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教養番組「知の回廊」
40 「ラーメン、中国へ行く-東アジアのグローバル化と食文化の変容」

中央大学 文学部 園田 茂人

1.はじめに

最初にクイズを2つ。

  1. 写真1のラーメンは、どこの国のラーメンか?
  2. 写真2は、どこの風景を写したものか?
写真1
写真2

正解は(1)が中国、(2)が台湾。日本では見慣れない漢字があることから、外国のものだと察しがついた人はグッド。し かし、「中国や台湾にラーメンがあるのは当たり前じゃないか」と考えた人がいたとすれば要注意。中国でも、地方によって異なるが、日本のように「かん水」 が入ったシコシコした麺を食べている地域は少ないからである。

実際、中国圏の人達が「拉麺(ラーミエン)」といって想起するのは、一般的には写真3のような麺(※1)。

写真3

白くて細長く、太い素麺(そうめん)といた風情で、腰の強い麺を食べ慣れている日本人には、プツプツと切れる食感に少々物足りなさが残るはずだ。

また具に「排骨(パイグー)」(ぶつ切り肉)や「肉絲(ロウスー)」(細切り肉)を入れることはあっても、日本のよう にチャーシューを薄く切って乗せることは少ない。「支那竹」と書くシナチクも、中国では麺と一緒に食べる習慣はない。もちろん、昆布やにぼしでダシをとる こともない。それが証拠に、写真2には「日式拉麺(日本風ラーメン)」の文字が見える。現地の人たちは、自分たちが食べなれた「拉麺」とは違うことを意識する意味でも、日本風ラーメンという語を用いている。ところが、この日本風ラーメン、1990年代以降。日本以外の東アジアに急速に普及している。台湾や香港では4、5年前にラーメンブームが起こり、今では、これが上海や深セン、北京といった中国大陸の大都市にまで広がっているのだ。

2.ラーメン・ネットワークの形成

どれだけ日本風ラーメンが広まっているか、インターネットで「ラーメン」「中国(台湾)」といったキーワードを用いて検索してみるとよい。次のような紹介文にヒットするかもしれない。

「台北の日式ラーメン店には三つの系統があります。第一に、ラーメンブーム以前からあるお店。そのほとんどが日本料理 屋さん(「どさん娘」を除く)。他のメニューとともにラーメンが鎮座しているといった感じ。第二に、日本の支店もしくはフランチャイズ店の台頭。たとえ ば、熊本に本店がある「味千」、東京の「赤坂ラーメン」「大殻ラーメン」「大勝軒」など。第三に日式ラーメン屋さんだが台湾独自経営のもの。ここで面白い のは第一、第二のお店のラーメンは、見た目こそ日本のラーメンに似ていますが、味はかなり違います。麺も日本にあるコシの強いものではなくて、柔らかくて ぼそぼそとした食感で、切れやすいです。スープには中華系の香辛料がたくさん使われています。その原因は、もともとの食文化にあるようです。台湾には古く から「担仔麺(ターミーメン)」という料理が存在しているので、どうしても味付けがその方向に行ってしまうようです。」

書き手は日本人だから、東アジアのラーメンブームに日本人が絡んでいることは確かだろう。しかし「日本人のための日本人によるラーメン」ばかりでないことも、この文章を読めばわかる。実際、台湾のレストランを紹介した本には、オーナーやコックが日本や台湾で独自にラーメンを学んだケースが多く紹介されている。また、イン ターネットで台湾のラーメンフリークたちが「おいしいラーメン屋」をめぐる人気投票に参加しており、ネットを媒体にした情報交換も行われている。ラーメンは、もはや日本人の占有物ではないのである(※2)。この日本風ラーメンの広がりに、日本の企業が一役買っている点も興味深い(※3)。写真1で見ていただいたラーメンも、実は、この紹介文にあ る味千が上海の店舗で提供しているものだ。実際、味千の場合、上海の繁華街である准海中路(ホアイハイチョンルー)や南京東路(ナンジントンルー)に店を 構えるなど、なかなかの繁盛ぶりである。

味千の繁盛ぶりは、ネットの上でも確認することができる。(http://www.aji1000.co.jp/

では、上海の味千でラーメンを食べているのはいったい誰か?
実際に店に入ってみた感じでは(※4)、日本人は少なく、大半は現地の客。個人ではなく、グループで食べに来ている。上海では、忙しいサラ リーマンが胃袋に流し込むというより、家族連れやカップルがゆっくり話しながら食べているようだ。1杯15元(約220円)と、日本からすれば割安感があ るものの、現地では昼食にしては少し高い値段である。日本で始まったラーメンブームが、メディアを通じて紹介されることで台湾、香港、そして中国大陸にまで広がり、ラーメンの中国進出を引き起こ す。日本風ラーメンの広がりは、アニメや漫画、テレビドラマなどの、ポピュラー文化のアジア伝播と同じ特徴をもっている(岩淵功一「『つながるアジア』の 誘惑」 青木保他編『アジア新世紀5・市場』岩波書店、2003年、212-3ページ)。その証拠に、写真の2を再び見て欲しい。柱の広告に「冠軍拉麺」とあるが、「冠軍」とは、日本のテレビ東京で放映されている人気番組「テレビ チャンピオン」のこと。台湾でも、「テレビチャンピオン」が大人気で、台湾のラーメンブームも、この「テレビチャンピオン」効果によるところが少なくな い。情報化がポピュラー文化の広がりを後押しするという構図は、ラーメン・ネットワークにも見て取ることができる。もちろん、ラーメンが自然にアジア規模に拡がっていったと考えるのは、あまりにナイーブである。ラーメンの販売促進を企てるプロモーターがいたであろうし、ラーメンが拡がってゆく地域にも、これを受容する素地があったに違いない。では、このラーメン・ネットワークはどのような力学の中で拡大していったのか。ここでは上述の「味千」のケースを見てみることにしよう(※5)。

3.味千、台湾へ

味千は、1968年、現社長の父親に当たる重光孝治によって、熊本市内で産声を上げた。孝治は台湾の高雄市近 郊の美濃出身で、戦後日本に帰化した台湾系日本人。この時点では、ラーメン店が「エスニックビジネス」の母斑をもっていたといってよい(※6)。孝治は 味千を始める前、大洋漁業(現マルハ)の下請けとして乾麺であるインスタント麺の工場を経営していたという。現社長の重光克昭によれば、本場のラーメンと しての評価は高く、現在でも充分に評価されてしかるべき味だったというが、不景気のあおりを受けて、工場は閉鎖。多額の負債を抱えることになった。借 金返済のために始めたのが味千。現金が手に入りやすい商売というのでラーメン屋を開くことになったという。敬虔な仏教徒である孝治の守り神が千手観音で あったことともあり、中華料理店には「万」や「億」といった言葉が使われることが多いなかで、少し控えめな「千」の字が店名に入れられることになった。も ちろん「将来は千店舗にまでひろげる」という意味が含まれていた。

豚骨ベースのおいしいラーメンを模索し続けた孝治の努力は実り、その味は、店舗の近くにある県庁に来た熊本各地の人に 知られるようになった。「この味でなら、地元でも必ずはやる。どうか自分に、この味を伝授して欲しい」というリクエストが来るようになり、これに応える中 で、現在のチェーン展開の基礎ができるようになった。まだロイヤルティという概念がなかった時代の話である。その後、味千は順調に成長し、2003年12月現在、国内に138店舗、海外にも23店舗をもつラーメン・チェーン点となっている。この味千が最初に海外展開を行ったのは、台湾。孝治の故郷であり、ラーメンの具材の一部を台湾から輸入していたこともあって、進出しやすい環境が揃っていた。1994年、台北市の成都路に一号店をオープン。出資比率は重光産業が40%、台湾で製麺業を営んでいるパートナーが40%、それに知人が20%という出資比率であった。ラーメンブームが本格化する以前のことである。もっとも、一号店は、最初の半年ほど日本からの応援者が手伝っていた時までは順調だったものの、店長と副店長を現地従業員から引き上げ、彼らに経営を任せた時点から下降傾向を辿ることになる。原因は「味付けの変化」(※7)。筆者も台湾で日式拉麺を食べて気づいたのだが、台湾の人々は日本人に比べて薄味を好む。台湾人の友人たちも、日本で食べたラーメンが「塩っぽ い」ことを異口同音に指摘していたが、克昭によれば、こうした日台の味覚の違いを気にした店長が、熊本の本社の意向を無視して味を薄くしてしまったことに 原因があるという。

拉麺には微妙な塩加減と油っぽさが必要で、ある一定の範囲内であればその調整も可能であるが、これを超えてしまうと味 のバランスが悪くなってしまい、おいしくなくなってしまう。克昭の説明によると、こうした微妙なバランスを維持することなく、一部の顧客から発せられた 「塩っぽい」という指摘に過剰に反応してしまったのが失敗の原因だったという。また克昭によれば、ビジネスパートナーにも恵まれていなかった。台湾で製麺業を営んでいることもあって--それゆえ台湾の麺事情については自分たちの方が詳しいという自負もあって--、味千の本社が要求したスペックの麺をなかなか供給することができなかったからである。結局、一時台湾で積極的に店舗展開したものの、台湾からは完全に撤退して現在に至っている。

4.台湾に失敗をテコに、香港・中国へ

ところが思わぬ方向から、ラーメンの「アジア進出」が加速化する。台湾でのビジネスが下向き始めた頃、香港からの思わぬオファーが味千に届いたのである。オファーの主は、当時、香港で日本風クレープ屋を展開させていた香港人ビジネスマン。クレープはヒットし、香港全土に十店舗以上をもつにい たったものの、新規参入者の追い上げにあい、新しい展開を考えていたところで目をつけたのが味千。当時、すでに香港に進出していたラーメン屋はあったもの の、豚骨ベースのラーメンとなるとまだ本格展開はしていなかった。この香港人ビジネスマンは、日本での留学経験があり、居酒屋でアルバイトをしていたという経歴の持ち主。日本の味覚をそのまま持ち込むこと で、香港の顧客をつかむことができると踏んでいたようだ。しかも、味千が台湾へと進出したという情報を聞きつけたとあれば、オファーを出さない手はない。このビジネスマンは、1996年、味千の本社がある熊本へやってきて、香港での合併事業を提案した。ところが、すでに台湾での失敗経験をもつ味千にすれば、二度と同じ轍を踏みたくはない。そこで出した結論が、「オーナーといえども日本で修行 してもらい、みずからその味を知ってもらった上でなら、香港進出を考えてもよい」。つまり、徹底的に「日本の味」にこだわった形での進出を決めたのであ る。香港進出話に花を添えたのが、香港で食品の輸出入業を営んでいたもう一人のパートナー。たまたま香港の経済交流ミッションとして熊本市を訪れていたパートナーが味千の工場にやってきて、香港への麺の供給を行うために深センで製麺工場を建てる話が持ち上がる。折しも、ラーメンブームが始まる直前。すでに「横綱」など、一部の日系ラーメン店は香港で人気を博しつつあったものの、日本の味をそのまま再 生したいという香港人ビジネスマンと、食品の輸出入を扱ってきたパートナーとの出会いは、その後、香港でのラーメンブームから中国全土への展開として実を 結ぶことになる。興味深いのは、味千が積極的にアジアへと展開していったというよりは、その味を見込んだ現地のプロモーターがうまくラーメンをプロデュースする役回りを演じていった点だ。インタビューに応じてくれた現社長の重光克昭は、アジア進出の成功を、「人との出会い、先代の味へのこだわりに尽きる」と語っていたが、これは、ラーメンを売るための仕掛けを積極的に展開しないまでも、現地にはすでにラーメンを欲する人たちがいたことを意味している。こうした流れの中で味千はラーメンビジネスを広げ、現地の人たちも、思い思いにその「日式拉麺」の味を楽しんでいるのである。

5.ラーメン和食化の歴史

(1)中国での拉麺(ラーミエン)発祥とその歴史
麺とは、中国語で小麦を意味する。麺包とは小麦で作った「包み」のことで、パンのこと。日本語でいう麺は、麺条、つまり麺を「条(細く伸ばしたもの)」の形にしたものを指し、これも「ひっぱる」「切る」「押す」など、異なる製法によって異なる麺となる。「拉麺」とは麺を引っ張るという意味で、最初のカテゴリーに属する。石毛直道氏の研究によれば、この「拉麺」の製法が活字によって紹介されたのが明(みん)の時代の『竹嶼山房雑部(ちくしょさんぼうざつぶ)』が最初(『文化麺類学ことはじめ』フーディアム・コミュニケーション,1991年)。今から500年以上も前の話である。これにかん水を入れて麺のコシをつける、現在のラーメンの原型が固まったのは清代だから、製法そのものとしては、さほど長い歴史をもつものではない。

(2)その後の日本各地への展開
もっとも、この麺条をどのように味付けして食べるかについては、中国国内でもさまざまな特徴が見られる。また製麺方法も、中国各地で微妙に異 なっており、日本でのラーメンの「誕生」は、こうした中国各地の製法と、これを日本にもってきた中国人料理人、それにこれを所望した日本人客のコンビネー ションによって可能になってゆく。岡田哲『ラーメンの誕生』(2002年、筑摩書房)によれば、日本で最初に中国から来た「拉麺」は、1870年初頭、横浜で広東人たちが食べ た「柳麺(ラオミエン)」であろうという。その麺は切麺だったため、正確には「拉麺」とはいえないものの、豚骨スープに麺条を入れて食べるスタイルは、現 在におけるラーメンのそれに限りなく近い。横浜の南京町(現在の中華街)で食べられていたことから「南京そば」「シナそば」と呼ばれるようになった。「ラーメンは中国のもの」という感覚は、このあたりの史実に負っているのだろう。もっとも、日本での「拉麺」の展開は、これが拡がっていったというほど単純なものではない。現在の「醤油ラーメン」は、この「シナそば」のスープに濃口醤油を利用し、関東人の舌にあうよう工夫した来々軒亭主・尾崎貫一によって生み出された。また1899年、長崎で「ちゃんぽん」が食べられるようになったが、これを作ったのは福建省出身の陳平順。当時、福建から長崎にやってきた人たちのために「ちゃんぽん」を提供したのが最初だったという。1920年代になると、札幌では山東省出身の王文彩が竹屋食堂で「黄色いちぢれ麺」を使ったラーメンを提供するようになる。また、福島県の喜多方では浙江省出身の潘欽星が源来軒を開店し、現在の喜多方ラーメンの基礎を築いている。このように、日本のラーメンには複数の起源があり、これらが入り混じりながら現在の形になったと考えるべきである。分量や麺の製法などは華北 から、シナチクや焼き豚などのトッピングは華南からやってきて、スープは日本で独自に開発された。おおよそ、こう理解してよいだろう。

ところでラーメンといえば、日本では「中国から来たもの=中国料理」といったイメージが強い。「中華そば」とか「支那 そば」としてラーメンを出している店もあるのは、このラーメンが中国伝来のものであることを示唆しているし、一般の中国料理レストランでもラーメンが供さ れていることから、こうしたイメージは強固である。事実、2002年に中大・園田ゼミの海外ゼミ有志が行った調査によれば、「日本風にアレンジされた外国 の食べ物」として思い出されたのがラーメンであった(※8)。この結果からも、調査対象者がラーメンを日本食と考える人も少なくない。では日本のラーメンは、いつ中国の麺と別物になったのだろうか?
ラーメン研究家の岡田哲によれば、日本のラーメンにはほぼ一世紀の歴史があるという。そしてラーメン誕生のプロセスを、次のように説明している。

「第二次世界大戦の後に、大陸からの引揚者がもたらした中国北部のめんのスタイルに、中国の各地のめん料理の特徴が混 ざり合い、さらに日本人の和食化への努力の繰り返しの結果が、今日のラーメンのルーツを形成している。このなかには、横浜の居留地のシナそば、長崎ちゃん ぽんや皿うどん、東京の来々軒のシナそば、札幌の竹屋食堂のラーメンなどが、渾然一体となって生きている」(岡田哲『ラーメンの誕生』ちくま新書、2002年、137ページ)

岡田によれば、「居留地のシナそば」とは、1900年頃、広東省出身の華僑を中心に出来上がった柳麺(ラオミエン)を、「長崎ちゃんぽんや皿うどん」とは、やはり1900年頃、福建省出身の陳平順が留学生相手に創作した麺料理を指すという。また「東京の来々軒のラーメン」とは、1910年頃、横浜の南京町からやってきた広東人が関東風濃口醤油をベースに作ったラーメンのことを、「札幌の竹屋食堂のラーメン」とは、1920年頃、山東省出身の王文彩が作った「肉絲麺」をベースにした「かん水」入り麺のことを意味する。「喜多方ラー メン」は、1925年頃、浙江省出身の潘欽星が作った屋台・源来軒で出されたラーメンにルーツをもつという。このように、日本ラーメンの起源が山東省から広東省まで広がっていて、しかも日本人の口にあうよう、一世紀もの時間をかけて変容してきたとな れば、日本のラーメンが中国になくて当然だろう。それどころか、日本人は、中国には存在しない料理を中国料理と認識してきたといえる。事実、こうした日本人の「誤った」傾向を指摘する、次のような発言もある。

「私は生徒の皆さんに言い続けました。『日本で言う中華料理は中国の料理ではありません。ラーメンというものは中国に はありません。餃子も全然違ったもの。チャーハンは余りご飯の活用法で、人様に出すものではありません』(佐藤孟江・佐藤浩六『済南賓館物語』春秋社、2001年、137ページ、傍点引用者)

「ラーメンなどなかった」(森枝卓士「食卓の変容」青木保他編『アジア新世紀4・幸福』岩波書店、2003年、140ページ)韓国でも、現在、ラーメンブームが起こりつつあるが、従来のインスタント麺を中心にしたものから生タイプの麺を中心にしたものへと変わりつつある。筆者が周囲の韓国人留学生に聞いた範囲では、韓国でラーメンといえば日本の食べ物といったイメージが強く、中国料理のひとつと見なされること はないという。中国山東省の醤醤麺を「ジャジャンミョン」として受容している韓国でも、汁入りソバとしてのラーメンは、日本の料理と見なされているわけ だ。中国から渡ってきたラーメンが日本で独自の発展を遂げ、これが、中国へと逆輸入されるばかりか、日本料理のひとつとして--あるいそのルーツを問われることもなく--東アジア地域に広がっている。何とも面白い現象ではないか。

6.現地指向と本物指向のはざまで

和食化への努力抜きにラーメンを語ることができないと述べたが、実は現在の日本風ラーメンの伝播にも同じメカニズムを見て取ることができる。すなわち、アジア各地で熾烈な顧客獲得競争を行う過程で、現地の人々の味覚にあったラーメンが創造され、これが「日式拉麺」のカテゴリーの中 に入れられているのである。このため、日本では味わうことができないラーメンが、現地の人にとっての「ディファクト・スタンダード(実質的な標準)」とな ることもある。

これは上海の「味千」で出されている「キムチ風涼麺」。

写真1を紹介しているホームページの管理者によれば「キムチ風涼麺は日本にはないメニュー」だという。上海の顧客を当て込んだ新商品、といったところだろう。また、台湾の日式拉麺店に入ってみたところ、「鍋焼きラーメン」が供され、トッピングにフライドチキンが乗せられていた(※9)。店長に聞い てみたところ、「満腹感を味わうことができ、しばしば日式拉麺がなるような、残りのスープが冷めてしまうことを回避するための工夫である」という。では、この日本では味わうことができないラーメンの誕生を、どう考えたらいいだろうか。アメリカで生まれたカリフォルニア・ロール(アボガド をネタにした巻き寿司)を、「寿司ではない」とし「本物の寿司」と峻別しようとする者がいるように、日本にないラーメンを「邪道なもの」と見なし、忌避す る者もいるだろう。他方で、現地の人の舌に合うよう料理を工夫うるのは当然だと考える者もいるかもしれないし、味のローカル化を楽しみ、日式拉麺のカテゴリーが広がることを喜ぶ者もいるだろう。実は日本が中国料理を受容する際にも、この2つの考えが併存してきた。たとえば、「ラーメンは中国にはない」と寒波した前述の佐藤孟江さんの場合、日本で「偽物の」中国料理が横行していることに辟易としており、「本物の」中国料理を提供したいという強い意志に燃えて、済南賓館というレストランを開くようになったという。彼女は、若い頃に山東省の済南でコックの修 行をし、社会主義革命以前の「旧きよき中国の料理」を知っていたため、戦後日本で進んでいった中国料理の換骨奪胎=低俗化に我慢がならなかったのだ。これに対して「海老のチリソース」や「マーボー豆腐」など、日本人の味覚にあった中国・四川料理を次々と作っていった陳建民さん--料理の鉄 人・陳建一さんの父親と紹介した方がわかりやすいかもしれない--の場合、むしろ意図的に日本人の舌に合うようアレンジしてきたとして、次のように述べて いる。

「一般のお客さまにはうす味にしています・・・・日本人は世界中で一番舌がデリケートですから、そのお客さまに会うよ うに調味を変えることのできるコックさんが本当の才能のあるコックだと、わたし思います。・・・・わたしの四川料理少し嘘あります。でも、いい嘘。ニセモ ノちがいます」陳建民『さすらいの麻婆豆腐』平凡社、1996年、205-6ページ)

日本人の女性がホンモノの中国料理にこだわり、中国人の男性が日本風の中国料理を追求するという、その「ねじれ」も面白いが、このように味をどのように作るかには、いろいろな考え方がある。「正統な」、「本場の」と表現される料理も、時間や空間、時に顧客によって、その姿を大きく変えている。さまざまな味覚が交錯し、独自の味が模索される中で、本場指向と現地指向が競合しあい、食文化が豊かになってゆく。中国から渡ってきたラーメンも、中国へ渡っていったラーメンも、同じルートをたどっている。そしてその運命を握っているのは、そう、これを食べるかどうか--あるいは作るかどうか--を決める私たちなのである。

7.おわりに

戦後の日中関係は、必ずしもハッピーなものではなかった。1972年に国交を回復するまで正式な外交関係はな かったし、両国に存在している歴史的認識問題は、今でも両国にとって大きな問題であり続け、政治家の不用意な発言や国際政治の駆け引きの中で、時にこうし た歴史問題が大きくクローズアップされてきた。しかし、こうした不幸な関係にあっても、日本と中国は食文化をめふる「暗黙の共同作業」を進めてきた。ラーメン、チャーハン、餃子。中国大陸 では、決して高級な食べ物とはいえなかったものが、日本の中で市民権を得、人々の生活に浸透していった。そしてこれが、今度はグローバル化の流れに乗っ て、台湾や香港を経て中国大陸に逆流し、独自な発展を遂げつつある。東アジアの中国料理店のメニューには、これらの「ジャンクな」食べ物が必ずといってよ いほど含まれるようになっている。食文化というと、「伝統」や「アイデンティティ」を想起させる閉鎖的なイメージがあるかもしれない。事実、食文化のもつ固有性や耐性のあり方を探ることが、食文化研究の通奏低音をなしてきた。しかし、ラーメンの歴史は、実はこれが相当に開かれたものであることを私たちに教えてくれている。ラーメンの原型を中国から持ち込んだ人に、これを日本風にアレンジしてきた人。「日式拉麺」を現地に紹介してきたプロモーターや日本の企業、それにこれを食べる現地人の顧客。ラーメンのアジア規模での拡がりには、実に多くの人が関与している。この点では、移民社会・アメリカのエスニック料理も変わらない。食文化史研究のガバッチアは次のように述べて、一見保守的な性格をもっているように思えるアメリカの食習慣も、実は異文化交流の影響を受けた開放的なものであるとしている。

「食べるという行為のもつ保守的な側面に焦点を当てると、食べ物の選択がいかに食べる人のアイデンティティと結びつい ているかがよくわかる。・・・食習慣は、文化を独特なものにする多くの事柄と密接にからみあい、食べ物に対する嗜好や満足感を集団に対する忠誠心と結び付 けているのである。・・・だが、変化してやまないアメリカ人のアイデンティティと食べ物の関係を理解するためには、食習慣のもつ保守的・排他的性格に注目 するだけではなく、変化の様々な局面において、異なる文化や社会の間の親密さを表す、食べ物の持つ象徴的なパワーについても検討を加えなければならない」 (ダナ・R・ガバッチア『アメリカ食文化』青弓社、2003年、22-23ページ)

最後に、北京の国際空港の目撃した、印象深い光景を紹介して本稿を閉じることにしたい。日本への帰国便を待つため、ビジネスクラスのラウンジで休んでいた時のこと。昼の時間帯ということもあって、ビジネスマンらしき人々で賑わっていた。軽食を採ろうと、食べ物が置いてあるコーナーに人が群がっていた。ところがよく見てみると、サンドイッチをとって食べていたのが一見して欧米系とわかる人々だったのに対して、カップヌードルをとって食べてい たのがアジア系の人々と、きれに分かれていた。アジア系といっても、中国系だけではない。韓国語を使う人も、マレー語を使う人も、日本語を使う人もいた。そしてそれぞれが、思い思いにカップヌードルの味を楽しんでいた。「ラーメンがアジアを繋ぐ」といえば言いすぎかもしれない。しかし筆者にとってこの光景が、「東アジア共同体」の姿と二重写しになって見えて仕方ないのである。

ちょうどヨーロッパがEC(ヨーロッパ共同体)を経てEU(ヨーロッパ連合)を作ったように、アジアでも経済交流と地 域協力をベースにしたゆるやかな結合体、すなわち「東アジア共同体」を作るべきだとする議論が出てきている。ただ、東アジア各国の事情がそれぞれ異なって おり、特にナショナリズムが強い地域を多く抱えることもあって、その成立を危ぶむ声も少なくない。ラーメンの歴史を見てみると、どこかで各地の個 性を残しながらも、「おいしさの追求」という点で共通の特徴をもっていることに気づく。東アジア共同体も、ちょうどラーメンがそうであるように、個性と共 通性をうまく結びつけながら発展してゆくことはできないか。筆者は現在、こうした点に思いをめぐらせている。

※本稿を作成するにあたって、松下国際財団(「東アジアのエスニック料理店:その担い手とメニュー形成に関する比較社会学的研究」、助成番号01-063)から研究助成を受けた。感謝したい。

※1. とはいえ中国国内にある麺の種類は多く、麺食の歴史が長いこともあって、簡単な一般化を許さない。石下直道『文化麺類学ことはじめ』フーディアム・コミュニケーション1991年、11-34ページ参照のこと

※2. 事実、台湾でラーメンの人気投票が行われているのを知ったのは、2003年11月に、中央研究院アジア太平洋地域研究センターが主催する国際ワークショップに参加した際、事務局を務める自称「哈日族(ハーリーズ:日本大好き人間)」の台湾人女性を通じてであった。

※3. もっとも、日本の企業といっても、必ずしも日本人の企業を意味しない。後述の「味千」の場合、先代は帰化したものの、台湾人としてのアイデンティティを強くもっていたし、多くのラーメン店が中国・台湾系の人々によって経営されている可能性が高いからである。

※4. 2003年8月13日、味千上海1号店での観察に基づく。

※5. ここでの記述は、筆者が2003年11月24日に、味千ラーメンをチェーン展開している重光産業(株)の重光克昭代表取締役と金子健課長を対象にインタビューした結果を踏まえている。

※6. この表現は、日清食品の会長で「チキンラーメン」や「カップヌードル」を発明した安藤百福が台湾系日本人であることを意識してのことである。

※7. もちろん、それ意外にも失敗の理由はある。(1)成都路は台北市の西側にあって、日本人の客が少ない地域でもあったため、どうしても現地人の顧客を対象に せざるをえず、その結果薄味にならざるをえなかった。(2)ラーメンブームに火がついていなかったため、日式拉麺に対する認識がさほどなかった。(3)味 千自身に、海外進出のためのノウハウが蓄積されていなかったといった点も、考えられる失敗の原因である。

※8. 2002年11月21日に韓国の延世大学で行われた発表会のため、園田ゼミの学生たちが東京近郊の大学生955名を対象に行った質問票調査の中で、自由回 答による質問を行ったところ、カレーライスやスパゲッティとともに「日本化された外国食」としてラーメンを挙げる者が多かった。

※9. 2003年11月1日、上述の「おいしいラーメン屋」をめぐる人気投票の結果一位にランキングされていた「博多拉麺(復興店)」を訪問し、実際に試食・ヒアリングをした結果による。