中央大学について

独ソ不可侵条約締結

日本政府は、1936年にドイツとの間で「日独防共協定」を調印しています。防共とは当時のソビエト連邦を念頭に共同してソ連に対処する意味です。

日本政府はこの協定によりドイツとソ連との接近はないものと認識していました。しかし、ドイツはソ連との間で1939年8月に「独ソ不可侵条約」を締結します。

1939(昭和14)年11月11日

発企30号 独ソ不可侵条約締結ガ学生生徒ニ及ボセル影響調査ニ関スル件(453KB)

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1939年11月30日

独ソ不可侵条約締結ガ学生生徒ニ及ボセル影響調査ニ関スル件報告(891KB)

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1939年11月30日

独ソ不可侵条約締結ガ学生生徒ニ及ボセル影響調査ニ関スル件報告[配属将校による文案](534KB)

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発企30号で文部省は、独ソ不可侵条約締結が学生生徒に与える影響と、学生生徒の現下の国際情勢に対する態度について様式自由で至急回答するよう求めています。文書に「秘」の朱印が捺され、この調査の方法、結果について部外に対して厳秘としています。

中央大学は11月30日付で回答しています。

その内容は、(1) 独ソ不可侵条約締結は純真な学徒に一大衝動を与えた、(2) ドイツは日本を無視し防共協定の精神に反し、仇敵ソ連との締結は不信である、(3) 一方で、ドイツの直面する窮境に同情する面もあるため、反感を抱き報復をするのは大国民の心の広さではない、むしろ日本は独自の立場から国際正義を先に立って唱え八紘一宇(注)の理想の実現にまい進すべきだとして特別の関心を抱かない、(4) ヨーロッパ戦線不介入、支那事変処理第一主義に順応して学生としては文武の道に励み、中央大学の主義である質実剛健の気風を高揚してもってその本分を全うする覚悟である。思想上はもとより学問を研究する上でその精神は微動だにしない、などとしています。

同日付の文書は、この回答の元となった配属将校による文案です。修正なしで決裁を受けたものと推測します。

注:「八紘一宇」は当時、日本の海外進出の標語で全世界を一つの家にするという意味。