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教養番組「知の回廊」
59 「林芙美子文学散歩」

中央大学 文学部 渡部 芳紀

林芙美子文学散歩をお届けする。
今回は、網羅的でなく、主たる地の文学紀行という形をとった。尾道、因島、屋久島、林芙美子記念館を中心に取り上げた。各地で地元の人々にお世話になった。記して感謝いたしたい。

門司

明治三十六年十二月三十一日(戸籍上)、大字小森江五五五番地に生まれた。戸籍上では、鹿児島県鹿児島郡東桜島古里二五六番地、林久吉の姪フミコとして入籍。母キク(明治元年生まれ)、父宮田麻太郎(明治一五年生まれ)。

下関

明治三十七年、商才にたけた麻太郎は、下関で「軍人屋」というテキ屋を構え、弟、岡山の沢井喜三郎、友人らが集まり若松、長崎、熊本などに支店を出す。「放浪記」では、〈母は他国者と一緒になったと云ふので、鹿児島を追放されて父と落ち着き場所を求めたところは、下関と云ふ処であった。私が生まれたのはその下関の町である。〉と書いている。市内田中町の五穀神社の鳥居の脇に、「林芙美子生誕地」碑がある。明治四十四年一月、佐世保市八幡小学校より転入、大正三年十月まで名地小学校に在学、そのあと鹿児島市の山下小学校に無届け転住。
亀山八幡宮境内に林芙美子の碑がある。

尾道

大正五年五月、住み着く。六月二十二日、私立尾道尋常小学校(現・土堂小学校)の五年に編入。教師小林正雄に出会い、絵、音楽、作文の才能を認められ励まされる。女学校入学に当たっては進学指導をしてもらいに小林のもとに通う。この頃、間借りしていた第二尾道尋常小学校下の宮地醤油店の遠縁で、因島から通学の尾道商業の岡野軍一と親しくなる。大正七年三月、小学校卒業。四月、尾道高等女学校に五番で合格し、入学。二年の時、早稲田出身の今井篤三郎と知り合い、その師弟として長年導かれる。大正十一年三月、高等女学校卒業。四月八日、上京。
大正十二年九月初め、関東大震災を逃れ、海路大阪に出、さらに尾道に帰り、小林正雄宅に寄る。この折り、ペンネームを「芙美子」とするよう薦められる。
この後も度々、尾道を訪れている。

尾道を歩く

尾道駅に下りたら駅前の通りを左に行こう。二百メートルも行った右手、伊予銀行尾道支店前の広い舗道上に林芙美子の銅像がある。畳二畳ほどの台座があり旅の出で立ちで座り込んだ姿である。台座の前には、〈海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい〉と、「放浪記」の一節が彫り込まれた碑が立てかけてある。この辺りが芙美子縁の地の中心であることによる。それでは、縁の地をめぐってみよう。

芙美子の碑の所から、道は線路沿いに進む自動車道とアーケードを進む道に分かれる。芙美子の碑の前を通ってアーケードに入って行こう。アーケードに入った最初の細道を右に曲がると、これが俗に「うずしお小路」と呼ばれる小道である。昭和三十九年のNHKの朝のドラマ「うず潮」で林芙美子を取り上げた際命名されたという。道は、南の海に向かって五十メートルほどである。南に行くとその半ば左手に室田というしもたやがある。ここは芙美子が大正七年十一月より八年二月まで住んだ村上岡松米店にあたる。

うずしお通りをさらに進み広い通りに出た右手の角に小さな碑が立っている。碑面には〈林芙美子が多感な青春時代を過ごし林文学の芽生えをはぐくんだ家の跡です。〉と彫ってある。この「うずしお通り」の出口の西南の角の現在の尾道東御所郵便局の地は、大正八年四月から十年七月まで芙美子一家がその二階に住んだ藤原ヨシ煙草店の跡である。
「放浪記」に〈二階は六畳二間、階下は帆布と煙草を売るとしより夫婦が住んでいる。〉と書かれている。道路の南は尾道水道の海沿いに一皮魚を扱う家が続いているだけでほとんど海に面した家と表現していいところである。昔は魚市場に続く通りとして賑わっていたことであろう。

「うずしお小路」を北へ戻りアーケードとの交差点に出る。右に曲がったすぐ右手が喫茶「芙美子」だが、今はアーケード通りを突っ切って真っ直ぐ北へ進もう。と言ってもその交差点の向かいはすぐ陸橋(歩道橋)の階段になっている。階段の登り口の左には写真店があるがこの地が「風琴と魚の町」で、小学校にあがることになった少女が父に連れられ〈山の小学校へ行つた。/小学校へ行く途中、神武天皇を祭つた神社があつた。その神社のうらに陸橋があつて、下を汽車が走つてゐた。〉と描かれた神社の跡である。〈うら〉にあった陸橋は今は横になっている。階段を登ると道路と線路をまたぐ陸橋である。上はかなりの広さがありベンチも置かれ小公園になっている。尾道を散策する人達の目標地点であり休憩地点でもあるのだ。陸橋の上から西を見れば尾道駅のホームや構内が見え東へは遙か彼方へと線路が続いている。芙美子がはるかなる東京を思いながら佇んだ所であり、恋人の岡野軍一と恋を語り合ったところでもある。橋を渡り真っ直ぐ三十メートルも行くと土堂小学校の登り口の階段の取っ付きだ。〈随分、石段の多い学校であった。父は石段の途中で何度も休んだ。〉「風琴と魚の町」。やや右にカーブしながら長い階段が続く。登り切った所が土堂小学校である。大正五年六月、芙美子は当時の尾道第二尋常小学校の五年生に編入したのである。〈校舎の上には、山の背が見えた。振り返ると、海が霞んで、近くに島がいくつも見えた。〉「風琴と魚の町」。
学校に上がる階段の脇の坂の途中に「石榴の家」のモデルと言われる家がある。「風琴と魚の町」では最初に住んだ家と設定され〈この家の庭には、石榴の木が四五本あった。〉と描かれる。

学校から階段を降りて「うずしお小路」の入口まで戻ろう。
先程の「うずしお小路」入口に戻ったら、アーケードの通りを左(東)へ曲がりちょっと行くと右手に「アンティーク喫茶 芙美子」がある。店の前には〈林芙美子旧宅跡〉の案内も立っている。店内は手前が喫茶店で中庭の奥には芙美子の住んだ「元宗近家」の建物が移築されている。以前はもう少し東にあったものをここに移したという。喫茶店で散策の疲れを癒しながら途中で建物を見学するといい。芙美子の住んだ二階の雰囲気が実に良くわかる。階段が直に部屋に入り込み押入れも何もない四畳ほどの部屋である。部屋の実感がつかめてとてもよかった。喫茶店の店内には仕切りの硝子に芙美子の文章がかかれていたりする。一度寄りたい店である。
一休みしたら店を出てアーケードをさらに東へ進もう。二百五十メートルも行った右手に西日本相和銀行尾道支店がある。旧尾道警察署の跡である。「風琴と魚の町」で父が取り調べを受けたとき〈私は、夕方町の中の警察へ走つて行つた。唐草模様のついた鉄の扉に凭れて、父と母が出て来るのを待つた。〉所だ。

次に、ロープウェイの駅に向かおう。アーケードから北へ抜け線路沿いの国道へ出よう。丁度、光明寺の下辺りに出る。この辺りの線路沿いの家にも芙美子一家が住んでいて、「放浪記」にも取り入れられている。
道を東へ五百メートルも行くと左にロープウェイの駅の入口がある。左に上がってロープウェイで千光寺公園に登ろう。山上駅に下りたら真っ直ぐ進んで展望台へ登ろう。眼下に尾道の市街が一望出来る。狭い尾道水道を隔てて〈河のやうにぬめぬめした海の向ふには、柔らかい島があつた〉「風琴と魚の町」と描かれた向島が対し、さらにその向こうには瀬戸の海が見え、やや右手には恋人岡野軍一の故郷因島の影も見える。実に景色のいい所だ。ゆっくり展望を楽しみたい。辺りは桜の名所でもある。「風琴と魚の町」では〈夜になると、夜桜を見る人で山の上は群がった蛾のやうに賑わつた。〉と描かれる。

展望を味わったら、ロープウェイの駅に戻る途中に「文学の小道」の入口がある。ここを下って行こう。徳富蘇峰の碑を皮切りに正岡子規、ほか尾道に関係があった文学者達の碑が続いている。途中、見晴らしが良くなった所に、志賀直哉の「暗夜行路」の碑があり、それに続いて「文学の小道」で最もいい場所を占めて林芙美子の「放浪記」の碑がある。
上から見おろすと背景に尾道水道と尾道大橋が見え、時々ロープウェイが右後ろを上がり下がりして絶好のアングルである。碑には〈海が見えた。海が見える。五年ぶりに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海の向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。〉と「放浪記」の一節が彫り込まれている。

山口誓子、碧梧桐、中村憲吉等の碑を経て千光寺に至る。〈山の赤い寺の塔に灯がとぼった。〉「風琴と魚の町」と描かれた寺だ。灯は実際には大きな岩のてっぺんに据えられている。ここもさっきの展望台より町に近づいた形で展望出来るので尾道を十分味わえる。さらに下っていくと途中に中村憲吉の旧居がある。外からだが室内も見られるので寄ってみたい。さらに下って標識に導かれて右手に入って行くと尾道文学記念室に至る。
記念室の下は小公園になっていて、倉田百三の碑や、「暗夜行路」「放浪記」と記した石碑が立っている。記念室は志賀直哉が大正元年十一月から一年間住んだ三軒棟割長屋が基になっている。第一室は「映像文学コーナー」で、地元出身の大林宣彦監督が尾道を舞台に作った「さびしんぼう」を中心にその他の映像関係の展示がされている。休憩室をも兼ねていてお茶を戴いたりできる。売店では各種資料が売られている。特に尾道私立図書館八十周年記念として出版された「尾道の林芙美子 今一つの視点」(平成六)は貴重な資料である。今回の取材でも大へん役立った。芙美子に関心ある人は今のうちにぜひ手に入れておきたい。
第二室が芙美子の部屋になっている。部屋は芙美子の東京中井の家の書斎を模して展示されている。部屋に向かった後ろ側には原稿、書簡、遺品などが展示されている。狭い所なのに意外に展示物が多く充実している。実際の新宿中井の林芙美子記念館は原稿などの展示は少ないのでここの展示は貴重である。
第三室は、志賀直哉の部屋である。実際、大正元年十一月から一年間住んだ部屋を使っている。「暗夜行路」の草稿を執筆した所であり「暗夜行路」の重要な舞台でもある。表に出れば縁側から尾道と瀬戸内の展望が楽しめる。「解釈と鑑賞」の昭和六十二年一月号の「志賀直哉文学散歩」でも触れたことであるが、直哉は常に景色のいい所に住んでいる。なかでもここは美しい所である。直哉の価値観の原型がここで把握できるといえよう。
記念室は年末年始だけ休館、入館料は大人二百円、開館時間は九時~五時(四・十月は六時)である。ぜひ訪れたい。

記念室を見学したら一気に坂を下って線路沿いの国道に出よう。再び東に向かいロープウェイの駅下も過ぎ五百メートルも行って北へ曲がり尾道東高等学校を訪ねたい。芙美子が大正七年四月から大正十一年三月まで学んだ尾道高等女学校の跡である。校門を入ったすぐ右手の植え込みの中に碑がある。〈巷に来れば/憩ひあり/人間みな吾を/慰さめて/煩悩滅除を/詩ふなり/林芙美子〉と彫ってある。
なお、筆者は訪れられなかったが、東高等学校のすぐ東南にある市立尾道図書館も訪れたい。芙美子に関する多くの資料がある。
今回は、触れなかったが、尾道は寺の町でもある。魅力的な寺が多いので時間の余裕のある時は回ってみたいものである。
また、時問が有ればあちこちにある向島への渡し船にも乗ってみたい。一人片道六十円であった。船の上や向かい側から眺める尾道の町もまた趣がある。

因島を歩く

因島は、芙美子の恋人岡野軍一の故郷として度々訪れ、「放浪記」にも舞台として登場する。
因島は、今は車やバスでも訪れることが出来る。芙美子と同様船で訊ねるのもまた一興であろう。

船で土生港に近づいて行くと先ず目につくのは〈小さな船着場の横に、白い病院の燈火が海にちらちら光っていた。〉と描かれる因島総合病院である。日立造船の前身である大阪鉄工所因島工場の作った病院である。
港に下りたら道を右(南)へ取ろう。〈糸のように細い町筋を(中略)私は造船所に近い山のそばの宿へついた。〉「放浪記」。長崎桟橋の所で一度クランクのように曲がったあと百五十メートルも行くと、正面に日立造船の西門がある。旧大阪鉄工所の正門だ。門前に立って左を見ると一段引っ込んだところに青い屋根の二階屋がある。ここが大正十三年六月頃、当時大阪鉄工因島工場に勤めていた、自分を捨てた恋人岡野軍一に会うため林芙美子が泊まった松葉屋旅館の跡(現・松葉荘)である。「放浪記」では、八月の事として記述されている。
〈二階の六畳の古ぼけた床の上に風呂敷包みをおくと、私は、雨戸を開けて海を眺めた〉。左脇を荒神社の長い真っ直ぐな石段が上がっているのですぐわかる。真っ直ぐな石段を登ると荒神社の境内から眼下に造船所入口付近が見える。「放浪記」では、ここから眺めたストライキの様子を詩にして挿入している。〈遠い潮鳴の音を聞いたか!/何千という群れた人間の声を聞いたか!/ここは内海の静かな造船港だ/(中略)寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでゐる/浪のやうに元気な叫喚に耳をそばだてよ!〉

次に土生町の東に聳える天狗山に登ろう。自動車かタクシーで山頂近くの国民宿舎因島ロッジを目標に行くとよい。日立造船の前から道を工場に沿って東南に五百メートルも行くとトンネルがある。トンネルの手前を右に曲がり登って行くと左に国民宿舎への登り口がある。その道に入って山に登っていく。かなり登ると途中右側に駐車場風の広場がある。その右脇中央に林芙美子の碑がある。「放浪記」の造船所のストライキの様子を写した詩の一節が「いんのしま」として彫られている。昭和五十一年五月、因島ライオンズクラブが並木植樹記念に立てたもの。さらに登ると左に国民宿舎因島ロッジがある。車ならここに駐車し、タクシーならここで降りよう。国民宿舎の前に弘法大師鯖大師の像がある。その左後に「文学の散歩みち・つれしおの石ぶみ」の登り口がある。万葉の歌を初め小林一茶、志賀直哉、今東光、司馬遼太郎、若山牧水、三好達治、村上元三、吉井勇、火野葦平ら因島に縁ある文学者の碑が順番に立って頂上まで続いている。碑を見ながらいつの間にか二〇八メートルの頂上についてしまう。林芙美子の碑は半ばを過ぎたところにある見晴らしの良い位置の岩に〈海を見て島を見て、唯呆然と魚のごとく、あそびたき願ひ〉と彫ってある。

頂上には因島テレビ中継所がある。脇に展望台が出来ている。ここに登ると因島が水軍の拠点になったことがよくわかる。背後の因島中心部以外は三百度の展望がきく。西には生名島、岩城島、生口島、遠く大三島、南に弓削島、佐島、その他名も分からぬ大小の島があちこちに点在している。遠くには四国の山並みがずうっと続いている。日本各地を見ている自分だがこんなに景色の良い所はめったにない。ぜひ、多くの人が訪れてくれるといいと思う。展望台から後ろを見ると箱庭のような港町が眼下に見える。井伏鱒二がよく滞在した三庄町である。芙美子も女学校時代の知人を訪ねて訪れている。
なお、因島ロッジから更に車で登れば因島公園の駐車場に至る。そちらからも頂上に登れる。ほんの少し登る量が少ない。途中に高浜虚子の句碑もある。
山を下って土生の町に戻ったら、今度は町を北へ向かおう。土生小学校の入口を入った所に岡野軍一の旧居の跡がある。家はともかく、海の辺りを散策し〈因島の樋のやうに細い町並を抜けると、一月の寒く冷たい青い海が漠々と果てもなく広がってゐた〉「放浪記」と書いた芙美子に思いをはせるのもよかろう。
緑敏と結婚した後の芙美子は夫を紹介に岡野を訪れている。この美しい島を画家の夫に見せたかったのであろう。緑敏は絵を描くため島に逗留したりしている。
その他、因島には魅力的な所が沢山有る。ぜひ、また訪れてみたいものである。なお、今回時間が無くて果たせなかったが、彼方に見えた岩城島も訪れたい。若山牧水が友人を訪れ、記念の歌碑も立っている。景色もかなり期待出来そうである。次回の訪れでは、因島と岩城島を回りたいものである。
因島では田坂写真店の田坂浩通さんに大へんお世話になった。記して感謝したい。

屋久島

昭和二十五年四月、「浮雲」の取材で訪れる。その時の体験は、「屋久島紀行」「浮雲」に反映している。

屋久島を歩く

桜島の古里温泉の林芙美子の碑と銅像を見たあと、鹿児島に泊まり、鹿児島空港から飛行機で屋久島に飛んだ。土砂降りの雨で出発がかなり遅れた。一月に三十五日雨が降ると言われる屋久島に渡るに当たって雨の洗礼を受け、先が思いやられた。写真を撮りに行くのに一体どうなることやら。空港で待っている間、回りを見ていると、私以外の全ての人が登山姿である。登山と、屋久杉を見に行く島らしい。

鹿児島から屋久島まで飛行機で三〇分。水平飛行に入ったと思ったらすぐ着陸体制に入りシートベルトを外す問もない。それはそのまま、デジタルカメラが使えないということでもあった。雲は次第に薄くなり、〈青い沁みるやうな海原の上に、ビロードのやうにうつそうとした濃緑の山々が、晴れた空に屹立してゐる。〉「浮雲」と描かれた島影が浮かび上がってくる。飛行機は海岸線に沿って高度を下げ着陸した。島に着くころから天気は回復に向かった。空港からレンタカー会社に電話して車を借りた。ほぼ丸い島の東北に位置する空港より島の東部にある安房に向かった。八キロも行くと安房である。島の真東に位置する。先ずは港に向かった。港はまだ入出港の時刻に間があるのかひっそりしていた。安房川の川口の港だ。〈入江のなかは、グリーン色の澄みとほつた水で、海底の岩や藻や、空缶の光まで判然はつきりと見えた。〉「浮雲」という入江が静かに広がっている。私は、川の左岸を川沿いに登って行った。島の周回道路の橋の下に車を止め橋に登って上流の写真を撮った。すぐ上流に一回り小さな橋が架かっている。〈高い堤の上に、珍しい程メカニックな大きい吊橋がアーチのやうに架ってゐた〉と描かれている吊り橋の後裔なのであろう。橋の向こうの袂には大きな屋久島ロイヤルホテルが立っている。〈長い吊橋を渡り、見晴亭と看板の出た、安房旅館というのに案内された。旅館は、一寸した丘の上にあり〉と描かれている旅館の後裔である。車で橋を渡り駐車場に止めてホテルを尋ねた。後で分かったことだが今は周回の国道の方にフロントがあり、橋の袂の入口は裏口になっているのであった。忙しいにもかかわらず、希望を聞いて女将さんが林芙美子の部屋に案内してくださった。川に面した二階の一間である。ビルに建て替えてあるので芙美子の部屋と言っても位置や材質の一部を残したといった部屋なのであろうが、それでも芙美子の泊まったほぼ同じ位置から安房川や上流の山の風景を望めるのは嬉しいことであった。〈峨々とそびえてゐた山々〉というのは正面の山だろうか、宿の人に聞くと明星ヶ岳という山だという。(別のところでは〈硯のやうにそぎ立つた山頂〉という比喩も使っている。→モッチョム岳)目の前の安房川の右岸に沿って、芙美子はトロッコに乗り上流の太忠岳から小杉谷へと向かったのだ。私は窓を開け、写真を撮らせていただく。パンフレットも戴いてホテルをあとにした。(屋久島ロイヤルホテルの方にはお忙しいなか、ご案内有り難うございました。)

ホテルをあとにして、川の左岸に沿ってさらに上流に向かった。途中から、道は川から離れ、小高い畑地に沿って進んだ。途中、墓地があったので車を止めた。屋久島紀行で〈蜜蜂の箱を並べたやうな墓地を珍しく眺めた〉と書いてあるように、どの墓も、コンクリートの大きな四角い箱の上に墓石が立っている。確かに〈蜜蜂の箱〉のイメージがある。たまたまそうだったのだろうか。あるいは、いつでもそうなのであろうか。どの墓も溢れるような美しい花に囲まれていた。墓(先祖)を大事にするのは、島の人達の優しい心根なのだろうか。
道を上流へ進み、浄水所の所から左に曲がって、安房川に掛かる高い橋の上に出た。深い谷をなして、川は上流へと入りこんでいる。橋を渡り、まっすぐ進むと広い通りに出る。安房から安房川に沿って上流へと進む主要道路だ。私も右に曲がり、上流へと道をとった。途中、すぐ左に屋久杉自然館がある。屋久杉に関する展示がしてある。道をさらに登り十五キロも奥に入ると、屋久杉ランドがある。さらに五キロも進んだ道端に、樹齢三千年と言われる「紀元杉」と呼ばれる屋久杉がある。島一番と言われる縄文杉は、本格的な一日掛かりの登山をしないと見られないので、せめて車でも行ける紀元杉を見て、屋久杉ランドに戻った。屋久杉ランドは、三十分から二時間ぐらいまでの幾つかのコースを作り、体力に応じて屋久杉を見られるようにした自然公園である。登山の苦手な人は、ここで世界遺産に指定された屋久島の大自然の一端に触れることができる。

安房に戻ったら、さらに道を西南にとり、尾之間に向かう。芙美子がバスで二時間かかって行った所を、今は車で二十分ぐらいで着いてしまう。芙美子は尾之間で〈黒砂糖を製造するところ〉を見学したり、あたりを散策して〈五、六人の手で囲むやうなあこの樹の大樹が青々と繁つてゐた。葉をむしると、柔らかく柿の葉のやうなかたちをしてゐた。〉や〈ひげを垂れたがじまるの大樹〉「屋久島紀行」などを珍しく眺めたりしている。
〈山々は硯を突き立てたやうに、部落の上にそゝり立ってゐる。陽の工合で、赤く見えたり、紫色に見えたりした。私達は、その山にみとれてみた。案内の人は、もつちよむ山だと教へてくれた。花崗岩の巨峰は、日本のマッタホルンとも言はれると聞いた。〉「屋久島紀行」と、あたりの山々を眺めたり、海へ降りて〈人間に触れない景色にはたへられないやうな淋しさ〉を感じたりしている。

現在の尾之間は、屋久町の中心として、国民宿舎屋久島温泉や尾之間温泉のホテルなど、観光にも力を入れた賑やかな町になりつつある。西隣の小島の岬の先には、太宰の「地球図」や坂口安吾や遠藤周作も作品のモデルにしている神父シドッチの上陸記念碑や、記念の教会がある。
島内のあちこちには、〈羊歯に似た、ヘゴといふ植物〉「浮雲」が庭木にされたりしている。棕櫚の葉の代わりに、羊歯の葉が生えたようなこの木に、芙美子はかなり関心があったようだ。
この他、島内には多くの滝や、海亀の産卵地やガジュマルの密生した公園など、見所が沢山ある。ゆっくり時間をかけて訪れたい島である。

林芙美子記念館(旧居)を訪れる

西武新宿線中井駅で降り、新宿側にある改札口を出て左に曲がり、踏切を渡って少し行った丁字路を左に曲がる。道なりに三百メートルも行った右手に、林芙美子記念館(旧居)がある。遺族からの寄贈を受けて、新宿区が管理している。館内は、生活棟とアトリエ棟の二つの建物を中心に庭も含めて、生前の芙美子の生活が彷彿とされるよう、殆ど手を入れない形で公開されている。昭和五年から落合の地に住み着いた芙美子は、昭和十四年十二月にこの土地を手に入れ、二年間の歳月を費やして、山口文象設計による数寄屋造りの屋敷を作り上げ、昭和二十六年六月二十八日その生涯を閉じるまでの十年間をここで過ごした。晩年の傑作を生み出した地である。夫緑敏や子泰、母キクたちとの安らかな寛ぎの場の雰囲気も想像される。明るい時間に訪れ、ゆっくり見学したい。住所:新宿区中井二の二十の一、入館料:一般百円、小中学生五十円、休館日:月曜日及び年末年始、開館時間:十時~四時まで

記念館を見たら、前の道をさらに西に向かおう。二百メートルも行った右手、生協のある所が、昭和五年から十六年まで住んだ旧居趾である。その先の踏切を南へ抜けて、妙正寺川に沿って川沿いを上流へ百メートルも行き、南へ道をとり、墓地の間を南へ抜け、巧運寺を訪れよう。山門は南にあり、本堂の左手から裏の墓地へ入る。墓地に入ると、すぐ先に「林芙美子の墓」の標識が立っている。道の右手に林家の墓地がある。左奥に、川端康成の書で「林芙美子墓」と彫られた瀟洒な中ぐらいの墓がある。可愛らしい印象を与える好感を持てる墓だ。その右隣には、夫緑敏の小さな墓が並んでいる。生前から芙美子に尽くした緑敏の優しい人柄が偲ばれる墓の作りである。その右手前には、芙美子の姻戚に当たる内田家の墓がある。子のいなかった林家の墓の無縁仏になることを危惧した緑敏が、芙美子の親類の墓も一緒に建てたのである。墓参りをしたら、先程の妙正寺川に戻り、川沿いに一キロほど歩いて哲学堂公園を訪れたい。芙美子が好んで散策し、「青粥の記」で詳しく触れている。

〈哲学堂は好きなので時々散歩に行く。桜の葉がいつぱい繁つてゐる。木蔭の宇宙館などは這入つて腰をかけてゐると、ひとりでに眠たくなる。庭の真中の四聖堂は、山寺のやうに簡素で、耳を澄ましてゐると松籟の音でも聞こえてきさうだ。「認識」への道をぼくぼく降りて行くと心の型をした池がある。七八年も前、田鶴ちゃんと云ふお寺の娘たちと、よくお玉杓子をすくひに行つた(中略)私は、この池の前にあるひと塊の竹藪を見るのが愉しみで、毎年小暗くなつてゆく丈高い竹を見に行く。しのちくのやうに細くて、節々の細い竹の皮の黒い、何となく品のいゝ姿だ。(中略)哲学堂の中で好きな処は「独断峡」と云ふ細い道だ。片側は妙正寺川が流れてゐるし、私はこゝを通るたびに(中略)死ぬのも生きるのも此一瞬と云つたそんな気持にもなる。〉(「青粥の記」)
哲学堂公園を見たら、西南一キロほどの所にある「新井薬師」も訪れたい。同じく「青粥の記」で、新井薬師の植木市のことを描いている。新井薬師からは、東北へ三、四百メートルぐらいで西武新宿線の新井薬師駅に出られる。

石廊崎

〈私は晩春から初夏にかけてが好きで、特に激しい汀をもつてゐる石廊崎に度々出掛けてゆく。大島が見える。海はこんいろで涼風がしめつてゐる。私は海よりも山が好きなのだけれども、この石廊崎は何時来てもいゝなと思ふ。〉(「旅つれづれ」)

湯ケ島

〈長とうりうと云へば、たいていは湯ケ島まで長駆して落合楼へとまるやうにしてゐる。清楚なのがなによりで、〉(「旅つれづれ」)

戸隠

〈山で好きなのは信州の戸隠で、こゝも最早四五遍は杖をひいてゐるけれども、こゝはしょかの新緑と小鳥の声が見事だ。(中略)飯綱や黒姫なぞの山々と語ることが出来る。あまの部落には宝光社、中社、奥社とあり(中略)霧の流れの激しいところで、伊豆の旅のやうなあんなにぎやかさはないが、何となく躯の静まるやうなのがいゝ。〉(「旅つれづれ」)