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教養番組「知の回廊」
28 「求める人に求める本を」

前 中央大学 文学部 今 まど子 名誉教授

『図書館はあなたの書斎です』

「図書館なんて学生時代以来入ったこともないね。」とか「図書館なんて関係ないわ。」という声を耳にすることがあります。今でも図書館というと薄暗い建物にカビくさい本というイメージを抱いている方があるようです。でも、もうこんな陰気な図書館は殆ど消え去りました。
我が国の公共図書館も一九六四年の東京オリンピックの頃を境いに大きく変わってきて、無料で開かれた明るい図書館へとイメージ・チェンジしていったのです。
図書館は公共の機関ですから利用されてこそ意味があるのです。
中央大学多摩キャンパスの隣の町日野市の図書館を例にとりながら、近代的サービスを中心とした図書館を御紹介してみましょう。
日野市には中央館とその他に7つの分館、2台の自動車文庫があります。自動車文庫の止まるステーションは、市内に58ヶ所もあって、二週間毎に本を満載したバスがやってきて貸出をします。
本を図書館から借りるには、まず図書館へ行って登録をします。中央館でも分館でもステーションで受付けますので、車の免許証とか保険証を持っ て行くとその場で登録ができ、利用券を交付してくれます。そうすれば1人4冊まで2週間、読み終わらなければもう2週間貸りられます。
リクエスト制度というのがあって、読みたい本が図書館になければ、あまり専門的なものでなければ図書館で購入して貸し出しをします。読みたい本があっても、誰か別な人が借り出している時は予約をしておくと、本が返ってきた時に図書館から連絡をしてくれます。
もし、ある分館に読みたい本が無ければ、中央館に問い合わせ、中央館か他の分館が持っていれば、その分館まで届けてくれます。中央館にも他の 分館にもなければ、港区の有栖川公園にある都立中央図書館から取り寄せて貰えます。都立中央図書館にもなければ、国立国会図書館から借りてくれます。この ように図書館では市民の本に対する要求には極力応えて行こうと努力をしているのです。
図書館では、コンピューターを入れて中央館と分館を結んでいて、中央館では分館が持っているすべての本がわかっています。ですから、中央館の 図書約20 万冊、7分館と自動車文庫の蔵書との合計約43万冊の本は、どこに住んでいても、市民は最寄りの図書館を通じて借りられるのですから43万冊は市民一人一 人の蔵書ということができるのです。
本ばかりでなく、レコードや8ミリ、16ミリフイルム、スライド、テープ等も貸出しをしています。写す機械がなければ、映写機や幻灯機も一緒に借り出せるのです。
あなたがお友達を招いてお茶を飲みながらおしゃべりをする会を開こうと計画していらっしゃるなら、図書館からレコードやテープを借りてバックグラウンドミュージックを流してみるのもちょっとしゃれたアイディアではありませんか?
貸出しだけがサービスではありません。図書館には、百科事典や辞書類、年鑑、統計書、ハンドブック等を備えていて市民の調べ物のお手伝いをし ます。「去年一年間に日本から輸出したカラー・テレビの台数はどの位あったか?」とか「お雛祭りの由来が知りたい。」、「日野市の下水道の普及率はどの位 か。」といった質問が口頭で来ることも、手紙や電話で寄せられることもあります。このような質問に回答する仕事をレファレンス・サービスといいます。一年 間に5千件位のレファレンス・サービスをしています。
目の不自由な方がたのために大きい活字で印刷した本もそろえていますし、録音テープを作成して貸出しをしたり、市民のボランティアの方がたと契約して、対面朗読のサービスもしています。
百万冊の蔵書のうち、およそ3分の1は子どもの本です。図書館には親子連れの姿を沢山見かけます。図書館の子どもコーナーで、お母さんに小さ い声で本を読んで貰っている子どももいます。本の借り方を子どもに教わっているお父さんもいます。図書館では親子や友達とのふれ合いが沢山みられます。子 どもには週一回おはなし会を開いて、図書館員が古今東西のお話をして聴かせたり、本を読んであげたりする時間があります。お話に聴き入っている子どもたち の顔を、お父さんやお母さんに見せてあげたいようです。うっとりとした表情で、目は開いているのですが、心はすっかりお話の世界にひたり切っているので す。この表情を見るとお話をする側もいい熱を込めてしまうのです。
「うちの子どもはちっとも本を読まないのですが、どうすれば読むようになるでしょうか。」という質問を受けることがよくあります。
その時、私は「あなたは本をお読みになりますか?。」と逆に伺うのです。子どもを読書人にしようと思ったら親が読書人でなければ、無理な相談なのです。
読書はきっかけです。手元に本があれば、本に手がふれればいつのまにか手に取って読み始めるのです。印刷したものといえば新聞位しかないとい う家庭や、親が本を読む姿を見たことがない子どもは読書の習慣を持ちません。これは洋の東西を問わず事実なのです。図書館では、登録した人だけが読者だと は思っていません。家族の方がたも潜在的な、あるいは間接的な利用者とみなしています。4冊まで借りられるのですから、お年寄りや御主人やお子さん達の興 味をそそる本も借り出して、茶の間に置いてみて下さい。いつの間にか家族の誰かの手が延びて本のとりこになるでしょう。
2千年も前の哲人の思想も、5万キロも離れた地に住む人びとの喜びや悲しみも、本という小さな接点で体験することができるのです。シルクロー ドも宇宙も、本を通して自由に旅することができます。遺跡の発掘にも参加できますし、殺人事件もシャーロック・ホームズやポワロと一緒に解決したり、光源 氏と共に悩んだり・・・・・・本の扉を開きさえすればありとあらゆる世界がそこに在るのです。
借りた本は、借り出した図書館に返さなくてもよいのです。買物のついでに市内の別な分館に返しても、自動車文庫のステーションに返してもよいのです。
日野市の例を挙げたのは、中大の多摩キャンパスのお隣だからという理由だけではありません。日野市は、図書館の建物を建てるより先に、自動車 文庫を運搬して本を市民に近付けるサービスから始めて、児童へのサービス、中央館と分館、自動車文庫を有機的につないで、市の図書館の全蔵を有効に利用で きるようにして来たのです。ですから市民の30%が登録者で、一年間に百万冊以上の本が貸出されているのです。この数字はわが国の市区町村立図書館でも トップクラスで他の図書館のモデルとなって来たのです。登録や貸出しの数字が高いのは、それだけ市民の支持が強いことを意味します。
今では日野市ばかりでなく、沢山の市区町村の図書館も本の貸出し、児童へのサービス、市区町村内の図書館の有効な協力体制造りに励んでいます。
一度、近所の図書館を利用してみて下さい。御不満があればどんどん意見を図書館にぶつけて下さい。あなたの要望が図書館を支えていくのですから。

今圓子教授 中央大学最終講義記録 『図書館と来た道』 2001年12月19日 於3455教室

あいさつ  文学部教授 林 茂樹

学内の現役の学生諸君、いくつかの補足は必要だと思いますので、あらかじめ今先生のほうから頂きました資料に基づいて簡単にご紹介したいと思います。なお、今度文学部50周年の社会学科の紀要で両先生のご紹介が詳しくなされると思います。
今先生は、1932年3月23日のお生まれで、今年度ちょうどご定年を迎えられます。学歴としまして、慶應大学文学部図書館学科を卒業なさい まして、さらに、イリノイ大学大学院で勉強なさり、60年6月に図書館学修士課程を卒業されました。その後、いくつかの図書館に勤務なさいまして、69年 4月に獨協大学で教職におつきになられ、81年4月に中央大学においでになりました。その当時、文学部の図書館司書の担当ということでお一人だけでした が、哲学科から社会学科が独立するときに、社会学コースと社会情報学コースの2つのコースを設けるときに、今先生は社会情報学のほうにおいでになりまし た。社会情報学コースの中でも、とりわけ図書館情報学に大変なご努力をいただきまして、日本で数少ない図書館情報学の専門課程を作ることが出来ました。そ れ以降、順調に学生も増えて行きまして、かなりのOBOGが今先生の薫陶を受けて全国で活躍しております。
今先生は、図書館についてアメリカで研鑽された成果を日本にいち早く伝え、戦後、図書館学を日本で広められた大変な先生でいらっしゃいます。その先生の教えを受けられた皆さんは、非常に幸運なことではないかと思います。

「図書館と来た道」 文学部教授 今圓子教授

私が図書館と出会うまで

本日は大勢の方々にお集まりいただきありがとうございます。
私が、高校生になったのは1949年4月でした。その同じ時に新制大学が開設されました。当時は占領下でありまして、占領軍による教育改革が 行われ、 6・3・3・4の4が開設されたのです。私でも大学に入れるようになったのですから、目の前が「開けた!」という感じがいたしました。私にとって教育改革 の評価すべき点は、「男女共学」でした。それまで共学は小学校だけで、その後は男女別々に教育され、女の子は女学校だけ、男の子は中学校・高等学校・大学 と行けましたから、教育に男女で6年間の差がありました。また小学校以外では、男女で受ける教育の内容が別でした。男女共学になって、カリキュラムの内容 が同じになったという事で、本当に画期的なことだったのです。
私は「大学に行くわ!」と一大決心をしたのですが、父のお友達が「女が大学に行くとはなんだ!生意気だ!贅沢だ!長塚節の『土』くらい読んで みなさい」とだいぶ叱られました。しかし、幸なことに両親は賛成してくれまして、「お前、大学に行けよ。お前の月謝ぐらい出してやれるよ」と父が言ってく れましたので、私はいよいよ大学に行く気になったのです。ところが、大学に行って何を勉強したらよいか主題が決められず悩んでいました。そんなある日、母 が、「慶應大学に図書館学科って言う図書館のことを勉強する学科が出来るそうよ。アメリカ式にやるんですって」という情報を仕入れてきたのです。私はそれ を聞いたとたん、「私が勉強するのはこれだ!」とひらめいていたのです。図書館に行ったこともありませんでしたし、アメリカ式が何だか分かりませんでした が、これと目標が決まったら、心も落ち着きまして、受験勉強に取りかかりました。秀才でも何でもない普通の女の子が、試験に受かりさえすれば、大学に行け るという「機会均等」が私には本当に嬉しかったのです。さて、大学で何かを勉強しても、それから先のこととなると、女の就職口がありません、英文科や国文 科を出て、英語の先生、国語の先生になるくらいしか大学出の女の働き口はありませんでした。私はそれは、嫌だと思っていましたから、「図書館」なら女が働 けるんじゃないかという気持ちがありました。

1 慶應大学に入学して -The right book to the right person at the right time-

無事入学できまして、3年生から専門科目がはじまるのですが、ギトラー先生というアメリカ人の校長先生からオリエンテーション時間に、「図書館サービスの 有り様」とは「The right book to the right person at the right time」であると話されました。つまり、「求めている本を求めている人に求めている時に」提供する、これが図書館のサービスの有り様だと私は理解しまし て、非常に感銘を受けました。私の選択は間違ってなかったと自信を持ちました。新学期が始まってアメリカ式の授業のものすごさを知りました。毎時間毎時間 小試験があり、宿題が出るわけです。けれども、何が困ったかというと、その頃の図書館は閉架式ですので、図書館に入っても本を見ることがありません。です から、分類法であるデューイの十進法を習いましても、書庫の中でどのように並んでいるのか分からないわけです。図書館同士の貸し借り、インター・ライブラ リー・ローンについて習うのですが、個人にも貸出さないのに何で図書館同士で貸し借りができるのか、そんな話は夢物語のようにきこえました。図書館学科 で、図書館の仕事には3本の柱がある。「1:蔵書を構成すること」「2:蔵書を整理すること」「3:蔵書を利用に供すること」を習ったのですが、日本の図 書館は先の2つしか実現していなかったのです。利用という部分がまだ無視されていた時代です。そこで、レファレンス・サービスやインター・ライブラリー・ ローンなどを習いましても、何かピンと来ません。図書館に行っても学部の学生には貸し出しをしませんでしたので、利用ということが私達には分からないわけ です。アメリカ人の4人の先生には通訳がついて、授業が行われたのです。結局、3番目の「いかに図書館を利用してもらうか、利用させるか」、貸し出しやレ ファレンス、相互賃借などいろいろ利用について学びながら、私達は日本の図書館に「利用」という部分を付け加えて行くのだという気持を強く持つようになり ました。とにかく、無事に卒業いたしまして、六本木の国際文化会館図書室に勤めました。

2 実務経験を通して -欧米の図書館との出会い-

国際文化会館の図書室は、デューイの十進分類法で図書が棚に並んでいて、全部アメリカ式サービスが行われておりました。上司であったライブラリアンはアメ リカで勉強した方で、レファレンスはお手のものでした。大学で習ったことが、こういう風に動いているんだと知りました。2年たって上司のライブラリアンの 方から、「アメリカに行かない?」といわれ、二つ返事で留学しました。しかし、当時アメリカへ行くには30ドルしか持って出られませんし、大変な思いで修 士の課程に入ったわけです。アメリカの修士課程では、自分の専門科目で“C”を取ったら次の学級に進めないのです。ですから、私はAとBしかとれないので すから、ずいぶん緊張して過ごした2年間でした。イリノイ大学は州立大学の中で一番大きい図書館をもっておりました。毎学期1科目につき2本ずつペーパー を書くのですが、何を書くにしても、本がある、雑誌がある、索引があるので、勉強するのが楽しくなって来ました。索引や書誌で雑誌の論文だろうが本だろう が過去にさかのぼって検索して自分の論文を仕上げていくことができるのです。図書館は、はちきれんばかりに学生が利用していましたから、活発に動いていま した。この3番目(「蔵書をいかに利用させるか」)がはっきり図書館の中で実現されていることが理解出来ました。
さて、日本に帰ってみましたら、 全然就職口がないので、あちこちで働くことになりました。まずは東大図書館の臨時調査室に入りました。岸本英夫先生とおっしゃる宗教学の博士が東大の図書 館長になられたのです。先生はアメリカのハーバード大学に留学していらしたのでアメリカの図書館の事情をご存知でした。それから、ロックフェラー財団の ファーズ氏ともお知り合いだったので、ロックフェラー財団から助成金を得て東大の図書館を改革する仕事に着手なさったところでした。アメリカのハーバード 大学図書館長メトカーフさんがアドヴァイザーとして招かれました。メトカーフさんは東大の図書館の新しい設計図をお出しになりました。その時は、興奮して 息をのむような思いでした。東大の図書館には、その時、利用者が誰もいませんでした。本は閉架で書庫に入っていましたから、本の姿は見えません。寒々とし た空間でした。メトカーフさんの出された設計図には学部学生のための開架室、レファレンスルーム、雑誌と新聞室があり、各学部に学部図書館を、東大の総合 図書館には全学の総合目録を作るという案をお出しになりました。閉架式の図書館とは違う開架式の図書館にするという改革案が出てきたのです。これは本当に 興奮して夢中になって通訳をしました。事務部長はこれは非常にラディカルな案なので、誰にもいわないようにといわれ、私は一生懸命我慢していましたが、 10分もしないうちに図書館中の職員は皆知っていたのです。事務部長が全部しゃべってしまったのです、それくらい事務部長も興奮していたのです。これは 1960年のことでしたが、メトカーフさんの案が初めて古い大学図書館に光が当った時なのです。というより、まだ光も当たっていない、空が白んだ程度だっ たかもしれませんが、私がその場に立ち会えたのは幸せなことでした。その後、東大の図書館がだんだん変わってく、医学部図書館や経済学部図書館や薬学部図 書館などが次々に出来ていきました。その後、新設される新制大学もだんだんに利用を中心とする図書館に変わって行くのです。

3 日本図書館革命

それから私は慶應大学の図書館学科図書室の司書になり、その後医学部の図書館に異動になりました。医学部の図書館では、手作業でしたが、医学のインデック スを検索して、お医者さん達に論文の情報を提供する、という仕事。それから、SDI、コンテンツ・シート・サービスなど他でやっていない、非常に斬新な情 報提供サービスを体験いたしました。ここでの新しいことは、アメリカの国立医学図書館が世界中の医学雑誌を数万点集めておりまして、その論文をコンピュー ターでデータベース化して、プリントアウトし、索引の形にしたはじめて機械化された情報が入ってきたのです。それを日本の医学図書館の人達に知らせるため に「メドラース・ニュース・レター」を編集しましたが、モデルがないので手さぐりで一生懸命書きました。コンピューターによる文献のデータベースがアメリ カで出来て、それが日本に紹介されかかった時に、私が他の図書館にそれを紹介することができたという、また新しい体験をいたしまして、いよいよこの3番目 (「蔵書をいかに利用させるか」)が強まってくるわけです。
次に東大の駒場にアメリカ研究資料センターを立ち上げる仕事をしました。アメリカ政治史研究家高木先生が退官なさって本が5,000冊くらい 残されました。この蔵書を基に資料センターを作ることになりました。私は本を棚に並べて行くうちに、これは全部アメリカの出版物だと気づいたのです。それ なら、アメリカの議会図書館で作っている印刷カードを輸入できないかとひらめいたのです。慶應の図書館学科を卒業してジプロという本の輸入をやっている方 に頼むと、「やってみましょう」と快く引き受けて下さいましたので、私は、本のタイトルページの裏にあるLCのカード番号をどんどん控えて、ジプロさんに 注文を出しますと、本当にカードがどんどん入ってくるのです。このカードで整理すると非常に早いのです。これは集中整理方式といいまして、アメリカの議会 図書館で基本となるカードとそのコピーをつくれば、各地域の図書館がそれを買って利用できるので図書館員は本の整理をしなくて済むのです。レファレンス・ サービスや、子供へのお話だとかいろいろなサービスができるわけです。私はその集中整理方式の効力というのを身を持って体験しましたので、早速、国会図書 館や出版社に行って、「これ、目録作業にすごく有効よ」といい歩いたのです。製本する前に国会図書館のカード番号を表題の裏に印刷するのは大へんな手間 で、それだけの手間をかけてはペイしないから、国会図書館も出版社も誰も私の話をきいてくれませんでした。アメリカの出版社にとっては図書館は商売ができ るマーケットなのです。でも、日本出版社にとっては個人の読者がお客で、図書館は顧客ではないのです。当時、日本の公共図書館は850館しかありませんで した。その上、日本人は本を個人で買うのです。外国人は本を買う習慣がないのです。アメリカ人は字が書けるようになると、親が子どもを図書館に連れて行っ て本を借りるのが習慣なのです。学者の家に行っても、家が傾くほど本があったり、雑誌が廊下にまでこぼれ出していたりというようなことはありません。です から、大学図書館がお粗末だったら、いい先生に来てもらえないのです。先生はみんな大学図書館で本を借りるのが当たり前なのです。ですから、日本の図書館 が出版社にとっていかに小さいマーケットでしかないか、図書館の力の弱さを痛感いたしました。また、本を読む習慣の日本と欧米の違いをひとつ学んだわけで す。結局、アメリカ研究資料センターは私を専任職員にしてくれませんでした。

4 教員への入り口

その時に、獨協大学から司書課程を立ち上げるから来ないかといわれたのですが、私は司書になりたかったので教職に就くという選択肢を持っておりませんでし たので、拒んでおりましたが、「アメリカで修士を取ってきたのでしょう、、大学ではそういう人をもとめているのですよ」と殺し文句をいわれ、教職につくこ とになってしまいました。
大学へ行ったら、ゲバの最中。学生達はいろいろな色のヘルメットをかぶって棍棒を持ってガーガー叫んでいました。大学側は会議会議で授業どこ ろではないのです。獨協大学は埼玉県の草加市にあるのですが、栃木県に医科大を作るということになって、その本を私が整理することになりました。図書館の 倉庫にドーッと本が来まして、私ともうひとりいた職員と学生アルバイト10人くらいで必死に整理いたしました。そして、栃木に医科大の建物が出来かかった 時、図書館の大きさと場所が分かった時点で、私はすぐ図書館の図面を描いてしまいました。建築家が図面を描いたらもう二度と直してくれませんので、向こう が描く前に、描いてしまったのです。それで、建築家にスーッと出したら、「まぁ大筋でいいでしょう」と認めて下さったのです。今でも図書館は3階が増築さ れましたが、その時のままで使われております。
上智大学が新しく図書館を作るから意見を聴きたいと云われ、上智大学の会議に出席しました。設計者はアメリカ人でしたが、その設計者は図書館 の仕事に詳しいこと!人の流れ、本の流れ、サービスについてよく知っているのにおどろきました。会議が終わった後、私が「あなた大したものね、よく勉強な さったのね」と感心して申しましたら、「そりゃ、そうです。もし、これくらいやらなかったら、私達は図書館の設計を受注することができないじゃないです か」と云われました。これがプロというもの、これが競争社会なのかと、そこでまたひとつ学ぶことが出来ました。

4-1 日本図書館協会国際交流委員長として

1977年秋のことでしたが、私に日本図書館協会の国際交流委員長をやれるようにいわれ、決まってしまいました。女の部会長、委員長がひとりもいないか ら、ひとりくらい女の委員長を任命しようと理事会で決まったらしいのです。それで空いている委員長が国際交流委員長しかなかったのです。それで、私に決 まったのです。
次の年78年、「IFLA(International Federation of Library Associations and Institutions)=国際図書館連盟」という世界中の図書館協会と主だった図書館がメンバーになっている国際的な組織の大会にはじめて出て行きま した。場所は、チェコスロバキアの山の上でした。いろいろな国の人が私のところに寄ってきて、「日本から来たそうだけど、日本に図書館はあるの?」「図書 館協会あるの?」と聞くのです。こんなこと聞かれるのは、いかに日本が知られてないかということに気がつきました。そこでIFLA参加団を組織することを 思い付きました。80年はマニラでIFLA大会が開かれました。マニラは日本から近いですし、50人も日本人が参加しました。それ以降毎年IFLA参加団 が組織され、IFLA大会に参加しております。

5 中央大学に来て

その頃に私は中央大学に移ります。私が中央大学に移ったのは81年4月ですが、驚いたことに私は文学部の中でひとりぼっちだったのです。どこの学科にも属 していませんから、共同研究室はない、紀要はない、研究休暇も取れないという情けない状態で腹を立てていたのですが、それ所ではなくなってしまったので す。

5-1 IFLAの東京大会

IFLAの大会を日本でやることになって、私は委員長でしたから大変でした。しかも、日本で大会を開くなら日本人に発表してもらわなければいけないと思 い、IFLAには大学図書館、公共図書館、教育問題、児童へのサービスといった部会があるのですが、それらの部会に対応して、日本側でもそういう組織を 作って、その部会長と向こうの部会長と連絡をとってもらいました。その結果、1986年の東京大会では日本から30本もの発表をしてもらうことが出来まし た。日本中から1,200人もの図書館員が参加し、外国からは800人の参加者がありました。東京大会のメリットは、日本の図書館の実情を外国に発信する ことが出来たことです。日本に図書館はあるのと聞かれることはなくなりましたし、日本の人もIFLAって何ときく人もなくなりました。日本から参加した 1,200人も外国の図書館サービスの状況を直接聞くことが出来たことは大きなメリットであったと思います。
ひとつだけ残念なことがあります。それは、会場を中央大学に持って来られなかったことで、今でも悔しいです。当時多摩には2,000人もの参加者を泊めるホテルがない、食事を取る場所もない、移動が出来ない、ということで青山学院大学を会場にしたのです。
私は10年間国際交流委員長をやりましたので、10回IFLAの大会に参加いたしました。ということは10カ国の会に出て、帰りは違う国をま わって帰るので、10年間の間に20数カ国をまわって沢山の図書館を見学することが出来ました。外国の図書館は綺麗で個性があるのです。今の言葉でいえ ば、顔がある、一館一館、顔があるのです。ところが日本の図書館はのっぺらぼうでしょ。いくつか見学しても忘れてしまうくらいのっぺらぼうなんです。何が 違うの?と思いました。一番大きな違いは、図書館員の養成でした。
外国では図書館員の養成というのは図書館長の養成、つまり、幹部候補生を養成しているのです。アメリカでは修士以上の教育を受けますし、イギ リスでは図書館協会の試験に受からなければプロの図書館員になれません。デンマークは4年間専門に学ばなければならないのです。日本で教えられている司書 課程は初心者の養成なのです。日本はひとつの組織、たとえば、中央大学に就職しますと、中央大学の文学部事務室、経済学部事務室、図書館、厚生課というよ うに中央大学の中だけで異動して行き、次第に位が上がっていきますが、大学の、外に出ないわけです。これは中央大学に限りませんで、日本の組織みんなそう です。これを終身雇用制というわけですが、欧米ではそうではないのです。より高いポジション、高い給料目指して、すなわち図書館長めがけてポジションを変 わっていくのです。組織を越えて動いて行くのです。それがプロフェッショナルの生き方なので、一生図書館で働き、図書館長へ向けて動いて行きます。学校図 書館から公共図書館、公共図書館から大学図書館というふうに館種を超えて動いて行けるし、組織を超えて動いて行けるのです。
そこで、私は、また日本と外国の差のジレンマに陥ったわけです。いくら日本で高いレベルの司書養成をしても、その組織の中でなまじ専門職が出 来てしまうと、異動というベルトコンベアーに乗れないわけです。これでは乗るほうも乗せるほうも困ってしまいます。しかし、今の時代は変わってきています よね、リストラされてある会社から別の会社に移る人が出て来ています。つまり組織を超えるということなのです。これはプロフェッショナルが栄える時代の前 兆かもしれないと内心思っております。また、ヘッドハンティングをする会社が出てきています。いよいよ、日本の社会も欧米型になっていくのではないかと読 んでいるのですが・・・

5-2 図書館情報学専修の誕生

文学部の改組がありまして、社会学と教育学が哲学科から出て、学科として独立することになりました。社会学の中に社会情報学を、そのさらに中に図書館情報 学をいれていただくことが出来ました。お兄ちゃんである吉田先生が、情報コミュニケーションは「横」に情報を「伝達」していき、図書館情報は「縦」に情報 を「蓄積」していくと社会情報学の中に図書館情報学を理論づけしていただいたので、今までひとりで孤独だった私はとたんに大喜びです。91年に専攻になり まして、司書課程に対する要望も強かったので、専攻と司書課程の両方を置きました。この部屋(3455教室)を図書館情報学と図書館司書課程の専用の教室 にしていただきました。日本で200校くらいの大学と短大が司書課程を置いているのですが、その中で中央大学は日本で5番目に大学レベルで専攻にすること が出来たのです。それから1年、間があきましたけど、大学院(修士・博士)を作ることが出来ました。これも日本で5番目でした。その後、私が吉田理論を あっちこっちでしゃべりまして、図書館学で専攻コースや大学院が他の大学でも開設するところが出て来ました。

5-3 図書館員のレベルアップを目指して

私がなぜ、司書課程で満足していないかというと、あまり外国と司書養成に差があるからなのです。なんとか日本の図書館員が外国の図書館員と同じ土俵で話し ができるようにしたいという思いがありました。私にはひとつの考えがありました。それはアメリカで勉強したせいだと思うのですけれど、「情報はパワー だ!」という考えなのです。民主社会において市民がバカでは困る、主権者である市民が情報を持っていなければならない。情報を持っていないということは、 政府が何をしても分からないということですから、それでは、市民が主権者にはなり得ないと思っております。図書館員は市民のために情報を収集し、整理し、 提供するのが仕事でありますから、市民が望んでいる情報を提供できなければなりません。ですから、図書館員のレベルが低くては、住民に情報を提供する立場 になれないと思うのです。地域の図書館では図書館長は2~3年で異動します。私は4つの市で図書館協議委員や協議会長をしていますけれど、2~3年ごとに 図書館長が変わります。土木課から来ました、とか、公園課から来ましたとか、福祉課から来ましたとかいって挨拶をされるのです。図書館長は行政マンとして は玄人であっても、図書館的サービスでは素人です。図書館で永く叩き上げられた人は図書館長にはなれないのです。図書館員のレベルを上げることによって、 図書館から出ても、また、図書館長として戻ってこられる人を養成したいのです。
もうひとつ図書館員の養成のレベルを上げなければならないと思った のは、図書館学を教える先生達が足りないのです。中央大学で図書館学が専攻できる大学院ができたのは5番目で、その前に4つしかなくて、まだまだ先生が 育ってない、新しい分野なのです。慶應の図書館学科が出来たのが1951年4月ですから、今年50周年を祝ったのです。大学院が出来たのはずっと後のこと なので、教員の養成が追いつきません。慶應と愛知淑徳にだけ頼ってはいられません。私はどうしても図書館員のレベルを上げることと、教員を養成することが 悲願でした。中大でこれが実現しまして、博士課程を終えた人が1名、修士課程を終えた人が9名、落ちなければですが(笑)。ですから、私は、まぁ満足して 大学を去れるわけです。

おわりに -The right book to the right person at the right time-

私が考えておりますのは、地域の情報は公共図書館が扱う。インターネットやCD-ROMといったデジタル情報を含めて、あらゆる分野の図書、行政資料な ど、全部ひっくるめた地域のデータベース、あるいはデータダムといったほうが私は好きなのですが、公共図書館は地域のデータダムであります。そのダムに情 報を蓄え、それを「The right book to the right person at the right time」の理念に基づいて市民が欲しいと思った時に欲しい本が得られるようにすべきです。そのためには検索がよりよく出来て、その大きなデータベースの 内容を取り出せるようにしたいのです。アイディアを持って、非常に新しい検索方法でシソーラスを構築して博士の学位をお取りになった山崎久道先生に私はこ のアイディアを実現していただきたいと考えて山崎先生に来ていただきました。今、私は本当にホッとしております。コンピュータ時代だからといってアナログ でもデジタルでも情報なのです。先生に教わった図書館のサービスの有り様「The right book to the right person at the right time」という理念は変わっていないのです。皆さんにこの言葉を贈って、お別れしたいと思います。
この図書館情報学専修 が発展していきますように、どうぞご協力くださいますよう皆様にお願いいたします。中央大学に対しまして、本当に感謝しております。同僚の先生方、非常勤 でいろいろ助けてくださいました先生方、また私の講義を聞いてくださいました、卒業生、在校生、また、こんなに立ったままで聞いてくださいました方々にも 厚く厚く御礼申し上げます。さよなら。

「今先生との12年間を振り返って」 中央大学 文学部 兼任講師 小山 憲司

2002年12月19日、今先生の最終講義は、いつもと同じ、あの3455教室で行われた。司書を目指す学生であれば、一度はこの場所で今先生からの講義 を受ける、由緒正しき教室である。最終講義当日は、この「思い出」の教室が在学生や教職員の方々はもちろんのこと、多くの卒業生によって埋め尽くされ、立 ち見の出るほどの盛況振りであった。あらためて、今先生の中央大学における存在の大きさを感じると同時に、これまで先生がなさってきたことの奥深さを実感 した。
同時に、個人的にも今先生の存在の大きさをあらためて実感した。最終講義に続いて行われた懇親会の席上で、私は卒業生の代表として、「今先生との思い出」について話す機会を与えられ、その原稿を執筆するにあたり、今先生との出会いから今までを振り返ったからである。
私が今先生と初めてお会いしたのは、中央大学文学部に入学した1990年である。周知のとおり、私が入学した社会学科社会情報学コース図書館 情報学専修は、図書館学を専門する学科・専攻としては全国で5番目のもので、これは今先生のご尽力の賜物である。この専修課程が設置されて初めて入学した 学生が私たち1期生であった。その後も、私は大学院修士課程の1期生として、また博士後期課程の1期生として、学生として9年間、その後もあわせると10 年以上もの長きにわたり、今先生からご指導いただいたことになる。
特に大学院修士課程に入ってからは、今ゼミ所属が私一人であったこともあり、今先生から1対1の個人授業を2年間も受けることができた。この ことは、今ではとても貴重な財産となっている。ゼミでは、海外の文献を丹念に読み進めることにより、諸外国の図書館事情を知るとともに、英語力そのものも 向上させることができた。その際、今先生からは文献には記述されていない諸外国の図書館事情はもちろんのこと、これまで先生が研究なさってきたこと、経験 されたことなどをもとに多くのことを教わった。もちろん、学部時代にも今先生をはじめ、多くの先生方から図書館に関するさまざまなことを教わり、それらが 現在も役立っているが、そうした知識があくまで初歩的なものであったことを知ったのは、こうした今先生とのゼミを通じてであった。
さらに博士後期課程では、今先生には無理なお願いをして、ゼミを土曜日に実施していただいた。というのも、私自身が東京大学付属図書館の図書 館員として、実務家としての第一歩を踏み出すこととなったからである。学生と図書館員の二足の草鞋という道を選択した私であったが、今先生はこのような我 儘をご理解くださり、前にもましてさまざまな指導・助言をくださった。なお、この土曜開講が功を奏したからか、今ゼミの門戸をたたく人のなかに社会人の方 も見えるようになり、今ゼミの活動内容が大きく広がったように思われる。
このように振り返ると、今日、私が東京大学付属図書館で図書館員をしていることも、中央大学文学部で教鞭をとっていることも、一重に今先生の おかげであることを痛感する。あらためて、今先生にお礼申し上げるとともに、今後も私たち後進のためにご指導いただきたいと切にお願い申し上げる。最後 に、今先生におかれましては、健康に留意しながら、これからもアクティブでパワフルな今先生でいらっしゃっていただきたいと思います。本当にありがとうご ざいました。