中央大学について

戦後の状況

1) 復学

1946(昭和21)年04月15日

甦る学園に 続々と復学 再建の意気も新に(『中央大学新聞』第250号)(321KB)

復学に関する文書史料はほとんど残っていません。

制度のうえで確認できるのは、「学則」に「陸軍、海軍ノ現役ニ服スル者及ビ召集中ノ者ハ其ノ期間中第18条ニ準ジテ休学シ満期後直チニ原級ニ復スルコトヲ得」(1943年2月1日施行の学部学則第20条)、「休学中ハ授業料ヲ免除ス」(同第33条)の2つです。

この資料は『中央大学新聞』の記事で、戦争終結に伴って復学する学生の要求や大学の対応について触れています。復員学生の有志が復員学徒進学の運動を開始したとあります。大学は学則に従って、「総て原級に復帰せしめる処置に出」、これに対して学生は、(1)戦没学生に卒業証書を授与すること、(2)各学年とも1学年ずつ進級させること、などの要求を出した。これが受け入れられず、3月になって再度提出し、大学から、(1)現在2年の学生は3年に進級、(2)2年生、3年生の学年試験は同時にすべての科目を受験できる、(3)1944年、1945年に海軍予備学生、陸軍甲種幹部候補生となり、復学した3年生の卒業は3月がかなえられずに9月となった、と伝えています。

参考:『中央大学新聞は』1944年5月をもって休刊とされ、ここで紹介した第250号が戦争終結後の復刊第1号でした。

2) 就学状況

1946(昭和21)年09月10日

発[ ]168号 在学生の就学状況調査に関する件[照会](525KB)

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[1946年9月  日 授業料未納者調(8月末日現在)](736KB)

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文部省は、在学生について1946年8月末日現在で、授業料未納者数、学資の補助受給者数、長期欠席者数、退学者数などを至急報告するよう求めています。

文部省の調査依頼のすべての事項に関する回答控えは残されていません。ここに紹介するのは8月末日現在の授業料未納者に関する草稿です。学部約800人、専門部約1,700人、予科約540人、工業専門学校約360人で、合計3,400人以上の学生生徒が授業料未納となっています。

以下で紹介する「1946年度の学生数」を基準にすると、授業料未納率は学部で約27%(800人割る2,945人)で、専門部で約32%(1,700人割る5,360人)となります。戦争終結直後の貧しい日本社会の縮図といえます。

3) 戦争終結直後の授業科目

1945(昭和20)年12月15日 講座科目時間等報告の件(2775KB) da20134365a0001-da20134365a0005

1945年8月の戦争終結直後の科目、週当たりの授業時間数です。学部と、専門部について専門科目、随意科目、配当年次、週当たりの授業時間数を表にして、文部大臣官房室あて回答しています。鏡の文には「電報御照会標記ノ件・・・」としており、文部省から電報で提出要請があったことがわかります。また、すでに11月29日に提出しているが「御照会」により再度提出するとあります。

戦争中の授業科目との比較で注目されるのは、たとえば、経済学部の外国語経済書(英語、ドイツ語)が戦後直後には英語経済書だけが開講され、専門部法学科のドイツ語、英語が戦後直後には英語だけが開講されています。日本の同盟国で敗戦国であるドイツに関係する科目を置いていません。

なお、以下のページで旧制期の学則(授業科目を含む)を公開しています。

開学当初から旧制時代の学則、規則類

4) 女子学生の受け入れ

中央大学は、1946年度において初めて女子学生を受け入れます。

1946(昭和21)年11月22日

学部入学女子学生について[照会](987KB)

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1946年11月30日

「学部入学女子学生について」に関し調査報告に関する件(625KB)

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文部省は「学部入学女子学生について」で全国の国公私立大学あてに1946年度入学の女子学生の状況について報告を求めています。これはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からの要求によるものであるとし、提出は11月28日を締め切りとしています。

内容は、第1:女子の入学者数調、第2:女子入学者に関する調査(氏名、入学試験での順位、学歴など)、第3:女子学生に関する概況の3項目の問い合わせです。

中央大学は締切日の28日を過ぎて、30日付で報告しています。法学部(昼)に3人が入学しています。入学前の学歴は全員明治大学専門部法科の卒業です。「女子学生に関する概況」の報告では、「女子にも向学の門戸を開いたと謂ふことは文化のため誠に喜しきことと思料す」としています。

1946(昭和21)年12月14日

年報報告に関する件[専門部](抄)(1311KB)

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文部省から発せられた発文46号の文書は残っていませんが、回答控えが残っています。発文46号は文部省が毎年求めている「年報」を提出するようにとの内容と推測します。

1946年12月14日付で中央大学が報告した「年報」にその年の入学者の記録があります。第2表で、専門部法学科(昼)に6人、同学科(夜)に1人の女子学生が入学したことが記録されています。入学前の学歴は全員"高等女学校卒業"です。入学試験出願者では、専門部法学科(昼)に8人、同学科(夜)に2人。実際に受験したのは昼6人、夜2人でした。

5) 旧植民地、外国からの引揚者の受入れ

1946(昭和21)年10月08日

発学524号 第3次引揚学徒転入学措置報告に関する件[照会](577KB)

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1946年12月19日

第3次引揚学徒転入学措置報告に関する件[報告(中央大学・中央大学専門部第3次引揚学徒転入学)](1395KB)

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発学524号で文部省は、旧植民地や外国からの引揚者の転入学について、受入れ可能者数、入学許可者数などを報告するよう求めています。

中央大学は12月19日付で回答しています。学部について、法、経済、商学部は計25人ずつを受入れ可能とし、実際には、志望者3人全員を受入れています。専門部について、法、経済、商学科は計25人ずつを受入れ可能とし、9人の志望者がありましたが一人も受入れていません。

6) 軍の学校出身者の受入れ

1945(昭和20)年08月28日 陸海軍諸学校出身者及在学者等措置要綱(閣議決定) 国立国会図書館サイト
1945年10月02日 陸海軍諸学校生徒転入学ノ件(752KB) da20130733a0001-da20130733a0002

政府は「処置要綱」を閣議決定し、国がかかわっている学校に陸海軍の諸学校在学生などを収容しようとします。この閣議決定にもあるように国が直接かかわらない学校にも同様に受入れを進めてゆきます。

10月2日の文書は、中央大学が軍関係学校の生徒を転入の形で受入れるにあたって、申込期間、試験日、合格発表日、授業開始日、提出書類などについて学内で取り決めた際の文書です。

7) 1946(昭和21)年の在学生数

1946年11月26日 年報報告に関する件[学部](抄)(827KB) da20134421a0001-da20134421a0002
1946年12月14日 年報報告に関する件[専門部](抄)(1280KB) da20134425a0001-da20134425a0003

1946年11月26日の文書は、5月31日付発文46号(この文書は残っていません)への回答文書の控えで学部に関する報告です。

在学生数は昼間部1,586人、夜間部1,359人、総計2,945人です。旧植民地出身学生およびタイ国出身者の計110人(あるいは106人)が内数か外数かは不明です。

この回答控えには他に、1946年度の(1)入学者年齢/(2)出身学校別人数/(3)出身学校所在地別人数、(4)卒業生数、(5)卒業者就職状況、(6)退学者数について回答しています。基準日が不明ですが、(4)卒業生数、(5)卒業者就職状況は、1946年9月卒業生に関するものと推測します。

1946年12月14日の文書は、発文46号(この文書は残っていません)への回答文書の控えで、上記「女子学生の受け入れ」で紹介した文書と同じ専門部に関するものです。在学生数は昼間部2,766人、夜間部2,594人、総計5,360人です。

予科に関する報告が残っていないことから全学生数は正確にはわかりません。

なお、この資料は「入学者数、在学生数、卒業生数など」のセクションで掲げた資料と同一です。

8) 教職追放

1945年10月30日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から「教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」(指令)が発せられました。これは、軍国主義的、極端な国家主義思想を持つ者の教職からの排除についての指示です。

翌1946年5月「教職追放」のための教職者の適格審査が全国的に開始されます。根拠となったのが、勅令第263号「教職員ノ除去,就職禁止及復職等ノ件」、文部省令第1号「教職員ノ除去、就職禁止及復職等ノ件施行規則」(いずれも1946年5月7日)です。翌年には、政令第62号「教職員の除去、就職禁止等に関する政令」(1947年5月21日)も公布されます。

最終的には、全国で2,623人が不適格者と判定され、別に審査によらない不適格者とされた2,717人とともに、公式に教職を追われました(『学制百二十年史』第二編:戦後教育改革と教育制度の発展-第一章:戦後の教育改革の概説部分)。

1946(昭和21)年05月08日

発適第1号 教職員不適格者の該当者数調の件(414KB)

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1946年05月24日 教職員不適格者の該当者数調査の件(568KB) da20130742a0001
1946年05月24日 教職員不適格者の該当者数調査の件(317KB) da20134385a0001

発適第1号は、文部省令第1号を承け文部大臣官房適格審査室長名で、文部省令第1号別表第2の審査委員会にかけずに教職から追放する教員についてその総数を報告するように求めています。「別表第2」では追放する者として、すでにGHQから罷免指令を受けている者、職業軍人、官僚や国の機関の主要メンバーなどを定めています。

5月24日付の中央大学の2つの文書は、この問い合わせに対する草稿(稟議)と回答控えです。現在までの調査によれば本校には該当者はないとしています。

以降、中央大学でも1946年6月に「中央大学適格審査委員会」を設置し、全教員の審査を行ないました。