後はほかの都市にも注目したい。また今回の3都市だけでもまだ知る余地のある点が多かったため、引き続き研究を深めていきたいと考える。被災都市といえども、それぞれの都市ごとにその復興過程には異なる特徴があり、当初考えていた東西ドイツの違いという枠組みでの比較をするためにはより多くの都市を研究する必要があるということがわかった。この報告書や卒業論文だけでは今回の調査で知ることのできた情報すべてを生かしきることができないので、今後大学院での研究でさらに発展させていきたい。

 

●最後に

 この計画を実現させるにあたっては、文学部事務室の方々、高橋慎也教授、川喜田敦子教授、その他文学部教授の方々に大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。ありがとうございました。