• 中央大学で学びたい方
  • 在学生の方
  • 保護者の方
  • 卒業生の方
  • 一般・地域の方
  • 企業・研究者の方

教養番組「知の回廊」
60 「志賀直哉文学散歩」

中央大学 文学部 渡部 芳紀

志賀直哉文学散歩をお届けする。 「解釈と鑑賞」昭和六十二年一月号の「志賀直哉文学散歩」のうち主たるものを取り上げ、少し追加した。我孫子の白樺美術館には大変お世話になった。記して感謝したい。

宮城県 石巻

明治十六(一八八三)年二月二十日、現石巻市住吉町に、父直温(なおはる)(三十一歳)、母銀(二十一歳)の次男として生まれる。当時父は第一銀行石巻支店勤務であった。明治十八年、父直温が第一銀行を辞任し、ともに石巻を去り、上京する。後年(昭和十六年五月二十八日)娘たちと訪れ、〈住吉町の昔の家探して見たが跡かたもな〉(妻康子宛書簡)いと書き送り、〈日和山といふ山に登って海を眺め名物ゴマ餅といふのを食って帰って来た〉と続けている。 金華山 昭和十六年五月二十九日、石巻から足を延ばし、〈大変いい天気で金華山行は面白かつた、山の頂まで登って相当疲れた〉(5・29付、康子宛書簡)と記している。

群馬県 赤城山

明治三十九年四月末頃、武者小路実篤とともに赤城山に登っている。大正四年五月、新婚生活を送っていた京都を引きあげ、一時鎌倉に移った後、赤城山大洞(だいどう)にやって来る。妻康子が神経衰弱気味で静かな所を欲したらしい。〈五月十二日だった。乗物がないので前橋から馬を雇って、それに荷物をつんで、荷の上に康子を乗せて行った。〉(「稲村雑談」)初め猪谷旅館に逗留し、六月、宿の主人猪谷六合雄(くにお)(オリンピック選手千春の父)に依頼して山小屋を作り移り住む。九月二十九日、我孫子に移転するまでの三か月ほどをこの地に過ごしている。
「焚火」は、山小屋を建てている際中が素材になっている。「赤城山にて或日」は、六月十三日から十四日にかけ、近くの鈴ケ岳に登山した体験を写した作品である。
前橋からバスか自動車で有料道路を登ると、赤城山の中心大沼(おの)の大洞(だいどう)に至る。まずは、小鳥島の赤城神社に参詣しよう。以前は大沼のほとり大洞にあったのだが、昭和四十五年現在の地に移されている。小鳥島は、「焚火」の主要な舞台の一つ。昭和二十四年八月のキティ台風の際の崖崩れで陸続きになった。大洞に近い側に朱塗りの橋がかけられている。橋を渡って小道を行くと、神社に着く少し手前の右側、道の脇に直哉文学碑がたっている。〈舟に乗った蕨取りの焚火はもう消えかかつて居た。舟は小鳥島を廻つて、神社の森の方へ静かに滑つて行つた。梟の声が段々遠くなつた。〉と「焚火」の一節が彫られている。昭和四十五年十一月に立てられたもの。
湖畔に戻り大洞の中心に出よう。売店群の前の広場の湖に向かって左手に小さな鳥居がある。それを入って行くと、小さな石の橋があり、その先に、もとの赤城神社の跡がある。まわりには杉の古木も並び立っている。直哉の住んだ頃の雰囲気が残されている。直哉の山小屋もこの近くにあった。境内を抜けて行くと、一段上った道のほとりに立派な石の鳥居がある。これがもともとの赤城神社の正面だ。鳥居の脇に、石柱が立ち、〈大同元年社殿造営〉〈昭和四十五年七月二十一日小鳥島へ奉遷ス〉と彫り込んである。鳥居の前の自動車道を横切り、まっすぐ登って行くと、広い自動車道に出る。左へ曲がって百メートルも行くと右側に猪谷旅館がある。六合雄氏が開いたもの。直哉夫妻も初めここに逗留し、山小屋ができてそちらに移った。猪谷旅館から前橋の方へ少し戻ったところからリフトとロープウェイを乗り継いで地蔵岳に登ることができる。この地蔵岳のふもとはゆるやかな斜面になっている。「馬と木賊」の舞台である。〈地蔵といふ木のない円い山〉〈裾は広い草原になってゐて、放牧の馬や牛が沢山遊んでゐる〉(「馬と木賊」)と描かれている。
ロープウェイで地蔵岳に登ろう。一六七四メートルの山頂からは大沼が眼下に見下ろされ、小鳥島も美しい姿を横たえている。大沼のうしろの一番高い山が一八二八メートルの黒檜山だ。〈昨日(きのう)は鳥居(とりゐ)峠から黒檜山の方へ大きな虹(にじ)が出てなお美しかった〉(「焚火」)と描かれている山で、直哉は登山もしている。大沼から右手にゆるい傾斜が続き、峠に達する。それが鳥居峠で、大沼と鳥居峠の間にある細長い沼が覚満淵である。「焚火」には、Kさんが月明りの雪の鳥居峠を越え、覚満淵のところで迎えに来た人々と出会う場面が描かれている。鳥居峠の左手の小山の右にある小さな沼は小沼である。天気の良い日には、その向うに関東平野が眺められる。
ロープウェイを下って下に降り、道を右へ辿って行けば、覚満淵の近くを通り鳥居峠に出られる。峠からは覚満淵が眼下に眺められる。覚満洲にはまわりに遊歩道が作られているので時間がある時は歩いてみるのもよい。

千葉県 我孫子

大正四年九月二十九日、弁天山(東葛飾郡我孫子町雁明(がんあけ)一九七五~六番地 現・我孫子市緑二一七)に家を買って移る。柳宗悦のすすめによる。間もなく三部屋建増しをする。大正十二年三月二日、我孫子を引き上げ上京し、さらに京都へ向かってそこに住む。七年半、直哉三十二歳から四十歳までの生活がそこにある。大正五年から七年にかけては武者小路実篤も我孫子に住み、様々な影響を受ける。「城の崎にて」「好人物の夫婦」「和解」「焚火」「真鶴」などを書き、「暗夜行路」を書き始めた時期で直哉が最も油がのっていた時とも言えよう。この間、長女慧(さと)子、長男直康の幼い死なども味わっている。それらは「和解」「暗夜行路」にも反映している。「雪の日」「雪の遠足」「十一月三日午後の事」など我孫子を舞台とした作品も多い。旧居跡は「志賀直哉旧邸跡緑雁明緑地」として市が買いとって公園になっている。国鉄我孫子駅を出て、まっすぐ南へ向かい、国道三五六号を突っ切って七、八百メートル行くと手賀沼の湖畔にある手賀沼公園にぶつかる。広い道が左にできているので左(東)へ曲がって行くと中央公民館前に出る。そこの交叉点かその次の小さな交叉点を左へ曲がり最初の小道を右へ曲がって道なりに二百メートルも行くと、左側こんもりと樹木の繁ったところに来る。ここが直哉旧邸公園だ。右側(南)はマンションになっている。旧邸跡は道より小高くなっており、今は、眼前にマンション、その南にも住宅が建っているが、以前は湿地から手賀沼へと続き見晴らしもよいところであった。路地には、建物の配置図や写真などが掲示されている。直哉当時からのものという池が山裾にあり、裏は小山の傾斜へと続いている。作品の舞台として一度訪れて見るのもいいだろう。直哉旧居跡より東へ五百メートルも行った市民会館内の図書室には直哉を含めて、我孫子ゆかりの人の史跡の本などもある。

東京都 青山墓地

昭和四十八年三月十七日、志賀家一族の墓所に葬られる。上司海雲の筆により「志賀直哉之墓」と彫られている。お墓に参りたい時は、青山墓地の北中央の口から入ると良い。右手に花屋があり、その先右側に案内板があり直哉墓と明示してある。案内板の前の道を左(東)へ曲がり、すぐ右(南)へ曲がり、左側にまず中島家の墓があり次に志賀家の墓がある。入口から一、二分と考えればよい。細長い墓所には、九基の墓石が並び直哉は左から九番目である。弟直三の墓がちょっと離れて十基目として立っている。左端は直温妻銀、二番目は直温妻浩、三番目は直温、以下直道妻留女子、直道、正斎妻幾、正斎、志賀家累世墓、そして志賀直哉之墓である。

静岡県 熱海

昭和二十三年一月十二日より昭和三十年五月二十六日まで稲村大洞台(おおほらだい)(現・熱海市伊豆山大洞台一一七四~四)に住む。その後も度々訪れ、直哉とは深い縁を持つところである。バス停大洞台のところから上に登る細道がある。急坂を左ヘカーブする形で登ると突き当たりが丁字路になっている。右へ曲がって少し左ヘカーブして登って行くと右側に最初に現れる低い石垣の入口を持った家が直哉の旧居である。現在は、明星大学伊豆山研修所になっている。「朝顔」に〈今住んでゐる熱海大洞台の住ひの裏山の中腹に小さい掘立小屋の書斎を建てた〉と記している書斎とその続きの居間は今も残されている。筆者は直哉の住んだ場所の大部分を訪れたが大洞台が最も美しいと思う。直哉は「朝顔」で〈母屋も景色はいいが、書斎は高いだけに視野が広く、西南の方角からいふと、天城山(あまぎさん)、大室山(おおむろやま)、小室山(こむろやま)、川奈(かはな)の鼻、それと重なって新島(にいじま)、川奈の鼻を一寸離れて利島(としま)、更に三宅島(みやけじま)までも見える事がある。(中略)正面には小さい初島(はつしま)、そのうしろに大島、左には真鶴(まなづる)の鼻、その彼方(むかう)に三浦半島の山々が眺められ、珍しい景色のいいところだ。私はこれまでも尾道、松江、我孫子あびこ、山科やましな、奈良といふ風に景色のいい所に住んで来たが、ここの景色はなかでも一番いいやうに思ふ〉と書いている。回りは、松、みかんほか様々の木々に囲まれ、小鳥が何十羽と群れ遊んでいた。いうまでもなく、「山鳩」や「目白と鵯と蝙蝠」「鴉の子」の舞台である。直哉は六十五歳から七十二歳までのひとときを過ごしたのだが、美しい光景と、新鮮な食べものと静かな生活を恵まれ本当に幸福な事であったろう。そうした生活も、高台ゆえに坂の登り降りが身にこたえるようになって、終焉の地渋谷常盤松に引っ越して行く。
(この項、小嶋良子氏に大変お世話になった。記して感謝いたしたい。)

長野県 上高地

昭和八年八月十日から十三日まで泊まる。〈穂高雪渓明神池など、此地実に美しく大いに驚嘆〉(8・12、舟木重雄宛書簡)と感動している。
「旅」では〈感動した山水として直ぐ憶ひ浮ぶのは上高地の田代池の景色である。これは自然に造られた庭と云ふ意味で、天下無雙と云ふ気がして居る。〉と言っている。

三重県 菰野(湯の山温泉)

昭和八年七月三日、四日、亀山から〈線路に添うて流れる幅の広い川は親しみ易い感じがした〉という鈴鹿川を見て訪れ湯の山温泉寿亭に泊まる。〈低い土手を回した屋敷跡が、何となく様子が変つてゐる〉菰野城址を見、湯の山温泉寿亭では〈隣りのない部屋を望み、別館といふ方の小さな座敷に通されたが、落ちついて書きものをするにはよささうな部屋だつた〉建物は現在の本館の四階非常口から出た左手に残されている。宿ではオオルリを見て〈自分が野生で見た最も美しい小鳥〉(「菰野」)と感動している。この時の体験が「菰野」にまとめられている。

京都府 京都

京都は若い頃からたびたび訪れている。住んだところだけ次にまとめておく。
上京区南禅寺町北の坊一 大正三年九月中旬、松江より移り住む。十二月二十日、勘解曲小路康(さだ)子と結婚、円山公園内左阿弥で友人らに披露する。大正四年一月には、京都一条御前通西五丁衣笠園内に移り、五月まで住む。その後、赤城、我孫子と住み、大正十二年三月八日、再び京に来、上京区粟田口三条坊四二に住む。同年十月二十六日、宇治郡山科村(現・東山区山科竹鼻立原町)大字竹鼻小字立原二十六に転居、大正十四年四月七日、奈良に移るまで住む。
以後も何回も訪れている。従って直哉の作品にもしばしば登場する。「暗夜行路」の後篇の主要な舞台でもある。

奈良県 奈良

直哉と奈良の関わりは深い。ここでは、旅人としての訪れは省略し、居住地のみ記す。
幸町(現・下幸町)。大正十四年四月七日、京都より移転。
上高畑(現・高畑大道通)一二三七 二。昭和四年四月、家を新築して幸町から移る。昭和十三年四月上京するまでここに住む。
都合十三年間、直哉四十二歳から五十五歳までの生活が奈良で過ごされたのであった。この間、「山形」「山科の記憶」「邦子」「豊年虫」「鳥取」「日曜日」「菰野」「颱風」「赤西蠣太」が書かれ、「暗夜行路」が完結されている。直哉の最も充実した一時期がこの地で過ごされていることになる。従って先にあげた作品を初め、多くの作品の舞台ともなっている。奈良を訪れたら必ず上高畑の旧居を訪れてみたい。東大寺の前の道を、奈良公園を抜けて真っすぐ南へ進み、右に鷺池を見て道が下がり再び上り始めゆるくカーブしたところの左側に破石町の公営駐車場がある。(車で訪れた場合はここに入れるとよい)。駐車場の北側に東へ入る道があるのでそこを曲がって東へ進み五分も行くと右側に直哉旧居がある。現在奈良文化女子短期大学のセミナーハウスになっていて見学ができる。見学料二百円。水曜日が定休日なので注意したい。敷地四三五坪(一四三七平方メートル)建坪一三四坪の豪華な建物で、茶室やサンルームもそなわっている。二階からは若草山が見え、奈良公園の木々も見える。家の北側は家一軒をへだててすぐ飛火野奈良公園に接している。いかに環境がいいかわかろう。東南に五分も行くと新薬師寺があり、さらに東南に五分も行った山裾には「日曜日」に登場する白毫寺もある。そのあたりは直哉奈良・幸町の家跡の散歩のコースであった。幸町の家の跡を訪れたければ、駐車場のところまで戻り、もとの道をさらに南へ百五十メートルも行き、第二地方合同庁舎の前、山脇薬局と測量事務所の間の細道へと右(西)へ曲がり、百メートルも行った左側(天理教教会を過ぎて少し行った左手前角へ突き当たりの超願寺の方から来れば最初の右(南)への細道の南東の角)が跡地に当たる。何の風情も無いところだが場所だけは確かめられる。奈良の名所旧跡を見ることはそれぞれ直哉文学散歩と重なる。それほどゆかりの深い、直哉の愛した奈良であったが、男の子を育てるには奈良はむかないと東京へ出て行く。直哉の男性観が表れていて面白い。(直哉旧居の項、セミナーハウスの村田平氏に大変お世話になった。記して感謝いたしたい。村田氏には『志賀直哉と奈良ー暮しと思想ー』豊住書店、昭和57・2、一、二〇〇円の著書がある。)

兵庫県 城崎温泉

大正二年十月十八日、東京で電車にはねられた後養生(あとようじょう)に赴き、三木屋に十一月七日まで滞在。その時の体験が「城の崎にて」に結晶している。「暗夜行路」の中では大山へ行く途中、城崎により〈城崎では彼は三木屋(みきや)といふのに宿った。悼で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼を楽しませた。高瀬川(たかせがわ)のやうな浅い流れが町の真中を貫いてゐる。その両側に細い千本格子のはまつた、二階三階の湯宿(ゆやど)が軒を並べ、眺めは寧ろ曲輪(くるわ)の趣きに近かった。又温泉場としては珍らしく清潔な感じも彼を喜ばした。〉と描いている。
ここでは、直哉を中心に城崎ゆかりの他の文学者にも触れながら城崎を歩いてみよう。
JR城崎駅は、小さいながらこざっぱりした駅だ。駅前に降り立ち、右手前を見ると、城崎温泉の文学散歩のコースがレリーフになっている。そんなところにも表れているように、多くの文学者が訪れている温泉町である。そのレリーフの右脇に、島崎藤村の碑がたっている。藤村の「山陰土産」より〈大阪より城崎へ〉そして〈朝曇りのした空もまだすゞしいうちに大阪の/宿を発(た)つたのは、七月の八日であった。〉とその冒頭の一文が彫られている。藤村の原稿の筆跡を使ったもので、旧字体のために少々読みとりにくい。昭和五十六年十一月三日文化の日に、同年八月二十四日城の崎町で島崎藤村研究会全国大会が行なわれたことを記念して建てられたもの。藤村が訪れたのは、昭和二年七月、北但大震災の翌年で、震災後の復興に努める町の様子が写しとられている。
駅前の広い通りを真っすぐに進み二三百メートル行った最初の信号のある交叉点が地蔵湯橋である。城崎の東を流れる円山川にそそぐ大谿谷(おおたに)川にかかった橋だ。この地蔵橋を渡った右手に、地蔵湯とさとの湯とがある。城崎温泉は、外湯が有名で、七つの外湯めぐりをするのが湯客の楽しみでもある。そのうちの二つがここにある。地蔵湯の前には白鳥省吾の碑もたっている。昭和八年来遊のゆかりによるもの。左へ曲って大谿川に沿って上流へ進んで行く。川の両岸に道ができており、どちらを行ってもよい。右岸側の道の方がどちらかというと車の通行量が多いので、歩くのは左岸側がよいかもしれない。城崎独特の、両端が丸いカーブを描いた橋が随所に掛っているから、それを渡って両岸、それぞれを歩いてもよい。しだれ柳が川面に枝を垂れて美しい風情をかもし出している。透明な流れの上をあひるが何羽も泳いでいる。両岸は、六角形の碁石といった感じの玄武岩を積み重ねて美しい石垣となっている。志賀直哉の「城の崎にて」の第二のエピソード“ねずみ”の話は、このあたりが舞台だろうか。「一の湯」から川に沿って下って行った主人公は、〈橋だの岸だのに人が立って〉〈騒いでゐ〉るのを認める。ねずみが石垣へ這い上がろうとしている。子供たちが石を投げる。〈わきの洗い場の前でえさをあさってゐた二、三羽のあひるが、石が飛んでくるのでびっくりし、首をのばしてきょろきょろとした〉とその様子が描かれている。
ちょっと上流の左岸の道端には柳場がある。その前に六角形の碑があり、〈城の崎のいでゆのまち/の秋まひる青くして/散る柳はらはら〉と詩人富田砕花の短歌が彫られている。砕花は兵庫県の人。県の文化賞を受賞し、歌集『歌風土記・兵庫県』を出している。碑の歌は、その中の一首である。
その先には、王橋という大きな橋があり、右岸を走っていた道もここを渡って左岸側の道と合流し、温泉街の中心に入って行く。この橋の左岸側の道脇に、外湯で一番大きな一の湯がある。朝晩は湯客でにぎわう。入口前には城崎名物のリヤカーをひいたおばさんが出店を出し、かにや、魚貝類のみやげものを売っている。一の湯の入口の脇には、与謝野寛・晶子夫妻の夫婦歌碑がたっている。昭和五年五月、夫妻で城崎のゆとうやに遊んだゆかりによる。寛の「山陰遊草」より〈ひと夜のみ/ねて城の崎の湯の香にも/清くほのかに/染むこゝろかな〉と自筆で彫ってある。晶子のはやはり自筆で〈日没を/円山川に/見てもなほ/未明めきたり/城の崎くれば〉と刻されている。
夫妻の滞在したゆとうやは、王橋の東のたもと際、一の湯と向かい合うように建っている。旧主人西村六左衛門が方壼と号する俳人で、松瀬青々の弟子であった関係もあるのか、ほかにも、藤村、省吾、青々、吉井勇、有島武郎ら多くの文学者、また新島嚢といった知識人も逗留している。庭内には青々の句碑もある。
一の湯の先は、道の両側に温泉宿やみやげもの店が並ぶ城崎温泉の中心街である。右側に四所神社を見、役場を過ぎてゆくと、左側に旅館三木屋がある。大正二年十月十八日より十一月七日にかけ志賀直哉が逗留している。同年八月、山手線電車にはねられ負傷した後養生に来たものの、滞在中、「暗夜行路」の前篇の稿を書き継いでいる。この時の見聞をもとに、大正六年「城の崎にて」を書いている。その第一話の蜂の死の舞台は、この三木屋である。
さらに道を進むと、右側に御所の湯があり、橘千蔭の歌碑がたっている。その先の右側には西村屋旅館がある。武者小路実篤や、様々な知識人も宿泊している。西村屋のところを左へ入るとまんだら湯だが、今は道をまっすぐ進もう。
道は再び大谿川にぶつかり川に沿って右へ大きくカーブする。少し行くと温泉寺への入口になる。左へ橋を渡ると、すぐ左は、ロープウェイ乗り場である。駐車場があり、その右手、温泉寺の側に志賀直哉の碑がある。
碑面には〈……怪我をした、其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。……兎に角要心は肝用だからといはれて、それで来た。〉とまず、「城の崎にて」の冒頭が銘され、そのあと、〈彼方の、路へ差し出した桑の枝で、或一つの葉だけがヒラ/\ヒラ/\、同じリズムで動いてゐる。風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラ/\ヒラ/\と怪しく動くのが見えた。〉と同作品の第三のエピソードの一節が浮き彫りになっている。碑の左側にロープウェイの駅へ登る石段があるが、その前に温泉寺の山門と薬師堂を見ておこう。
直哉碑の右手の参道を進むと、すぐ温泉寺の山門である。宝鏡寺宮理豊内親王の筆という「末代山」の額が掲げられている。山門をくぐると正門には、本堂に至る石段がある。時間と体力のある人は、ここを登って本堂に至ってもよい。山門をくぐった左手には、薬師堂がある。その薬師堂の前、大きな銀杏の木の根方に有島武郎の碑がある。大正十二年四月三十日山陰の講演旅行の帰り立ち寄り、ゆとうやに三泊しているゆかりによる。碑面には、〈浜坂の/遠き/砂丘の/中にして/佗びしき/我を/見出/つるかな〉の一首が彫られている。副碑によれば、〈この歌は、大正十二年四月下旬、有島武郎が山陰講演旅行の帰途当地に泊まり、その時世話を受けた客室係に書き与えた。/温泉寺にも参詣し、龍照法印が指頭で六字の名号(南無阿弥陀仏)を書くことを聞きこれを求めた。その後間もなく愛人と自殺を遂げたがこの書はそれを暗示する彼の絶筆といってよいものであろう〉という。歌は鳥取砂丘で詠まれたものである。
ロープウェイの駅まで戻り、ロープウェイに乗る。ロープウェイには珍しい中間駅がある。ここで降りると温泉寺本堂の前である。手前の大師堂には千手観音、本堂には、十一面観音が安置されている。十一面観音は三十三年目毎に開帳の秘仏だが、毎年四月二十四日の開山忌に開扉される。今年(六十二年)はちょうど御開帳の時に当たり、常時拝観できる。本堂の先に、多宝塔があり、さらに先には、町立美術館がある。温泉寺に関わる仏像、仏画、古文書などが展示されている。多宝塔の石段近く、美術館への道の左側(山側)に小さな山口誓子の句碑がある。〈観音の/千手を/今年竹も/持つ〉と彫られている。
中間駅から再びロープウェイに乗って山上駅へ至る。あたりは小公園になっており、眼下には、大谿川に沿った城崎温泉の町並みが見える。さらにその先に、右手から左手へとゆったりと幅広く円山川が流れている。円山川は、その左先で海にそそいでいる。川口は山のかげで見えないが、かなたに海も望み見ることができる。公園内には、兼好法師の歌碑がある。〈花のさかり但馬の湯より帰る道にて雨にあいて〉と詞書をしるし、〈しほらしよ/山かけ衣春雨に/雫も花も/匂ふたもとは〉と彫られている。
ここから歩いて城崎温泉に下る道は、志賀直哉文学道路と名づけられている。石仏なども多いという。暇と体力がある人は、そこを行くのもよい。
ロープウェイを下り、大谿川に沿ってさらに上流へ歩いて行くと五〇〇メートルも行った右手に、直哉の作品の桑の木というのが立っている。先ほどの碑文の文章に相当する樹だ。流れは小川となってさらに上流に続いている。桑の木のところから水辺に下ってもよい。どこかの岩の上にイモリがやすんでいるかもしれない。
城崎の町に戻ろう。西村屋のところから右へ曲がり、まっすぐ行き、大谿川を渡るとつき当たりにあるのがまんだら湯である。入口の左手前に、球型の石の碑がある。吉井勇の歌〈曼陀羅の名さえかしこし/ありがたき仏の慈悲に/浴むをおもへば〉と彫られている 
大谿川のほとりに戻り、川の左岸に沿っている遊歩道を辿って下って行こう。このあたりより一の湯前の王橋までは桜並木になっている。花の頃は見事であろう。川の流れは、この辺ではゆるい。木の葉が浮いていたりする。左側には三木屋の日本的な土壁の塀が続く。中々味わいのあるところだ。さらに下ると、右岸に城崎町営の文芸館がある。小さな橋を渡って見学しよう。白壁の土蔵の一、二階を使って、城崎温泉に関わりのあった文学者の色紙や写真、書籍などが展示されている。いかに多くの文学者が訪れているかがわかる。受け付けでは、『城の崎文学読本』(伊藤俊三編著、城崎温泉観光協会発行)も購入できる。今まで紹介して来た以外にも、多くの文学者が紹介されている。開館は午前九時から午後四時まで、水曜日が休館日である。観覧料は大人一五〇円、学生、生徒一〇〇円である。
文芸館を出て、さらに下って行くと、道は橋を渡って右岸に渡り、ゆとうやの前に出る。
城崎の町めぐりには、観光協会発行の「七つの外湯めぐりー文学の散歩道=文学碑を訪ねてー」のパンフレットを使うとよい。旅館のフロントや、観光協会で無料でもらえる。
時間に余裕のある人は、円山川を遡って玄武洞を訪れたり、下って、日本海にのぞむ日和山公園に足を延ばすのもよいだろう。

鳥取県 大山寺

大正三年七月二十五、六日頃、松江に住んでいた直哉は大山寺を訪れ、塔頭寺院の一つ蓮浄院に十日間滞在し、八月初旬下山している。この間、大山にも中腹まで登山したらしい。「暗夜行路」で、謙作は、〈大山(だいせん)といふ淋しい駅で汽車を下り〉、はじめの半分(三里)を人力車で、残りの三里を歩いて大山寺にいたっている。今は、バスや車で一気に大山寺の門前町まで行ける。バスを降りると、まっすぐ参道が登っている。急な坂道の両側はみやげ物屋や旅館である。途中、大神山神社への参道との別れ道がある。急な階段をまっすぐ登れば大山寺、左の鳥居をくぐって行けば石畳の参道が大神山神社に続いている。まずは真すぐ大山寺本堂に参詣しよう。石段の上の広場に鐘撞堂や本堂がある。裏に抜ければ大神山神社に達する。参道をもどって、途中を左に折れれば、大山寺橋を渡る。白っぽい中位の石のごろごろとした河原の向うに大山がそびえている。橋を渡ると道はやや右ヘカーブして行く。途中、左手に上る細道のところに蓮浄院近道とある。ここを登っても良いし、もう少し進んで、金剛院の向こう側から左へ直角に曲がって登ってもよい。金剛院の上、道の左側に直哉がその離れに滞在した蓮浄院がある。精進料理を食べさせる看板が出ている。手入れが間にあわないのか、かなり荒廃していて、建物もそう長くは持たないのではないかと思われる。蓮浄院の上の方には、いくつもの廃寺の跡がある。昔はいかに栄えていたかをうかがわせるとともに、今の衰退をあらためて意識させられる。「暗夜行路」の謙作は〈離れに通された。それは書院造りの座敷、次の間、折れた玄関という、いずれも四畳半ばかりの家だつた〉と書かれている。蓮浄院の北西の角の建物がそれである。蓮浄院の脇は、大山の登山道になっている。階段状の登山道を登って少し行くと途中、小道と交叉する。左側に登山届ポストがある。さらに少し登ると右へ入る小道があり、五十メートルも行くと、堂々とした構えの阿弥陀堂に至る。〈永年(ながねん)、人と人との関係に疲れ切ってしまつた謙作にはここの生活はよかつた。彼はよく阿弥陀堂といふ三四町登つた森の中にある堂へ行つた〉と描かれている堂だ。建物としては大山寺本堂よりもこちらの方がずっと美しい。〈彼は天気がよければ大概二、三時間は阿弥陀堂の縁(えん)で暮らした〉と謙作も好きなところであった。読者もぜひ、ここまでは足を延ばしてほしい。阿弥陀堂からまっすぐ下へ下ることもできる。この参道から見上げた堂の姿も美しい。余力のある人は、登山道を登って大山登山に挑戦したい。上り三時間下り二時間の本格的登山なので必ず登山の服装で朝早くから登りたい。夜に登って山の上から、謙作の見た〈米子(よなご)の灯も見え、遠く夜見(よみ)が浜の突先(とっさき)にある境港(さかひみなと)の灯(ひ)も見えた。ある時間を置いて、時々強く光るのは美保(みほ)の関の燈台に違いなかった〉という絶景に触れるのも良かろう。ただ大山寺の旅館からもそれらは見られる。ただ夜明けの〈自分のゐるこの大山がはっきりと影を映してゐる〉のは山に登らないと見えない。山頂までの道は、岩がごろごろしているわけでもなく割合素直な道である。見晴しもよく快適な登山が味わえる。山頂から鷲が峰にかけては本格的な登山で一般には危険である。一メートルも無い刃物の背のような尾根道を歩いて行く。向こうから来る人とすれ違いもできず、ところどころできた節のようなところですれ違いをすることになる。切り落ちた両側の絶壁を小石がカーンカーンと落ちて行く。スリルもあり、登山が終われば感動も深いが一般には勧められない。下から見たなだらかな感じと違い、山頂より東側は、やせた、崩壊しつつある老年の山で、ポール紙を立てたような山という感じである。蓮浄院を見たら、車かバスで大山の山腹を西まわりに南へ回ると富士山のような形を味わい高原の雰囲気を楽しむことができる。

島根県 松江

大正三年六月、三十一歳の直哉は、松江を訪れる。初め末次本町の赤木館に入り、次に宍道湖畔東茶町七の十六に仮寓した後、四日後、内中原町六七に移る。松江城の西側、濠(ほり)に面した家で、亀田橋のすぐ南である。九月中旬には京都に移っている。三か月ほどの松江生活ではあったが、印象は深かったらしく後年振り返って〈兎に角健全にならなくてはいかぬ、といふので宍道湖(しんじこ)で毎日ボートを漕ぐ〉ボートを〈ヨットにしたてて宍道湖のセーリングだ。これを毎日やつた〉(「稲村雑談」)〈尾ノ道にゐた頃とは非常に心境が変つて(中略)、何所でノタレ死をしてもかまはないと云つたやうな、何だか一面では大変楽な気分になってゐた〉(同)と述べている。「濠端の住まひ」では、〈私はここでできるだけ簡素な暮しをした。人と人と人との交渉で疲れ切つた都会の生活から来ると、大変心が安まつた。虫と鳥と魚と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮しだつた〉と描いている。
松江城を中心に小散歩をしてみよう。松江城は「千鳥城」とも呼ばれる美しい城で、回りは緑が豊かである。城もよそにあるコンクリート造りなどではなく、木のすり切れた本物だ。地下の貯蔵庫が印象的。天主閣からは南に宍道湖が望める。城を見たら、城の南の松江郷土館興雲閣を見るとよい。明治三十六年に建てられた洋館で松江に関係する様々な展示がされている。これらを見たら道を北へ進み、次第に西へ進むと濠を越える。濠の外側を百メートルも北へ行くと信号機があり、その右向かいの角が小泉八雲記念館になっている。八雲の遺品や関係資料が展示されている。その東隣りには八雲旧居が公開されている。記念館、旧居のところで濠は回わり東西に広がっている。濠にそって武家屋敷が続く日本情緒たっぷりの道である。武家屋敷の一つが公開されているので見学したいもの。八雲記念館までもどって濠に沿って南へ歩いて行く。四、五百メートル行くと二つ目の橋亀田橋がある。橋のたもとは駐車場、その南に二階屋がある。ここが、直哉が住んだ家の跡地である。「濠端の住まひ」の冒頭に、〈町はずれの濠に臨んだささやかな家で、(中略)庭から石段ですぐ濠になつてゐる。対岸は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしてゐる。水は浅く、真菰(まこも)が生へ、寂(さ)びた工合、濠といふより古い池の趣があつた。鳰鳥(にほとり)が始終、真菰の間を鳴きながら往(ゆき)き来した〉と描かれているところだ。整備されていて真菰は見られず、鳰鳥(カイツブリ)も見られなかったが、アオ鷺が何羽もおり、木の枝も水の上に広がって当時をしのばせるには充分の雰囲気である。「稲村雑談」では、芥川龍之介も直哉と同じ家に逗留したように書いてある。芥川が松江に滞在したのは直哉の翌年大正四年八月五日から二十一日までである。芥川には「松江印象記」の一文がある。
市内には、他に見るべきところも多い。宍道湖のほとり松江市役所の南側の公園には、小泉八雲と生田春月の碑がある。湖畔を散策しながらそれらの碑も訪ねたい。湖の中には嫁が島も眺められる。この湖畔の東側を玉造温泉の入口湯町まで歩いたことが「濠端の住まひ」には書かれている。そちらに足を延ばすのもよいだろう。

広島県 尾道

大正元年十一月十日、尾道に着く。十五日、尾道市土堂町宝土寺上(現・東土堂町八の二三)の三軒長屋の東のはじの一軒に居を定め、大正二年十一月十五日、尾道を引き上げる。直哉二十九歳から三十歳にかけての一年間は重要な年であった。この間、「時任謙作」を書き続ける。尾道の体験は「暗夜行路」に反映している。〈東京とは全く異った生活が彼を楽しませた。彼は久し振りに落ちついた気分になって、計画の長い仕事に取りかかった〉(「暗夜行路」)と小説に書く。「稲村雑談」では、〈東京を離れてさういふ風に暮したのは初めてだったから相当長く住んだやうな気がした〉〈僕は意気地なしだから、何しろ淋しかった〉と言っている。直哉に深い印象を残した尾道を歩いてみよう。
尾道駅はすぐ海に面している。以前は魚市場があって、林芙美子の「放浪記」や「風琴と魚の町」の雰囲気が残っていたのだが今は無い。駅の裏から山に登って尾道城をへて、千光寺公園に抜けることもできるが、上りは楽をしよう。まずはともあれ見晴しのきく千光寺に上るにこしたことはない。駅前の道を東(左)へ線路に沿って一キロほど行くと、ロープウェイの駅がある。迷わずにこれに乗り山頂駅まで登ろう。あたりは千光寺公園となり整備されていて尾道の街並みと尾道水道、向島などが一望のもとだ。ロープウェイをおりて、公園の中を西へ二百メートルも行くと市立美術館がある。中に志賀直哉記念室があり、手紙や原稿などが展示されている。 ロープウェイの駅の脇からは下へ降りる「文学の小道」がある。その道を下って行くと徳富蘇峰、頼山陽、正岡子規初め二十数基の文学碑が木々のかげや小道の脇にたてられている。木々が切れて見晴しのよいところに自然石を使った志賀直哉の碑がある。「暗夜行路」の一節〈六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ゴーンとなるとすぐゴーンと反響が一つ、また一つ、また一つ、それが遠くから帰つて来る。そのころから、昼間は白い島の山と山との間にちよつと頭を見せてみる百貫島の燈台が光り出す。それはピカリと光つてまた消える。造船所の銅を熔かしたやうな火が水に映じ出す〉の部分が小林和作画伯の筆によって彫られている。そこから少し下ると林芙美子の碑がある。「放浪記」の一節〈海が見えた。海が見えた。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかゝると、煤けた小さい町の尾根が提灯のやうに拡がつて来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽かな落葉だ。緑色の海、向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしてみる。私は涙があふれてゐた〉と芙美子の恩師小林正雄の筆で彫られている。この碑は、尾道水道、尾道大橋を背景に実に構図がいい。さらに下ると千光寺に出る。鐘楼がある。〈鐘楼のところからはほとんど完全に市全体が眺められた。山と海とに挾まれた市はその細い幅とは不釣合に東西に延びてゐた。家並もぎつしりつまつて、すぐ下にはずんぐりとした烟突がたくさん立つてゐる〉(「暗夜行路」)と描かれているところだ。ここに限らず、その先の千光寺の本堂も見晴しがよいところ。充分に風景を味わいたい。千光寺前の掛茶屋からの景色を、「暗夜行路」では、〈前の島を越して遠く薄雪(うすゆき)を頂いた四国の山々が見られた。それから瀬戸内(せとうみ)のいまだ名を知らぬ大小の島々、そういう広い景色が、彼にはいかにも物珍らしく愉快だつた〉と描いている。千光寺を抜けて下って行くと、尾道文学館がある。志賀直哉旧居の道案内板が順次設けられていて、それに従って坂を下って行く。尾道は坂と階段の町だということを実感できる。途中、右(西)へ折れ、さらに右ななめ(北)へ少し登ると右上に志賢直哉が住んだ長屋に至る。以前は直哉との関わりを示す石柱があるだけだったが、今は長屋もきれいに整備され、見学しやすいようになっている。前にあった建物も無くなり広場(公園?)になっていて、見晴しも良くなった。〈謙作の寓居(ぐうきょ)は三軒の小さい棟割長屋の一番奥にあつた〉〈景色はいいところだつた。寝ころんでみていろいろな物が見えた。前の島に造船所がある。〈十時になると多度津(たどつ)通いの連絡船が汽笛をならしながら帰つて来る〉と、その住居からの景色を描写している。ここを見たら、坂を一気に下って国道も横切り海岸まで出よう。そこは公営の渡船場になっていて、向い島との間を常時渡船が行き来している。道の代用なので無料である。市民とともに渡船の雰囲気を味わい向島に渡ってみたい。船上からは、千光寺や〈光る珠(たま)〉をくり抜かれた大岩が見え、よく注意すれば直哉のいた長屋もそれと認められる。山の斜面にずっと家が建ち並ぶ尾道の特色がよくとらえられると思う。向島から再び船に乗り尾道にもどったら、国道をさらに一キロほど東へ行くと浄土寺にいたる。本堂や多宝塔は国宝である。軒にひらひらする赤白緑黄の幕が印象的である。浄土寺から北西へもどる感じで進み尾道東高を訪れてみたい。校門内側に林芙美子の碑がある。〈巷に来れば/憩あり/人間みな吾を/慰さめて/煩悩滅除を/歌ふなり/林芙美子〉と彫られている。芙美子の出身校のゆかりによる。なお、駅の上の尾道城には、芙美子関係の資料が展示されている。東高から西へ少し行くと西国寺である。長い石段、大きなわらじを味わいたい。