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哲学専攻
在学生・卒業生から

哲学専攻の在学生や卒業生から、受験生の方々へメッセージを送ります。

佐藤 舜  2016年度卒業生 / 卒業論文「<意味>の現象学」

たくさんの視点や発想に触れ、考える楽しさを実感しています

高校では倫理の授業をおもしろく感じたことから、哲学専攻を選びました。もともとは理系志向で、中学のころに入門書的にわかりやすく書かれた本で読んだ、相対性理論に興味をもった私でしたが、哲学専攻で「科学哲学」に出合うことができました。これは「科学でしていることが正しいかどうかは科学では決められない。それが正しいかどうか判断するのは哲学」という考え方から何千年も前から続いている学問です。答えが出ないまま現代まで論争しているこの大きな問題をとても興味深く感じています。中央大学には豊富な蔵書があり研究資料には不自由なく、哲学を納得いくまで研究することができます。物事にはたくさんの視点や発想がある。そんなことを哲学は気付かせてくれます。

今子 青佳 2013年度卒業生 / 卒業論文「現代におけるスピリチュアリティと宗教の私事化・再公共化論」

哲学という学問から得たものは今後の人生の指針にもなりました

哲学専攻の学びで得られるのは、過去の哲学者の思想に触れ、自分なりの思索を深めることだけではありません。私は、自分の周囲にいる人びとの考え方を深く知る力もはぐくむことができると思います。例えば、自分と異なる考えをもつ人と接したとき。相手を否定してしまうのでなく、「ものごとに対するさまざまなとらえ方がある」という事実に興味をもって対話を重ねて理解していけば、新たな価値観に接することができます。実際にこの専攻の学生は、「他人を認める」ということを知っています。お互いが認め合い、そのうれしさを実感できたことで、私自身、これからの人生で出会った人すべての人の「その人らしさ」に目を向けて生きていきたいと思えるようになりました。

久田 雅恵 2012年度卒業生 / 卒業論文「サリンジャーの理想と現実―グラース・サーガを中心として」

先哲の思想を広く学び、自分なりの答えを探し続けたい

高校2年生のときに哲学に出会い、大学でもっと専門的に学び、自分がものごとを考えることの土壌にできたらと思い、哲学専攻を選びました。難解な哲学書も先生のわかりやすい説明で理解できます。カントの「純粋理性批判」を自分なりに理解できたときには、とても感動しました。哲学を学んでよかったと思うことは、いままでの自分になかった切り口でものごとをとらえたり、世界を見たりすることができるようになり、視野が広がったことです。「どうして? なぜ?」と突き詰めて考えることは本当に楽しい作業です。何が正しいのか、何が真実なのか、正解があるのかは、今の私にはわかりません。しかし哲学の思想を糧に、私なりの答えを探し続けていきたいと思っています。

山田 耕太郎  2011年度卒業生 / 卒業論文「語るということ『論理哲学論考』を読んで」

古今東西、さまざまな哲学者や哲学書と対峙して、物事の本質を探ろう

人間とは、世界とは、存在とは、時間とは、言葉とは……? 哲学専攻では、あなたが疑問に感じることを、古今東西の哲学者や哲学書を手掛かりに、あらゆる角度から考えていきます。専攻の仲間たちは、自分の考えたこと、感じたことを率直に発言し、人の話をじっくりと聴く人たちばかりです。人に対しても、本に対しても、思想に対しても、誠実で真摯な人たちが多いのです。人間や世界、物事の本質を考えることが好きな人は、ぜひ哲学専攻に来てください。ここには、膨大な知識をもつ先生方や、同じような問題に興味をもつ仲間たちがいて、一緒に考えてくれます。

清野 花歩  2010年度卒業生 / 卒業論文「ソシュールの言語哲学」

小さい頃の疑問、思い出してみてください

「時間ってなんだろう」「世界ってどうやってできているんだろう」「そもそも私って何?」小さい頃は誰もがこんな疑問をもったと思います。しかし成長するにつれて、そんなことは忘れて、どうやったら成績が上がるか、どういう人がモテるのかを考えるようになっていくでしょう。哲学専攻はそんな小さい頃の疑問を再び考えてみる場所です。答などありません。だからこそ、自分なりの答を探してみませんか? それが自分の生きる指針になるかもしれません。

永田 貴枝  2010年度卒業生 / 卒業論文「レヴィナスと『顔』」

漠然とした世界に、自分なりの見解を見出せる学問です

哲学は、さまざまな学問の中でも、もっとも「人間」を軸にしている学問と捉えることができます。どの学問も、人々が生活する中で、興味あるいは利便の追求から発展してきたことは言うまでもありませんが、哲学はその発信源である「人間」自体を探求する学問と言えるからです。そして、哲学者の思想の探求を通して哲学を学んでいくということは、自らの人生の模索の一環であり、自己を構築していくためのプロセスの一つと考えられます。さらに、このことは、自らを取り巻く世界を見出すきっかけの一つとも言えるのです。

北川 拓  2008年度卒業生 / 卒業論文「言葉について」

自分自身の疑問と取り組む

だれかと話をしている際に、大学で哲学を専攻していると言うと、「すごい、自分には無理」といった感想をよく聞きます。多くの人にとって哲学とは、自分とは関係のない、何かよくわからないものだと思われているようです。ですが、そのような人に哲学者の言ったことや、考えたことを説明してみると、とても興味を示してくれます。
哲学を学ぶということは、なにか特別なことでしょうか?
哲学を学ぶということは、自分が疑問に思ったことを、他の人がどう考えたのかを、いろいろなものを通して考え、とくに本を通して過去の哲学家と触れ、その疑問を突きつめていくことです。それは他の学問となにも変わりません。一つだけ違いがあるとするならば、そこに確かな答えがあるかどうかです。
哲学を勉強すれば、自分が求めている答えを与えてくれる、わかるようになる、という期待は大きなまちがいです。わからないものを、わからないなりに何とかする楽しみを感じてください。他のどの学問でもなく、哲学に興味があると思った方は、大学の4年をかけて、自分自身の疑問と取り組んではいかがでしょうか。

栗城 舞  2007年度卒業生 / 卒業論文 「神について―チャールズ・ジェネシス『メサイヤ』台本におけるキリスト像」

哲学は、身近な疑問から古今東西の難しい問題まで「なに?」を深く掘りさげる学問です

「哲学専攻ってなにを勉強するんですか?」とよく聞かれます。哲学専攻にはその「なに?」がたくさんあります。「人生ってなに?」、「幸せってなに?」 だれでも一度は考えたことがあるのではないでしょうか。そんな身近な疑問から、古今東西で考えられている難しい問題まで、深く掘りさげて考えるのが、この哲学専攻です。
卒業論文のテーマも、じつにさまざま。学生が興味をもった分野について答えてくださる熱い先生方もたくさんいて、全専攻中いちばん素敵な専攻だと私は思っています。 (「CHUO Concept 2008文学部」から)

鈴木 善雄  2006年度卒業生 / 卒業論文 「レヴィナス『近さ』について」

哲学専攻は、「知る」「読む」「考える」ところ

哲学専攻は文字通り哲学を学ぶところです。古代ギリシャから現代まで洋の東西を問わず、また「時間」「存在」「言語」など学ぶテーマはなんでもありですが、その学び方は、「知る」「読む」「考える」という三つの動詞で成り立っています。
まず「知る」は、「哲学史を学ぶ」ことです。高校の倫理や世界史でも哲学史はありますが、哲学専攻の場合「だれが何を考えたか」はもちろん、時代背景やその哲学が与えた影響や反応も学びます。
次に「読む」ですが、これは主に文献(本や論文)を読むことです。これが大学の哲学専攻の中心になります。哲学者の本や論文は日本語に翻訳されたものがありますが、日本語訳を読むだけでは不十分な場合が多いです(日本語になる際に翻訳者の解釈が入る・・・簡単に言うと「伝言ゲーム」が生じるからです)。したがって英語や漢文はもちろん、フランス語・ドイツ語の本や論文もその言葉で読むことになります。嘘のような話ですが、日本語の翻訳で読むよりも原文で読むほうがわかりやすいです。
最後に「考える」(あるテーマについて調べ、自分なりに筋道を立てて考えること)です。哲学専攻で、あるテーマについて考える時は、頭の中の知識や本の情報を調べ、筋道を立てて考える必要があります。あるテーマがあり、自分はこう考える、その根拠はこういうことで、だから結果として・・・というように、(とくに哲学ということもあり)予備知識のない人に説明をするような、綿密な考えの組み立てが求められます。そういうことから、この「考える」は、あるテーマについて「知って」「読む」うえで成り立ちます。
この「知る」「読む」「考える」を完璧にするのは難しく、もしかしたら、大学の4年間ではできないかもしれません。しかしその過程で、哲学のもつ奥深さや、おもしろさを感じとれるでしょう。この奥深さやおもしろさは、なかなか言葉で言いあらわせません。ぜひ哲学専攻に来て、体験してみてください。

大厩 諒  2005年度卒業生 / 卒業論文 「一元論の可能性-大森荘蔵を中心に」

自明の前提が自明でなくなる

たとえば目の前にコップがある。では「ある」とはなんだろう。見えていることだろうか。では見まちがいはどうなるのだろう。本当は別のものなのに、それでも見まちがえたコップは「ある」のだろうか。では触れられるコップを「ある」と呼んでいるのか。でもそれが夢の中の出来事だとしたら、どうだろうか。夢から覚めてもそのコップは「ある」といえるのだろうか。
また、私たちは言葉を使う。では意味とはなんだろうか。言葉を聞いたときのイメージだろうか。そうだとすると、「しかし」のイメージ、「やれやれ」のイメージ、「ねばならない」のイメージとはどんなものだろうか。仮にそんなものがあるとして、私たちが会話をするとき、わざわざイメージを思い浮かべながら話しているだろうか。
普段の生活の中で、こういったことが問題になることはほとんどありません。こういう問題があるということさえ、気づかれていないかもしれません。
しかし少し立ち止まってみると、一筋縄ではいかない複雑に絡みあった問題が、そこにはあると思います。自明の前提が自明でなくなる。それに気づいたとき、世界が以前とまったく違う姿で立ち現われるのです。そして、世界のこの現われを、この問題を、どこまでも精密に正確に言語で表現しようとすることが、哲学です。さらに、その問題に対する新しい表現を常に求め、一つ前の表現を更新し続ける運動である、ともいえるかもしれません。
哲学は簡単ではないけれど、けっして近づきがたいものでもありません。当たり前の裏側に、じつは不安定でグロテスクなものが隠されています。それと格闘することは難しいと同時にとてもスリリングなことでもあります。それに、だれでも日常のただ中に疑問を感じ、立ち止まったことがあると思います。その問題を考えぬくこと、世界をよく見ること、それが哲学であり、哲学専攻はそれができる場所だと思います。

関村 博道  2003年度卒業生 / 卒業論文 「董仲舒の事迹と思想」

もしかしたら、それが「テツガク」

「テツガク」は、一見なにをしているのかよくわかりません。そもそも「テツガク」というコトバが難しいのです。「テツガク」は、社会に出てもあまり役に立つことはないでしょう。と言うのは、一見どうでもよいこと、そのようなことを取り上げるのが「テツガク」と思われているからでしょうか。
たとえば、孟子が「人の性は善である」と言い、荀子が「人の性は悪である」と言っていますが、そのことを知らないが故に死ぬことはありません。また、知っていても特別良いこともありません。孟子の「性善説」、荀子の「性悪説」と、同じ「人間」を見る目が、どうしてこんなにも食い違うのか、そのようなことについて、原典を繙(ひもと)いて触れてみること、そして少し立ち止まって考えてみること、そのようなことが哲学科では毎日行われています。
もしかしたらそれが「テツガク」であるかもしれません。( 「中央大学学部ガイド 2004 文学部」から)