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教養番組「知の回廊」
31 「日本型ベンチャーと巧」

中央大学 商学部 馬場 政孝

はじめに
1.技術の「内包的深化」と「外延的発展」
2.半導体関連技術に見る技術の「内包的深化」
3.日本の伝統技術と「巧み」
4.アメリカ的生産様式と技術の「外延的発展」
5.日本型ベンチャーの可能性
結語

はじめに

ベンチャービジネスも昨今はかつての勢いを失っている。起業したベンチャー企業も景気動向とも絡んで倒産に追い込まれる例が増大している。 1990年代のアメリカ経済をぐんぐん引っ張っていったのはシリコンバレーを中心に起業したベンチャー企業群であったことは誰でも認めるところであるが、 日本ではベンチャービジネスがもてはやされるようになって以来、日本経済の前面にベンチャービジネスが躍り出たということはなかった。それはどうしてであ ろうか。何か根深い問題が根底にありはしないだろうか。この問題を考えなければならない時期に来ているのではないだろうか。
90年代の半ばにアメリカに滞在する機会を得て、アメリカの人々が持つアイデア創出の特異な能力に驚きを覚えていた筆者にとって、インター ネット関連で起業するような日本のベンチャーがいかにもひ弱に見えた。アメリカの後を追ってもあまり意味がない。日本には日本型ともいうべきベンチャー像 があってしかるべきだ、という思いにこの間ずっと取りつかれてきた。
アメリカのベンチャービジネスの華々しい成功を眼にして日本も遅れを取るなという焦燥感が日本におけるベンチャー推進の原動力であった点を否 定する人はいないであろう。当初、アメリカのベンチャービジネスを学び、アメリカ型のベンチャービジネスをフォローし、ITブームのなかで成功を収めたい くつかの企業も現れた。これがベンチャービジネスブームに拍車をかけて新聞紙上や雑誌、出版物のなかでベンチャーの活字が踊るようになった。しかし、アメ リカと日本では国情が大きく異なり、アメリカのベンチャーの成功に眼を奪われるあまり、それをフォローしても日本ではうまくゆかないのではないかと感じて いた人も多いはずである。かつて、日本は鉄鋼や造船、化学工業、機械、電力などのいわゆる「重厚長大」型分野の技術で先行していたアメリカを凌駕もしくは 並ぶ水準に達したことがある。コンピュータ、半導体、それらを応用した電器機器類などのハイテク技術についても同様の結果を得ている。したがって、ベン チャーについても先行するアメリカをフォローし、追いつき、やがて追い越すという楽観的な思いがあったとしても不思議ではない。しかし、アメリカのベン チャービジネスの中核にあったのは、コンピュータやネットワーキングに関するソフトウェアの分野であり、この領域はかつて一度たりとも他国の追随を許した ことのない、アメリカがもっとも得意とする領域であった。このような領域を彼らが得意とする機動的なやり方で、ネットワーク技術の確立期に広範囲に展開し 樹枝状の壮大な体系を創っていったのがアメリカのベンチャービジネスの特徴と見ることができる。こうした展開がアメリカのもっとも得意とするものであるこ とは、アメリカの技術史をひもといてみるとよく分かる。アメリカが得意とする領域、得意とするやり方に真正面から立ち向かってもうまくゆくはずはない。せ いぜいそれを補完し、見逃された小領域に食い込む程度に甘んじなければならない。それでは発展性がなく、展望も見えてこなくなってしまう。
したがって、日本が向かうべきは、同じベンチャーであっても日本が得意とする領域で、得意とするやり方でイノベーションを追求するという方向 である。一個人であっても、1つの国であっても得意というものを自覚し、それに基づいて物事を進めなければ一流にはなれない。本稿は、「日本型ベン チャー」がありうるとすればどういうものになるのかを考察した一試論である。

1.技術の「内包的深化」と「外延的発展」

日本とアメリカの技術発展の過程を調べてみると、それぞれが非常に対照的な特徴を持っていることに気づかされる。日本では個々の技術を縦方向に徹底的に掘 り下げ、もっとも精錬された姿に仕上げてゆくという傾向が顕著であるのに対し、アメリカでは横方向に関連する諸技術を開発・統合して大きなシステムを作り 上げてゆくという発達の仕方が顕著である。
日本では一般的に、「思慮」(フロネシス 実践知)(注1)に基づいて試行錯誤が繰り返され、あくなく追求される。つまり、ある製品を作るのに、高度の技能を持った者がどのような材料を使い、どの ような道具と技法と用いて使うのか、その最善の組み合わせとやり方が経験を通して徹底的に追及される。この過程が旧来から「巧み」を「究める」と表現され てきたものである。そして、個々の領域で、これ以上はないという究極の技術が成立してきた。このような傾向は、日本のものづくりにおける性癖とも言うべき もので、狭い領域に神経を張りつめて深く入って行くのは「道」の精神に通ずるものである。究極の技術というのは茶室的空間のようなものである。そこでは、 選び抜かれた小道具や茶材や季節の切り花がお互いに調和を保って用意され、亭主の立ち振る舞いと道具とが一体となって無駄のない精錬された過程が進行して 行く。ここで生み出されるのは具体的な「もの」ではないが、「究める」という点では日本のものづくりの世界とあい通じ合っている。
他方、アメリカにおいては、「科学的知」(エピステメ 論理知)と独創的アイデアに基づいて発明がなされ、個別技術の革新や近接技術の開発が展開される。これらは相互にシステムとして関係しあって社会の中に巨 大な技術体系がダイナミックに形成されて行くのである。こうした技術の担い手は、19世紀までは市井の市民達であったが20世紀になってからは大学教育を 受けた専門的技術者や科学者が中心となっている。
このような2つの対極的な傾向を端的に表現すれば、日本の場合、技術は「内包的深化」を遂げる方向を持ち、アメリカの場合「外延的発展」を志 向する。ということができる(注2)。「内包的深化」というのは、個々の技術を掘り下げて豊かにしてゆくのに対し、「外延的発展」では個々の技術が横に広 がって包括的になってゆくことを意味している。これを図で示すと図1のようになる。

図1

図中の「判断力的習熟」という用語は三枝博音の名著『技術の哲学』(岩波書店 1951年)に登場するもので「あれか、これか」の判断を繰り返しながら進める習熟を意味している。三枝は技術の範疇を、カントの3批判(純粋理性批判、 実践理性批判、判断力批判)の検討を通して「技術はたとえ知的能力に属するにしても、それ自身は人間の知性や理性の領域のなかにではなく、判断力の領域に 見出される(218項)として、「好く・好かぬ」の感情(Lust und Unlust)、描形力(Einbildungskraft)、あてはめ(Anwendung)の創造的能力などを内包している判断力 (Urteilskraft)に求めた。「判断力的習熟」とは、このような判断力的過程をくりかえして熟練に達することを意味している。手工業時代には、 この「判断力的過程の習熟性が生産の中枢を占めていた。その習熟性は習慣のように単にある行動の繰り返しの成熟したものではなくて、具体的仕方の選択と決 定とが細部までゆきわたっている判断力的習熟なのである」(297項)と述べている。
アメリカにおいてもこのような「判断力的習熟性」が見られないわけではない。これがなければそもそもアメリカ技術そのものが成り立ち得ない。 しかし、ここで重要なことは相対的な濃淡であって、アメリカの伝統のなかではこれがかなり希薄であり、日本の場合は濃厚であるという事実である。この差を わかりやすく表現すれば、ほとんど見るべきものがないアメリカ料理(?)と究極的に精錬された日本料理との対比が適切かもしれない。なぜならば、料理法と いうのは技術以上にストレートに「好く・好かぬ」の感情に支配され、「判断力的習熟性」に依存しているからである。せいぜいハンバーグや鳥のから揚げをつ くるだけのアメリカのコックにはできないものを、懐石料理をこなす日本の板前が難なくさばいてしまうということである。逆に、「科学的知」の日米の差は、 アメリカが日本を圧倒するノーベル賞受賞者数(自然科学系)の対比で大略示されよう。この差こそが日本とアメリカにおける技術発展の仕方の大きな違い (「内包的深化」と「外延的発展」)の原因となっていったものである。
ドイツもマイスター制のもとで狭い領域を深く掘り下げることによって「究める」タイプの技術発達が見られるが、日本とドイツを比較した場合、 深め方に違いが見られる。日本では、製品の持つべき必要な機能を最小限の原材料に担わせ、仕上がりの美しさを追求するのに対し、ドイツで原材料をたっぷり 使って機能性・実用性を強調し、製品の美しさは機能美として表現するという傾向が強くなる。日本では、漆器に見られるように軽くて精細、装飾美が際立った 製品づくりの方向が目指されるのに対し、ドイツでは、ゾーリンゲンの刃物に見られるように、堅牢にして耐久性に富み、手にずしりとくる重量感があって機能 美あふれるものづくりという性格が顕著である。日本で主要な素材として使われる木や竹、紙、漆などの製品はその中に「あいまい」を包み込み、それを具合良 く巧みに処理することに長けているが、ドイツでは素材としては銀、スズ、真鍮、ニッケル、鉄などの金属が主要で、製品においては一切の「あいまい」を許容 せず冷徹な合理性が貫かれている。作られたものの精緻さ、仕上がりの完成度の高さという点では共通しているといえよう。

2.半導体関連技術に見る技術の「内包的深化」

アメリカでベンチャービジネスが独創的なアイデアに基づくソフトウェアを中核としているのに対し、日本では画期的な新製品や製法は企業内に蓄積され深められた技術と新しいテーマ、アイデアが結びついて生まれたものが多い。
1980年代の半ばに日本は半導体生産額でアメリカを抜き、世界のナンバーワンの一に躍り出た。1987年には世界の半導体メーカー上位10 社のうち7 社は日本のメーカーであった。当時、半導体は鉄に代わる「産業の米」といわれ、情報革命と結びついた最先端の技術と見られていたから、全米電子工業界のロ バート・ノイス会長(インテルの創設者)は国をあげての半導体製造技術の開発を提言して米国初の研究組合であるセマテック(SEMATEC)を1987年 に立ち上げ自ら初代の総裁となった。日本の半導体製造技術の追撃が主なターゲットであったといわれている。この当時は、いったい何が起こったのか、何でそ うなったのか、アメリカサイドでは事態を良く飲み込めていなかったようである。ホームランでしか得点できない大リーグの強腕チームが、イチローがよくやる ようなバントヒットや機動的な走塁で引っかきまわされて、気がついてみれば大きな点差がついていたようなものである。野球というものはホームランの醍醐味 を味わうものと誰もが信じて疑わなかった中に、パワーではなく「技」を操って好成績を残す選手が突然現れたわけで、イチローはアメリカで拍手喝采を浴びた が日本技術のほうはそういうわけにはゆかなかった。全米にジャパンバッシングが吹き荒れ、広場に日本車や電化製品が集められてハンマーで叩き壊された。
回路をシリコンチップにつくりつけるのに写真技法を応用したプレナー法やリソグラフィーによる露光技術など、半導体製造の基本技術のほとんど はアメリカで開発されたものであった。基本技術に関する限り日本側の貢献はゼロに等しい。それにもかかわらず、生産量で日本がアメリカを上回ったのは、こ のような結果がもたらされる上で、多くの複雑なプロセスからなる半導体製造の個々の技術において、アメリカとは違った方向で、つまり「内包的深化」という 性格を持った開発が行われ、優れた成果が得られたということが決定的に重要であった。いくつかの例を見てみよう。

例1 ディスコ社によるダイシングマシンの開発(注3)

シリコンウェハに作られたLSIチップを1つ1つ切り離す機会であるダイシングマシンを開発したのは呉の小さな砥石メーカーであった。この機 械の技術的核心はダイヤモンドでつくられたカッターの部分である。粉末ダイヤモンド入りの原料粉末を型に入れてプレスし、高熱炉で焼き固めて厚さわずか5 ミクロンのリング状のカッターをつくりだす。人間の髪を縦方向に25等分できるほどの精密な切断能力を持っている。
ディスコ社の前身である第一製砥所は戦後、研削砥石の製造を手がけた。ベークライトに研磨材を混ぜてのばし、焼き固めて作られた研削砥石は、 当時としては大変薄い1ミリ厚の精密なもので、家庭用積算電力計の鉄磁石を切り出すのに使用された。ここから同社において精密砥石と「切断」に関する技術 的深化が始まった。万年筆のペン先を切るために140ミクロンのカッターの開発に成功し、集積回路が出現した頃にウェハ上のICを切り離すための70ミク ロンのカッター(ミクロンカット)を開発するに至って半導体との接点が生まれた。研磨剤をシリコンカーバイトからダイヤモンド粉末に代えられた「ミクロン カット」は試行錯誤の末に専用の自動ダイサー(DAD-2H)に装着されて1975年のセミコンウェストに出品された。セミコンウェストは、半導体製造装 置関連の最大の展示会である。ここで、刃がすぐに壊れてしまうアメリカ製のダイサーを尻目に好成績をおさめ、ディスコ社のダイサーは「良く切れて、壊れな い」という評価を定着させた。TI社(テキサス・インストゥルメント社)がこのダイサーを大量に導入したのをきっかけに世界中にシェアを拡大し、一時は 100%を占めるようになった。
ディスコ社の自動ダイサーの核はカッターであるが、これは研削砥石について知り尽くした同社の技術の蓄積が根底にある。原料となる粉末には、 ダイヤモンドのほかにも特殊な成分が混入されており、それは「秘中の秘」とされている。それはまさに「内包的深化」の過程で「判断力的」試行錯誤の結果突 き止められたものであり、その成果が技能者の高度な「技」と相俟ってディスコ社の技術的核をつくりだしていったと見ることができる。自動ダイサーの部品の 正確な平面を出す作業の最後の工程は、今でも熟練技能者の手作業による「きさげ」で行われるのである。

例2 山岡製作所による精密金型の製作(注4)

ウェアから切り出されたLSIチップはリードフレームに接着され、チップの端子とリードフレームの端子がボンダーによって金線で結ばれる。そ の全体を樹脂で封ずると樹脂からは金属の足が出る。それを曲げてLSIの完成となるのだが、この曲げは金型によって行われる。細い足の曲げには研磨やカッ トがつきもので、超微細な加工工程である。また、LSIを差し込み、電子機器の回路とLSIの回路とを連結させる基板には多くの隙間や穴があいているがそ れを作るパンチの金型にも高度の研削と研磨の技術が必要となる。このような高精度の金型を製造しているのが、京都府の山岡製作所である。
金型の微少な穴の内面の磨きや、曲面のサブミクロン(1ミクロン以下)の精度を要求される研磨は機械ではできず、手作業に依存しなければなら ない。かつては、硬い鋼などでつくられる金型の微細部分の研磨は、ダイヤモンド工具やダイヤモンド砥粒をつけたベークライト棒を用いて行われたが、研磨の 微細化に伴って硬いベークライト棒は金型を傷つけ使用することができなくなった。山岡製作所では、高度に熟練した磨き加工技師が木や竹の細棒を用い、超音 波で振動させて超精密研磨を可能にしていった。ここで使用される木の細棒は柳を材料にすると良しとされ、その研磨棒は最適の粒度のダイヤモンドパウダーと 良くなじみ、硬い鋼の金型を傷つけることなくサブミクロンの研磨を可能としたのである。柳という特殊な最良の材に行き当たったのは「判断力的」選択と決定 の結果であり、後述する漆工芸における蒔絵の技法の探求と通じ合うものといえよう。
山岡製作所は、半導体関連の超精密金型製作のいわゆるオンリーワン企業であり、金型の精密研磨における熟練の技の蓄積と半導体という新しいテーマを結び付けて、これを実現した。日本型のベンチャーの在り方を示す好例というべきだろう。

例3 ニコンによるステッパー開発

ニコンはベンチャー企業ではないが、そこで生み出されたステッパーは大企業における技術蓄積と新しいアイデアとの結合の好例と呼べるものである。
半導体の製造過程は複雑で多くのプロセスがあるが、その中でもっとも重要といえるのは回路のパターンをシリコンウェハ上に描く転写プロセスで あろう。ステッパーはこのプロセスの主要な装置で、LSIの回路パターンを1センンチメートル角のシリコンチップ1つ1つに縮小して焼き付けるものであ る。ステッパーが基礎としている技術は、プレナー法とステップ・アンド・リピートというアイデアである。プレナー法は集積回路をシリコン上につくり込むの に写真技術を応用したもので、1960年頃フェアチャイルドのジーン・ハーニーによって発明された。また、ステップ・アンド・リピートはアイデアとしては 以前からあったが、これを最初に実用化したのはGCA社(米国)で1977年のことである。これは、従来の露光方式が回路パターンをウェハ上の多数のチッ プに一度に転写していたのに対し、マスクの図形がレンズ群を通して縮小されて1つ1つのチップに転写され、これを繰り返すことによってウェハ全体のチップ に回路パターンを描くようにしたものである。集積度の増大に伴って解像度で問題が生ずるなど従来方式の限界が明らかになるなかで、この新しい方式は注目を 集めるようになった。ステッパーについての説明はここでは以上にとどめ、ニコンがこれを開発し、やがて、GCAを凌駕していった過程で重要な意味を持った 同社の技術について触れておきたい(注5)。
ニコンがステッパー開発で優位を持ち得たのは、光学系技術、超精密機械加工技術、制御・測定技術の基本的技術のすべてにわたって、すでに高いレベルの技術蓄積が同社内に存在したことである。
すでにカメラにおいてニコン・レンズの優秀さは世界に知られ、精度と光学性能はきわめて高く、解像力が優れていることと収差の少ないことで、 従来から最良と見られていたドイツ製品を凌駕したと評価されるほどであった。マイクロニッコールは高解像度レンズの世界的先駆となったものでありカメラに も応用されたが、1960年代始めに半導体製造用フォトマスクをつくるためのウルトラマイクロニッコールが開発され、超高解像度レンズで世界をリードする ことになった。レンズ1枚1枚の製造は深奥なる「巧み」の世界に属するもので、ガラス研磨を知り尽くした技能工が「秘中の秘」の研磨剤を微妙に調整して丁 寧に磨き上げる。「内包的深化」の好例であり、究極まで掘り下げられる。このウルトラマイクロニッコールがニコンのステッパーに応用され、優れたレンズを 社内調達できた同社がGCAに対して競争優位に立つことを可能にした一因となった。GCAはレンズをドイツのカール・ツァイス社に依存し、そのため市場の 要求に機敏に対応しきれなかったのである(注6)。
ステッパーでは性格な位置決めが決定的に重要な意味を持つ。1つのLSIの電子回路をつくるためには、回路のパターンの転写を10回以上も繰 り返さなければならず、その都度正確な位置決め(アライメント)ができないとシリコン中にトランジスターも生成しなければ素子間の正しい結線もされない。 多色刷りの浮世絵の印刷と同じ原理である。浮世絵では「見当」で合わせるが、LSIの合わせの精密さはそれどころではない。1メガビットDRAMでは20 万個以上のトランジスターやコンデンサーがおよそ1センチメートル角のLSIチップにつくられ、デザインルール(最小線幅)は1ミクロン程であるからアラ イメントの精度はその10分の1(0.1ミクロン)以下となる。この精度を実現するには、精密駆動メカニズムと精密計測技術が必要となる。
駆動メカニズムは具体的にはXYステージとしてつくられた。これは3層からなり、下の台上に刻み込まれたV字溝を中段のXステージが走り、X ステージ上のV字溝を上段のYステージが走るという構造である。2つV字溝は真直角であること、ステージは絶対平面であることが要求された。このようなも のは機械では作れず、機械加工の後、人間の手作業で仕上げなければならないものである。ニコンでは熟練工が手で砥石を持って研磨し、平面を鏡面のように研 ぎ出して要求された幾何学的平面を作り出すことに成功した(注7)。ここでも「巧み」がものを言っている。手作業による精密研磨という、「判断力的習熟」 を欠いていたならば、ニコンでは優秀な機械技術者が図面を描きそれに基づいて優秀な機械工が部品を機械加工できてもそれ以上には進めなかったわけで、XY ステージの完成のうえで「巧み」が決定的な役割を演じている。もう1つの精密測定技術については、もとよりニコンの事業分やであり、特にルーリングエンジ ン(刻線機)(注8)の開発によってサブミクロンの位置決めの制御が可能になっていた。その後、精密測長のためのレーザー干渉技術、フォトマスク測定用の 光波干渉座標装置を開発して、ステッパーの精密位置決め技術の基礎となる技術が蓄積されてこれらが応用された。

半導体生産において明確になったさまざまな技術の優位は総合されて最終的にはLSIチップの価格と品質に反映される。図2(注9)は1メガビットDRAM生産における日本企業(東芝)とアメリカの一半導体メーカーを比較したものである。

図2

ここで見られるように、ウェハ、テスト、組立、パッケージにおいて差はないが、ウェハ当たりの良品収率は東芝が68%であるのに対し、アメリカのメーカー は25%で日本側が著しく高く、この差が最終製品コストに与える影響はドラマチックでアメリカのメーカーの1チップコストが11.83ドルに対し、日本側 は3.31ドルである。アメリカ製のチップの価格は日本製のそれの3.5倍以上になってしまう。この結果は、日本側企業において、半導体生産の全工程でな された血のにじむような努力、とりわけ、露光装置、自動ボンダー、超純水、クリーンルーム技術、プロセス制御、自動生産システムなどの開発がもたらしたも のである。
この結果、アメリカの企業は半導体生産のうちDRAMからの撤退を余儀なくされていった。

3.日本の伝統技術と「巧み」

日本には数多くの伝統芸術が存在している。それらはいずれも高度に専門的で、「技」の習得に長い年月を要し、その過程は「判断力的習熟」そのものである。 「技」という言葉は、最近は柔道の採点の中に「ワザアリ」、「アワセワザ」というものがあるために国際的にも広く知られるようになった。しかし、それが何 なのかは良く分かっていない。日本のものづくりの伝統において、「技」および高度な「技」とも言うべき「巧み」はその神髄とみなされてきた。日本技術の底 流をなすこの「技」、「巧み」が、伝統芸術の「内包的深化」の過程でどのような内容を持っていたのかを見るために、ここでは漆器と日本刀を例にとって検討 してみたい。

漆器(注10)
日本の漆器は蒔絵を中心に発展してきた。漆工芸は中国から伝来したものであるが、すでに奈良時代に日本独自の発展への道に進むようになった。それを象徴するのが蒔絵の出現である。平安時代、鎌倉時代を経て、室町時代までに蒔絵の基本的な技法は確立していった。
蒔絵とは、漆を塗った下地の上に漆で絵模様を描き、漆が乾かないうちに金(銀)粉を蒔きつけて文様をあらわし、その上に再び漆を塗って乾燥後研ぎ出して美しい絵柄をつくりだす装飾法で次の4つの技法がある。

研出蒔絵:金粉を蒔いた後、その上に何度も漆を厚く塗り、その後全面を研ぎ出して表面を滑らかに磨くもので、平安時代初期には完成していた。

平蒔絵:研出蒔絵の研ぎ出しの手間を省くために、金粉を蒔いた後摺漆固めして磨き上げる。研出蒔絵のように金粉の上か ら全面に漆を塗ることや、その後の全面つやだしを行わないから比較的簡単な作業ですむ。やすりの発達で細かい金粉が作れるようになって出現した方法で、平 安時代以降発達した。

高蒔絵:平蒔絵の文様部分をあらかじめ漆または木炭粉で盛り上げてその上に金粉を蒔く技法。文様に立体感が与えられる。鎌倉時代には発達していた。

肉合蒔絵:研出蒔絵と高蒔絵が併用されているもの。

蒔絵は文様を描く技法であるが、文様部分ではない地(背景)を装飾するものに金粉を蒔く地蒔の技法があり、多様に分化 発展した。それらには、沃懸地、平目地、梨子地、引掻地など多数あり、また、それぞれが多様に分化していて、その1つ1つに固有の名が与えられている。例 えば、梨子地の場合、金粉の蒔き方の微妙な違いで、玉梨子地、鹿の子梨子地、刑部梨子地、ムラ梨子地、霞梨子地、詰め梨子地、薄梨子地などがある。
蒔絵においては、材料の取り扱い方、使用法、使用手段などはデリケートで煩雑を極め、そのために使用する道具も含めて特異な技術が発達した。
平蒔絵の場合、工程の最初に置目と呼ばれる変わった絵つけを行う。これは、薄美濃紙に文様を描き、その裏面から紋様の輪郭を漆で線描きし、そ の漆が乾かないうちに目的の器物に当てて表から押さえて紋様を器物に写す。これに砥粉をまいて紋様を鮮明にする。以上が置目の工程であるが、置目で描かれ た文様の上にさらに、弁柄漆で薄く塗り、その上に金粉を蒔いて蒔絵にしてゆくのである。研出蒔絵も置目から始まるから、置目というのは蒔絵の基本技法と いってよい。漆地の上に直に漆で絵を描いて蒔絵とするほうが簡単でよいとするのが普通であるが、置目という特異が技法が使われるようになったのは「よりよ い」という判断・工夫が繰り返されてそこに到達したからであろう。
蒔絵には研ぎ出しという工程が欠かせないが、高度の技を要するもので、一般的に「へらづけ8年 磨き3年」といわれるほどである。(へらづけというのは、多くの種類のへらを使い分けて下地を塗ることである)。研ぎ出しに使われるのは、朴、椿、百日 紅、えのきなどから作られた木炭で、状況に応じて使い分けされる。仕上げの工程であるから細心の注意が払われ、特異な研磨剤にゆきついたわけである。
蒔絵で用いられる毛筆もやはり特異でデリケートなものである。材料は、たぬき、きつね、ねずみなどの動物の毛を使う。毛の先にはごくわずかに 水毛という半透明の部分があり、これが毛筆の生命となっている。細い線をひく毛筆には、木造船のなかにいるねずみ、または、土蔵作りの米倉のなかで玄米を 食ったねずみの走り毛(背中を背骨に沿って走る毛)が最良とされた。また、蒔絵で金粉を蒔いてこれを磨く際、指など入らない小さなへこみや隅っこの研磨に 使用されるものに、犬牙、鯛牙と呼ばれるものがある。犬や大鯛の牙に柄をつけたもので、特異な道具の極致をゆくものである。
これらの道具類、研磨剤としての木炭、ねずみの毛筆、犬牙などは、一見したところ粗末でシンプルなものであるが、それらは長期にわたる「判断 力的」な試行錯誤と探求の結果得られた結晶なのである。浦賀に現れたアメリカのペリーは蒔絵の漆器に初めて接して、仕上げられた製品の「この磨きはこの種 の技術がおよぶ極致である」と絶賛したと伝えられているが(注11)、同時に彼は、使われている「道具の粗末さ」に言及している。確かに、「科学的知」が 結晶化された立派な機械や装置は見られないし、道具類の量も少なく見栄えもあまり良いとはいえない。しかし、ペリーには、それらの道具類が技術の「内包的 深化」のゆきついたところで見出された究極のものであることを見抜くことはできなかった。また、これなくしては名人といえども「巧み」を発揮して「技術が およぶ極致」と評価されるような蒔絵の硯箱を作り出すことは不可能であることも理解できなかったようである。技能が「巧み」になりうるのは、道具や素材が 揃えられた「茶室的空間」の中であって、「巧み」は一人歩きするものではない。「巧み」とは、このような究極の道具と材を使いこなし究められた技法にのっ とって、ものづくりにおける1筋の最良の細い線を即座に直感的に見きわめる力のことでもある。柔道や剣道の達人が、技をかけるべき一瞬を感知する能力に長 けているのと基本的に通じ合うものであろう。
ところで、蒔絵は日本を代表する漆工芸であるが、これ以外の蒔絵技法によらないさまざまな描法も発達してきた。赤や黄などの色漆で紋様を描く 漆絵、油と顔料を練り合わせて漆器の上に文様を描く密陀絵、日本画に用いる金銀泥絵などである。また、刀の鞘に応用された鞘絵は変化が大変多く「変わり 絵」とも称される。東京国立博物館には70あまりの塗り見本が残っているが、それぞれ1つ1つに名称がついている。実際には、鞘絵の種類は数千もあったと 言われている (注12)。それぞれに名称があったのであるから固有の技法が確立していたわけで、漆工芸における発達の大きな特徴であり、生物の進化における適応放散と よくにた現象である。オーストラリアの有袋類は環境のわずかな違いに巧妙に適応し、多様な種類に分化して大発展を遂げたが、同じことが日本の漆工芸でも起 こったのである。多様な種に分化するということは有袋類という概念の「内包」の増大を意味するものであって、「外延」ではない。漆工芸は、日本の気候風土 や日本人の細やかで美しく装飾されたものを好む気質に適合し、細かい種に分化して日本社会のなかで「内包的深化」の方向で大発展を遂げていったのである。
漆器は英語でJapanと言われるように、かつて、日本を代表する製品であった。漆はもっとも美しく強い自然塗料であると同時に協力な接着剤 でもあるが、きわめてデリケートであり扱いには細心の注意を払わなければならない。デリケートな素材を精細な技法で美しい製品に仕上げるという漆工芸、と りわけ蒔絵の伝統は、今日のものづくりにもそのまま生きているといえよう。

日本刀(注13)
日本刀の刀身を作る技術および研ぎの技術には、技術の「内包的深化」と「巧み」の極致がみられる。
日本刀は、折れず、曲がらず、よく切れる、というお互いに矛盾した特性を一体化している世界でもまれなる刀剣である。それは、やわらかい鉄 (心鉄)をかたい鉄(非鉄)で包むという日本刀独特な構造に鍵の1つがある。この包む方法としては、まくり鍛え、甲伏鍛え、本三枚鍛え、四方詰鍛え、の4 つがあり、一番多用されているのは甲伏鍛えである。ここでは、甲伏鍛えを例に、日本刀づくりにおける「内包的深化」と「巧み」を浮き彫りにしてみよう。
甲伏鍛えは、皮鉄をU字形に折り曲げ、その中に心鉄を入れて包むやり方で、皮鉄が刀身の側面だけでなく刃にもなる。材料となる鉄は、一般的に は、たたら製鉄によって作られた玉鋼と、玉鋼以外の和鉄(古釘や鋳物鉄など)を加工して得る"卸し鉄"とが使われる。玉鋼はたたらがつくりだす大きな鉄塊 (ケラ)の中の良質な部分で、含まれる炭素量も日本刀をつくるのに適当であるのでそのまま使用することができるが、これ以外のものは炭素量を調節したり、 鉱滓の除去を行って玉鋼と同等の質のものにつくりなおさなければならない。
先ず、皮金づくりから述べる。皮金づくりは玉鋼を鍛えて強靱な鋼に熟成させることによって行われるが、最初の工程は"水減し"と呼ばれるもの で、玉鋼片を炉に入れて加熱し(これを"赤める"という)、赤熱したものを叩いて固める。これを繰り返し、板状に延ばされたものを水の中に入れて急冷す る。以下の工程は次の通りである。

子割:水減ししてもろくなった板状の玉鋼を2~3cm程度の小片に叩き割る。割れ方や破断面の色つやを見て良質の玉鋼片を選び、他のものと分ける。

積沸し:子割して得た良質の玉鋼片をテコ皿と呼ばれる鉄板上に積み重ね、炉で加熱する。これを金敷の上で叩いて鍛着させ1つの鉄塊とする。

鍛錬:鍛錬の目的は鍛えることで鋼の中の不純物を除去し、炭素量を平均化して均質な鋼をつくることにある。積沸しに よって1つの鉄塊にまとめられた玉鋼を炉で赤め、これを取り出して大槌で叩いて延ばし、元の2倍ほどの長さに打ち延ばされたら真中に横にタガネを入れて溝 をつくり2枚に折り曲げる。これを再び炉の中で赤め、鍛錬して真中で折り曲げることを繰り返すわけであるが、真中で折り目をつける際、折り目を横と縦で交 互につけてゆくやり方が本三枚鍛えである。この鍛錬は15回程度繰り返して行われる。この程度が、鋼の引っ張り強度を最大にするといわれる。

これらの各工程はいずれも鉄の状態を注意深く見ながら、臨機応変に微妙な調整を加えて行わなければならない極度の「判断力的習熟」にもとづくプロセスであるが、その中で積み沸かしは特に高度の熟練を要するとされる。この工程について、もう少し詳しく見てみよう。
積み沸かしを行うにあたって、作業用の鉄棒であるテコ棒とその先端に取り付けられるテコ皿を用意する。テコ皿は、このまま刀身材の一部になっ てゆくので良質な玉鋼で作られる。子割りされた良質の玉鋼片の刀身をつくるのに必要な分量をテコ皿の上に積み並べ、この全体を和紙で包む。これに泥水をか け、黒いワラ灰をまぶして炉の中に入れて赤める。泥水は、感想した年度を篩にかけて微粒子を得、これに松炭を加えて水にといたもので、鋼の芯までじっくり 熱が伝わり、沸きの具合をよくするために使われる。また、ワラ灰は、もち米のワラを半燃焼したものを使い、鋼の参加を防ぐ効果があるとされる。炉で使われ る燃料は松炭がもっとも良いとされ、これを2~3cmの細かいものに刻んで用いる。炉に入れられた玉鋼は最初はゆっくりと加熱され、徐々に赤くなってやが て火花を上げるようになり、さらに進むと音を発するようになる。このようになれば、沸かしがうまく行われたことになるから、刀匠は感覚を研ぎ澄まして鉄の 発する色や音に注意を傾けなければならない。鞴を巧妙に操作し、炉に送る風量を調節しながら、鉄がいうことを聞いてくれるよう鉄と語り合うようにして「こ の時」という一瞬にすばやく沸いて黄色になった鉄を取り出して金敷の上に置いて槌で軽く叩いてみて、沸きがうまくかかっているかどうか様子を見る。再び炉 に戻して鉄を沸かし、軽く叩いて、充分に沸いて鍛着させることが可能であると判断されたら次の本沸かしに入る。再び和紙で堤、泥水をかけ、ワラ灰をまぶし て炉に入れる。最後に、沸いた鉄を大槌で叩き固めて鍛着させ、次の鍛錬の工程に移る。積み沸しの工程は、刀の鉄の善し悪しを決める最初の一歩であってこれ がうまくゆかないと後の工程に影響するからきわめて重要であり、同時に、最高度の熟練を必要とするむずかしいものでもある。
以上で、甲伏鍛えに使う皮鉄が用意されたわけであり、次は心鉄を作らなければならない。心鉄は炭素分に少ない軟らかい鉄で作る。材料は卸し鉄 や"なまがね"(子割の際、粘性があるためうまくわれなかったもの)を使うが、これに玉鋼を混ぜることもある。つくり方は皮鉄と基本的に同じであるが、鍛 錬の回数は少ない。
こうして得られた皮鉄と心鉄でいよいよ刀身をつくるのだが、その工程は次のようなものである。

造り込み:心鉄を皮鉄で包んで2つの鉄を鍛着する。

素延べ:造り込んだ鉄塊を沸かしと打ち延ばしを繰り返しながら無理なく引き伸ばし、刀身の長さ、幅、厚みの基本寸法を決めてゆく。

切先の打ち出し:素延べたものの先端を斜めに切り落とす。これを加熱して、切り取られた方が棟となるように叩いて切先を打ち出す。

火造り:切り出された切先を基準として金敷の上で反りをつけ、鎬造り、平造りなどの刀の形を打ち出す。日本刀の形を決める上でもっとも重要な作業であり、高度な熟練とセンスが求められる。

焼き入れ:先ず、焼き入れの際刀身に塗る焼刃土を作る。塗られた焼刃土が乾燥した後に、刀身を炉で赤めの具合を見て一気に水中に入れて急冷し、鋼に強度をつける。

鍛冶研ぎ:焼き入れの後、曲がりや反りの修正を行った上で刀匠が自ら研いで、刃文の出方を確かめ刀の姿を確かめる。

茎仕立て:茎にやすりをかけて表面を整え、目釘穴を空ける。

この工程の中で、焼き入れの工程が反り具合と刃文を決め、鋼の強度を高める上で重要であるばかりではなく、「判断力的習熟」と工夫の集積を示すプロセスであるので、やや詳しく記述してみよう。
刃 文は焼刃土の塗り方で決まる。焼刃土は、一般的に、粘土と木炭粉、砥石粉などと水とを混ぜてつくるが、実際にはどこの産の粘土を使うか、何を混ぜるかなど は秘伝とされる。京都の稲荷山の土は昔から有名であった。これには石灰石が含まれ、この成分が良い作用をしていたようであるが、これは後に化学分析によっ て明らかにされたことである。この焼刃土を刀身に塗っての刃文をつくりだすのであるが、まず刀身全体に薄く塗る(引き土)。この場合でも刃文となる部分は 薄く、地のほうは厚く塗る。こうすることによって刃の部分に焼きが入りやすくするのである。この上に置き土をして、日本刀独特の刃文の「はたらき」をあら わす工夫がなされる。ヘラの先に焼刃土をつけ刃先から鎬にかけて直線上に土を置いてゆく。この線に沿った部分は土が厚くなって焼き入れが浅くなり、「足」 や「葉」といった「はたらき」となって現れてくるのである。この焼刃土が乾いたら焼き入れに入る。焼き入れは鉄の温度の見極めが重要なので、普通は暗く なってから行われる。炉で使う燃料は1cm角の松炭で、このように細かい炭を使うのは焼刃土が操作の途中で落ちないようにするための工夫である。刀匠は焼 刃土が落ちないように細心の注意を払わなければならない。そのために鞴の柄の出し入れ加減は実に微妙で、最高度の熟練度が必要とされる。刀身全体が平均し て加熱されなければならないから、刀身を炉の中で常に出し入れし、全体が「満月の色」(流派によってはきつね色、またはアズキ色)に熱せられたのを見て炉 から引き出し、水につけて一気に冷却する。以上が焼き入れのあらましである。

このようにして刀身が出来上がり、後は刀匠の手を離れて研磨の工程に回される。刀剣研磨は、単に切れる刃をつくるだけ でなく、反りや地鉄、刃文の美しさを引き出すためのものでもある。研ぎは大別して、下地研ぎと仕上げ研ぎからなる。刀の姿を整え、刃をつけるという基本的 な作業は下地研ぎでなされ、仕上げ研ぎでは下地研ぎの砥石目を取り除きながら刃に艶を出して見た眼に美しく仕上げる作業が行われる。
下地研ぎは、荒い目の伊予砥(いよとぎ)から始める。その後、改正砥、名倉砥、細名倉砥、最後に内曇砥と、目を細かくしながら研ぎ進め、前の 工程の砥石目を徐々に細かくして行く。細名倉砥でそれまでの砥石の目は取り除かれ、内曇砥で仕上げ研ぎへの橋渡しが行われる。これは仕上げの艶砥を効果的 にするためのものであり、刃の部分の研ぎ(内曇刃砥)と地の部分の研ぎ(内曇地砥)の2つの工程からなる。
次に仕上げ研ぎであるが、これは刀身に艶を与えるもので刃艶砥、地艶砥の2つの工程で行われる。
刃艶砥は刃の部分に対して行われ、内曇砥を薄くしたものを平らに削り、1cm角ほどのものを吉野紙に漆で着けてつくる。
地艶砥は地に対して行う研磨で、鳴滝砥と呼ばれる砥石を薄くして、和紙で裏打ちする、あるいは、爪で細かく砕いて用いる方法がある。
研ぎは以上で終わるが、日本刀独特の光沢を出すために、さらに拭い、刃取り、磨きと呼ばれる仕上げの工程がある。拭いでは、刀を作る際に出た 金肌と呼ばれる酸化鉄を焼いて粉末にしたものに丁子油をまぜ、吉野紙で濾過したものを刃に塗り、綿で磨くことによって光沢を出す。刃取りは、刃文を白く美 しく研磨する作業で刃艶砥を用いる。磨きは、刀の鎬地と棟を研磨するもので、角粉と呼ばれる、鹿の角を焼いて粉にしたものを湿して塗り、油気をとった上で カイガラ虫の粉で作ったイボタという打ち粉を打って磨き棒(鋼の細長い棒)で磨くことで行われる。

研磨に用いられる砥石はすべて天然砥石であって、同じところで産出したものであっても、硬軟に差があるなどその性状は 一様ではなく、刃や地鉄の状態を見ながら巧妙に使い分けられる。刀身の刃や地鉄の状態は一口一口が千差万別であるので、その応対を誤ると研ぎの効果が発揮 できないばかりか逆に損ねてしまうということもありえる。研ぎ師は刃や地鉄の荒れ方、色や艶の出方にそれこそ細心の注意を払って砥石を選び作業を進めなけ ればならない。実に精妙な技の世界に属するものなのである。

そして最後に柄、鍔、鞘などの刀装がついて完成となる。
日本刀の刀身をつくる過程は、どの工程をとっても複雑 で細かな実践知で成り立っていおり、それらが感覚を研ぎ澄ました刀匠の一瞬の判断および手のはたらきと結びついている。鉄というものは奥の深い金属で、い まだに解明されていない点も多い。刀匠が用いる鉄も常に同質ではありえず、当然毎回少しづつ違った感触を持つものであったはずで、そのような材の癖を読み 取りそれらを組んで最後には最良の結果を生み出してきた。これこそまさに「巧み」のはたらきであり、「判断力的習熟」の繰り返しの末に達したものである。 宮大工が、捩れなどの一本一本異なる木材の癖を読み、その癖を相互に消しあうように組んで何百年経てもくるいの出ない寺院を建てる「技」と基本的に同じで ある。焼刃土を使って美しい刃文をつける技法などはきわめて特異であり、絶えることのない「判断力的習熟」を通して「これ以上はない」というところまで選 択しぬかれて、最後に到達したものである。科学的知識に裏付けられるということはなかったが、刀匠は同じ内容の事を実践の中で感覚的に把握していた。炭素 という元素は知らなかったが、硬い鉄と軟らかい鉄とは感覚的に区別され、炉の中で2つの鉄を相互に転換させる方法(科学的にいえば脱炭と吸炭)を実践的に 知り抜いていた。引っ張り強度という、近代の金属工学における概念は知らなくても、玉鋼を15回ほど鍛錬するともっとも強い鋼が得られるということを経験 知として感覚的につかんでいた。焼刃土を用いなくても焼き入れは不可能ではないが、美しい刃文をつくるにはこうしたほうがより具合が良いという無数の判断 が、良く切れるだけでなく、美しい日本刀を生み出した。

4.アメリカ的生産様式と技術の「外延的発展」

19世紀以降アメリカにおいて機械技術の発達を基礎に確立していったアメリカ的生産様式の成立過程を見ると、技術の「外延的発展」の姿が浮かび上がってくる。
19世紀初頭、アメリカでは銃器生産のために互換生産というアイデアが導入された。マスケット銃などの銃器は大別して銃把などの木工製品部 品、銃身、それに引き金や撃鉄などの激発機構からなり、従来は職人が一品一品各部分を合わせながら個別の製品を手作りしていた。アメリカではそうした方法 を深化発展させる方向ではなく、それぞれの部品を別個に作って、どの部品を組み合わせても一挺のマスケット銃を組み上げることができるという互換性生産の 導入を目指したのである。互換性生産のアイデア自身はすでにフランスにあり、アメリカではイーライ・ホイットニーが19世紀はじめに陸軍からマスケット銃 1万挺の注文を受けて最初にこの方法を採用したとされる。ホイットニーはすでに繰綿機(Cotton gin)の発明者として実績があり、アイデアを生む才に富んだ人物であった。しかし、彼が陸軍の注文を首尾良く成就し納入したという記録がないため、実際 には、互換性生産の確実な導入はサミュエル・コルトによって実現したとみられる。コルトは自ら発明したリヴォルバー(連発式拳銃)を19世紀中頃、ハート フォード工場において互換性生産によって大量生産した。コルトはこの工場のなかに、1400台以上の特別に設計された専用工作機械を備え、金額的には機械 と同類とされる治具・工具類を考案して使用した。また、部品の規格化を徹底的に推進し、熟練工による手工をほぼ廃棄した。こうして、アメリカでは銃器生産 で、従来の製造方法とは根本的に異なる互換性生産が確立した。同じように機械に基づく生産の途を歩んでいたヨーロッパ諸国とも、その方法はまったく違って いた。ヨーロッパでは拳銃はフリント・ロックまたはパーカッション・ロックの手作りの高級品を、貴族達が決闘用に所持してたに過ぎないが、アメリカではな らず者が腰に連発式拳銃を2挺もぶら下げて西部の町に現れるといった事態となった。互換性生産は19世紀後半には、ミシン、ネジ、タイプライター、自転 車、金銭登録機などの民生用機械の大量生産に応用され、20世紀に至ってフォードシステムにおいて自動車の生産にもつながり、さらに一般化して機械性生産 に基づく大量生産の源流となった。
このようなアメリカ的生産様式が成立するためには、互換性を有する機械部品の仕上がり寸法がいっそう精密であることが必要である。このために 精密測定計器類を新たに創出すること、および工作物の規格統一が必須の要件となる。測定器具のメーカーとしてはブラウン・シャープ社が重要な役割を果たし た。同社は 19世紀中頃に1/1000"を読み取るバーニヤ・カリパス(ノギス)を開発した。これは、構造がシンプルで安価であったため当時の工場に普及して、工作 技術の精度を高める上で大きな影響を与えた。また、ウィルモットおよびパーマーのマイクロメーターを改良して4/10000"の測定を可能にしたマイクロ メーターを開発し、販売した。このブラウン・シャープ製マイクロメーターは、以降、精密測定計器として標準となったものである。マイクロメーターと並んで アメリカではリミットゲージも開発され、大量生産をより完全なものにする上で決定的に重要な役割を果たした(注14)。
ネジの規格化では、すでにイギリスでウィットワースによる標準ネジの制定が行われていたが、アメリカではフランクリン協会の会長セラースがア メリカ標準のネジ方式を考案した。彼のネジ、ボルト、ナット、規格は19世紀後半全米機械工業界の採用するところとなり、世界にはセラース・ネジとウィッ トワース・ネジの2つの規格が併存することとなった。
機械性生産に基づくアメリカ的生産様式が確立するためには機械それ自身が外延的に発展し、新しい種類の機械類が開発されてシステムを構成する ようにならなければならない。前述のホイットニーは19世紀はじめにフライス盤を発明し、後の工作機械工業に多大の影響を与えた人物でもある。ブラウン・ シャープ社の創始者の1人であるJ.R.ブラウンは万能フライス盤を製作した。これは、後に発明されたツイスト・ドリルが取り付けられて、今日見られるよ うなフライス盤に発展した。このような自由形状を切削できる金属加工機の出現は、機械性生産による大量生産技術システムにとって決定的な一歩であったので あり、今日その役割はマシニングセンターに引き継がれている。
互換性生産方式の成立に大きな影響を与えた機会の1つに倣い盤がある。これは、つくろうとする工作物の加工済みのものを機械にセットし、その 輪郭をなぞって刃物が運動して材料を切削し、目的とする形状を得るもので、加工済みの品物の形状を未加工の素材に人間の手の媒介なしにコピーする機械であ る。今日、車やドアのキーをコピーするのに応用されているのがこの倣い盤である。倣い盤は、靴の木型や小銃の銃把といった木工部品を量産するためにブラン チャードによって発明され(1818年 特許取得)、その後、油圧機構などが加えられて金属切削機械に発達した。倣い原理では、テンプレートが加工済み品の形状をなぞり、その動きが刃物に伝えら れて工作が行われる。つまり、ソフトウェア(テンプレート)がハードウェア(刃物を中心とした工作部)をコントロールする原理になっていて、コンピュータ やNC工作機械と同一の発想になっている。制御における手のはたらきを排除したもので優れてアメリカ的な技術であり、アメリカにおける機械技術の発達にお いて底流をなしているものである。そういう意味でブランチャード倣い盤は注目に値するものといえよう(注15)。
大量生産技術に寄与した機械としてはタレット盤と各種の自動盤が重要である。前者は、工作物がチャックに加えられ、タレットと呼ばれる砲塔型 刃物台に数個の刃物が取り付けられ、順次回転して数工程の工作を一気に行うことを可能にした。コルト門下のC.M.スペンサーによって発明された。同時に スペンサーは、シリンダーの表面にたくさんのカムを取り付けてどんな作業をも自動的に行いうる自動盤の発明者としても知られる。オルゴールの原理を工作機 械に応用して継起的作業を自動的に行うことを可能にしたものであり、ブランチャードと並んでオートメーションに至る基本技術を開発した点で注目される。
こうしてアメリカでは19世紀末までに大量生産技術をアメリカ的生産様式として完成していった。この技術発展のプロセスを見ると、個々の企業 や工場の内部に技能や熟練が集積していってその結果として技術が発達してゆくという方向よりも、新しい機械や作業方法についての新しいアイデアが広くアメ リカ社会の中で次々と発明・考案されて、それらが相互に結びつきあって全体として壮大なシステムを形成するという方向に向かっていったことが分かる。この ような「外延的発展」はヨーロッパにおける技術発展の姿とも異なってアメリカ特有のものである。なぜこのような展開になったのであろうか。技術の視点から は、その主要な要因は3つあると考えられる。

  1. 封建遺制が無く、熟練の社会的蓄積を欠いていた。
  2. 特許制度が早期に確立していた。
  3. 専門職人の層が薄く、万能工的な仕事を行うファーマー・アーティザンが広範囲に存在していたこと。

つまり、科学的知をベースにしたヨーロッパ的伝統の上にアメリカの特殊な条件が積み重なり、アメリカ技術の特異な発展形態が生まれたと理解で きる。絶えざる戦争からの圧力と眼下に広がる広大な市場が「発明の母」としての必要を生み出し、この必要を満たすために手に頼らない別の方途を考え出さな ければならなかった。手に頼れないとすれば頭を使うほか無かった。アメリカにおける技術の発展の流れは基本的にこのラインに沿っている。アメリカ社会にお けるアイデア創出の強大さは発明王というエジソンに典型的に見られる。彼は、ものづくりに向けて「技」を究めるという方向ではなく、次から次に画期的な機 能を持ったもろもろの新製品を、自分の思考と感性のひらめきを頼りに開発していった人物であり、アメリカのエンジニアの典型とみなすことができる。アメリ カにおける技術発達を特色づけるのは、アメリカ的生産様式の確立過程に見られたように、エジソンほどでないにしても個性と才能を持った多くの個人が独創的 なアイデアを生みだし、それらが線と面でつながって膨大な技術の発展体系が進展するという図式である。実はこの図式はコンピュータ、半導体、コンピュー タ・ソフトウェア、さらには最近のマルチメディア・ネットワーキングの開発にもそのまま当てはまるのである。基本技術の発明や画期的新製品の創出には才能 豊かな個人の名前が前面に現れ、彼らの多くはそれらの技術・新製品を梃子にベンチャービジネスを立ちあげてゆく。それは19世紀、20世紀を問わず、アメ リカ社会に一貫して繰り返された現象であった(注16)。そして、個人が企業の名の背後に隠れてしまっている日本の場合と好対照を成している。

5.日本型ベンチャーの可能性

日本とアメリカにおける技術の性格の違いを「内包的深化」型、「外延的発展」型ととらえることは、日本型ベンチャーを、ひいては将来における日本の技術発 展の方向を考える上で重要な意味をもってくる。日本の特色を最大限引き出した技術に立脚しなければ、ベンチャーにせよ何にせよ世界に通用するものにはなり 得ないからである。
外国には名庭園と呼ばれるものが数多くあるが、様式化されたものの多くはルーブル庭園に見られるようにシンメトリックであったり幾何学的形状 を基本とする、いかにも人工的な造園が行われている。これに対し、日本庭園ではそういうものはほとんど見られず、木と石と水が定まった形を持たずに配置さ れている。しかし、それは「無」に媒介されていて絶妙なハーモニーとバランス、普遍性を有しており、禅や茶道の精神的雰囲気と合致して見る者に安らぎと何 か奥深い印象を与える。日本独特の日本庭園は世界で静かなブームを呼んでおり、アメリカでも大学の構内や自治体の庁舎敷地内など公共の場所に普通に見られ るようになった。日本庭園の造園職人は彼らだけが造園の「技」を持っているから、世界のどこへいっても一流の仕事ができる。この例はやや極端かもしれない が、日本型ベンチャーを考えるにあたって示唆するところは大きいといえよう。日本がもっとも特異とするものに立脚すれば世界に出て行くことはできるが、逆 にそうでなければドンキホーテのごとくわけも分からず突進するのみで効果が無い。高度な「技」というのは、科学に基礎を置いて生み出された画期的新技術や アイデアに勝るとも劣らないもので、日本のものづくりにおける「いのち」である。このような得意に立脚する限り、日本の物づくりは一流であり続けることが できる。日本庭園の職人はこれまで通りのやり方をそのまま続けていってもその仕事は一流のものとして評価されるが、技術と市場の急激な変化に対応しようと するベンチャーの場合、難しいのは新しいアイデアが必要になることである。アイデアを必要としている点では伝統工芸についてもそのまま当てはまる。
昨今、漆器づくり、寄せ木細工、指し物、刃物づくり、和紙など伝統工芸と呼ばれるものは、需要の減退や後継者問題などで後退を余儀なくされて いる。みやげ物などで日常的用途とはかけ離れた製品づくりをしてかろうじて保持されているものも見られ、おそらく消滅してしまった伝統工芸も数多くあるに 違いない。ここで必要なものは伝統工芸を現代によみがえらせるアイデアである。日本の伝統工芸には、斬新なアイデアを大胆に取り入れて思い切ったデザイン の開発や製品の革新を行う試行が欠けている。伝統工芸の「技」は、前述した蒔絵や日本刀と基本的に同じできわめて高度なものであり、これと気の利いたアイ デアとが結びついたときにはブレイクする可能性が高いといえるものばかりである。漆器や指し物などは、思い切ってたとえばイタリアのデザイナーによる色づ かい、斬新な新製品や形などを導入してみるのも検討に値するのではないだろうか。
ITと関連したベンチャーが潮がひくように後退しているが、ITそのものは今後も技術発展が続くと見られる。前述したように、アメリカのベン チャービジネスが沸騰したのはインターネットの形成・普及と深く関連している。パソコンの高機能化、ワークステーションの低価格化、それらがネットワーク に取り込まれ、ネットワークは文字情報だけでなく、静止画、動画、音楽などマルチメディアの交換の手段となり、さらに商取り引きの場にもなって急激な技術 革新が進行した。この過程でソフトウェアをはじめインターネット関連のさまざまな技術が、インターネット形成期にアメリカのシリコンバレーのベンチャー群 を中心に生み出されたのである。現在は、このようなインターネット関連のイノベーションがやや落ち着くようになり、画期的新技術も出難くなっていると理解 できるだろう。しかしながら、情報革命は、コンピュータや通信システムの進化と共に今後もいき長く続くはずである。半導体は、近い将来工学的方法による回 路転写が限界に達するはずであるし、素材も現在はシリコンリップとしてつくられているが、分子半導体、有機物半導体の出現に向けた研究が進んでいる。半導 体が進化すれば、当然それを回路素子としてつかうコンピュータもいっそうの高機能化が進む。現在到達しているコンピュータ技術は、実はまだ初歩的段階にあ るのかもしれない。このような流れのなかで、今後ますます超微細加工技術が重要性を増して行くものと見られ、日本の得意を生かすターゲットの新たな展開が 期待できよう。
このようなことは、環境や医療などの新しい分野についてもいえることである。日本は「京都議定書」の遵守という方向に明確に舵を切って、環境 立国を目指すべきである。それ自身が地球環境の保全、日本のサバイバルにとって意味があるだけでなく、環境問題に本格的に取り組むことは、新しい技術開発 の宝庫を切り開く可能性を持っているからである。マスキー法をクリヤーしたホンダのCVCCエンジン開発の教訓は決して忘れてはならないものである。ドイ ツでは、もともと耐久性のある堅牢な製品づくりが伝統的に行われてきたが、そのようなエコ製品の開発に拍車がかかるだろう。また。製品の使用・廃棄後の分 解までも視野に入れて、石油化学によらないで光合成で作られた物を原料とするソフト化学の試みも始まっており、環境産業革命への一歩が踏み出されている。
また、バイオテクノロジーの進展に伴って、医療・医薬品についても大きな変革が招来されつつある。すでに、超微細手術や細胞切削で使用される 特殊メスの開発などが動き出しているが、ナノテクノロジーも含めて精細な日本の技術が本領を発揮しうる分野がこれから本格的に展開しようとしている(注17)。ここでも重要なことは、新しいテーマと日本の得意とを結びつけるアイデアの創出である。そういう努力をしなければ、世界のオンリーワン企業として 貢献することはできない。得意を育て、気の利いたアイデアの創出という観点からいえば、日本社会は変革しなければならないことが多々ある。たとえば教育の 問題である。暗記を中心とした虚ろな学校教育を方向転換し、科学や論理を重視し、美しい街並みや自然を大事にすることを教えると共に、「手の鋭い感覚」と 良い物を見る眼を養い、美しい精細な物を尊ぶ感性を育てることは是非必要である。また「高い教養を持った職人」を正しく評価し、処遇できる社会システムの 構築が求められよう。

結語

これまで見てきたように、日本では製品をつくる技術を、それを構成する諸要素と製造過程のすべてにわたって徹底的に究め、細部にわたって細心の注意を払っ てより完全な物をつくってきた。そのような高度な「技」を体現したのが名人と呼ばれる存在である。このような「内包的深化」を志向す伝統は手工業の時代ば かりではなく、機械の時代にあっても、また、科学技術に基礎を置く技術開発の時代であっても、基本的には変わることなくオーケストラの通奏低音のごとく一 貫して素材を製品にする場において作用している。明治維新以来、日本は、科学的知の所産である機械技術について欧米先進国からまなび、機械工業を日本に定 着させた。科学的知というのは日本の伝統の経験知、暗黙知とはベクトルがまったく逆の物であるが、異文化の採り入れをお家芸とする日本はともかくこれをか なり高いレベルで吸収できた。第二次大戦後は主にアメリカから石油合成化学、電子技術、自動制御などの諸技術が伝えられ、さらにコンピュータ、半導体、通 信技術も受容された。これらの諸技術を単に欧米から導入し、コピーするだけだったら欧米の後塵を拝するにとどまり、欧米のほうも日本を競争相手として意識 することもなかったはずである。しかし、実際にはこれらの技術の大部分で欧米を凌駕するに至った。どうしてそうなったかといえば、受容の過程で「日本化」 という現象が起こったからである。言い換えれば、西洋の科学的知と日本の「技」との融合である。西と東の融合であり、左と右の融合という言い方も可能であ る(注18)。アメリカにおける特異な技術発展は、科学的知とアメリカの特殊な社会的・歴史的条件との融合の結果である。という言い方が可能であるが、こ こでは単にベクトルは科学的知という1つであり、2つの方向を向いたベクトルの合成といった形にはなっていない。そういう意味で、西と東、あるいは左と右 の融合という事態は日本が初めて経験したものといってよいであろう。このことは、日本が「内包的深化」を究める「巧み」の伝統を欠いていたならば、今日の 日本技術が成り立ち得ないということを考えてみれば、容易に理解できる。
アメリカにも「技」の世界は存在する。しかし、それは日本におけるほど徹底した物でもなければ、アメリカにおける技術発達の主要なドライビン グフォースでもなかった。前出のペリーは報告書(『ペルリ提督日本遠征記』)の中で、蒔絵の漆器などの産品を絶賛し、「日本人が一度文明世界の過去および 現在の技能を所有したならば、強力な競争相手として、招来の機械工業の成功をめざす競争に加わるだろう」と述べている。この見通しは百数十年を経て的中す ることになったが、日本の漆器や複雑な木組みを持った木工、精密な金工を目の当たりにして、アメリカ製品には見られないその精緻な仕上がり、完成度の高さ に対する驚きを告白したものに他ならない。
今後、変化の激しい技術と市場の動きの中で否応なくベンチャービジネスが活発化するであろうが、その際、日本が得意としている「技」を基礎に 新しい知識、新しいテーマ、アイデアを開発し、他の国が追随できない製品や技術体系をつくってゆくことが重要であると思われる。他の国のベンチャービジネ スの華々しい展開に眼を奪われて、それを真似て単なる思い付きや皮相なアイデアを持って事を起こしてみても底の浅い、長続きしないものになってしまうだろ う。日本社会に深く根を張ったベンチャー作りが期待される。

注および文献

  1. アリストテレスは『ニコマコス論理学』のなかで、人間の精神によるほんとうのもののとらえ方に5つの種類 があるという。それは、技術(テクネ)、科学的な知(エピステメ)、思慮(フロネシス)、哲学的な知(ソフィア)、理性(ヌース)である。これらは2つに 分けられる。「もっと違ったものでありうるもの」と「もっと違ったものでありえないもの」であり、前者は実践に関わるもの、後者はものごとの認識に関係し ている。テクネとフロネシスは前者に属し、他の3つは後者に属する。このようにテクネとフロネシスは共通なものを持っているが、同じものではない。テクネ は物を作ることに関係するが、フロネシスは何かを実践することに関係している。しかし、技術的行為も実践の1つであり、テクネはフロネシスに包含されてい ると見ることができよう。フロネシスは実践に関わるからその中で得られた知識は言葉で表現できない。これが暗黙知である。(三枝博音「技術の哲学」参照)
  2. 哲学では、内包(Intension)とは、一般に概念の属性を意味するのに対し、外延(Extention)と は、概念の適用される範囲を指すとされる。(岩波書店『哲学小辞典』)ドイツ語では、内包がInhalt、外延はUmfangで、この表現のほうがこの概 念を理解しやすい。つまり、内包が概念の内容を、また外延が概念の横に広がる範囲を指している。
  3. 相田洋『電子立国 日本の自叙伝 完結』日本放送出版協会 1992年 220~255項
  4. 赤池学『ローテクの最先端は実はハイテクよりずっとすごいんです』2000年10月 72~79項
  5. 馬場政孝 "ステッパーに関する技術論的考察"『中央大学企業研究所年報』第15号 1994年
  6. 廣田義人 "半導体露光装置ステッパーの開発、普及とその要員"『技術と文明』12巻2号 2001年8月
  7. 相田洋 前掲書 305~313項
  8. このルーリングエンジンの仕様というのは、金属を蒸着させたガラス基板にダイヤモンドカッターでピッチ1ミクロン 以内で平行に長さ100ミリメートル以上の溝を10万本以上刻み、その際のピッチ精度を0.01ミクロン、溝の真直度を0.1ミクロンとする、というもの であった。これをニコンはマイケルソンの干渉計でカッターの送り量を計測し、サブミクロンの位置決め制御を実現し、1964年に1号機を完成させた。ニコ ンにおける超微細技術の蓄積の一里程となった。
  9. Angel, David P ;Restructuring for Innovation. Guilford Press, 1994, p.75
  10. 松田権六 『うるしの話』岩波書店 1964年 60~126項
  11. 大江志乃夫 『ペリー艦隊大航海記』立風書房 1994年 278項
  12. 松田権六 前掲書 81項
  13. 鈴木卓夫 『作刀の伝統技術』理工学社 1994年 3-1~3-56項
  14. 奥村正二 『工作機械発達史』科学主義工業社 1941年 64項
  15. Cooper,Carolyn C. ;Shaping Invention. Columbia University Press,1991
  16. 米倉誠一郎 『経済革命の構造』岩波書店 1999年
  17. 赤池学 前掲書 32~38項
  18. Baba, Masataka ;"Skill and Intuition" Culture and Technology in Modern Japan. New York :I.B.Tauris, 2000, p.32
  19. 大江志乃夫 前掲書 277項