社会・地域貢献

教養番組「知の回廊」55「ケータイ社会情報学」「選べる社会」の難しさ

中央大学 文学部 松田 美佐

私の関心はコミュニケーション・メディアが私たちの人間関係や社会とどういった関係性を結んでいるのかにある。とくに、ここ10年来、ちょうど携帯電話や インターネットが爆発的に普及したため、主にそれらのメディアについて研究を進めてきた。では、ケータイやインターネットを通じたコミュニケーションの特 徴はどこにあるのか。そういったコミュニケーションが社会に与える影響とはどんなものがあるのか。キーワードは「選択」にあると考えている。

人間関係の選択

というのも、ケータイやインターネットで「連絡を取る」あるいは逆に、「連絡がくる」際には、常に誰かを選択する/誰かから選択されているからだ。ケータ イの利用状況として一番多いのは、待ち合わせをしたり、約束をつけたりするなど「人と直接会う」ことにまつわる状況だ。このため、偶然街ですれ違ったり、たまたま会社や学校で隣席したりしたことから「一緒に過ごす」よりも、自分のケータイに登録されている中から、あるいは知っている電子メールアドレスの中 から、「一緒に過ごす」相手を選ぶ傾向が強くなっている。選び選ばれ合った相手との関係を深めるのが、ケータイやインターネットなのである。
また、ケータイ利用の特徴の一つに、番通選択(発信番号表示サービスによって、受信者が電話を取る前に「誰が電話をかけてきたのか」を知り、受信拒否をすること)がある。受信選択を可能とする発信番号表示はケータイに標準装備されて普及したわけだが、このようなサービスは「いつ誰とつながるの か」、言い換えれば、関係性の選択に貢献している。
とはいえ、ケータイやインターネットだけが選択的な人間関係をもたらすわけではない。例えば、地縁といっても、文字通りの「お隣さん」ではな く、歩いたり、自転車や車を使ったりして、数分から一時間程度のご近所の範囲内から選ぶというような傾向はここ数十年強まっている。高齢者と中年の親子関 係では、双方になんらかの資源 ー金銭的(お金がある)/人的(手伝える)ー がある方が、行き来がより頻繁で、より満足なコミュニケーションが行われているというシビアなデータもある。つまり、地縁や血縁であっても、何らかの「選 択」が行われているのである。
「選択不可能な人間関係よりは、自分で何かしら判断して選べるほうがよい」。選択的な人間関係を好む傾向がある上で、今日のメディアがさらに「選択」を促進している状況なのである。

情報の選択

さらに、「選択」を好む傾向は人間関係だけに見られるのではない。
インターネットを使った情報収集を考えてみよう。日常的なウェブ利用のほとんどは、情報が送られてくるタイプ(プッシュ型)ではなく、自分か ら情報を選んで探すタイプ(プル型)である。もちろん、「選んで探す」という情報収集活動はインターネット以前からあるが、デジタル情報が検索性に優れて いることから、より顕著な傾向となっている。このような「選んで探す」傾向の増加は、「自ら選ばない情報収集」にも影響をもたらしているようだ。
たとえば、ここ10年で「新聞離れ」が急速に進んでいる。ある調査によれば、新聞を「毎日読む人」は10~20代の若者で五、六割程度になっ ているだけでなく、30代でも八割を切っている。この変化の一員には1995年からの10年間で普及したインターネットが挙げられるだろう。もちろん、新 聞ではなくインターネットでもニュースに接触することができる。新聞社のほとんどが自前のニュースサイトを運営しており、既存の新聞社以外の「電子新聞」 も増えている。しかし、ウェブの場合、自分が感心を持たない記事が偶然目に入ることは少ない。特に若年層を中心に、「自ら選ばない情報収集」が減っている 様子がうかがえる。
インターネットの利用は、テレビ視聴時間や新聞閲読時間の減少にもつながっている。というのも、インターネットの利用によって、それらのメ ディアからの情報収集が不要になり、接触するための時間も足りなくなるからだ。と同時に、このことは、マス・メディアが提供するような画一的情報よりも、自分で選択した情報に好きな機会に接触するような人が増えたととらえられるだろう。
長年、マス・メディアが提供してきた、「同じ時間に同じテレビ番組をみんなが見る」といった「メディアを介した同時代体験」が、近年減少しつ つあるということである。このような傾向は、高視聴率を取る番組が顕著に減ってきたことからも裏づけられる。1979年には年間1860回もあった視聴率 30%超の番組が、2003年には10回にまで減少している。テレビの平均視聴長時間自体は毎日三時間から三時間半程度と三十年間ほぼ変わらないが、視聴 が特定の番組に集中せずに分散化しているのだ。
つまり、人間関係にせよ、情報にせよ、多くのことが選択可能になり、自分の好きな相手や情報しか選ばない傾向が強まってきているのだ。このような傾向は、個人の自由裁量が増すという点ではプラスに思えるが、マイナス面も多い。

選択の難しさ

まず、選べるのはあくまで「自分の思いつく範囲」である。最近の学生はコンピュータ検索で図書館やオンライン・データベースを頻繁に利用するが自分の思い つくキーワードのみで検索するため極めて狭い範囲の文献しか集められない傾向がある。それを広げるのが大学教員の役割かもしれないが、「自分の思いつく範 囲」でしか情報が探せないコンピュータ検索の限界を感じる。
もちろん、ネット書店のAMAZONのように、自動的に好みの商品を選択してくれるシステムもある。しかし、それも自分が以前選んだものから 法則に従って類推しているだけである。紙の新聞であれば無意識に興味の範囲外の情報も目に入るように、実際の書店では意外な本との出会いもあるが、ネット ショッピングではそうはいかない。すべては、ホリエモンではないが、「想定内」に収まってしまう。
自分の趣味趣向に従って情報を選ぶとは、結局のところ、その趣向の源となる生育環境や人間関係の問題になる。ならば、「育つ環境」の格差が強調され、社会の不平等感が増す可能性があるだろう。
また、誰もが限られた時間に合理的に選択できるわけではないため、専門的な情報を持ったエージェントが親身に相談に乗って選択肢を絞るような ことがさまざまな分野で必要とされている。ただ、専門家自身がよかれと思って収集し、助言した情報が、本人にとって信頼でき、また後日にわたって有効なも のかどうかはわからない。しかし、例えば、手術の当否を判断するための専門家の医療情報が、結果的に正しかったかどうかを引き受ける=責任を持つのは本人 であって、専門家ではない。
この「責任」の問題は、選択の自由と大きく関わっている。進路や就職、結婚、子供を持つかどうかなど、人生の出来事すべてが個人の選択の問題 となりつつある。その背景にあるのは、「他人に決められた人生を歩むより、自分で人生を切り開く方がよい」という価値観だ。そして、選んだ結果には責任を 持つべきだとされる。しかし、自分で選んで失敗すると「自己責任」と言われるようでは、それに耐えられない人も増えてくるのではないだろうか。結婚が破綻 した場合の本人の心理的負担は、お見合い結婚と駆け落ち結婚のどちらが強いか、考えてみるとよい。

「選べる社会」の難しさ

インターネットは民主主義を危うくする可能性を持つとも言われている。というのも、みながある程度同じ話題に関心や知識を持って議論ができる土台の上に、私たちの民主主義社会は成立しているのだが、インターネットでの情報収集は自分の興味関心によって行われるからだ。自らの興味関心以外の話題に情報や知識 を持たないようでは、議論や適切な判断が難しくなる。たしかに、個人の自由や価値観の多様性は重要であろう。しかし、行き過ぎると社会としての最低限のま とまりや公共性、規範がなくなる可能性があるのだ。
それ以上に、利害関係が対立するグループへ強い敵意を持つようになることも懸念される。仲間内での議論が熱くなり仮想敵をつくり出し、社会の分裂を引き起こす可能性がある。企業内の倫理が不正を起こすことがあるように、集団内倫理での活動が他集団との軋轢を生む。
従来、放送メディアは、特定政治意見を取り上げる場合には公平な視点で対立意見も紹介しなければならないとされてきた。だが、現在では多様な メディアや情報源に接触する機会があるため、公平性について厳密なルール運用は不要とする意見が放送界でも強まりつつある。また、ネット上の個人サイトま で同様のルールを適用すれば表現の自由の侵害となる可能性もある。
情報源としての専門家やエージェント、およびメディア・コントロールどれも十分でないならば、結局は私たち一人一人が情報の海を泳ぎ切る力を 何とか身につけなければならない。言い換えれば、よりよく「選ぶ」方法を身につけることであるが、私たち全員がその力を身につけるのは難しい。
メディア・リテラシー(メディアと批判的につき合う力)が関心を集め、教育現場でも導入が試みられているが、「メディア・リテラシーを身につけましょう」という主張自体、「私の言っていることをある程度疑って聞きなさい」という自己矛盾を起こしている。
さて、ここまで選択の増大とそれにまつわる難しさを挙げてきた。しかし、「選べない社会」への回帰は、今のところ考えられない。だとすると、必要なのは、「選べること」を賞賛するだけでなく、「選ばざるを得ないこと」の困難さを理解することであり、選択に失敗した場合のセーフティネットを用意 することではないか。
選択肢を多く持つ大学生たちを前に、いつもこのことが気にかかっている。