社会・地域貢献

教養番組「知の回廊」61「認知症の理解」認知症者の理解

中央大学 文学部 緑川 晶

はじめに

認知症は患者本人の問題にとどまらず、その周囲の家族にも大きな影響を与える疾患である。しかしその影響は家族だけではなく、ふたたび患者本人にも影響を与え、さらにそれによって家族の負担も増加するというように、その歯車の回り方によっては負の連鎖にいたることも少なくない。

しかし同時に家族が変わることによって本人も変わり、それによって家族もまた変わるというように、負の連鎖から抜け出すことも決して不可能ではなく、また多くの家族にそうなって欲しいと願っている。そのためにできることの第一歩は患者本人を理解することであると思う。

しかし患者の多くはたとえ問題を感じていてもそれを訴える手段がすでに失われている場合が少なくない。

認知症とは

認知症とはなんであろうか。たとえばステッドマン医学大辞典[1]には、認知症dementiaの項に以下のような記述がある。

通常は進行性の、認知、知的機能の欠損で、知覚や意識の障害を伴わない。原因は多様だが脳の構造的病変によることが最も多い。見当識障害、記憶力・判断力・知的能力の障害および浅薄で変化しやすい感情が特徴的である。

このように認知症は脳の疾患に起因すると言われているが脳の画像検査では明らかにならないことも多い。また認知・知的機能の欠損とあるが、障害のパターンによっては日常生活をある程度こなせる場合もあれば、障害されている機能が非常に限られているにもかかわらず日常生活が破綻している場合もある。

認知症者の視点から(なにが障害されるのか)

うつ病であれば当事者に話を聞くことで、本人がどのような状態で、なにを困っているのか第三者が把握することは可能であろう。しかし認知症でそのような行為はかなりの困難を伴う。その理由は病識、すなわち自分が病気であることの認識が欠如しているからである。ただし病識が無いということは、病気に対する認識がまったくないという訳ではないようである。患者本人の手記[2]や日記[3]からも自分自身の認識が行われていることが示されている。

事例(1)

Aさんは70代後半で最近まで現役で働いていた医師である。一年ほど前から診察をすっぽかすようになり、これを異常に思った家族が病院に連れてきたのであった。医学的所見からアルツハイマー病が疑われたのですぐにアリセプト(R)を処方され、飲み始めたところ、数週間でみるみる改善したそうである。また興味深いことに、異常行動を起こしていた当時を振り返ることが可能であり、「あの時は訳の分からない状態だったが、迷惑を掛けまいと必死だった」と語っていた。

このように認知症の患者は病気に対する認識がないのではなく、それを表現する手段が限られた状態ともいえる。それでも認知症に関する状態や問題を患者の視点で語ってもらうことには限界がある。したがって何らかの手段を用いて、認知症患者の内的な世界を推測するという作業が必要になる。

このような作業で用いられる手段が、心理検査法や行動評価法である。これらを用いて明らかになる最も典型的な障害は、覚えることの問題である。単語や物品を見せたり物品名を聞かせたりして覚えさせ、しばらく経ってからそれを思い出させると、認知症の患者では、思い出すことができないばかりか、程度が重い場合には、覚えたこと自体を覚えていない場合がある。

すなわち高齢者で多く見られるど忘れは、素材そのものを提示すれば思い出すことができるという意味で再生(思い出すこと)ができない状態であるが、認知症の場合には頭に残らないのであるから記銘(記憶を刻むこと)や保持(刻んだ記憶を保っておくこと)の問題といえる。

このような違いを念頭に置けば、介護者が「さっき言ったでしょ?」と言って責めたり、無理に思い出させようとする行為が無意味なことが分かるであろう。本人としてみれば身に覚えのないことを問い詰められているようなものであり、気分を害するのも当然である。

次の問題は見当識である。これには複数の要素があり、日時の見当識、場所の見当識、人物の見当識に分けられている。日時の見当識障害は最も初期から見られ、日付や曜日から始まり、月や年、季節の順で分からなくなる。

場所の見当識障害は、今いる場所の名称だけではなく、重度の場合にはその種類(病院なのか役所なのか等)までもが分からなくなることがある。人物の見当識障害は、知っている人物が分からなくなるだけではなく、娘を姉と言ったり、夫を夫に似た別な人と言ったりする誤認も含まれる。

これらの見当識障害は共通の病態を現している訳ではなく、記憶や注意の障害が日時や場所の見当識障害に関与し、失認(見ることを記憶に結びつけることの障害)や情動の障害が場所や人物の見当識障害に関与しているようである。

次の障害は視空間の認識の障害である。検査では図形を描かせることによってその障害が露見することがあるが、このように目の前の空間関係の把握や自分と対象の位置関係の把握が難しいだけではなく、より広い空間の中での自分の位置づけが難しくなることもある。

本人には周囲の空間自体も歪んで映るようであり、平坦な場所ですら歩くことを怖がったり、椅子に座るのを怖がったりすることもある。また、回りの風景が認識できなかったり、自分がいる位置が分からないため、結果として徘徊と映ることもある。

これ以外にも言語や行為の障害が多かれ少なかれ生じることが知られている。言語の障害には、言ったことが分からない「理解」の障害と、思ったことを言うことができない「表現」の障害がある。言った通りにしないことに腹を立てる家人も少なくないが、そもそも言語的な理解が難しいのかもしれない。

同様に「何を言っているか分からない」ということで「呆けた」と決めつけられてしまうこともあるが、実は内的な世界は保たれ、それを言語的に表現できないだけの問題なのかもしれない。したがって、言わない、やらないという状態は、道具としてのことばの障害であり、それ以外の機能はおおかた保たれている可能性もあるのである。

行為の障害とは、洋服が着られないという着衣失行、道具が使えないという観念性失行の他に、あたかもコンピューターがフリーズしたかのような行為そのものが開始できない状態もある。これらは、言われたことは分かるが、それをどうしていいのか分からない状態とも言え、先の言語の障害と同様に、人が持つ手段の一つが障害された状態と考えることができる。

認知症と一括して表現されてしまうと「呆けているから」、「どうせ言っても分からないから」と杓子定規のような理解がなされることが少なくないが、以上のように、認知症は個々の症状が重層された状態であり、ある側面から光を当てると、「分からない」と思われる状態であっても、別な側面から光を当てることで、「分かっている」と思われることも少なくない。以下、筆者が出会った患者さんから障害に埋もれた影の部分を読み解いていきたい。

認知症者の視点から(なにが保たれるのか)

保たれる機能として第一に挙げられるのは、自尊心(プライド)であろう。また、この自尊心を守る防衛反応も保たれているといえる(というよりは過剰になっているのかもしれない)。防衛反応は誰でも少なからず持っているが、認知症の場合にこの反応がやや過剰になるようである。そのため覚えていないことを指摘されると頑なになり、自分は覚えているというような嘘が出たり、家族から指摘されると怒り出したりする。しかし家族がいない場面でこっそり聞いてみると「最近、忘れっぽくって」と自ら吐露することも少なくない。したがって、このことを踏まえないと過剰な反応を引き起こし、結果として関係性が悪化することになる。

事例(2)

Bさんは80歳の女性で、地方から呼び寄せられて娘夫婦と一緒に暮らし始めたのであるが、波風が立たない日は無いらしい。どうやら本人が好意で行ったことも、家族にとっては迷惑なことだらけのようである。たとえばクリーニングに出すような衣類をそのまま洗濯機の中に入れたり、なにもできないのに台所に立って手を出そうとしたりするそうである。そのたびに娘さんは本人に文句を言うが、本人はウンともスンとも言わず、「とうとう呆けがすすんだのか」と家族は不満を募らせていたところである。しかし別な場面で本人にそっと聞いてみると「あんな感じだから私は黙ってしらんぷりしているの」と、ごく普通の反応を示してくれた。確かに記憶に問題があるのであろうが、本人も娘に気兼ねして色々と手を出すのであろう。それにもかかわらず日常的に言われ続けたら誰でも厭になるだろう。

事例(3)

Cさんは戦後すぐに夫婦で会社を興し、70歳を超してもなお経営者として働いていたが、数年前に脳炎を発症し、介護を受けている女性である。知的には保たれているが、なにかをきっかけとして人格が変わったように怒り出し、手の付けようがなくなってしまうことで家族を困らせていた。そういうときに会社設立から今までの苦労を尋ねると、よくぞ聞いてくれましたとばかり、得々とその様子を語り、疾風怒濤の怒りはいつの間にか収まっていた。

このように自尊心の琴線に触れるという行為は場合によっては火に油を注ぐことになりかねないが、その人にとっての尊厳を取り戻す大きな力ともなりうるのである。
保たれる機能の2つ目は遠隔記憶と呼ばれる古い記憶や意味記憶と呼ばれる知識である。一方で先ほど述べたように新しいことを覚える記憶(近時記憶)は障害されている。このような特性があるために昔のことはよく覚えているのに直前のことを覚えていないといった一見ちぐはぐな症状を示すのである。また意味記憶も保たれるため、仕事上でのエピソードを覚えていないが、仕事で取り扱っていた品物などの知識は保たれていたりする。

事例(4)

記憶障害のDさんは地方で会社の経営者をしていたが、病気のために実質的には一線から退いていた。しかし○○という製品はどういう特徴があるのか尋ねると、製品に関する知識を披露し、さすが専門家という具合であった。また高校時代にやっていた数々の悪さをありありと語ってくれるのも印象的であった。

このように古い記憶や知識は失われにくい。したがってこのような側面からであれば比較的負担が少ない状態で患者さんと接することができるのである。

残される機能の3つ目としては感情が挙げられる。喜怒哀楽という意味だけではなく、感情の記憶が保たれるという意味でもある。先に述べたように新しいできごとを覚えることは確かに難しいが、その時の感情は比較的残りやすい。したがってある人に会って厭なことがあれば、そのことを覚えていなくてもその人のことを嫌いになるし、反対に楽しいことがあれば好きになるのである。

事例(5)

重度の記憶障害があるEさんが自宅で骨折したため病院に入院してきた。およそ月に一回の頻度で訪れている病院であるにもかかわらずAさんはひどいパニックに陥って、幾度となく「なんで私はこんなところにいるの?」と周囲のスタッフを困らせていた。ちょうどそのような時、筆者が顔を出すと「ああこの人は知っている」という具合にほっとした表情を示し落ち着きを取り戻してくれた。 
その後の入院生活も落ち着かない状態が続いたかというと、そうではなく、慣れや安心感も積み重なるようであり、数日も過ぎると落ち着いて過ごすことができるようになっていた。

達成感や無力感もこの感情に含まれる。誰でもできれば嬉しいし、できなければ否定的な感情を持つであろう。認知症の患者では障害によりできることが少なく、否定的な感情を多く経験している。そのため、できることが感じられることの効果は大きい。しかしだからといって、できて当然のことをやらされたとしたらどうであろうか。先にも述べたように、かえって自尊心を傷つけられることになるのである。

事例(6)

Fさんは視覚認知の障害が主な認知症の方であるが、最近は症状がひどくなり、ほとんど盲のような状態で過ごしていた。しかし、たまたま行ったキャッチボールが思いのほか上手にでき、本人だけではなく、傍らにいた奥さんにも非常に喜んでいただけた。

このような特定の課題に限らず、我々が日常なにげなく行っている行為、たとえば食事や歩行でも、場合によっては喜びを感じることができるのである。また、患者本人だけではなく、常日頃、障害を目の当たりにしてきた周囲の家族にとっても、そのような場面は喜びに通じる。

事例(7)

Gさんは大学を卒業してから40年以上にわたって自営業を営んできたが、アルツハイマー病の発症を契機に、廃業せざるを得なくなってしまった。現在では症状がかなり進み、寝たきりに近い状態であった。話すことを含め意思表示がほぼ困難であったが、それでも奥さんはできることを見つけることの名人でもあった。嚥下(飲み込み)が難しくなった時期にも、スプーンで口の中を刺激すると飲み込むことができるようになることを発見したり、奥さんが長電話をしているとうなり声を出し、あたかも長電話を咎めるような態度を示すそうである。このようにほんの些細なことではあるが、Gさんの家族にとってはなによりも嬉しいそうである。

このように認知症の患者は多くの障害されている機能がある一方で残存する様々な機能もある。また個人によってその様相や程度も異なるのである。

家族の視点から

まず最初に2つの家族を見ていただきたい。

事例(8)

さきほど登場したGさんであるが、その廃業に対して最後まで躊躇したのは本人ではなく奥さんであった。できる範囲で最後まで仕事に関わって欲しいというのが奥さんの願いであったが、結果として本人にとっても負担の少ない形での廃業であった。症状がある程度進んだ段階のある時、自発的な発話もほとんど認められない中、ときどき反響言語のように「いいのかな」を繰り返すことがあった。本来の反響言語であれば、状況や場面に依存することはないのであろうが、Gさんの「いいのかな」はどうも状況や意図に依存しているようであった。ある時この「いいのかな」はトイレに行きたいときの合図ではないかと奥さんは思ったようであるが、すでにトイレに行った直後でもあったのでそのままにしてしまったそうである。そうして間もなく失禁。やはり奥さんが読み取ったGさんのサインは正しかったようである。

事例(9)

Hさんは、大学を卒業してから技術系の会社で長い間エンジニアとして働いた後10年ほど前に退職し、マンションも経営するなど悠々自適の生活を送っている 70代後半の男性である。物忘れは重篤であるが知能検査でも大きな低下はなく、こちらとしては安心して見ていられる患者さんであるはずなのだが、奥さんからの話ではそうではない。病院で私の顔をみるなり、あれもしないこれもしない、ということを延々と話し始めるのである。食事や入浴で格段に手がかかるわけではないが、掃除をしない、一日中テレビを見ているだけで何もしない、ということが奥さんにとっては不満のようである。奥さんはこれらのことが我慢できないらしく、本人に声を荒げてしまい、それに呼応するかのようにHさんも言い返すというように関係はかなり悪化しているようであった。

このようにGさんとHさんは様々な意味で正反対の状態であるといえる。症状としてはGさんの知的機能の低下は著しく、日常生活も自立的に行えない状態であった。一方、Hさんは記憶こそ障害されているが、知的機能も保たれており日常生活においても手がかかるわけではなかった。

次に、配偶者を見てもその方向性がまったく異なっていることが分かる。Gさんの奥さんは「○○ができた」という語り方であったが、Hさんの奥さんは「○○ ができない、やらない」という語り方であった。なぜ状態が悪い方が「できた」という語り方をし、状態がよい方が「できない、やらない」という語り方をするのであろうか。

ここで重要なのが、どのような視点に立って患者さんの状態を見ているのかということだと思われる。すなわち、Gさんの奥さんは、「できない」という患者さんの現在の状態が視点の中心になっているため、できることに目がいくのであるが、Hさんの奥さんの場合、「できていた」という患者さんの過去の状態が視点の中心になるため、現在のできないことに目がいってしまうのである。

このようなGさんとHさんの奥さん達の差異は、受け入れ方の差とも言えるかもしれない。このように、家族は今を基点として本人を見るのか、過去を基点として本人を見るのかによって、対応が大きく異なりうることが分かる。

次に家族にとって大切なのは、患者本人のいまは、障害が作り上げているということを念頭に置くことである。症状が進んでくると、何度言っても「覚えない」、何度指示しても「やらない」という訴えを患者の家族から聞くことが少なくない。このように覚えない、やらないという思いの背景には、患者に現状を作り上げる能力があると考えるからである。すなわち「覚える努力が足りないから覚えないのであり、覚えていないのは努力をしないあなたが悪い」という具合に。

しかしそうすることによって家族も患者に対するネガティブな感情が芽生えるし、それを反映して患者の側も頑なになるという負の連鎖が生じてしまう。そうではなく、患者のいまは先に示した様々な障害、すなわち「できない」にもとづいて考えるべきなのである。「覚えない」ではなく「覚えられない」であり、「やらない」ではなく「やれない」のである。そうすることによってこれまでとは異なった出発点に立つことが可能となるのである。

「覚えられない」、「やれない」のであれば、どうしたら覚えてもらえるであろうか、どうしたらできるであろうか、という風に周囲の働きかけが生まれてくる。患者の側の変化を求めるのではなく、周囲の認識の変化が大切なのである。

このような障害に対する認識の変化のことを障害受容という。その多くは障害を有する患者本人の認識の変化を指すが、先にも述べたように認知症では患者本人の認識の変化を求めることは非常に難しい。それゆえ認知症において障害受容が求められるのは、介護する側になる。

介護をする側には受容の他に様々な態度の変化が求められるが、それらをまとめ、ここではあえてリスペクトということばを使わせてもらおう。リスペクト respect は辞書によると「人としての価値を認めること」が本義だそうだ[4]。これから派生して、尊敬する、尊重する、関係するということ出てきたようである。筆者が初めてこのことばに気がついたのは、このような辞書的な意味からではなく、ある人物のことばである。ここにそれを引用しよう。

あらかじめ戦い方は決められない。相手の出方によって対応する。決して受け身じゃないが相手が変化すればこちらも変化する。最初から決められない。裏をかくということはあるが。ここは相手のホーム。楽勝と考えるのは相手に失礼。国際試合では相手をリスペクト(尊敬)するのが負けない秘訣だ[5]。

これはサッカー日本代表のオシム前監督がアジアカップ予選のインド戦の前日に記者会見で用いたことばである。介護に求められることも究極的にはこのことではないかと考えている。もちろん戦いといっては失礼かもしれないが、多かれ少なかれ介護には、介護者側の意図(もしくは都合)があるのではないだろうか。そういう意図によって相手と関わるのであるから、戦いと言ってもあながち誤りではないと思う。このことを念頭に置くとこの文章は次のようにも読み取れる。

あらかじめ介護の方法は決められない。介護を受ける人の出方によって対応する。決して受け身じゃないが相手が変化すれば介護者も変化する。最初から(介護の方法は)決められない。裏をかくということはあるが。介護の場面は相手の世界。介護が楽勝と考えるのは相手に失礼。介護場面では相手をリスペクトするのが上手な介護の秘訣だ。

すなわち、介護を受ける相手の尊厳を保ち、相手を尊重し、相手に合わせ、そのような中で介護者の意向を組み込んでいくということである。

事例(10)

Iさんは70代前半のアルツハイマー病の女性である。記憶障害があるだけではなく、アルコールの問題もあり、酔ってしまうと足腰が立たなくなるばかりか、まれに失禁もみられるそうである。家からアルコールを撤去してみてはと提案してみたが、なかなかうまくいかなかった。しかしある日、アルコールの問題は解決したということを旦那さんから聞いた。どういうことかというと、ノン・アルコールのビールを飲むようにしたそうである。ノン・アルコールだとは知らされていないので、本人は制限されずに好きなだけ飲めて上機嫌であるし、旦那さんも泥酔の問題を起こされることが無くなり安心できるようになり、現在では2人で晩酌を楽しんでいるそうである。

これこそがリスペクトの極意かもしれない。もちろんこのような落としどころが見つかることはまれかもしれないが、このようにお互いの意向を尊重し合うことで、本人も飲めてハッピーであるし、旦那さんも奥さんが落ち着いてハッピーであるし、お互いに晩酌が楽しめてハッピーとなる具合である。

終わりに

認知症の多くは現時点では治療不可能な疾患であるのは事実である。また治療薬も非常に限られており、その効果に関しても限界が指摘されている。しかしこれまで述べてきたように、薬物的な治療が困難であっても、心理社会的なアプローチに依拠することにより、症状が変わり得る可能性は十分にあるのである。しかし、そのような対応が常に行われているかといえば否であろう。またそのことによって患者はもとよりその家族も多くの影響を被っているのである。家族や環境によって状況が異なるかもしれないが、少しでもこのようなアプローチによって状況が変わることを願っている。

引用文献

  • Grossman M, Koenig P, DeVita C, Glosser G, Moore P, Gee J, et al. Neural basis for verb processing in Alzheimer's disease: an fMRI study. Neuropsychology. 2003 Oct;17(4):658-74.
  • クリスティーン・ボーデン. 私は誰になっていくの?アルツハイマー病者からみた世界. 京都: クリエイツかもがわ 2003.
  • 高玉多美子. 妹になってしまった私の母さん 母と私の介護日記. 東京: 駒草出版 2007.
  • 小西友七, 南出康世. ジーニアス英和辞典第4版. 東京: 大修館書店 2006.
  • オシム語録「相手をリスペクトする」. 日刊スポーツ. 2006 10月10日.