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教養番組「知の回廊」
33 「多摩のシルクロード -ペリー来航と不平等条約-」

中央大学 文学部 松尾 正人

1、ペリー来航と開港

幕末の嘉永6年(1853)年6月にペリーが来航し、その黒船の威力の前に翌安政元年(1854)、幕府が日 米和親条約を結び、下田と箱館を燃料や食料をあたえるために開いたことは良く知られています。その後、安政3年に初代総領事のハリスが下田に来航し、幕府 は安政5年に日米修好通商条約を結び、5つの港を開港場と定めました。入学試験では、この5つの港の名前を書く設問を出すと、うっかり間違える人がいま す。長崎、箱館、神奈川、兵庫、新潟が正解です。間違えるのは、神奈川を横浜とする答案です。横浜は通商条約締結の翌年に開港場として開かれますから、5 つの港名に入れてしまうのですが、実際に条約で約束したのは神奈川でした。

では、なぜ神奈川が横浜にすりかわってしまったのでしょうか。幕府は、イギリスやフランスの脅威を強調して通商を要求 するハリスに負けて、下田のかわりに神奈川を認めましたが、神奈川は東海道の宿場町で江戸に近い重要な場所です。そこで幕府は、なんとか外国の影響の少な い場所として横浜を考えました。当時の横浜は、東海道筋の神奈川と入り江を挟んだ対岸の漁村でした。その漁村を埋め立て、長崎の出島のようにつくりかえ て、開港場にしてしまったのです。それは条約違反ですが、幕府はハリスの抗議を無視し、横浜に日本人の店を出させ、外国商人に対しても土地を無償で貸与 し、事実上の開港場としてしまいました。外国商人は、便利な横浜での貿易に応じるようになり、条約に記された神奈川が横浜にすりかわっていったわけです。

このような経緯は、横浜市にある横浜開港資料館へ行くと、史料を通じて具体的にわかります。開港資料館は、開港場のイ ギリス領事館のあった場所に作られています。ここは2回目に来航したペリーが上陸した場所でもあり、ここでペリーは、日米和親条約を結ぶために幕府の役人 と交渉を行いました。現在は、海に面した山下公園をはさんでこの資料館がありますが、開港当時は、資料館の前の道から下が海でした。山下公園は、関東大震 災で壊れた建物の残骸などで、港を埋め立て後に作ったものです。この資料館は、イギリス領事館の建物が関東大震災に遭ったことから、昭和6年に建設された ものですが、ジヨージア朝時代のジョージアン・スタイルの古典的な建物です。正面玄関入り口に立つ2本の柱は、コリント式という曲線的なふくらみを持った 形です。建物の本館は、現在は資料館の研究室、事務室に使われています。

横浜開港資料館に展示されている史料を見ると、漁村であった横浜が次第に開港場に変わっていく変化がわかります。開港 の翌年である万延元年(1860)の「御開港横浜之全図」です。横浜の居留地が長崎の出島を大きくしたような形につくられています。大岡川が海に出る砂嘴 というくちばしのような地形を利用し、そこを埋め立てて造成しました。

図の下の方が東海道ですが、そこから入り江をへだてた場所に横浜が位置します。東海道からは野毛の山を切通しにして横 浜に入る道がつくられました。野毛から横浜に入る手前の大岡川には、吉田橋という橋をかけて関所を置き、出入りする人を取り締まりました。現在の伊勢佐木 町などの繁華街に近い関内という地名は、関所の内側という意味からできた地名です。また、山手の港の見える丘公園の側は、山際に堀をつくって横浜居留地か ら切り離しました。中村川という川を延長して運河を掘ったのです。外人墓地に近い元町は、元から住んでいた横浜村の漁村の人々が立ち退かされてつくった町 からできた名称です。このように横浜は、四方を川や海に囲まれ、神奈川とは離れていて東海道には簡単にでられないようになっています。幕府は、その途中の 戸部村に神奈川奉行所を置き、野毛に農兵隊などを配置しました。大岡川の橋を渡り、奉行所の傍の切り通しを抜けてやっと東海道にでることができるのです。

そして、幕府はこの関内の東半分を外国人の居留地とし、西半分を日本人の町としました。波止場と港崎(みよざき)とい う遊郭を結ぶ線が境界になっています。現在の日本大通りと呼ばれる道です。東側の日本人町には、江戸の商人の出店を出させ、両方の境界に近いところに運上 所という現在の税関にあたる役所を設けて、貿易を行わせました。

当時の貿易で、横浜からの輸出の中心は生糸と茶でした。3代広重が描いた「横浜海岸通之図」があります。この港の絵か らは、生糸が大量に集められ、積み出されているのがわかります。生糸は、蚕が作ったまゆからとれる糸です。この生糸を使って絹織物が作られます。幕末には 生糸、明治に入ると蚕の卵である蚕種(さんしゅ)もヨーロッパへ輸出されました。幕末は、ヨーロッパで微粒子病という蚕の病気が流行って生糸がとれなく なっていたので、横浜での輸出品の65パーセントをこの生糸が占めたのです。

生糸は、現在の関東諸県、山梨や長野の山添いの地域が主な産地でした。生糸が輸出の中心となったことで、各地から生糸 を集める生糸商人、売込商が活躍しています。大商人として有名なのは、横浜の三渓園(別荘)を持っていた「亀屋」の原善三郎、群馬出身の「野沢屋」の茂木 惣兵衛です。この銅版画は弁天通3丁目の生糸売込問屋の亀屋の図です。野毛山にあった亀谷の別荘も銅版画となっています。資産家を列挙した大日本長者番付 にも原善三郎の名前が見られます。原は多くの貿易商人が破産していくなかで、最後まで生き残った数少ない豪商でした。

それまで鎖国をしていた幕府は、条約の影響ができるだけ国内に及ばないようにしました。欧米の強い圧力の中で通商条約 を結ばなければならなかった幕府は、横浜の造成を急ぎました。既成事実を重ねることで、開港場を神奈川から横浜にすりかえていったのです。しかし、そのこ とは諸外国が条約をしっかり守らない幕府に不信感を募らせ、最大の貿易相手国であったイギリスが幕府を見限る結果となります。幕府は、輸出品についても、 五品江戸廻令を定め、生糸などが江戸の市場を通らないで横浜に直送されるのを防ごうとし、また朝廷を中心に壤夷の運動が強まると、条約を無視した横浜鎖港 なども行おうとしました。このような条約の骨抜き、貿易の制限は、最終的にイギリスが討幕派の薩摩や長州を支援し、封建制度にかわる新しい日本の出現に期 待する結果となっていきます。

2、神奈川県の成立

条約で開港場に定められた神奈川が横浜にすりかえられ、それが貿易地となったことを述べましたが、それでは明 治になってからの神奈川県はどのようにしてできたのでしょうか。現在、東京の多摩地域が、明治の前半期の26年まで神奈川県であったことはあまり知られて いません。八王子や立川・調布は、いずれも明治26年まで神奈川県でした。なぜ、多摩地域が神奈川県だったのでしょうか。

幕末の開港時代に外国側が作成した地図を見るとそのヒントがあります。この地図は外国人が便利なように英語で書かれて いて、横浜の外国人が良く出かける場所が記入されています。地図の中には太い赤い線が引かれてあります。この線の範囲の内側が遊歩区域です。遊歩区域は、 許可を得れば外国人が出かけてよい範囲です。出島のような横浜では、健康のための遠出や観光、あるいは貿易のために外国人が出かけることを認めており、そ れは条約で横浜からだいたい10里四方の範囲とされました。10里といっても解釈がむずかしくて、コンパスのように10里で半円形を描いて決めるのか、道 なりに歩いてきめるのか問題になります。そこで、わかりやすく川を境界にしました。条約が結ばれた当初は北は六郷川、多摩川で、それと西側は酒匂川でした が、これは後に箱根の温泉を流れる早川にかわりました。

また、「神奈川県高札」は、外国人遊歩区域と内地との境界に建てられたものです。右側に縦書きで、「掟、是ヨリ北外国人遊歩規定外ニ付、通行許可ヲ得シ者ノ外、越ユルヲ許サス」と書いてあります。そして、左側の上段には英語で、下段にはフランス語で書かれています。

もっとも、この遊歩区域内については、外国人はかなり自由に行動しています。イギリス人の外交官のアーネスト・サトウ は、府中の大国魂神社や高尾山に出かけています。サトウは、岩波文庫に入っている『一外交官の見た明治維新』という回想録を残したことで有名ですが、文久 2年(1862)に来日し、日本語が良く出来、討幕派の西郷隆盛のような志士たちとも近い関係にありました。彼が書いた英字新聞の論説は、「英国策論」と して、討幕運動に大きな影響を与えています。通訳生として来日し、最後は駐日公使にまでなります。サトウは、日本各地を調査・見分し、和書などにも関心を もって買い集めました。大国魂神社をめざしたサトウは、神社のある府中が横浜からは多摩川を渡りますので、多摩川以南という遊歩区域の外側ですが、サトウ は強引に府中に入ってしまいます。多摩川の船頭の制止を振り切って川を渡り、神社の境内に入ってしまいました。

外国人は、この遊歩区域を貿易の商売に利用しました。それは、八王子まで欧米人あるいはその商人の番頭であった中国人 がやってきて、生糸の品定めや買い付けをしていることからわかります。幕末の最大の輸出品は生糸で、生糸の産地が群馬や埼玉の山間地帯、あるいは山梨や長 野の地域だったからです。それらの地域の生糸は八王子を経由して横浜に持ち出されていました。八王子は多摩川の南側に当たり、多摩川と酒匂川にそった外国 人の出かけることのできる遊歩区域の内側です。八王子は、外国人が出かけられる遊歩区域のもっとも奥の町だったのです。

遊歩区域内で生糸の輸出で栄え、外国人がやって来たことを裏付けるのが、八王子市の鑓水にある絹の道資料館です。この 鑓水は中央大学に近い場所で、橋本に向かうバスの途中で「絹の道資料館前」というバス停で下車します。鑓水にはその村の名主で、生糸を扱って一財産を築い た商人の八木下要右衛門がいます。鑓水には横浜から外国人がやってきました。資料館はその商人の屋敷跡を発掘調査し、その跡地に建てられています。外国人 の宿泊に適した造りの建物もありました。その建物は、現在は残されていないのですが、らせん階段のある2階建ての洋風の建物で、異人館と称されていたよう です。

当時の鑓水の写真は、イタリア生まれのイギリス人写真家フェリックス・ベアトが撮影したものです。ベアトは文久3年(1863)春に来日し、日本各地の写真を撮りました。ベアトの写真は、銅版画とされてイラステッド・ロンドンニュースなどの紙面を飾りました。

生糸は、山梨・長野や関東各地から八王子に集まりましたので、鑓水商人はその仲買いに活躍しました。展示されている資 料は、鑓水商人が共同出荷方式をとって横浜の生糸貿易に参加したことを示しています。この「浜出し生糸控帳」(「生糸浜出し堤糸島田目方控帳」)は、鑓水 の商人大塚五郎吉が、横浜の生糸貿易商の原善三郎と商売を行っていたことを示す記録です。「亀屋善三郎書簡」は、亀谷と八木下要右衛門や忠右衛門との生糸 の売買に関する書簡です。原の店の屋号が亀屋でしたから、原と鑓水商人の親密な関係をうかがわせます。また、この「英語ノート」は、鑓水の商人でのちに明 治期の戸長になる大塚忠五郎のものです。多摩はキリスト教や自由民権運動が活発だったことで知られていますが、英語のノートは、はやくからの外国との接触 をうかがわせる興味深い資料です。

資料館の側には八王子市の史跡でもある絹の道、日本版のシルクロードが残されています。横浜に向かう絹の道は、丸い石 が敷かれ、馬や人が通行しやすく維持されていました。今は八王子市の史跡として一部分が残されています。絹の道という碑がありますが、この上には、道了堂 というお堂がありました。生糸で財をなした八木下要右衛門や大塚徳佐右衛門らが建てたものです。火事で焼けて現在はありませんが、鑓水商人が建てた石碑や 灯篭が当時をうかがわせます。山梨・長野や関東各地から横浜に向かう絹の道は、現在は、八王子と高崎を結ぶ八高線、山梨・長野を結ぶ中央線が八王子に集ま り、そこから神奈川まで横浜線が開通している路線と重なります。日本のシルクロードーが鉄道の発達で馬から汽車にかわって維持、拡大されていったのです。

ところで、このような遊歩区域は、さまざまな問題をかかえていました。安政の通商条約は、欧米の圧力を前にして結んだ 不平等条約でもあり、中学や高等学校の教科書でもそのことが強調されています。不平等条約の具体例は、日本に関税自主権がないことと、領事裁判という治外 法権を認めたことです。とくに、外国人の犯罪を領事が裁判し、日本側が裁けないというのは、日本側はもとより遊歩区域内に住む人々にとって大変な問題でし た。外国人が乗る馬に子供が蹴飛ばされたり、猪狩や兎狩りで間違って人間が撃ち殺されても、外国人の言い分が採用されて泣き寝入りになることが数多くあり ました。貿易のトラブルも、裁判になると、日本側に不利なことはいうまでもありません。

このような条約上の問題を解決する方策の一つが、遊歩区域内を一つの区域にまとめて、行政的に管理することでした。裁 判、司法上の不利を、裁判にならないように行政でカバーする方策です。たとえば、登戸や溝口には外国人専用の旅館を用意し、食事や家具も準備してそこに外 国人を宿泊させます。そうすると外国人の通行するルートもはっきりして、事前の警備がしやすくなります。子供が馬に蹴飛ばされたり、猪とまちがって殺され るということも、予防しやすくなります。外国人相手の店や、商人が定まってくれば、トラブルも減ってきます。遊歩区域をひとつの行政区域内としてしまえ ば、県の対応もスムーズにできます。そして神奈川県知事が外交官を兼ねさせました。地方官が外務省の役人でもあれば、外国人問題にもスムーズに対処できま す。

そのことは、明治政府のもとで、府県が形成される過程で具体的になります。明治2年に出来た神奈川県は、東京府との境 を決める際に、横浜から10里四方を神奈川県とするように新政府にもとめています。これに対して、新政府は神奈川県の主張を認めました。10里四方は多摩 川以南がその範囲内でしたが、多摩地域もまとめて神奈川県域に組み入れています。外国人とのさまざまな問題を考慮した結果です。このようなわけで、現在の 東京の多摩地域は、明治26年まで神奈川県だったのです。

3、不平等条約と明治日本

領事裁判という不平等条約に対抗するために、遊歩区域をひとつの県域とせざるえなかったことはすでにのべまし たが、その県の名前が神奈川県となったのも、条約と無関係なわけではありません。幕府は開港場を神奈川と条約で認めておきながら、実際にはその対岸の横浜 を開き、イギリスをはじめとする諸外国から不信を買いました。古くからの重要な港町の兵庫を開くと条約に定めておきながら、実際に開いた開港場はその隣の 神戸でした。幕府としては、なんとか開港のダメージを少なくしたいためにとった苦肉の策でしたが、そのことが諸外国の幕府批判となり、幕府は最後に薩摩・ 長州にとってかわられました。

幕府を倒した新政府は、発足後に開国和親を対外政策に掲げます。イギリスをはじめとする列強の支持がなければ、最新の 武器を購入することもできません。江戸開城後も会津藩をはじめとする東北諸藩、さらには箱館に立てこもっている榎本武揚らの旧幕府軍を打ち破るためにも、 列国の支持を取り付けることが必要でした。列国の要求する条約を守るとすれば、横浜は神奈川でなければいけません。神戸は兵庫であったはずです。

旧幕府領を接収した新政府は、神奈川と兵庫をはじめは府、後に県にしました。いずれも明治元年です。条約にあわせると すれば、遊歩区域に沿った範囲を一つの県域にするとともに、県の名称を神奈川とし、横浜が条約に定められた神奈川の一部とすれば良いわけです。神戸を含む 県域を兵庫県とすれば、条約にあったかたちになります。少しでも条約とつじつまをあわせようとした苦肉の策です。このようにして、東海道の宿場名で開港場 でもあった神奈川が県の名前になったのでした。

最後に不平等条約のことを考えると、条約の不利を行政区域や県名でカバーしても、本来の不平等条約がなくなり、国家と しての威信、権利が回復したわけではありません。領事裁判をなくして裁判権を日本側に取り戻すためには、外国人を裁けるような法律や裁判所などを作り、そ の上で条約を改正しなくてはなりません。そのためには、憲法をつくる必要があり、民法や刑法、刑事訴訟法なども不可欠です。外国側も納得できる法律を作る ことで、裁判権をとりもどすことが可能となります。

裁判所をつくり、そのための人材を養成することは大変な課題でした。いくら法律を整備しても、欧米の法律に詳しい裁判 官や弁護士・検事がいなければ、日本側が裁判をすることはできません。明治10年にできた東京大学の法学部の卒業生は、毎年十数人でした。お雇い外国人教 師のもとで学び、本格的な近代法の知識を修得した卒業生の育成には、時間がかかります。その十数人の卒業生も、大半が政府の官僚となるのですから、これで は裁判官や弁護士は、いつまでたっても必要な数がそろいません。中央大学の前身の英吉利法律学校が明治18年(1885)に創設されたのは、このような近 代国家をめざす日本の国家的課題を背景にしていました。明治10年代には、専修大学の前身の専修学校や明治大学の前身の明治法律学校、法政大学の前身の東 京法学校・和仏法律学校が設立されています。

中央大学の前身の英吉利法律学校は、東京大学を卒業してさらにアメリカやイギリスで法曹の資格を取得した増島六一郎や 穂積陳重らが創設者です。増島や穂積らは、日本語でイギリス法律を教授し、近代法を学んだ卒業生を数多く育てようとしました。十数人程度の卒業生しか出し ていない東京大学の法学部だけでは人材がたりませんので、日本語でイギリス法律を教授し、さらにイギリスで取得した法曹の資格をもとに、実地応用を旨とし た法学生の養成に全力をあげたのです。

裁判官や弁護士を育てなければ、近代国家として、裁判権を列強からとりもどすことはできません。明治政府は明治22年 (1889)2月、大日本帝国憲法を発布します。伊藤博文がベルリン大学のグナイストやウイーン大学のシュタインに学び、帰国後にドイツ人顧問のロエスレ ルや井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らの協力を得て君主権の強い欽定憲法を制定したことは良く知られています。その後、刑法、治罪法、民法、商法などを制 定してゆきました。そして明治27年(1894)には、第2次伊藤内閣のもとで、陸奥宗光外務大臣が領事裁判権の撤廃と関税率の引き上げなどを明記した日 英通商航海条約の調印に成功します。明治44年には小村寿太郎外務大臣のもとで、関税自主権の回復も達成します。幕末の不平等条約の克服と近代国家の形成 を目的とした過程で、法制度の整備とあわせて、裁判官や弁護士などの法曹の養成が課題であったことを忘れることはできません。その法学教育が急務となるな かで中央大学の前身の英吉利法律学校の創設があり、同校などでの法学生の育成が、不平等条約の克服、明治日本の形成に大きく関係したのです。