社会・地域貢献

教養番組「知の回廊」41「Learning in Action, Learning for Action―経験を通した共感と協力が行動を生み出す学びのプログラム」座談会 自ら学ぶ姿勢を獲得するための「経験学習」

河野光雄教授
高橋英海助教授
友知政樹特任助教授
和栗百恵特任講師
鈴木昇(総合政策学部事務室副課長)
渡邊正樹(総合政策学部事務室)
司会:小池ゆり(総合政策学部事務室)

小池:まず、Action Learning Programsが生まれた経緯を、生みの親である河野先生からお話頂きたいと思います。

河野:経緯は、多分同床異夢。僕にはバックグラウンドなど何もなく、ただ大学で学んだことを現場で検証させたいという 思いだけがありました。結局最も自分と向き合える環境は多分仕事の現場で、インターンシップがいいのではないかと単純に思ったんです。しかし、それは日本 の環境だと「学生だから」という部分が非常に多いし、そういうことが許されない環境に身を置くことが大事だということで、国際インターンシップだと考えま した。和栗先生は当時学外で働いていて、いろいろな人を連れてきてワークショップをやっていたので、彼女の頭には経験学習があって下地を整理していたと思 うけれども、こちらは全然気が付かなかった。具体的に国際インターンシップを進めるにあたって和栗先生に声をかけたのですが、その時はもう経験学習プログ ラムだったんですよ。名前はインターンシップだけど、実際には経験学習。僕は最初、海外でのインターンシップをやるにはいろいろなスキルは必要だとして も、責任感、主体性、意欲は前提でした。和栗先生はそうしたものを経験学習という枠組みの中で育てることを押さえていたんですね。それが具体的に始まっ て、ようやくこちらも気が付いたということです。

和栗:いわゆる「就業体験」ではなく、「経験学習」を展開した理由がありました。以前NGOで仕事をしていた際、私は この学部の卒業生ということで、学部にお邪魔して河野先生や学生さんに会う中で、私なりに大学生および大学の教育に関する問題の認識ができてきたわけで す。それは、多くの学生が、私が国際協力NGOの職員であることを知ると、「NGOでどうやったら働けるんですか?」「国際機関でどうやったら働けるんで すか?」と質問してくることに顕著に表れていました。どうしても「入れ物論」の部分を脱却できていないんです。「インターンシップ」も入れ物論でとらえて いる。実際現場にインターンシップに行く前に、どのようななスキルや態度、課題認識を持てばいいのか、と考えました。同時に、現地に行く前の準備を考えた 時に、切り取られた方法でスキルなりマナーなりを教えるのは限界があると思ったんです。学生が、授業を通して課題なり、社会的なスキルやマナーを学べれば いいのではないかと考えて、単にインターンシップへ送り出すのではなく、「経験学習」という形で欲張ったんだと思うんです。それは、授業に参加してきちん と課題を読む、プレゼンテーションをする、外部のゲストの方にお願い状を畫くそういうことを通して切り取られたマナー研修やビジネスレター研修ではなく、 探究心、責任感、マナー、仕事への姿勢などがいつの間にか身に付いているという形。また、心が動くことによって初めて課題を内在化できることから、感動す るような経験を授業を通して提供できたらいいなと思ったのです。政策を考えるには、多様な関係者の目線で考えることが必要だと思います。そのためには「経 験」することが大切です。感動の場を学生と教員が共有できるという意味でも経験学習が良いと私は考えました。

小池:経験学習を実施していることは、プログラムの特徴ですが、その中での一番の特徴はやはりフィールドに出ることと言っていいですか?

和栗:そうですね。そしてその経験をきちんと「ふりかえる」仕組みが整っていること、そして学んだことから「さらなるアクション」を起こすためのきっかけやサポートを提供できることでしょう。

小池:ここにいる皆さんもフィールドスタディーズの引率に行ったり、サービスラーニングの学会に出席するためにタイへ行ったりと、学生と同様に学ぶ機会が多いですよね。実際に自分で行ってみてどうでしたか?

高橋:答えになるかどうかは分からないですが、僕の場合は自分の専門が現場や現実から、かなり遠いところにあるので、 逆に現場に出た楽しみが大きかったと思います。その意味ではどんな学生にこのプログラムを取って欲しいかという話もテーマとしてあるのですが、逆に現場や 現実に余り関心がない人にも取って欲しい。例えばこのスリランカの場合、開発がテーマだったんだけれども、中には開発の他にもっとやりたいことがある学生 もいる。それはそれで良いと思います。そういう意味で、開発は非日常でもあるわけで、現実からかけ離れている方がより非日常だからこそ良いのかもしれない という気がしました。

友知:僕達は、生きている間中、日々いろいろなことを経験していますよね。その日々の経験を日々ふりかえっています。 スリランカに行っても、私も沢山学びましたし、学生が沢山のことを学ぶのも目の当たりにしました。開発とは、貧困とは、というサブジェクトについても多く を学んだと思いますが、学生はやっぱり自分を見つめ直したんじゃないかと思います。

渡邊:実際に見て、学生さんはどういう風にかわっていきましたか?

友知:新しいことを発見していたようですね。例えば部分的にかもしれませんが、世の中こういう風に回っているんだと か、こういうところが回りきれていないんだとか。それは例えば経験しないで思考だけの世界でも見抜けるかと言うと、やっぱりダメかもしれない。ディスカッ ションをするにしても、ある程度の経験がないと始まらないんだと。

河野:ただ、そこのところは非常に重要なところで、経験だけではだめというような人もいる。

渡邊:それはふりかえりという部分が見えないからだはないですかね。一般的に、経験学習という言葉には、行ったら行ったきりというイメージがあるじゃないですか。

河野:フィールドスタディーズを中核にしている部分もあるので、そこが一番クローズアップされがちな面がある。だからそういう意味では表現の仕方をもうちょっと考えないといけないですよね。

友知:例えば学ぶとか学びと言った時には、もうそこに経験が本来入っていてアクションを通して学ぶというような?

河野:そういう意味では、学問の形成過程には必ずアクションがあって、現場があるわけですよね。だけど一つの体系とし てできあがった時に、そこの部分を消してしまって理論だけを勉強することが大学教育で非常に蔓延しているんじゃないかと思うんです。例えば、経済理論とい うものがある。これに則って世の中の経済全てが動いているのかと問うてみると、なんでこんなに不況がいつまでも長引いているのかということにすら答えられ ないままなわけです。理論が成立しているのはモデルに対してであって、モデルが現実であるのかどうかの吟味が必要です。どういう条件の下で理論が組み立て られてきたかを忘れてしまって、ただ結果を原理として伝達するような教育は見直して欲しいというメッセージもこめられているのではないかと思いますけど ね。

和栗:空っぽの器に「情報」をそそぎこんでいるんじゃないよ、と私が繰り返し言うのは、まさにそのことです。「やり 方」を学ばなければいけないと思うのです。特に受験勉強を頂点とした大学に入るまでの教育に慣れてきた多くの学生さんが、座って先生が言ったことをノート に書いて、テストではそれを答えている。でも、「学び」って、本当はそうではない。大学では多くの先生がもっと自分から学ばななくてはいけないと言うのだ けれども、どうやったらそこにシフトすることができるかをきちんと見せられていないと感じます。Action Learning Programs を通して自分で学ぶとか自分で考えることを可能にしていければと考えています。

友知:主体性、ですね。

河野:生活指導という言葉を大学ではすごく嫌うでしょう。だけど、それを抜きにしては、大学教育はもはや成立し得ない という状況を正視するべきだという気もするんですよね。ただ、生活指導と言うと先生がポケットにメジャーを入れておいて廊下で待ち受けてスカート丈を計る とか、そういうイメージになってしまうから、何か良い言葉を・・・・。

和栗:ライフスキルズ(Life Skills)じゃないですか?

河野:何か新しい言葉を通してイメージを図って、教育の姿を見せていくことをしていかないとまずいし、そういう意味ではやっぱり経験をしていくことも一つかなと思うしね。

鈴木:それはどういう学問分野でも言えるんでしょうか?例えば文学などの分野では、経験や現場という概念がなくても、単純に個人の頭脳と書物だけがあれば勉強できるような気がするんですが。

河野:そんなことないんじゃないかな?小説や詩にも時代背景があり、時代の中で生かされている小説であり詩でもあるという意味があるのだから。

鈴木:例えば総合政策学部だけではなくて、あらゆる学部にもこういう経験学習が必要だと言った場合の経験とは何ですかと問われたら、どのように答えますか。

和栗:簡単に一般化できないかもしれないけれども、例えば学生たちが人に感謝するようになるとか、自分が人に生かされ ていると思うようになるとか、自分の責任や価値について考えるようになるということは、どの学部でも共通することだと思う。「そんなの学問じゃない」と言 われるかもしれないけれども、その気付きを促していくことは大切だと信じています。

渡邊:きっかけ作りなんじゃないのかな。

河野:もっと踏み越えて、学問のクオリティを問う。なぜなら、感謝の気持ちとか、より良い社会を作るという熱い気持ち を抜きにして、学問のクオリティは語れないでしょう。渡邊:だからそれを得るために、経験をするということが何なのか。例えばカテゴリーを形成することが できなくても、何らかの経験をさせることによって、そのきっかけ、そういう思いが芽生える。そして、その先に多分クオリティが裏付けられるのではないか。 そのきっかけ作りとしての役割が今、非常に大きいのではないでしょうか。

和栗:高校まではある程度先生とも近かったのが、大学に来たら大教室で普段先生とは話す機会もそれほどなくなる。その 中で学んでいることがどんどん単に単位を取るための対象となって、授業を取っていることが自己目的化する。そうではなく、本来学べる能力を持っている人 達、本来学びを楽しめる能力を持っている学生達の能力を回復する。頭の中だけではなくて、心や五感が統合された学びの場を介して、もう一度本当の「学び」 に戻ってくる。

渡邊:これは一概に言いきれないけれども、やっぱり見ていて思うのは、最近の学生は感受性がすごく弱っている気がしま すよね。純粋に自分が感じたことから発した疑問とか、知りたいという欲望から新たな行動が生まれる気がするから、そういうところも含めて人間として本来 持っているはずの感覚を呼び覚ますプログラムなのかなと思っています。

友知:スリランカの最終日の一人一人に総括してもらった時に、主体性とか責任とか感謝の話はたくさん出ていましたね。 スリランカで学生と行動を共にして、フィールドスタディの経験を積んでいく中だけで主体性が一気にどんどん芽生えてきたとは思わないですけど、事前学習や ディベロップメントライブ、レセプションを通して、僕が見た時は学生はかなり主体的になっていて、責任感の強い学生も多かったなと。

高橋:今言っていたようなライフスキルズや責任感、あるいは一般常識みたいなもの、それを身に付けるのが目的なの?それとも、それは副産物として身に付くものなの?

和栗:それはまだ分からないんです。大学の教育のあり方をもっと皆で議論していかなければならない。副産物なのか主産物なのか、それはひとりひとり違ってくると思うけれど、両方得ることが大切だと思う。

友知:究極のと言うと語弊があるかもしれないけれど、目的はより良い社会を作るということなんですよね?

和栗:作るために行動できる人になって欲しい。

小池:学生は、お願いをすれば皆よくやってくれますよね。ただ、例えばレセプションをやるから企画から運営まですべて やって欲しいと言えばやるんだけれど、最初の働きかけがないと難しい。でも社会に出たら、誰かからの働きかけを待っているのではなくて、自分で状況を見て 判断して、行動しないといけない。そういうふうにアクションを起こせる人がリーダーシップをとって社会を変える原動力になっていくんだと思う。

渡邊:行動が出てくるようになることは一つの結果であって、そのためのきっかけ作りが、このプログラムが担っている大 きな役割だと思う。そこから更にどう伸ばすかは、大学の環境であったり、個々のモチベーションにもよるでしょう。いろいろな目標、目的があるにせよ、プロ グラムの大きな目的の一つは、学生個人がまず自分で考えて自分から動くようになるところ。そこから先の、学問としてのクオリティの追究や、どういうふうに 学んでいくかは個人の価値観もあるし、スピードも人によって違うだろうから、自ら動けるようになることが一番重要だと思う。

鈴木:受験生から大学生になったばかりの学生は、教育や学びにある種の閉塞感を感じていると思うんです。この前も、あ るガイダンスが終わった後に、学生が廊下で立ち話をしていて、「私は他大学が第一志望だったけど、中央大学の総合政策学部に来てよかった。ここは本人のや る気次第だよね」と言っていました。教室での学びを突破できるような仕組みがあることをガイダンスを通じて感じていたんですね。教室での学びも大事なんだ けれど、経験から学べることはこのプログラムの大きな特徴ですよね。それを彼らは求めている。

和栗:心が培われるというか、泣いたり優しくしてもらったり、スリランカの村でよくしてもらったり、オーストラリアで も自分自身の命と自然とのつながりを意識する中でセンス・オブ・ワンダー(sense of wonder)を回復したり・・・、感受性が豊かになる。私自身、スリランカで自分の関わりってどうなんだろうと突きつけられた部分もあったし、自分自身 がどうなのかというのをいつもいつも意識させられるから、教員の方も学んでいて分からなくなることはよくある。

小池:学生だけでなく教職員もいつもとは全く違う環境に身を置くので、一人の人間としていろいろ学ぶことは多いですよ ね。私も現地では自分のあり方についていろいろな場面で考えさせられました。今ここにいる一人の人間として自分は何ができるのか、学生のために職員ができ ることとは何なのか。実際の現場で様々なことを吸収しながら学んでいる学生を見ていると、学ぶ学生と、そこにいる自分というものを絶えず意識させられまし た。

鈴木:このようなプログラムは他学部でもできるかもしれませんが、総合政策学部ならではの特徴はどのようなものなのでしょうか。

渡邊:変わりゆく社会に対して、いろいろな視点を持っていなくてはいけないと言った時に、この学部ではどんなことも学べる。だからこそいろいろなところから見なくちゃいけないし、変わりゆく社会をフィールドとするならば、学問もそれに対応している方がいいですよね。

小池:やはり、ふりかえりの部分が特徴ですね。事前学習で勉強していても分からなかったことが、フィールドに行って初 めて見えてきて、ふりかえりの「さらなるアクション」で物事が有機的に繋がる、という学び方ができる。一つの事象をいろいろな切り口から学べる総合政策学 部ならではですよね。

高橋:現場というのは、ある側面だけを切り取れないわけだから総合的であると言えますよね。例えば、学問的には法律だけを切り取って見ることができるけれど、実際の現場だといろいろな要素が絡まっていて、部分だけを切り取れないじゃない。

和栗:切り取れない、分けられない、縦割りできない現場があって、そこに行って初めて総合政策なのでしょうね。

渡邊:なぜ総合政策学部ができたのかを知る現場でもあるかもね。

河野:例えば法学部にこういうプログラムがあって、法学的な観点から見ようとして現場に行って、全然違う問題がいっぱ いあることに気付くわけですよ。だから、そういう意味では、総合政策学部固有のプログラムではなくて、あらゆる分野に必要なプログラムなんじゃないかな。 さっきも言ったように現場とは常に総合であって、学問はその切り口を決めているだけなんだけれども、それ自身を豊かにしていくには、総合的に見直されない と発展していかない。そういう意味では、どんな学問分野でも現場に出て行くことを通して自分自身を鍛えていくことが必要ですよね。そういう側面を持ってい るので、今はこれを総合政策学部で進めているけれど、やっぱり日本の教育のあらゆる分野で広げて欲しいと思う。

小池:そうすると、Action Learning Programsに与えられるミッションはすごく大きいわけですよ。最終的な面で日本の大学を変えるような使命があるのですね。

河野:大学というか学門をね。

小池:学門を変えるというミッションが将来的にあるとすれば、どのような形でこのプログラムを今後進めていけばいいのでしょうか。

河野:やっぱり本当に教育の基幹を形成する舞台だとすれば、1学年全ての人が何らかの形で変われるようなものにしていかないと、教育そのものの根幹を揺るがすという意味にはならない。

鈴木:そういう意味では、単純に1学年での問題ではなくて、FLP(Faculty Linkage Program)のように全学部横断的にまず中央大学の学問の形を変える。ひいてはそれを道筋に、世界の教育をかえる。

小池:最終的にはこういうものに関わってくるのは、教える側のモチベーションになりますよね。

和栗:そこを言わなくちゃいけないのでは?私達がそこを言わないと、普段学生のせいにばかりなってしまって。

小池:これは学生がやらないから、とかね。そうじゃなくて常にこちらも工夫する努力をしないといけないですね。

友知:学生に問題意識、問題意識って言うけれど、教える側の問題意識、この場合は限定して社会問題、大学の教育が抱える問題とか・・・。

渡邊:学生もそうだけれども、やっぱりそれを支える基礎というか、そういう人達の意識が変わっていけば、このプログラムも広がるかもしれない。

河野:やっぱり感動とか驚きを授業で与えているかということ。本当に驚きがあって、発見の喜びがあれば、多分そこから 変化への意欲が出てくるとは思う。だけどそこを教員である自分が果たしきれていない時に、結局座って聞いているだけという状況をなかなか打破できない。質 問しても、こちらから問いかけても、何というか、困っちゃう。

和栗:自分から学ぶということが分からないのかもしれませんね。

渡邊:どの位世代的にに離れているか分からないけれども、例えば「昔は大学というのは本当に勉強したい人だけが行った んだ」という言葉はよく耳にします。だけど今は大学というのは一種のブランド化ですよね。将来良いところに就職したい。大学に行っていなかったら就職しに くい。○○大学という付加価値を求めて、そこで何を勉強したいのか、が重要視されない風潮がある。学生の感覚が明らかに違ってきていると思うので、そうい う意味ではケアをしなくてはいけない部分も出てきているんだと思います。

和栗:自分が学生だった頃を振り返ると、信頼している先生とか一歩歩み寄ってくれている先生からの方が学ぶことはどうしても大きい。それが学びを促進するなら、教員側から歩み寄ったりとか、教員側が距離感を少し縮めたりとか、取っ組み合うとか必要なんじゃなのかな。

小池:大学に入ったばかりだと「教授」というふうに見てしまうでしょう。でも、教授と言われている人達が、実は自分の 目線まで降りてきて、学生に教えてあげるんではなくて、対人間という形で「こういうことを思っているよね」と話されるとやっぱりちょっと嬉しいと思う。歩 み寄ってくれたというか、ちゃんと話してくれるというか。そういうことがきっかけで学ぼうという姿勢に結びつくんですよね。

河野:今までは、いわゆる大学の大衆の流れの中でそれに対応した教育手法を開発してこなかった。それを非常に効率的に 処理しようとして、大教室でやってきたよね。その手法が今、巨大な私立大学の経営的な生命線にもなっている。それで、何を変えれば良いんだと。確かにマス プロというか大教室でやって悪くない科目もあるんだけれど、一方でマスプロ教育の手法が小教室に持ち込まれている。だから、巨大私立大学の宿命としての問 題にどう関わっていくのか、そこでの新しい手法も提供していくような役割を担っているのかなとも思うんですよ。そういう意味でもこういうプログラムを各学 部が持って、教育手法を開発していかないと。

小池:そして、そこを共有する必要もありまよね。学びのクオリティを追求しつつ、量的拡大も視野にいれる。それが最大のテーマでしょうか。