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教養番組「知の回廊」
44 「闇への情熱~梶井基次郎の世界」「冬の蝿」論

中央大学 文学部 渡部 芳紀

「冬の蝿」は、昭和三年、『創作月刊』五月号に発表された。梶井を代表する作品の一つである。 
中谷孝雄は、その著『梶井基次郎』(昭36・6、筑摩書房)において〈この作品を梶井の小説(しばらく散文詩風のものを除く)のなかで最もすぐれたものと思つてゐるが、当時の文壇はこの作品に対しても甚だ冷淡で、公的な場に於いて批評したものは一人もなかつた〉と発言し、高い評価を与えている。 
また、磯貝英夫は、『現代日本文学大事典』(昭40・11、明治書院)の「梶井基次郎」の項において、〈全作品中で最も酷烈な心象の写しだされている作品〉、〈冬の蝿の生態や自然の明暗の見事な描写といった側面においても、これは最も結晶度の高い作品のひとつ〉だと高く評価している。 
が、そうした高い評価があるにもかかわらず、作品「冬の蝿」が、これまで、数多く論じられて来たというわけではない。 
福永武彦は、『近代文学鑑賞講座第十八巻中島敦・梶井基次郎』(昭34.12、角川書店)で、〈絶望への情熱に裏打ちされている〉〈倦怠〉を底にひめた〈諧謔の文体〉を指摘するにとどまっているし、飛高隆夫は「梶井基次郎ノート?湯ケ島時代の文学?」(昭46、『大妻国文』2号)で、〈自己の絶望的な宿命の苦さを確認〉し、さらに〈別の深みに到達し〉〈梶井の精神に不思議な意力が生まれてくる〉のを指摘しながらも、「冬の蝿」そのものへの言及はほとんどない。 
そのほかの梶井論でも「冬の蝿」への言及は、闇への情熱に関連して軽く触れられる程度である。 
そうした中では、相馬庸郎の「『冬の蝿』?主題の把握一?」(『国文学』昭43・7)が、作品論として、この作品を独立して取りあげ、〈倦怠から発する感情の凄惨ともいうべき帰趨、「病める人間存在」のどうしょうもない暗さ〉が、その主題だとしているのが、正面から作品に取り組んでいる。 
このように、一方では非常に高く評価されながら、本格的にはあまり論じられていないのが「冬の蝿」という作品である。ここでは、じっくり作品自体を読み込むという形で、「冬の蝿」を分析して行きたい。

「冬の蝿」は、0、1、2、3の四つの部分から成り立っている。それは、起・承・転・結の四段構成と言っても良い。 
起と結とは数行ずつで、首尾呼応し、承と転とは、それぞれ、前半と、後半の大部分を占め、作品の中心を成している。承は起をうけ、転は、がらりと様相を変えて、まさに転の役割をはたしている。「冬の蝿」は、まず、この、がっちりとした幾何学的構成が特色だと言えよう。 
起の部分は、導入部である。〈冬の蝿とは何か?〉で始まるわずか数行から成り立つ。〈冬の蝿〉の簡単な紹介である。 
承の部分は、前半の大部分を占める。主人公の〈私〉が登場し、〈冬の蝿〉と〈私〉との相関関係が語られる部分である。 
承の最初の段落は、〈内湾(うちうみ)のやうに賑やかな渓の空〉の様子が語られる。初冬の光の中に群れ飛ぶ様々な昆虫たちを活写している。そこには、生命が満ちあふれている、梶井の数多い名描写の中でも特に印象的な部分である。ここでは、〈内湾(うちうみ)〉という表現に注意しておきたい。 
次に、〈「蝿と日光浴をしてゐる男」〉のことが語られる。ここでは、〈冬の蝿〉がさらに詳しく紹介される。〈冬の蝿〉は、〈日蔭ではよぼよぼ〉で〈日なたのなか〉で〈活気づく〉。しかし、〈外気のなかへも決して飛び立たうとはせず〉〈病人である私を模ねてゐる〉。そうした〈冬の蝿〉に、〈私〉は、〈馴染の気持〉を抱いている。 
次に、〈「日光浴をしながら太陽を憎んでゐる男」〉の話がつづくのだが、ここでは、その部分を後回しにして、午後、および夜の〈冬の蝿〉の様子と、〈私〉との関わりをさぐって行こう。 
午後の蝿は〈逃げ足が遅〉く、夜の蝿は〈死んだやう〉である。〈私〉は、夜の孤独な思いの中で、〈私の病鬱〉が、自分の部屋に〈冬の蝿をさへ棲まわせてゐるのではないか〉と思う。 
これらの部分からわかるのは、〈冬の蝿〉がきわめて象徴的に扱われているということである。主人公〈私〉の〈病欝〉にともなう〈倦怠〉〈因循〉が、〈冬の蝿〉を近づけているのだ。〈冬の蝿〉は、主人公〈私〉の〈倦怠〉〈因循〉の象徴なのだ。 
しかし、〈私〉は、〈「蝿と日光浴をしてゐる男」〉であると同時に、〈「日光浴をしながら太陽を憎んでゐる男」〉でもある。なぜ〈私〉は〈太陽を憎〉むのか。それは、太陽が〈世間に於ける幸福〉を象徴しているからだ。〈私〉は、〈日の当つた風景の象徴する幸福な感情を否定するのではない。その幸福は今や私を傷ける。私はそれを憎むのである〉。なぜなら、〈私〉は、病者として、しかも、死を確定づけられた者として、〈世間に於ける幸福を〉拒まれているからだ。〈私〉は、〈世間に於ける幸福〉が、〈感情の弛緩〉と〈神経の鈍麻〉と〈理性の偽瞞〉の上に成立するまやかしの産物だと思い込もうとする。死を確定づけられた〈私〉にとり、一時的な〈生の幻影〉は、〈緊迫衣(ストレート・ジャケット)のやうに私を圧迫〉する。むしろ、〈酷寒のなかの自由〉を〈私は欲〉する。自己の存在の有り様(よう)の真実の姿を自分で認識すること、そこにこそ、自分の存在する意味があると思うのだ。〈私〉の心は、〈夕方〉〈黄昏〉へと向かう。〈たとへ人はそのなかでは幸福ではないにしても、そこには私の眼を澄ませ心を透き徹らせる風景があ〉る。闇こそが〈私〉の、真の存在の姿だと思うのである。この認識が、〈私〉と〈冬の蝿〉との決定的な違いである。〈「平俗な日なた奴!早く消えろ。いくら貴様が風景に愛情を与へ、冬の蝿を活気づけても、俺を愚昧化することだけは出来ぬわい」〉という主人公の言葉は、両者の相違を鮮明に浮き上がらせる。 
このように、起・承という作品の前半において、〈冬の蝿〉と〈私〉との、共通点と相違点を、〈日光〉との関わり方によって語るのである。〈私〉は、〈日光浴〉をしながらも〈日光〉を憎んでいる。それは、生に執着しつつ、生の執着から逃がれ、〈自由〉を手にしたいという〈私〉の葛藤の姿でもある。

転の部分は、〈よく晴れた温かい日〉の午後の具体的な行動によって始まる。〈私〉は郵便局へ行った帰り、〈不意に手を挙げて、乗合自動車に乗つてしまう。しばらく進んだのち、〈疲労〉のため、自動車を降り、自分を〈山中へ遺棄〉してしまう。ここから、主人公〈私〉の一つの挑戦が始まる。 
夕暮れになり、〈暗と寒気が〉〈私を勇気づけ〉、〈残酷な欲望〉の下、〈あたりにまだ光があつたときとは全く異つた感情で私自身を艤装〉する。〈私〉は、〈暗い情熱〉に溢れて道を踏んで行く。〈私〉は、闇の中にあって、〈苦い絶望した風景〉を目にし、そこに〈私の運命そのままの四囲〉を見出す。〈これは私の心そのままの姿であり、ここにゐて私は日なたのなかで感じるやうな何等の偽瞞をも感じない〉。〈私の神経〉は〈張り切り〉〈決然とした意志を感じる〉。〈定罰のやうな闇、膚を劈(つんざ)く酷寒。そのなかでこそ私の疲労は快く緊張し新しい戦慄を感じる〉。ここに、主人公の生きる姿勢が示される。〈私〉の幸福観が語られる。 
生を、病気によって拒まれながら、生に執着する。そこに倦怠と因循とが生まれる。そうした有り様(よう)を、まやかしとして拒絶し、生への執着を断ち切り、死を確定づけられた自己の生の有り様をしっかり認識する。自己の真実を、自分の目で見たとき、そこに、〈緊張〉と〈戦慄〉とを感じる。生の充足を感じる。生き甲斐を覚える。そこに、自分の幸福観を打ち立てるのだ。幸福とは観念的主観的なものだ。たとえそれが世間でいう幸福ではないとしても、その人個人にとっては、真の幸福に成り得るのだ。闇の中を突き進みながら、〈私〉は、生の充足の一瞬を持ったのだ。確実に幸福を手にしていたのだ。それは、〈私〉に死を突きつけているなにものかへの挑戦なのだ。 
〈その夜晩く、私は半島の南端、港の船着場を前にして疲れ切つた私の身体を立たせてゐた。私は酒を飲んでゐた。しかし心は沈んだまますこしも酔つてゐなかつた〉。主人公の「挑戦」は終わった。なぜ〈私〉の〈心は沈ん〉でいるのか。あんなにも生の充実の一時を過ごしたのではなかったか。 
〈私〉は、〈転変に富んだその夜を回想して〉行く。三里近く夜道を歩いて〈凍え疲れた四肢〉を〈共同湯で温めたときの異様な安堵の感情〉を。 
〈私〉は、なぜ、そこで〈安堵の感情〉を覚えるのか。それは裏切りではないのか。太陽の象徴する幸福を〈偽瞞〉だと拒否し、〈酷寒のなかの自由〉を叫んで、闇の道を歩いたのではなかったのか。〈暗い情熱〉に溢れて、〈緊張〉と〈戦慄〉を覚えながら、運命に挑戦して行ったのではなかったのか。 
〈共同湯で温め〉るのは、太陽の世界への妥協である。そこで〈安堵の感情〉を味わうのは、太陽への敗北である。 
しかし、主人公〈私〉は、それを知っていたのだろう。そうした不甲斐ない己れに腹を立てて、再度、〈私に夜の道へ出ることを命令した〉のであろう。しかし、結局、再度の挑戦にも敗れた。通りかかった自動車に乗り、この港町にやって来たのだ。〈私の憎悪に充ちた荒々しい心〉は尽きていた。運命への挑戦は、敗北の形で終わったのだった。 
〈私〉は、三日ほど、その港町で過ごし、〈私の心を封じるために私の村へ帰〉って行く。

結の部分は、短い。村にもどって、疲れた身体を床につけていた報告と、ある日、〈冬の蝿〉が〈自分の部屋に一匹も〉〈ゐなくなつてゐることに気がついた〉ことを語る。〈私〉は、そこに〈私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまふきまぐれな条件があるやうな気がして〉〈憂欝を感じ〉、〈ますます陰欝を加へてゆく私の生活を感じたのである〉と作品を閉じる。 
そして、大方の論者は、この最後の部分に目をやって、この作品をとらえるようである。〈きまぐれな〉〈其奴の幅広い背〉に、暗い死の神を見て、虚無観をそこに見出すのだ。それを全く否定しはしない。しかし、私は、そうした虚無の前に、一つの充足を見たい。 
なぜ〈冬の蝿〉は〈ゐなくなつて〉しまったのか。その原因こそ、〈冬の蝿〉と〈私〉とを峻別するものであろう。 
作品では〈彼等は私の静かな生活の余徳を自分等の生存の条件として生きてゐた〉。〈私が自分の欝屈した部屋から逃げ出してわれとわが身を虐んでゐた間に、彼等はほんたうに寒気と飢へで死んでしまつたのである〉と説明している。それは、確かに、フィジックな理由はそうであるかもしれない。が、それ以上に、そこには、メタフィジックな面があったのではないか。。 
「承」の部分を振り返ってみよう。そこでは、〈冬の蝿〉と〈私〉との共通項が示されている。すなわち、〈私〉の〈病欝〉にともなう〈倦怠〉や〈因循〉が、〈冬の蝿〉を、〈私〉のまわりに住まわせているとしているのだ。 
「転」における、主人公〈私〉の、運命に対する挑戦は、自分の〈倦怠〉や〈因循〉に対する挑戦でもあったのだ。〈われとわが身を責め虐んで〉、自分の〈倦怠〉や〈因循〉を払拭しようとしたのだ。一方では〈太陽を憎んでゐ〉ながら、一方で〈蝿と日光浴をしてゐる〉矛盾する自分を、はっきり峻別しようとしたのだ。そうした意志的姿勢が、〈冬の蝿〉と〈私〉とを決定的に分ける相違点である。〈私〉の〈倦怠〉や〈因循〉への挑戦が、それにともなう、〈冬の蝿〉をも断ち切ったのである。

〈私〉の挑戦は、挫折した。それは、なぜか。それは、〈私〉が人間だったからだ。肉体を持っていたからだ。肉体が観念を裏切ったのである。〈私〉は、観念の上で、自分の幸福観を構築して行った。〈私の眼を澄ませ心を透ぎ徹らせる〉世界、〈緊張〉と〈戦慄〉と〈決然とした意志〉による充実した〈暗い情熱〉の世界は、観念の幸福の世界である。しかし、それを観念するところの頭脳は、肉体の世界に属するものだ。応体の支えが無くなった時、それは崩壊する。あんなにも〈緊張〉と〈戦慄〉にあふれて進んで行った〈私〉であるが、結局は、〈共同湯〉で肉体を〈温め〉ざるを得ないし、そこで〈安堵の感情〉を味わわざるをえないのである。

〈私〉の、運命と自己への挑戦は、肉体に裏切られることにより敗北に終わった。しかし、それは意味のない敗北であったのか。否!断じて否である。「承」の冒頭の部分、〈内湾(うちうみ)〉のやうに賑やかな渓の空〉の描写があった。〈冬の蝿〉は〈虻や蜂があんなにも溌刺と飛び廻っつてゐる外気のなかへも決して飛び立たうとは〉しなかったのだ。しかし、〈私〉は、違った。〈私〉は、昼間と夜の違いはあれ、敢然と〈外気〉の中に飛び出して行ったのだ。しかも、その夜の闇を〈私はそれが昼間と同じである〉と感じていたのだ。そこに〈冬の蝿〉との決定的な違いがある。
たとえ一時的であったとしても、〈暗い情熱〉に溢れた充足の時を味わい、〈冬の蝿〉を断ち切ることができたのだ。結果として敗北に終わったとしても、〈私〉の心が生きている限り、二度目、三度目のチャレンジも出来るだろう。〈いつか私を殺してしまふ気まぐれな条件〉がやって来るまで、〈私〉は、再び、挑戦するに違いないのである。そこにこそ、生の充足があるはずなのである。

このように、「冬の蝿」は、起・承・転・結のがっちりとした構成のもとに、生の充足を求めて運命に挑戦する主人公の姿が描かれた梶井文学の最高傑作の一つである。

ところで、今は、作品に忠実に即して見て来たのであるが、ここで、少し、空想をたくましくして、象徴的な読み方をしてみよう。

二で「承」の部分の冒頭の〈内湾(うちうみ)〉という表現に注意したいと指摘しておいたが、実は、この「冬の蝿」という作品の背後には、「海」のイメージが底深く沈んでいるのではないか。主人公の〈私〉は、「海」を求めて、彷徨して行ったのではないのか。〈虻や蜂があんなにも溌刺と飛び廻ってゐる外気のなか〉を〈内湾(うちうみ)のやうに賑やかな渓の空〉と表現したわけだが、〈私〉が出て行った〈外気のなか〉は〈内湾〉さらには、外洋という「海」につながっていたのではないか。「海」の中に、自分の幸福の世界を捜し求めて行ったのではないか。それを母胎回帰と言ってしまっては、あまりに牽強付会に過ぎようが、少くとも、幸福のイメージを「海」に託していたとは考えられなくも無い。〈私〉が降り立った〈水を打つたやうな静けさが〉〈領してゐた〉〈渓〉は、「海」の世界ではなかったのか。その〈私〉が飛び出して行った「海」において、〈全く違つた感情で私自身を艤装(筆者註一航海に必要な装備をすること)〉したのではないか。そして船の行き着いたのが、〈半島の南端〉の〈港〉ではなかったのか。その「海」のある〈港〉に、新しい幸せを求めて行ったが、結局、〈明るい南の海の色や匂ひはなにか私には荒々しく粗雑〉に感じられ、夢破れて、〈山や渓が鬩ぎ合〉っている〈村〉にもどって来たのではないか。すなわち、〈内湾(うちうみ)〉に生命の横溢を見た主人公が、「海」を求めて、〈外気〉の中へ脱出して行って結局、「海」にそれが求められなくて、もどって来たという読み方もおもしろいのではなかろうか。ただ、それは、「冬の蝿」では、底の底に沈んでしまっている。が、ぬぐいきれないものとして磯の香り程度に、「海」のイメージがただよっているのである。 
それは、草稿の段階では、もっと色濃い。全集第二巻、日記草稿第十一帖の「蒼穹」の草稿の中に、〈山々に視界を遮られたこの村へ来て、私は海を見る楽しみを空へ向けた。〔渓にある私の宿の部屋の窓ぎわへ寝転べば、渓を空へ日を浴びた羽虫があがってゆく、(中略)〕日向へ寝転べばそこは常に岬の突角だつた。〉という表現があり、渓の空に、「海」のイメージを抱いていたのはまちがいない。十二帖の「冬の蝿」の草稿になると、〈内湾〉の昆虫について〈さうした昆虫の往来は入船出船で慌だしいなにか大きな港を私に連想させる〉と、「海」のイメージを示し、「転」に相当する部分では、「冬の蝿」では、〈これから三里の道を歩いて次の温泉までゆくことに予定してゐた〉とあるのに、草稿では〈私はまだ七里も歩かなくてはならない〉と、初めから思いは〈半島の南端の港へ〉と向かっているのである。そして、さらに闇の形容には、〈私は海のやうな暗のなかを歩いてゐた〉と書く。草稿においては、より色濃く、「海」への思いが出ているのである。 
この作品の執筆の少し前と思われる昭和二年十二月二十二日付、広津和郎宛書簡において、梶井は、〈やはりどこか暖いところへ移つた方がよくはないか〉〈ひょつとしたら来年から海岸の方へかわるかも知れない〉と書いており、当時の作者に、「海」への思いは濃厚だったと思う。さらには、その背後に、少年時の幸福な一時を過ごした鳥羽の海のイメージなどもあったかも知れない。

次に、素材のことに言及しておきたい。 
昭和二年十一月七日、川端秀子宛書簡で、〈此の間は、紅葉見と、トンネルでは夕方になると鹿が鳴くといふのでトンネルへ行つて見たのですが夜路を湯ケ野まで歩いてたうたう身体をこはしました〉と書き、十一月十一日付淀野隆三宛書簡では〈此の間はトンネルへ夕方出かけて紅葉見をした。夕方でもなかつたのだが冬至近い日は暮れ易く、あの大渓谷が闇に鎖されるのを見ながら湯ケ野まで歩いてしまつた。一泊して翌日帰つたのですが下田港蓮台寺河内なども瞥見して来ました。闇の天城峠は今思つても寒い。身体を少しいためたやうでしたが、昨日今日あたりで平常に帰つたと思つてゐます〉と書いている。まずは、これらの書簡に書かれている湯ケ野・下田行が、素材になっていると考えられる。 
ところで、いつ頃、行ったのかということだが、同年十月三十一日付飯島正宛書簡では〈峠には鹿が鳴きはじめるとのこと〉〈湯ケ島から天城峠の方へかけて紅葉した谷の眺めは実に素晴らしいものと思ふ〉と書いているので、この時点では、まだ出かけてないと判断すると、川端秀子宛書簡の書かれた十一月七日との間と考えられる。下田行に最低二日かかったとし、その後、数日、床についたとすると、十一月初め頃の体験なのだろうか。 
素材と小説とではつぎり違っているのは、素材が一泊二日の行程なのに、「冬の蝿」では、〈三日ほどもその附近の温泉で帰る日を延した〉とある部分である。 
また作品構成の上で無理が感じられるのは、〈あたりがとつぷり暮れ〉てから三里の道を歩いて〈共同場〉(湯ケ野温泉がモデルと思われる)で体を〈温め〉、夕食をとり、さらに〈二里ばかりも離れた温泉〉(谷津温泉がモデルと考えられる)へ向かって歩き、道に迷って、〈晩い自動車〉に乗り、〈半島の南端〉の〈港〉(下田がモデルと考えられる)へ来て、娼婦の家に上がり、酒を飲み、さらに、そこを出て、船着場で、物思いにふけるという行程である。三里の道程は、健康な者でも、二時間はかかるだろう。温泉につかり、食事をし、少くとも一時間や一時間半はかかるのではないか。しかも、昭和の初め頃、湯ケ野で、八時頃、食事ができたのだろうか。食事はできたとして、そんな遅く、乗合自動車が、あったのだろうか。自動車に乗ったとしても、およそ四里の行程で、当時の車ではどのくらい時間がかかったのだろうか。しかも、その行動者は、病人なのである。そこには、かなりの虚構化が行われていると考えて良いのではなかろうか。夕方から夜中にかけての行程としては、あまりに盛り沢山すぎるのである。 
書簡によれば、梶井は十月十六日に、大阪から湯ケ島にもどって来ている。その際、京大で診察を受け、貧血がひどいと診断されているようだ。しかも、先の飯島宛書簡では〈帰つて匆々風邪に罹つて寝てゐた〉と言う。結核患者で、風邪をひいていて、それがなおったとしても、そう遠くない十一月初めのできごとである。はたしてどれだけ行動できたことだろうか。 
大谷晃一は『評伝梶井基次郎』(昭53・3、河出書房新社)で、〈そのころに藤沢桓夫と下田へ行っている〉〈女の乗客の香水に藤沢が酔い、湯ケ野で降り〉〈またバスが来た。下田へ行こう、と乗る。下田の式守旅館に投宿〉し、翌日帰ったことを紹介し、〈下田行きは一度だと思われるが、もしそうなら、梶井文学の創作の秘密がかなり明らかになる。〉と、事実と創作との関わりに言及している。 
ただ、気になるのは、梶井の書簡では、藤沢桓夫が同行したことに少しも触れていないことである。藤沢と梶井は、川端康成の下で紹介され知りあったのである。従って川端夫人秀子への書簡で、下田行を述べながら、藤沢について全く触れないのはおかしいと思うのである。梶井が書簡の上で、事実をかくしたのだろうか。あるいは、藤沢の記憶違いか。藤沢とは別の単独の下田行があったのだろうか。このあたりは、もう少し、事実関係の照合が必要かと思われる。が、藤沢が同行したかどうかはともかく、夕方から夜中へかけての行程としてはかなり無理があるので、作品「冬の蝿」には、相当の虚構化が行われているのは間違いないと思われる。梶井の作品の世界をそのまま、事実と考えるようなことはないように注意したいものである。

わたべ・よしのり 中央大学助教授