社会・地域貢献

教養番組「知の回廊」25「シャンソンの魅力と社会変革」

中央大学 法学部 高橋 治男

一口に「シャンソン」と言っても、その種類や内容にはいろいろあります。「シャンソン」という言葉を耳にしたとき、あなたは何を、どんな曲を、あるいはどんな歌手を思い出しますか? 恋の歌、失恋の歌、娼婦の歌、仕事や労働の歌、革命の歌、海の歌、山の歌、またセーヌ河やパリの街を歌った歌など、題材は何でもござれですし、種類も無数にあって果てしがないので、短時間ではとてもすべてを網羅して解説することができません。

シャンソン歌手にしても、イヴェット・ギルベールやアリスティード・ブリュアンから始まって、リス・ゴーティ、ダミア、ミスタンゲット、エディット・ピアフ、コラ・ヴォケール、イヴェット・ジロー、ジュリエット・グレコ、バルバラ。男なら、モーリス・シュヴァリエ、アンドレ・クラヴォー、ティノ・ロッシ、シャルル・トレネ、イヴ・モンタン、ジルベール・ベコー、シャルル・アズナヴール、ジョルジュ・ムスタキ、ジョルジュ・ブラッサンス、アダモ、マルク・オジュレなど。思い起こすままに何人かの名前をちょっとあげただけで、いずれも綺羅星のような多士済々の顔ぶれが揃うので、だれを選んだらよいかわからなくなってしまうでしょう。

あるいは日本のシャンソン歌手の顔を思い浮かべる人もいるかもしれません。高英男、芦野宏、美輪明宏,越路吹雪、中原美紗緒、深緑夏代、岸洋子、加藤登紀子、金子由香里……。みんなそれぞれの個性を生かして、それぞれのシャンソンを歌ってきました。シャンソンにはだれもが接近でき、だれにでも理解でき、だれにも歌えるという利点があるようです。

それというのも、シャンソンがあらゆる題材を駆使して人生の機微のすべてを、人間にかかわるいっさいのことを巧みに歌っているからです。モーツァルトの歌劇にもなっているので有名な、ボーマルシェの『フィガロの結婚』の最終場面は、登場人物たちの合唱で終わりますが、その最後の歌詞は、「すべては歌で終わる」(Tout finit par des chansons)となっています。辰野隆はこれを「歌で終わるが世のならい」と訳していましたが、フランスではすべてがシャンソンにされ、歌われてしまうので、まさしく「すべては歌で終わる」と言えるのです。

音楽好きはフランス人だけではありませんが、パリには、メトロやRERの通路や車両のなかで演奏する音楽家がたくさんいます。そのレパートリーは、断然シャンソンと名画の音楽です。たまにはお世辞にもうまいとは言えない演奏家に出会うこともありますが、間違いなく一流の腕をもった人が大勢います。昨年の夏、リュクサンブール公園の入り口にピアノを持ち出し、ヴァイオリンとのシャンソン・メドレーを演奏していた学生グループは、「中古ピアノの購入にご協力を」と称して献金を仰いでいましたが、多くの通行人の足を止めずにはおかぬほどの名演奏でした。さほど苦労をせずに中古ピアノは買えたであろうと思われます。

ところでシャンソンは、その古い歴史のなかで、社会的にも政治的にも大変重要な役割を担った時期があります。一七世紀 には、風刺のシャンソンが時の政治家に皮肉や批判をぶつけたものでした。マザラン枢機卿をやっつけた『マザリナード』は六〇〇〇点もあるそうですし、ポ ン=ヌフに張り出される風刺シャンソンで揶揄されないように、コンデ大公も気を遣ったと言われています。人々に親しまれよく知られている本歌(もとうた) の旋律にのせて、時事問題や政治問題をテーマに気の利いた替え歌をつくって普及させるという、一種痛快な芸当は、古今東西よく行われたことですが、フラン スでは、じつは一八世紀に流行し、とくに大革命の時代に最も盛んになり、その伝統は三たびの革命を経験する一九世紀にも続いたのです。

大革命にかんして言えば、当時流行ったシャンソンの替え歌をたどってゆくだけで、革命の動きや経過の大筋がわかるとさ え言えるほどです。一八世紀末はモーツァルトの時代でもありましたから、美しい旋律のロマンスが流行すると同時に、威勢のよい輪舞曲や伝統的なカリヨンも 人口に膾炙していました。本歌の旋律をフランス語では「タンブル」、歌詞を一般に「クープレ」と言いますから、ある「タンブル」に新しい「クープレ」をつ けることによって、どんどん新しい歌ができました。いまだ新聞が発達せず、革命家たちは主として雄弁に頼って自分の意見を広げていた時代ですから、この替 え歌づくりは、敵を嘲笑し攻撃するのにも、自分たちの主張や政治目標を伝達するのにも、また単に事実を報道するのにも、きわめてすばやく反応しかつ効果を あげることのできる有力な方法だったのです。革命推進派の替え歌は、さまざまな立場から無数に作られていますが、反革命側の歌、つまり美しいロマンスの旋 律に乗せてルイ一六世を弁護をする王党派の歌もありました。同じ旋律が王党派と革命派の両側で使われたことさえあります。敵側の歌詞をさらにもじり返すと いう例もあったからです。

ここにお見せするロベール・ブレシーの『革命歌の詞華集』は、一七八九年から二〇世紀の人民戦線に至るさまざまな時期 の革命的シャンソンを扱っていますが、大革命時代の部では、七月一四日のバスチーユ襲撃とその占領に始まって、囚人の解放、司令官の逮捕、民衆による勝利 の喜びなどを歌ったクープレを、いずれも覚えやすい古謡か民謡の節で歌うようにと指示したチラシで紹介しています。

そのあとに続くのが有名な『サ・イラ』で、これは、当時流行っていた踊りの曲、ベクール作曲の『カリヨン・ナショナ ル』に、バスチーユ攻撃から約一年後の一七九〇年初夏にラドレが替え歌を作詞したものでした。ラドレは、人気のある「タンブル」に新しい歌詞をつけて歌 い、その楽譜をポン=ヌフで売っていた当時のシンガーソング・ライターでした。『サ・イラ』は「うまくゆくだろう」を意味するので日本の幕末に歌われた 「世直し、世直し、ええじゃないか」を連想させる部分もありますが、バスチーユの砦を取り壊し革命が進行して新しい時代を迎える喜びを歌っています。しか し一七九〇年七月一四日の全国連盟祭のときに、貴族を攻撃対象とするシュプレヒコールのような過激な歌詞とルフランが付け加えられて、のちにはいわば民衆 がつくった作者不詳の部分の方が有名になりました。長い歌なので歌詞のぜんぶを紹介することはとてもできませんから、ラドレ作の1番と2番に、後で付け加 えられた過激なルフランと歌詞だけを紹介しておきましょう。一九八九年の大革命二百周年記念に出たCD、『マルク・オジュレ大革命を歌う』によって、古い歌い方をお聞きください。

『サ・イラ』
[ルフラン]

ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
近頃 みんなの口癖は 
ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
暴徒がいようと うまくゆく

敵はとまどい 立ち往生 
われらが歌うは ハレルーヤ 
ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
ボワロが昔 予言した 
坊主について 予言した 
だから 小唄を口ずさみ 
われらも 喜んで言おうじゃないか 
ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
暴徒がいようと うまくゆく

ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
福音書の格言にしたがえば 
ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
立法のことも すべてなる

高い位が下に落ち 
低い位が上に立つ 
ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
真の教理を学びとり 
醜い狂信は根絶される 
掟に従う訓練を 
すべてのフランス人が受けるだろう 
ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
暴徒がいようと うまくゆく

CA IRA
Dictum Populaire

Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Le peuple en ce jour sans cesse répète : 
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Malgré les mutins tout réussira !

Nos ennemis confus en restent là, 
Et nous allons chanter Alleluia ! 
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Quand Boileau jadis du clergé parla 
Comme un prophète, il a prédit cela, 
En chantant ma chansonette, 
Avec plaisir on dira, 
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Malgré les mutins tout réussira !

Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Suivant la maxime de l’Evangile, 
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Du legislateur tout s’accomplira :

Celui qui s’élève, on l’abaissera 
Celui qui s’abaisse, on l’élèvera. 
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Le vrai catéchisme nous instruira 
Et l’affreux fanatisme s’éteindra ; 
Pour être à la loi docile 
Tout Français s’exercera, 
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Malgré les mutins tout réussira !

[作者不詳のルフランとクープレ]

ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
貴族を街灯に吊るしちまえ 
ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
貴族を縛り首にしろ

専制政治は終わりを告げて 
自由が勝利するだろう 
ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
もはや貴族も僧侶もいない 
ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
平等が至る所で確立されて 
オーストリアの奴隷にも それがわかってくるだろう 
ああ えじゃないか なんでもうまくゆく 
奴ら 極悪人の一味徒党は 
完全に姿を消すだろう

Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Les aristocrates à la lanterne ! 
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Les aristocrates on les pendra !

Les despotisme expirera 
La liberté triomphera, 
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Nous n’avons plus ni nobles, ni prêtres, 
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
L’égalité partout régnera, 
L’esclave autrichien le suivra, 
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira, 
Et leur infernale clique 
Au diable s’envolera.

『サ・イラ』とともに大革命の時代に猛烈に流行った歌を、あとふたつ紹介します。ひとつは、『ラ・マルセイ エーズ』です。これは、言わずと知れたフランス国歌ですが、一七九二年の四月に、ロン=ル=ソーニエ出身の将校、ルージェ・ド・リールがストラスブールで 作詞・作曲したときは、『ライン軍団の出陣の歌』というタイトルでした。ジャコバン・クラブのロベスピエールが戦争に猛反対していたにもかかわらず、この 年の四月二〇日、フランスはついにオーストリアに宣戦布告をし、長い革命防衛戦争の時代に突入しました。ストラスブールに駐屯していたライン軍団の将校た ちは、出陣を控えて四月二五日、市長のディトリッシュ男爵から夕食に招待され、激励を受けたのです。そのとき、市長がフランスには優れた愛国的軍歌がない と言って嘆いたので、居合わせたルージェ・ド・リールは早速宿舎に戻り、二六日の未明にかけて数時間のうちにこの歌を作詞し、旋律も愛用のヴァイオリンで 即興的に作曲したと伝えられています。歌詞には、この当時義勇軍を募る呼びかけや志気を高める演説や檄文に使われたことばが多用されているので、「(敵 の)穢れた血でわれらの田畑を肥沃にしよう」という残酷な表現もあります。曲については、その後、ルージェ・ド・リールのものではないとの疑いがかけら れ、ハイドンの弟子であったイニャス・プレイエルの作曲ではないかという説が議論されたり、技術的に見て少なくとも優れた協力者がいたはずだとの仮説が出 たりしましたが、どれも決め手がないので、今のところ、やはりルージェ・ド・リールのものということになっています。もとの旋律は、現在フランス国営放送 が採用している編曲とは少し違うようですし、歌詞も最初は6番までで、ルフランの「進め、進め」の部分は、 Marchons ではなくMarchezになっています。現在7番までありますが、7番目の歌詞は、一七九二年七月以降にペソノー神父が教え子たちのために書き加えたと言 われています。

ところでこの歌は、ストラスブールで発表されるや、楽譜付きの歌詞が印刷に付されて瞬く間に全国各地に広がってゆきましたが、パリには、一七九二年八月一〇日事件の直前にマルセイユから到着した連盟義勇兵によってもたらされました。彼らはこの歌を歌いながらパリに入城したのです。そのマルセイユ連盟兵が、ブルターニュから到着した義勇兵とともに八月一〇日の「民衆による革命」に決定的な役割を果たしたので、その後『マルセイユ軍の行進』または『マルセイユ軍賛歌』などと呼ばれたのち、最終的には『ラ・マルセイエーズ』となったのです。

この歌も長いので、本歌の1番とルフランに6番をそえて歌詞を紹介します。同じくマルク・オジュレの歌で1番だけ鑑賞していただきましょう。

『ラ・マルセイエーズ』
(『ライン軍団の出陣の歌』)


行け 祖国の子らよ 
栄光の日は来た 
暴虐の血塗られた旗が 
われらに挑み はためいている(2度) 
聞こえるか 野に怒号する 
あの残忍な兵士たちの声が 
奴らは諸君の腕のなかにいる 
息子や妻の喉をかき切りに来るのだ

(ルフラン) 
武器をとれ 市民たち 隊列を組め! 
進め! 進め! 
穢れた血でわれらの田畑を肥やすべし!

La Marseillaise
(Chant de Guerre pour l’Armée du Rhin)

1er couplet 
Allons enfants de la patrie ! 
Le jour de gloire est arrivé. 
Contre nous de la tyrannie 
L’étendard sanglant est levé,(bis) 
Entendez-vous dans les campagnes 
Mugir ces féroces soldats ? 
Ils viennent jusque dans vos bras 
Egorger vos fils, vos compagnes

(refrain) 
Aux armes citoyens ! Formez vos bataillons ! 
Marchez  Marchez ! 
Qu’un sang impur abreuve nos sillons !

6

「祖国」への聖なる愛よ
われらの復讐の腕を導き 支え給え
自由よ 最愛の自由よ
そなたの守り手とともに闘い給え(2度)
われらの軍旗のもとへ 勝利がそなたの
雄々しき声に応えて馳せ参じてくれることを!
そなたの敵が いまわの際に
そなたの勝利とわれらの栄光を目にするように!

(ルフラン)
武器をとれ 市民たち 隊列を組め!
進め! 進め!
穢れた血でわれらの田畑を肥やすべし!

6e couplet

Amour sacré de la Patrie
Conduis, soutiens nos bras vengeurs !
Liberté, Liberté chérie,
Combats avec tes défenseurs ! (bis)
Sous nos drapeaux, que la victoire
Accoure à tes mâles accents !
Que tes ennemis expirants
Voient ton triomphe et notre gloire !

(refrain)
Aux armes citoyens ! Formez vos bataillons !
Marchez  Marchez !
Qu’un sang impur abreuve nos sillons !

『ラ・マルセイエーズ』は、国民公会の時代に公式の祝典に際して好んで演奏されたし、また新しい編曲による歌 い方が次々と発表されました。第一共和政が初めてこの歌を国歌と定めたのは、テルミドールの反動後約一年を経過した一七九五年七月一四日でしたが、その後ナポレオンの第一帝政やとりわけ復古王政の時代には、政府がこの歌を忘れさせようと努めました。しかし、一八三〇年の七月革命と一八四八年の二月革命およびそれに続く六月の諸事件には復活して民衆の蜂起を励まし、さらに一八七〇年の普仏戦争とパリ・コミューンのときにも大いに歌われています。とりわけ、フランス歴代国王のなかでもっとも馬鹿といわれたシャルル一〇世が、言論弾圧と議会の破壊をめざして反動的勅令を発布した直後の、一八三〇年七月二七日から二九日までの栄光の三日間には、ドラクロワの有名な絵に見られる女神の三色旗とともに『ラ・マルセイエーズ』は、「自由」と「平等」の象徴となりました。そう言えば、ロマン派の巨匠ベルリオーズがこの曲を新たに編曲して使ったのも、一八三〇年のことでした。

パリ・コミューン以前の第二帝政時代も『ラ・マルセイエーズ』は禁止されていましたが、第三共和政になってからの一八七九年二月一四日に再び国歌として採用され、今日に至っています。一九世紀末から二〇世紀初頭にかけては、カトリックから教育と政治を分離して共和主義を徹底させる運動が展開されましたが、その中で『ラ・マルセイエーズ』の替え歌もつくられました。『反教権主義のラ・マルセイエーズ』というのがあります。しかし、その後は、一九三六年をピークとする人民戦線時代に、必ずしも革命を目ざすのではなくむしろ反戦・反ファシズムを第一目標とする左翼側の団結の歌として復活したことをのぞけば、この歌の革命的性格は完全に失われてしまい、今日では愛国心を称える右翼側の歌になっています。

話は今一度大革命時代に戻りますが、先にも触れたように一七九二年に国王と王妃が議会の決議に対して拒否権を行使し続けたために、八月一〇日、ついに民衆が蜂起してチュイルリーを襲撃するという事件が起こりました。これは、一七八九年七月一四日のバスチーユ襲撃と同じくらい重要な大事件でした。革命の方向を大きく変えたからです。それまでの革命の流れは、いまだ君主制を否定するところまで進んではいなかったけれども、この八月一〇日の蜂起によってルイ一六世は、マリー・アントワネットとともにチュイルリー宮からタンプル塔に移され、閉じこめられました。したがってこの革命は、国王の廃位を要求する連盟兵とサン・キュロットによる「民衆の革命」であったと言えるのです。まず、『ラ・カルマニョル』という歌が、いわば八月一〇日事件を記念して歌われ始め、その後もブルジョワジーと民衆と農民の革命が進行してゆくなかで新しい歌詞が次々に付け加えられて、盛んに歌われ、ロベスピエールの公安委員会による恐怖政治のもとでは、ギロチン処刑の伴奏曲にさえなったと言われています。作詞・作曲者の名前はわかっていません。旋律は単調で覚えやすいし、歌詞はいくらでも替え歌を増やしてゆけるので、庶民の合作であったと言うべきでしょう。カルマニョルとは、本来イタリアのピエモンテ地方の都市名、カルマニョーラのことですが、やがてこの地方から南仏に出稼ぎにくる労働者が着ていた衣服を指すようになりました。襟が大きくて裾の短い上着で、数列の金属製ボタンが付いています。この衣服をマルセイユから応援に来た連盟兵がパリに持ち込みました。『ラ・マルセイエーズ』を歌いながらパリに到着したマルセイユ連盟兵の人気は大変なものでしたから、この衣服は革命的民衆のあいだで急速に流行し始めたのです。この衣服を着て輪舞をすればカルマニョル踊りとなり、そしてその輪舞曲が『ラ・カルマニョル』と呼ばれたわけです。テルミドールの反動によってジャコバンが没落するとともに、この衣服や輪舞の流行も下火になり、歌だけはしばらく歌われていたものの、やがてナポレオンが第一執政になるや、『サ・イラ』と一緒に『ラ・カルマニョル』を歌うことを禁止してしまいました。しかし、『ラ・カルマニョル』の替え歌は、一九世紀の度重なる革命期においても、また二〇世紀の革命運動のなかでも、繰り返し現れているのです。

『ラ・カルマニョル』 
[ルフラン] 
カルマニョル踊りを踊ろうよ 
轟き万歳 轟き万歳 
カルマニョル踊りを踊ろうよ 
大砲の轟き万々歳!

拒否権マダムが誓いを立てた 
パリ中皆殺しにするそうな 
でもその企ては失敗だった 
われらの砲手のおかげです

拒否権殿が誓いを立てた 
お国に誠実捧げるそうな 
ところが彼は嘘ついた 
そんなら死んでもらいましょ

アントワネットは決意した 
われらに尻餅つかせるそうな 
でもその企ては失敗だった 
鼻へし折ったは彼女の方さ

友よ 永久に団結しよう 
敵を恐れちゃいけないよ 
敵が攻撃しかけてきたら 
はじき飛ばしてやるだけさ

さよう おいらはサン・キュロット 
国王の仲間がいようとも 
マルセイユ  ブルターニュの連盟兵と 
われらが掟に万歳叫ぶ!

さよう われらは永久に忘れない 
場末に住んでるサン・キュロットたちを 
彼らのために乾杯しよう 
あの善良な豪傑たちに 万歳を!

LA CARMAGNOLE 
(refrain) 
Dansons la carmagnole, 
Vive le son, vive le son, 
Dansons la carmagnole, 
Vive le son du canon !

Madame Véto avait promis (bis) 
De faire égorger tout Paris. (bis) 
Mais son coup a manqué 
Grâce à nos canonniers.

Monsieur Véto avait promis (bis) 
D’être fidèle à son pays.(bis) 
Mais il y a manqué 
Ne faisons plus de quartier.

Antoinette avait résolu (bis) 
De nous faire tomber sur le cul.(bis) 
Mais son coup a manqué 
Elle a le nez cassé.

Amis, restons toujours unis.(bis) 
Ne craignons pas nos ennemis.(bis) 
S’ils viennent attaquer, 
Nous les ferons sauter.

Oui, je suis sans-culotte, moi,(bis) 
En dépit des amis du roi,(bis) 
Vivent les Marseillais, 
Les Bretons et nos lois !

Oui, nous nous souviendrons toujours(bis) 
Des sans-culottes des faubourgs.(bis) 
A leur santé buvons, 
Vivent ces bons lurons !

これも、マルク・オジュレの本歌に近いと思われる歌い方をお聞きください。

『ラ・マルセイエーズ』と同じく『ラ・カルマニョル』も、一九世紀の革命運動のなかで絶えず復活し、とりわけ一八四八 年の二月革命のときには、イポリット・ドマネが作詞した『新カルマニョル』が盛んに歌われました。二月革命では、産業革命が遅ればせながら進行したフラン スで、いまだはっきりとした自覚はないものの、階級としての労働者大衆が初めて登場し、小ブルジョワ急進派とともに普通選挙と社会主義運動を目ざして金融 貴族の七月王政を打倒したのが二月革命なのですが、この闘いのなかでもやはりジャコバン派の革命思想がエネルギーとなっていました。『新カルマニョル』の ルフランは大革命のときの本歌と同じで、「カルマニョル踊りを踊ろうよ 轟き万歳 轟き万歳 大砲の轟き 万々歳」ですが、クープレには「自由の木」や 「労働者」という語句の他に、市街戦の模様を彷彿とさせる表現が出てきます。


希望よ ブルジョワよ 労働者よ 
よりよい日々がやってくる 
われらの手により 
自由の木が植えられた


国王の鎖につながれた民衆は 
地獄へと突き落とされ 
だれもが 屈従に甘んじていた 
しかしいまや みんなが勝利者だ


子どもも年寄りも立ち上がり 
王座は 舗石の攻撃を受け 
燃えくすぶる廃墟となって 
瞬時にして崩れ去る

Espoir, bourgeois et travailleurs,(bis) 
Nous reverrons des jours meilleurs.(bis) 
L’arbre de liberté 
Parmi nous est planté ;


Par un roi, le peuple enchaîné, 
Vers l’abîme était entraîné. 
Chacun était réduit. 
Vainqueurs tous aujourd’hui.


Enfants, vieillards se sont levés, 
Le trône, assailli de pavés 
Croule en quelques moments ; 
Sur ses débris fumants

ところで、いちばん先に紹介した『サ・イラ』は、第二次大戦後に映画のなかで使われて華々しく復活しました。 一九五四年にサッシャ・ギトリーが、自ら主演した映画『もし、ヴェルサイユが語られたとしたら』(Si Versailles m’était conté)を制作したとき、彼は『サ・イラ』のもっとも激しい「貴族を縛り首にしろ」というルフランを使って新しい歌詞を書きあげ、ジャン・フランセに 編曲させ、映画のなかではその新しい『サ・イラ』をエディット・ピアフに歌わせたのです。サッシャ・ギトリーは、ピアフに出演を依頼したとき、「あなたは 公共の秩序を乱す声をお持ちです。ですから、まさしくあなたの出番となったわけです。フランス全土をどうか反乱状態にたたき込んでください」と述べて口説 き落としたと言われています。

そのピアフの、迫力のある『サ・イラ』をお聞きください。なお、ピアフのCDのジャケットでは、「サ・イラ」を「やっつけろ」と訳しています。クープレの内容から判断すると、この場合はその方がよいのかも知れません。

「公共の秩序を乱す声」とは、サッシャ・ギトリーもよくぞ言ったものです。確かにピアフの声は音域が広いだけでなく、 なめらかで抜群ののびを見せますし、その歌い方には、お聞きの通り、非凡な迫力がありました。詩人のジャン・コクトーは、一九六三年一〇月一一日に、彼女 の訃報を聞いてショックを受け、数時間後に息を引き取りましたが、エディット・ピアフを「四月のサヨナキドリ」に譬えて、彼女の天才を絶賛する名文を残し ています。その中で彼女の声を「五臓六腑からほとばしり出る黒いビロードの高波」と称し、歌っているときのその手の動きを「廃墟をはい回るトカゲの手」、 美しい口を「信託を告げる口」と形容しました。自らも作詞と事実上の作曲をして名曲を多く残しただけでなく、たくさんの作詞家や作曲家に競って創作をさせ る原動力となったピアフ。そして彼女の指導を受けて大成した芸術家たちが数知れずいることを思うと、シャンソン界における二〇世紀最大の芸術家をひとり選 ぶということになれば、やはりエディット・ピアフをおいて他にはないと言わざるを得ません。

エディット・ピアフの本名は、エディット・ジョヴァンナ・ガシオンといい、父は軽業の大道芸人、ルイ・ガシオン。母の アネッタ・マイヤールは、リーヌ・マルサの名前で知られる歌手でした。ベルヴィル近くに住んでいた母方の祖母の名がエンマ・サイッド・ベン・モアメッドと いうから、母方からアルジェリア高地カビリアの血を受けていることは確かです。一九一五年一二月一九日、父のガシオンは戦場にいました。母はベルヴィル街 で産気づき、72番地の玄関先の石段にしゃがみ込んでいました。72番地の壁にはいまも羽目板がはめ込まれて、「一九一五年一二月一九日、この家の石段の 上で赤貧のうちに、エディット・ピアフは生まれた。その声は、のちに全世界を震撼させることになる」と告げています。しかし、実際には彼女の母はパトロー ル中の警官ふたりに保護されて、近くのトゥノン病院に運ばれたので、エディットは病院で生まれたのでした。彼女が歌手として評判になり始めたとき、ある新 聞記者がその経歴を劇的に粉飾したのがきっかけとなって、路上誕生説が信じられてしまったようです。

母は、娘が生まれる少し前にスパイとしてドイツ軍に逮捕・銃殺されたイギリスの若い婦人情報部員、エディス・キャヴェ ルの名前が気に入っており、その名前を娘に付けたのでした。しかし彼女は、娘を自分で育てずにベルヴィルの母親に預けたまま歌手として働き続けました。父 親が帰還すると、この祖母のエディットに対する扱いに不満を感じた彼は、娘をユール県のベルニーに住む自分の両親のもとに移しました。父方の祖父母はエ ディットをかわいがってくれたようですが、彼らはベルニーで売春宿を経営していたのです。

五歳から六歳にかけて彼女は角膜炎にかかり、失明の危機さえありましたが、幸運にも奇跡的に治癒しました。祖父母は聖 女テレーズのおかげであると信じて休業し、エディットだけでなく店の女性たちも引き連れてリジウーへとお礼参りの旅に出かけました。このことがあったため に、成人後もエディットは聖女テレーズを信じ続けていたようです。

ベルニーの司祭は、売春宿にいつまでもエディットをおくべきではないと考えて、父親に娘を引き取らせました。一九二二 年、彼女が六歳のときです。彼女としてはかわいがってくれる女たちがたくさんいる家を離れたくなかったようですが、しかたなく今度は大道芸を披露する父の もとで、籠や帽子をもって観衆のあいだをちょこまか歩き、お金を受け取る役に徹したのです。一九二四年にはじめて彼女は街頭で歌いました。幼い少女にふさ わしからぬ内容の歌だったそうですが、このときの実入りが普段よりはるかに多かったので、その後父親は自分がアクロバットを演じるあいだ、娘に歌わせるこ とにしました。最初のレパートリーのなかには、当然『ラ・マルセイエーズ』がはいっています。

一九二九年まで彼女はつねに父親と一緒でしたが、やがて母と同じく単独で歌うようになりました。翌一九三〇年に両親が離婚します。