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ハワイの日系アメリカ人文化紹介パンフレットの作成

文学部人文社会学科 英語文学文化専攻 4年
宮本 諒子

活動の概要

 本プロジェクトはハワイ島における日系アメリカ人文化に焦点をあてた小冊子を作るものです。若者が興味をもてるような「可愛い」を意識し冊子を作成し、冊子を読んだ人に日系人アメリカ人の歴史を知るきっかけになることを期待し冊子の作成を行います。

活動内容

  1. 事前アンケート
    大学1年生~4年生、社会人2年目までの若者20人にハワイの日系人の存在を知っているかどうかの簡単な予備アンケートを行う。このことにより、ハワイに行ってからの調査内容の具体的な項目を精査していく。
  2. 現地での取材
    ハワイ島ヒロを中心に日系人文化を取材する。主に日系人が開業した商店に取材をさせてもらう。内容は、お店の歴史・事業内容・こだわり・日本の若者へのメッセージ等を予定している。
  3. 小冊子作成
    取材内容を編集し、写真やイラストを交えながら、これまでにない学術的でありながらも楽しめる観光案内としての小冊子を制作する。
  4. 小冊子のフィードバック
    学内の国際交流センターや旅行関連所、ハワイアンレストラン等に交渉し設置してもらう。また、ハワイの日系人に関するアンケートの実施、冊子の感想を募る。

活動の動機

 アメリカへの交換留学の最中に偶然日系アメリカ人が戦時中強制収容所で生活していたことを知りました。それまで日系アメリカ人という存在について無知であった私はそれ以来自分で調べることにしました。その後ハワイ大学ヒロ校で1学期間の認定留学を実施し、主にハワイにおける日系アメリカ人の歴史を学びました。留学中は授業の課題で日系2世の方へのインタビューの他、日系人コミュニティが主催する行事等のボランティアも行いました。ハワイ島ヒロは観光地化されてなく、日系人の歴史・文化が色濃く残っている地であり、どこか懐かしい雰囲気を感じることができます。初めて空港に降り立った際、広島にルーツを持つ日系3世の方が「どこから来たの?」と話しかけてくれたことも印象的でした。留学中に出会った日系アメリカ人の方々は日本から来た私を歓迎して下さり、とても親切にして下さりました。

 日系人の歴史の中で最も残酷でかつ輝かしいのは第二次世界大戦です。その頃のハワイでは、日本から渡った人たち(日系一世)とその子どもである日系二世合わせて全ハワイ人口の40%を占めていました。二世はアメリカで出生したためアメリカ国籍を持つアメリカ人ですが、(ハワイ王国は併合され、1900年以来アメリカの準州となりました。)日本人の親を持ち、家では日本語を話し、アメリカの公立学校と日本語学校の両方に通うことが普通でした。彼らは日本の真珠湾攻撃によって非常に危うい立場となります。アメリカ国籍を有する日系二世を含め、日系人は「敵性外国人」のレッテルを貼られてしまいます。このように、日本とアメリカ両方の国から見捨てられるような立場となった日系二世の若者たちは自分たちをアメリカ人として認めてもらうため、未来の日系アメリカ人の地位向上のため、アメリカの軍隊に志願しました。日系アメリカ人のみで構成された100th Battalion, 442nd, MISの各部隊で驚くべき活躍をしました。442ndはアメリカの軍隊至上最も輝かしい功績を上げました。戦地から帰ってきた二世兵士たちはGI(退役軍人に対して給付されるお金)を利用し大学へ進学しハワイの発展に貢献したのでした。

 毎年多くの日本人がハワイへ行くにも関わらず、こうした歴史を私たち日本人の多くが知らないことに矛盾を感じました。私自身も交換留学中の偶然がなければ日系アメリカ人について知ることはなかったかもしれません。しかし、日系人の歴史を学ぶことは人種や国家や愛国心、戦争、差別など多くの問題を考えるきっかけともなると思います。そして何より、同じ先祖を持つ日系アメリカ人の人々が日本の伝統的価値観である「親孝行」「恩」「義理」「我慢」等を大切にしながら苦難を乗り越えた歴史は日本の価値観をもう一度考えるきっかけをも与えてくれました。

 日系アメリカ人に関する文献や資料は数多く存在しています。しかしそれらの資料は文字が多く、既に日系アメリカ人の歴史に興味がある人ならまだしも、導入本としては適切ではありません。そこで、まずは日系人という存在を知ってもらうために学術的要素も盛り込んだ目で楽しめる小冊子を制作できないかと考えるようになりました。出来上がった冊子はもちろん販売目的ではなくごく一部の人の目にしかとまることはないでしょう。しかし、そのごく一部の人にも知ってもらえるのならば、活動として意味があるのではないかと考え奨学金に応募しました。

活動内容

1、予備アンケート

友人やサークル仲間、アルバイト先の後輩に協力してもらい日系人について知っていることはあるかと問うた結果、予想通り9割以上の人が何も知らないと答えました。25人中1名がアメリカ本土の日系アメリカ人の強制収容所体験を知っており、他の1名はサトウキビ畑での労働やオアフ島のマツモトシェイブアイスの歴史について知識を持っていました。

2、活動中のスケジュール

日本での準備:

8月前半 
航空券、宿泊先の予約を行う 
インタビュー先を探す。インターネットではなかなか情報が集まらないため、日系アメリカ人の友人やハワイでセカンドライフを送る知り合いに情報をもらいました。

8月後半~9月前半
インタビューのお願いをメールで送りました。

ハワイでの活動:

9月9日(月) 
成田国際空港出発。同日、ホノルル国際空港着 
ホノルル国際空港出発-ハワイ島コナ空港到着 
ホステルにチェックイン(koa wood hale)

9月10日(火)
Country samurai coffee company のWalter Kunitakeさんにインタビューを実施。

9月11日(水) 
Teshima's restaurant の初代オーナー、手島静子さんへインタビュー 
Manago Hotelで写真撮影

9月12日(木) 
コナからバスに乗り、ヒロへ向かう。 
友人宅到着

9月13日(金) 
ヒロのダウンタウン散策 
Kawamotoで写真撮影 
KD's gift shopにてオーナーCathyさんと話す。 
Suisanにてオヤマ・ミチコさんと出会う。

9月14日(土) 
ダウンタウンのアンティークショップでインタビューを断られる 
Cafe100にてGail Miyashiroさんにインタビュー。

9月15日(日)
オフ

9月16日(月) 
KTAのBaldy Taniguchiさんにインタビューを行う 
ハワイジャパニーズセンター訪問

9月17日(火) 
Chevrolet所長、Baldy Higashiさんにインタビュー 
Baldyさんの孫であるKenichiさんのオープンしたレストランで昼食 
午後5時頃ヒロ発 マウイ着 
ホステルにチェックイン(moped city maui bed)

9月18日(水) 
Kansha Preschoolの見学 
Nisei memorial center のeducation center訪問

9月19日(木) 
Maui Okinawa center 訪問 
Suger museum見学

9月20日(金) 
マウイ島カフルイ空港発-ホノルル国際空港着 
ホノルル国際空港発

9月21日(土)
成田国際空港到着

Country Samurai Coffee Company 国武コーヒー Walter Kunitake さん

コーヒー好きの人ならブルーマウンテン、キリマンジャロと並ぶハワイ島のコナコーヒーをご存知かと思います。
コナコーヒーはかつて日系人の手で復活した産業ですが、現在日系人の方でコーヒー農家を営んでいる人はごくわずかです。そして注目すべきは、昔ながらのコーヒー栽培方法に乗っ取った唯一のコナ・コーヒー農園であるという点です。コーヒーの木は、他の農園のように低く切りそろえず自然な高さにしているため、より豊かな味わいの豆がよりたくさん収穫できるのです。(webサイトより)

カイルア・コナにあるお店。AM11:00~PM17:00

国武コーヒーの存在は日系アメリカ人の友人に教えてもらいました。
WalterさんはコナにあるKona Japanese Civic Associationの理事も勤めていたため、そこのホームページから個人のEメールアドレスを見つけることができました。

Walterさんはハワイ島コナで生まれた日系3世であり、現在68歳です。両親が使っていた言葉として日本語もはなされました。もともと父方、母方両方の両親がコーヒー農園で働いており、両親の代から自分たちの土地で農業をはじめました。
は祖父母の代から受け継いだコーヒーに加えて豆、かぼちゃ、生姜、芋などを生産しオアフ島へと出荷する大きな農家で育ちました。

コーヒー豆の収穫時はもちろん家族総出で仕事をしたそうです。コーヒーをあまり飲まなかったというWalterさんも、畑仕事の合間のコーヒーブレイクで休むためにコーヒーを飲むようになったそうです。「あまりコーヒーは好きじゃなかったけど、コーヒーを飲まないなら働けと言われたからね」と笑って答えてくれました。今でもコーヒーを飲む祭にはミルクと砂糖をたっぷりと入れるそうです。
高校卒業後、コーヒー豆の収穫時期で忙しかったため、大学入学を1学期間見合わせて、次の年の冬から入学したそうです。大学卒業時は丁度ベトナム戦争の真っ只中にあり、仕事を見つけるのが困難だったようでコナの実家で再び農場を手伝うことにしました。その時家族はコーヒービジネスを既に辞めていたそうです。大学卒業してから3年間主にトマトの栽培をしたWalterさんでしたが、大量の殺虫剤を使用する畑では長く生きていられないと思い、再び進学を決意しました。ハワイ大学マノア校で1972年にMBAを取得、その後会計学で博士課程を修了しました。その後はペンシルバニア州で大学教員として働き、1987年、結婚を期にコナへと帰って来ました。新しく立てた家には子ども達のためにコーヒーの木を600本植えたそうです。それは、Walterさんが幼い頃農場で育ち、たくさんの事を学んだ経験があったからでした。

お客さんから届いた写真がお店に飾られている

コナではハワイ大学コナ校(現在はコミュニティカレッジ)の立ち上げ、University directorとして働きました。の後何年かして、上層部の人間との意見のくい違いから仕事を辞めたそうです。教育者として25年間働いたので、十分満足であったと言います。次は何をしようかなと考え、コーヒー農家になる事に決めたそうです。子どものために植えた600本のコーヒーの木からは収穫し販売できるだけのコーヒーを収穫することができました。 
心と手でコーヒーを作っているWalterさんのコナコーヒーは日本人観光客からも大変人気があり、毎年コナに来るという日本人夫婦は、「コナにはコナコーヒーがたくさん売っているけど、クニタケさんのとこのは安心して飲める、本物のコナコーヒーだなって思う」と話してくれました。

コナコーヒーにはハワイ州農務省が定めたコーヒ豆の等級制度があります。豆の大きさによって、extra fancy, fancy, Kona no.1, primeそして単粒のpea berry. (コーヒーの実には2つの種(豆)が入っているのが通常ですが、1つしか入っていないものがあり、これをピーベリーと呼びます) 
これらの等級審査をクリアしたものが公式なコナコーヒーとして認められます。Country Samurai Coffeeでは豆の等級によってパッケージングがされており、もちろん値段も違います。しかしコナコーヒを販売している多くのブランドでは等級分けをしておらず、 
コナコーヒーとして公式には認められていないHawaii No.3と言われるサイズの豆等とごちゃまぜにして販売しています。 ハワイに行った際には是非注目してコナコーヒーを選んでみてほしいものです。

「I'm a lucky guy, very lucky」というWalter さんの言葉がとても印象的でした。「人生を楽しむにはなんでも勉強してみること、両親はとても良い先生だった」と語ってくれました。コナのコミュニティサービスにおいても精力的に活動するWalterさんはとても素敵な人でした。

Teshima's Restaurant 手島静子さん

てしま食堂を知ったのは本屋で見たハワイ島の観光ブックでした。"看板娘は日系2世の静子おばあちゃん"と書いており、すぐに興味を持ちました。 
インターネットで調べてみたとところ、大変の人気の日本食レストランだということがわかりました。また、数年前に当時104歳であった手島静子さん(静子おばあちゃん)を取材したTBSのテレビ番組が大きな反響を呼び、その後静子さんへのインタビューが「104歳になってわかったこと。」という題名の書籍として販売されている事を知り、すぐに購入しました。 
手島レストランは独自にホームページを持っていなかったのですが、Facebookにページを持っており、そこを通じて連絡を試みました。 
しかし返事を得られないままハワイへ行くこととなりました。 
Walterさんにそのことを話すと、手島さんとは個人的な友人だからと言って、10日の夜レストランへ連れて行って下さいました。 
レストランは大変混雑しており、従業員の方々もとても忙しそうに働いていました。 
Walterさんは静子さんの孫であるRonnieさんを紹介してくれました。Ronnieさんのことやお店の状況については書籍を読んだため大体は把握していました。 
WalterさんがRonnieさんに話をして下さると、Ronnieさんは、「あっ」という顔をして、Facebookのメッセージに返信しなかった事を謝ってくれました。ここ最近、コックが辞めてしまったりと大忙しだったようです。 
大変な時に来てしまったなあと内心思っていたのですが、Ronnieさんは「Grammaはきっとよろこぶはずだ」と言って下さいました。 
静子さんは現在106歳。地元なら誰もが知っているみんなのおばあちゃんです。その人柄に惹かれ、ローカルから観光客まで毎日多くのお客さんが静子おばあちゃんに会いにお店を訪れていました。100歳を超えてもお店で働いていたおばあちゃんも現在は106歳。同じ敷地内にある自宅で過ごしています。そのため、ここ1、2年はお店に行ってもおばあちゃんには会うことはできません。静子さんは朝目が覚めてから起き上がるのに時間がかかるそうで、次の日の朝11 時頃に再度お邪魔することになりました。 
忙しいにもかかわらずRonnieさんが朝迎えに来て下さり、レストランへ向かいました。 
Ronnieさんは静子さんの長女、史子さんの息子でありオアフ島出身です。史子さんがお店を継ぐ予定だったのですが、病気により   の若さで亡くなりました。母親が病気になったとき、手伝って欲しいと呼ばれたのがRonnieさんでした。そして今は店のオーナーです。Ronnieさんはもともと自分でビジネスをはじめるつもりだったそうで、レストランを継いだ今も毎日が葛藤だと、行きの車で話してくれました。

静子さんは今年の5月に106歳の誕生日を迎えました。耳は遠くなっており、マイク付きの補聴器を使用しなければならなかったのですが、記憶が非常に鮮明であり、コミュニケーションをとるのに不自由はありませんでした。静子さんは日系2世であり、とても穏やかな日本語を話されました。私は静子さんになぜレストランを始めたのか、幼い頃の思いでなどの話を聞きました。静子さんは人と接することが大好きで、尚且つ忙しくしていることも好きだったので色んな出会いのある食堂は自分にぴったりだと思ったと言っていました。いつも笑顔でいれば誰とでも仲良くできると教えてくれました。食堂は連日大盛況で、寝る間も惜しんで働いたそうです。もちろん家庭の仕事もこなしました。「たいへんだったのではないですか。」と聞くと、「働くことが一番の幸せ」と言っていました。 
なんでも前向きにやることが人生を楽しむコツだそうです。 
また、辛い時は「お店が助けてくれた」と言っていました。

「I enjoy my life very much」106年間も生きている静子さん以上に言葉に深みと重みを持たせられる人がいるのでしょうか。

SUISAN

SUISANは1907年創業の総合食品卸会社です。 
ヒロのココナッツアイランドには水産物を扱うSUISANのお店があります。そこでは新鮮な魚や貝、そしてローカルフードであるPoke(ポキ,ポケ)を販売しています。 
Pokeとは、ぶつ切りにした生のマグロや鮭を色んな種類のタレに漬け込んである食べ物です。ここではPokeをご飯にのせたPoke Bowlが人気です。

SUISAN買い物に行くと素敵な出会いがありました。どのPokeを注文しようか考えていると、日系のおばあちゃんが日本語で話しかけてくれました。挨拶を交わした後、彼女は注文の品を受け取り外へ出て行ってしまいました。 
「あー、せっかくのチャンスだったのに」と思いながらレジに並びました。外に出ると幸運なことにおばあちゃんはまだお店の近くにおり、私が話しかける前に、「一緒にごはんをたべましょ」と誘ってくれました。 
彼女の名前はオヤマ・ミチコさん。ヒロで生まれ育った日系二世の方です。お父さんは自分で砂糖キビ畑を持っていたそうです。この日は遊びに来る息子家族との食事何を作ろうかなと悩んでいました。食後には家で採れたミカンを下さり、妹さんがもってきたお寿司も持たせてくれました。そしてなんと次のインタビューの場所まで車で送って下さいました。

  

KD's gift shop

センスの良いアンティークの品、手作りの商品をおくこの店は留学中も何度も足を運ぶお気に入りのお店でした。オーナーのCathyさんと買い物終わりに私は2年前に留学をしていて、今のプロジェクトの内容を話すと、自分はアメリカ本土出身で日系人と白人とのハーフ、ここではhapa(ハパ)と呼ぶのよと教えてくれました。Cathyさんの母親はハワイ島で生まれ育ったそうです。ただ、先祖についてはあまり知らないと言っており、日系人だからといって皆自分のルーツを知っているわけではないのだなと思いました。私が日系アメリカ人のオーナーのお店を探していると伝えると、ダウンタウンにあるアンティークショップを教えてくれました。しかし、日系人オーナーは年々減少しているらしく、やはり後継者不足が一番の要因だと言います。良い教育を受けさせたからこそ、家業を継ぎたがらないそうです。


その後、Cathyさんが紹介してくれたアンティークショップに行きました。 
店内には日本のもの、アメリカのもので溢れ、「こんなものがハワイにあるのか」と驚きがたくさんありました。 
オーナーさんにプロジェクトの概要と、少しだけ話を聞かせてほしいとお願いしたのですが、断られてしまいました。(写真撮影の許可は頂けました)彼個人的な問題だったのかもしれませんが、日系人文化継承や紹介に関して非協力的な日系人もいるという、当たり前の視点を再確認することができました。そういった意味では良い経験であったと思います。

CAFÉ 100 Gail Miyashiroさん

CAFÉ 100 Gail Miyashiroさん

日本の観光ブックにも数多く掲載されているカフェ100。ロコモコを中心としたバラエティ豊かなメニューとリーズナブルな価格帯がローカルや観光客から人気の理由だと考えられます。 
価格帯が非常にリーズナブルなのには理由がありました。 
「外食は人生の楽しみの一つ。お金があまりない人でも外でご飯が食べられるように、家計の負担にならないようにできるだけ安くする」という初代オーナーであるRichard Miyashiroさんの思いが今も受け継がれているからです。 
私は留学当時にカフェ100の近くのアパートに住んでいたこともあり、よく利用していました。地元の日系アメリカ人には有名な話ですが、初代オーナーのRichard Miyashiroさんは第二次世界大戦中にアメリカ軍の100th Infantry Battalion( 第100歩兵団)として戦地で戦った退役軍人の一人です。100th Battalionはその勇猛果敢な戦いぶりと功績でパープルハートとも言われています。 
Cafe100の100はこの100th Battlionからきているのです。 
現オーナーのGailさんはRichardさんの三人娘の末っ子で、日系3世。ミヤシロという苗字からもわかるように彼女の祖父は沖縄からの移民でした。ゲイルさんは沖縄にルーツをもつからと差別された経験はなかったそうですが、両親や祖父母の時代には差別は存在していたと思うと言っていました。

さて、話をRichardさんに戻したいと思います。 
戦地から帰ってきたRichardさんは生まれ故郷であるハワイ島のヒロでレストランを開きました。彼は軍隊で多くの人に料理を作ることを学んだそうです。Richardさんがコックで奥様がウェイトレスでした。Gailさんはよくお米を研いだりじゃがいもの皮をむいたりと手伝いをしたそうです。宿題をキッチンですることもありました。家族の思い出がつまったレストランは1946年に起きた津波の被害にあい、移転せざる得なくなりました。 
1960年、2店目のCAFÉ100がオープンしました。「It was a beautiful brand new restaurant」とGailさん。しかし二度目の悲劇が訪れます。オープンしてわずか3週間たった頃、再び津波に襲われました。レストランは全壊だったようです。つまり現在あるCAFE100は三店目のお店なのです。普通2度も大切な店を失う経験をしたら、なかなか立ち直れないのではないでしょうか。3度目のお店をオープンさせたRichardさんの熱意の根源は一体何だったのかとても興味がありました。「父は頑固者だったのよ」と笑って答えるGailさん。しかしその後に感動的なお話をして下さいました。 
「父は戦地でたくさんの仲間を失ったの。だから、自分が生きて帰って来られたことにとても感謝していたわ。だから、100th Battalionにちなんで名づけたCAFE100を続けることで、亡くなった友人、そして100th Battalionに敬意を示し続けたかったのよ。」 
この話を聞いて思わず泣きそうになってしまいした。 
お店が続く限り、人々の記憶に100 th Battalionを残していきたいというRichardさんの思いはRichardさんのルーツのあるここ日本にはまだ届いていないようです。Gailさんは私がインタビューに来てくれたことをとても喜んでくれました。 
Gailさんは元々お店を継ぐ気は全くなかったそうですが、お母さんが亡くなり、お店の手伝いをしようとヒロに帰ってきてからずっと働いているそうです。Gailさんもそろそろ引退を考えているそうで、後継者はいるのかと気になっていたところですが、彼女の甥、Richardさんから見て孫がお店を継ぐことに前向きな姿勢を示しているそうです。 
そしてなんとの名前は父の名にちなんで「Richard」。なんとも素敵なエピソードを聞かせて下さいました。

 

KTA Belly Taniguchiさん

KTAはハワイ島に7店舗を構えるスーパーマーケットのチェーンストアです。
米国資本のWalmartやSafeway、Targetももちろんハワイ島には存在しますが、ローカルにとってはKTAが最も馴染みが深く、人気があります。ローカルフードのPokeやBENTOを売っているのも人気の秘訣だと思います。 
さて、そのKTAですが今年で創業97年目を迎えます。97年前の1916年、日本からの移民であった谷口コウイチ、タニヨ夫妻が谷口商店としてオープンしたのが始まりでした。開店当時、お店はとっても小さなものであり現在7店舗、800人の従業員を有する大型チェーンストアになることを一体誰が想像したでしょうか。

子どものため 
コウイチさんはもともと米国本土へ移住する予定でした。しかし、ハワイに住むいとこを訪ねている間に米国本土への日本人移民が禁止となったのでした。そしてコウイチさんはハワイ島でビジネスを始めることにしたそうです。 
はじめは自転車にまたがり食品の配達業をしてお金を貯めました。そして、長男のYukiwoさん(Bellyさんの父)が生まれると、息子のためにさらにお金をかせぐため、店舗をもつことにしたのでした。コウイチさん配達の仕事をつづけ、タニヨさんは子育てをしながらお店で働きました。谷口夫妻はYukiwoさんを含め9人の子どもに恵まれました。

1936年、高校を卒業したYukiwoさんはビジネスを学ぶため日本へ留学をしました。(多くの一世の親は、子どもに日本的教育を受けさせたいと思い、子どもを日本へ留学させました。)日本留学をして帰って来た人たちは「帰米」と呼ばれました。 
1941年にハワイに帰国したYukiwoさんを待っていたのは日本との戦争でした。Yukiwoさんは軍隊に志願し、MIS(Military Intelligent Serviceの略称。優れた日本語力を武器に、日本軍の暗号の解読や、捕虜の通訳として活躍した。) として米国に貢献したのでした。 
Yukiwoさんは米国本土で行われたトレーニングキャンプで、将来の奥さんの兄弟と知り合ったのでした。

1947年、BellyさんYukiwo さんの長男として誕生しました。Bellyさんもお店の手伝いをしながら育ったのでした。Bellyさんは日系三世であり、日本語を話さないため、ピジン英語を話す祖父母である公一さんとタニヨさんとの会話にはなかなか苦労したそうです。そんなBellyさんから見て、お二人は一体どう映っていたのでしょうか。 
「おじいさんはとても謙虚で誠実な人だった。静かな人だったが、誰に対しても礼儀正しく人望が厚かった。一方おばあちゃんはとにかく明るくいつもたのしそうにしていて、まるでサンタクロースみたいによく近所の子どもたちにキャンディーをくばっていたよ」と話してくれました。 
公一さんはサトウキビプランテーションで働く人がお金に困っていることをよく知っていました。そのため、手持ちのお金がなかったとしても、借用書を発行して商品を売っていたそうです。 
1970年、コウイチさんが亡くなると、おじが経営を始めました。Bellyさんは会計の仕事をしており、まさか自分が店を継ぐとは思ってもいなかったそうです。しかし、当時副社長をしていた従業員が不慮の事故で亡くなり、Bellyさんは家業を継ぐこととなったのでした。Teshimas restaurantのRonnieさん、CAFE100のGailさん同様、運命的に今の仕事に就いている三人の話を聞いて、正に人生は何が起こるかわからないなと思いました。

KTAには、「community support store, we need support community」の精神が受け継がれています。これはコウイチさんが創業当時から大切にしていたことです。Bellyさんはお店以外の場所でもボランティアやスポンサー活動をしており、この精神を次の世代へも伝えています。