ドイツ語文学文化専攻

外国人研究者講演実施報告書の掲載

2016年11月01日

受入れ担当教員:高橋 慎也

 

研究者氏名:(ローマ字)(姓)Englhart, (名)Andreas

                  (カタカナ)(姓)エングルハルト,(名)アンドレアス                   
国      籍: ドイツ                                            
所属機関 (大学/学部/研究所):

             (英文)Das Institut für Theaterwissenschaft,                                Universität München           

              (和文)ミュンヘン大学演劇研究所

  職 名:(英文)Dozent

    (和文)講師
専 攻:(英文)Theaterwissenschaft

    (和文)演劇学

公開講演会
テーマ:(英文)Brechts Theater heute①

     (和文)ブレヒト演劇の現在①
実施日:2016年10月12日(水)
参加人数:50人
概要/summary:
1) ドイツ演劇システムの現在とその歴史:ドイツは演劇大国として知られている。現在のドイツには約150の公共劇場と250以上の民間劇場があり、公共劇場は劇場付のアンサンブルとレパートリーシステムを有している。また公共劇場には多額の税金が補助金として配布されている。ドイツの演劇システムが国家によって厚く保護されていることには、演劇がドイツ市民階級の文化的メディアとして機能してきたという歴史的背景がある。18世紀後半にドイツ市民階級が貴族階級に対抗して自立性を確保してゆく過程で、新聞、書籍と並んで劇場が重要な市民的メディアとなった。イギリスやフランスに比べて国民国家の形成が遅れたドイツでは、政治的統一の前提として言語と文化による国民的統一が図られた。それを担ったのが市民階級、特に教養市民階級である。
2) 現代ドイツの演劇とブレヒト:市民階級の文化的メディアとしての演劇の位置づけは、今日のドイツでもなお保たれている。そのことがドイツの公共演劇システムを支えているのである。20世紀のドイツ演劇の代表であるブレヒトの作品もまた、こうした公共演劇システムにおいてたびたび上演され、現在でも大きな役割を果たしている。近現代演劇に大きな理論的影響を与えたのはまずカントである。カントは「物自体」を理解不可能なものとみなし、理性によって理解できる世界のみ認識可能であると見なした。これは世界を言語によって再現しようとする心理主義的リアリズム演劇を支える理論となり、いわゆるドラマ演劇の発展をもたらした。カントの理性中心主義、理性を有する個人中心的な人間観に異を唱えたのがマルクスとフロイトである。マルクスは人間を規定するのは理性以上に経済的システムであると唱えた。またフロイトは無意識に眠る欲望と衝動が人間の理性を突き破る可能性を指摘した。ブレヒトはマルクスとフロイトの理論に大きな影響を受け、人間を社会システムと欲望に支配される存在であると捉えた。また人間を変えるためには社会システムを改善し、欲望をコントロールする必要があると考えた。そしてそうした批判的な思考力を得るための演劇として叙事的演劇を考案し、舞台上に描かれた登場人物に違和感を持たせる「異化効果」を理論化したのである。
3) ドラマ演劇とポストドラマ演劇:社会的な問題を演劇で取り上げる方法として、演劇学者のレーマンは二つの方法を挙げている。ひとつは「政治的な演劇を行う」方法である、もうひとつは「演劇を政治化する」という方法である。これはカントの哲学に依拠したドラマ演劇とデリダの哲学に依拠したポストドラマ演劇の演劇観に対応する。その二つの方法に共に大きな影響を与えたのがブレヒトである。ドラマ演劇は「衝突のドラマ」として捉えることができる。これは政治的に対立する人間、階級などを再現するタイプの演劇である。それに対し、ポストドラマ演劇は「認識不可能な絶対的他者との衝突」を表現しようとする。その表現のために、観客にも理解不可能な登場人物、身体表現、舞台装置などを駆使し、観客を「絶対的他者」に向き合うように促す舞台上演を創作する。
4) 実際の舞台上演例①『お笑い草の暗闇』: Wolfram Lotz 作、Dušan David Pařízek(パリゼク)演出の舞台『お笑い草の暗闇』(Die lächerlicher Finsternis)は2014年のドイツの演劇賞を複数受賞した優れた作品である。この作品にはアフリカやアフガニスタンを連想させる異郷の地に送り込まれた兵士たちが登場する。彼らは異郷での戦闘と理解不可能な他者との出会いによる不安にさいなまれて理性的行動から逸脱してゆく。また彼らの無意識に眠る他者である性欲や破壊欲といった衝動に支配されてゆく。この戯曲はコンラード著『闇の力』やコッポラ監督の映画『地獄の黙示録』からも影響を受けて成立したものである。ブレヒトの人間観や社会観にみられるように、『お笑い草の暗闇』でも政治システムと欲望が人間を支配しているのである。この舞台では兵士役を演じるのは女優であり、ブレヒトの「異化作用」を効果的に利用している。また戯曲のテキストを再現するドラマ演劇のスタイルで上演されるシーン、観客の理解不能なライブ性を活かしたポストドラマ演劇のスタイルで上演されるシーン、それら対照的なスタイルのシーンが断片的にはめ込まれて進行する。これは「政治的な演劇を行う」ドラマ演劇と「演劇を政治化する」ポストドラマ演劇の融合形であり、ブレヒト演劇の現在の形式として捉えることができる。