学部・大学院・専門職大学院

トルコにおける発掘調査及びイスタンブール市内の見学

文学部人文社会学科 東洋史学専攻 2年
岡本 多久実

導入

 2015年の夏季休業中、私は文学部の学外活動支援奨学金を利用し、トルコへ行ってきた。奨学金を利用した活動目的は中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所が主催する、カマン・カレホユック遺跡の考古学フィールドコースに参加すること、そしてイスタンブール市内の見学だ。活動期間は7月31日〜8月22日で、フィールドコースは8月2日〜14日、その後の15日〜21日までの期間で市内見学を行った。なお、フィールドコースには私以外に5人の参加者がおり、滞在中はその全員もしくは一部と常に行動を共にしていた。この活動は彼らの協力がなければ成り立たなかったことをまず記しておく。

 カマン・カレホユック遺跡は、トルコ共和国クルシェヒル県カマン郡チャウルカン村に位置する遺跡だ。この遺跡はアナトリア半島の中では中規模の丘状遺跡で、直径は280メートル、高さは16メートルであり、1985年に予備調査が行われた後、1986年からアナトリア考古学研究所によって学術発掘調査が継続されてきた。今日までの調査では4つの文化層(オスマン/ビザンチン、鉄器時代、後期・中期青銅器時代、前期青銅器時代)が確認されており、その他にも銅石器時代、新石器時代の遺物も発見されていて、これらの文化の存在も考えられている。この遺跡の調査目的の一つは『文化編年の再構築』である。文化編年とは、発掘された考古資料を型式ごとに分類し、さらに出土した層位ごとに分けることで判明する時間的変遷のことである。

 考古学フィールドコースとは、同研究所の主催によって行われる大学生、大学院生向けの行事だ。発掘調査を通じて考古学的経験の場を広げることと、古代オリエント史および考古学研究入門の機会とすることを目的とし、発掘調査や実際の遺物を使っての遺物研究、考古学及びその周辺に関する講義などが行われる。

 活動の準備は、2014年から徐々に始まっていた。フィールドコースは12月に参加申し込みを行ったあと、ビザの申請をした。2月には隊員会議が行われ、資料や発掘のマニュアルが配布された。参加費用の振込も春休み中に既に済んでいた。市内見学はフィールドコースとは関係のない完全な自主計画だったので、見学場所は自分で選別し、日程を組んだ。考古学研究所から、安全面や調査隊の一員としてビザをとっている関係上、フィールドコース以外のトルコ滞在中は必ず複数人で行動するように言われていたため、他の参加者の希望も考慮しなくてはいけなかったが、調整の結果私が希望していた見学場所をすべて回る計画を立てることができた。市内見学の予定を立てたのは主に私だったが、飛行機やホテルの予約は他の参加者が行ってくれた。渡航の準備は参加者全員で進めていったのだ。

活動1:考古学フィールドコース

 7月31日、15時50分の飛行機で、私たちはトルコへ出発した。翌8月1日にイスタンブールのアタテュルク空港に到着、その後はバスに乗り、アンカラまで移動した。フィールドコースが始まるのは翌2日からだったが、時間的な余裕を作るため、及び時差調整のために、早めにトルコへ着いて、フィールドコース開始日の前日に一泊することにしていたのだ。バスの車窓から見える景色は、イスタンブール周辺ではビルや家々が立ち並ぶ都市風景であったが、アナトリア半島の内陸へ移動するにつれ徐々に建物の数は少なくなり、再びビルが増える首都アンカラまでは乾燥した草原や砂地が広がるものとなっていた。しかし都市部でも平野部でも、建物がある程度集まっている場所には必ずと言っていいほどモスクの丸屋根と尖塔(ミナレット)があるのを見ることができ、自分がイスラーム主体の国に来ているのだと実感した。この日はアンカラのクズライにあるカエラホテルで宿泊した。次の日は15時30分のバスでアンカラを出発し、二時間ほどかけて研究所に近いカマンの街へと向かった。このイスタンブール〜アンカラ間とアンカラ〜カマン間の二区間の長距離バスの切符は現地で購入したが、海外経験のある参加者が手続きを行ってくれ、自分としてはとてもありがたかった。

アナトリア考古学研究所外観

アナトリア考古学研究所外観

 カマンには17時30分ごろ到着した。街では研究所の車が私たちを迎えてくれた。研究所に到着した後には所内の日本人の先生がたとの顔合わせがあり、二週間の大まかな予定表を渡された。研究所所長の大村幸弘先生からは生活上での注意として、このフィールドコースでは食事の片付けなどで細かい指示はされないが、そこでどのように行動するかという部分で個人の人間性が試されるとし、研究者にとって人との関わりが大切であるということを強調されていた。この話の後食堂で夕食をとり、この日は就寝となった。

 次の日は朝5時頃に朝食をとったあと、6時からは研究所の施設見学を行った。今後利用することになるミーティングルームや図書室のほか、ラボのスペースも訪れ、植物考古学、動物考古学や遺物保存の研究者との顔合わせもした。

 8時からは大村先生の講義が行われた。テーマは、「考古学と現代の関係について」であった。その中で先生は、まず日本における昨今の人文科学軽視の風潮について触れ、この状況を打開するために人文科学は社会においてどのような意義をもつかをアピールしていかなければならないと話された。このため、考古学もただ面白おかしく発掘結果を発表するという理由で行うのではなく、発掘結果に基づき、裏付けをとって、今の社会にとって意義のある理論を立てることが必要である。研究には発掘、出土結果の報告、理論の3つの段階があるが、前二つは単に技術が問われる部分であるのに対し、その次の段階である理論は研究者のセンスが問われる部分で、これこそが考古学にとって最も重要であり、この理論を立てる基礎として必要なのが、カマン・カレホユック遺跡の調査においても完成を目指している精度の高い文化編年であるとし、その重要性を強調されていた。

 研究と現代社会との関係は、同じ人文科学系学問の史学を専攻している自分にとって非常に関わりの深い問題である。中央大学の授業でも取り扱われたことであるが、このフィールドコースでも同じ内容の講義を受けたことで、ただ過去を掘り下げるだけではなく現代に意義のある研究にするにはどうしたらよいのか、ということを自分の中でより深く考えるようになった。また、発掘においては何か珍しいものを発見することではなく、そこから何が考えられるかということが大切であるという考えは、それまでの考古学に関する知識にはなかったものだったので、その後の発掘において肝に銘じておかなければならないと感じた。

 講義の後に、初めてカマンの遺跡に足を踏み入れた。丘陵の上では広い面で発掘作業が行われており、5メートルほど下に降りた発掘面に壁の遺構や貯蔵穴であるピットなどが発掘によって露わになっている様子を一望することができた。まず私たちは作業員用の休憩小屋で研究所の松村公仁先生からこの遺跡に存在する文化層や、地層の堆積に対する考え方についての授業を受けた後、先生の指導で遺跡を見学した。この日はまだ本格的な作業に参加することはなく、発掘の過程で生じる砂や石の作業場所の外への移動や、その砂に紛れ込んでいる土器や骨のかけらなどを選別する仕事を体験しただけだった。研究所での昼食後には、研究者や学生が一堂に会するミーティングにおいて、正式に自己紹介を行った。日本人以外がほとんどなので、言語はもちろん英語だ。事前に文章を作ってはいたが、スピーチに慣れていないためぎこちないものとなってしまった。

 翌8月3日からは本格的にフィールドコースのプログラムが始まった。このフィールドコースにおいて、参加者が平日行っていたことは遺跡での発掘作業と、その結果に関するミーティングへの参加だ。作業は朝早くから行われ、肉体的にも負担のかかるものであったので、毎日こなすのは大変だった。1日の大まかな予定は以下の通りである。まず、私たちは朝5時ごろに朝食をとった後、身支度をして5時半にはミーティングルームのある建物の前に集合する。そこから車に乗って発掘現場に行き、6時から作業を開始。9時半まで作業を行った後、いったん休憩が入り、ここで2度目の朝食を食べる。場所は発掘現場の隣に設置されたテントの中だ。10時15分から作業が再開され、14時の終了時間まで続ける。その後は研究所に帰り昼食。自由時間の後、18時からミーティングが始まり、ここでその日の発掘、及び、研究内容が報告される。この後、19時半ごろから夕食となり、各自シャワーや歯磨きを行った後に就寝となる。時間は定まっていないが、早朝からの作業があったため22時ごろにはもうベッドに入るように心がけていた。

 このように、私たちは1日の半分ほどを発掘作業に費やしていた。遺跡はいくつかの区域に分かれており、それぞれ別の親方が作業を監督している。発掘では、フィールドコース参加者は遺跡内の各区域に振り分けられ、親方の指示の下で作業を行った。私が担当したのは遺跡の北区にある最も深く掘られている場所で、文化層の時代は前期青銅器時代だった。当初はもう一人の参加者と一緒であったが、一週目の途中から彼が別の区域へ移ったため、コース参加者としては私だけがこの区域にいることになった。

カマン・カレホユック遺跡南区

カマン・カレホユック遺跡南区

同遺跡北区

同遺跡北区

 発掘では、地表に出ている面を掘っていって、そこに何があるのかを調べていくことを繰り返していく。まずはチャパという器具を使って地面を均等に削った後、箒で砂を掃き、表面に何か変化がないか調べる。なければまた掘ることを繰り返すが、地面の色に変化があったり、建築物やピットの痕跡が見つかったりした場合には作業を止め、変化がある前までの堆積層を仮層として状態を記録して、堆積している土が新しいと考えられる場所から作業を続けていく。作業過程ででた砂は仮層ごとにまとめられ、クレーンで発掘現場の外に運ばれる。外ではその砂から土器片などの遺物を選り分ける作業がされていた。

 発掘現場では作業員の中で英語を使える人が少ないため、会話は基本的にトルコ語で行われていた。これはトルコ語を話せない私にとっては重大な問題だった。なので、作業に最低限必要な器具のトルコ語の名称は慌てて覚えた。また、基本的な挨拶なども旅行用の会話帳で調べたため、いくつかは使えるようになった。作業員の方達も片言の英語やジェスチャー、もしくは彼らの中で英語を使える人を通してコミュニケーションを取ろうとしてくれたので、孤立するということはなかった。しかし、細かい指示や現時点での発掘状況などは、親方もジェスチャーを交えて話してくれるのだが、どうしてもわかりづらい部分があった。そんな中でよく助けてくれたのが、同じ区域で作業をしていた考古学を研究する学生だ。ポーランド出身の彼女は英語もトルコ語もできたため、どうしてもわからない事はよく彼女に質問して、理解するように努めていた。後述のミーティングでの発表でも彼女には世話になり、本当に感謝している。

 考古学の発掘作業に参加することが初めてだった私には、言語以外にもたくさん習得しなければならないことがあった。例えば、器具の使い方だ。初日にチャパを使って初めて地面を削ったのだが、慣れない作業だったため地面を凸凹にしてしまい、もう一度やり直さなければならなくなった。このような失敗もあり、作業器具は慎重に扱いながら使い方を覚えていった。また、測定のための水準儀の立て方も教わった。土曜日には発掘現場の作業員や課外授業に来た子どもたちの前で立て方の例を見せることになった。フィールドコースで初めて扱った器具であり、大勢の人の前で立てるのは緊張したが、何とか成功した。これはこの活動の中で新たに身についたことの一つである。

皆の前で水準儀を立てている様子
皆の前で水準儀を立てている様子

皆の前で水準儀を立てている様子

 また、自分の発掘作業の意味を把握できるようになることも必要であった。研究所の先生方や、親方たちは何かを明らかにするために発掘作業を行っている。彼らだけでなく作業員一人一人が作業の目的を把握し、自分が何をすればよいか考えながら発掘を行うことが大切だと大村先生からは言われていた。これは先に書いた「発掘結果から何が考えられるか」という視点を各自が持たなければならないということだ。しかし、考古学の素養がほとんどない自分には、見つけた遺物や地表の状況が持つ意味を理解することは難しかった。遺構の切り合い関係や層序を見ることで前後関係がわかるということを知識として知ってはいたが、実際の現場ではそういった状態があるのかがわからず、なかなか自分だけでは考察できない。結果として逐一親方や同じ区域の学生に質問しながら、今の作業について把握することになった。しかし自分の頭の中での理解をあきらめたわけではなく、メモや図を書いたりして考える努力は続けた。

ピット(貯蔵穴)発掘中の様子

 作業の把握が必要なのは、発掘の後のミーティングでその日に行われた作業の内容について報告するからでもある。発表は区域ごとで、基本的にはその地区で作業をしている考古学専攻の学生が行い、フィールドコース参加者も隔日で一緒に発表した。学生たちが区域全体の進行について話す一方で、初めは自分のした作業についてだけ触れていたが、コースの途中からは自分のいる区域でその日行われたことからある一点にスポットを当てて発表するよう指示された。これは発掘区で何が起こっているのかを理解していないとできないことだ。しかし、先述したような理由から、その日の進行についてわかっていない部分は多かった。そのため、発表の前には同じ区域のポーランド出身の学生に質問し、相談しながら自分の言う部分を決めていた。話す内容以外に、ミーティングでは言語面でも苦労した。ここで使える言語は英語かトルコ語だったので、私は英語で発表をしなければならなかった。原稿は事前に作ってはいたがまだスピーチに慣れていないため、一週目の発表はぎこちなく、メモに視線を落としながらのものとなってしまった。

遺物実測の授業にて。他の参加者、親方と。

遺物実測の授業にて。他の参加者、親方と。

 こうした発掘作業のほかに、フィールドコースでは遺物研究も行った。これは参加者がカマンで発見された遺物から一つを選び、それについて調べて最終日に結果を発表するというものだ。私は角のある動物の頭が取り付けられている銅合金製の管を選んだ。動物の正体がわかれば、この遺物が使われていた当時の自然環境についても知ることができるのではないかと考えたためだ。しかし、私が選んだ遺物はとても珍しいものであったらしく、カマンにおける過去の出土遺物にも、ハットゥシャなど他のアナトリアにある遺跡の出土遺物のカタログの中にも似たものがなかった。おまけに遺物はピットの側面から発見されていて、その上層にある遺構を取り除いての調査もまだ行われていないため、出土した層位の確認もできず、遺構のある鉄器時代以前の遺物だということしかわからなかった。類例もなく出土年代も不明なため、研究は難航した。

 遺物研究に関連して、それに必要な事柄に関する講義も行われた。遺物写真の撮り方の授業では、カメラの露出や、シャッタースピード、アーサー感度について説明を受け、遺物実測に関する授業では、方眼紙に自分で鉛筆を使って実測図を作成することを学んだ。なお、遺物研究に関すること以外にも、動物考古学や植物考古学、遺物保存に関する講義も行われた。スライドを使っての簡単な概要説明のようなものだったが、今まで学んだことのない内容について海外の研究者から直接教えてもらえたことは貴重な経験であった。

ハットゥシャ、ライオン門の前で。

ハットゥシャ、ライオン門の前で。

 8月9日の日曜日は発掘がお休みだった。その代わり、研究所の車に乗ってボアズカレへ小旅行に行った。ヒッタイトの遺跡があることで有名な場所だ。ここではヒッタイトの都であったハットゥシャや岩壁に掘られた神々のレリーフで有名なヤズルカヤ、そしてアラジャホユックを見学した。どこも素晴らしい遺跡であったが、特に印象に残ったのはハットゥシャの城壁だ。ここでは実際に遺跡の発掘を行っている研究者から説明を受けることができた。彼らは基壇のみ現存していた城壁のうち、一部を復元していた。話によればこれには目的が二つあるそうだ。一つは学術的な目的だ。再建は発掘結果から考えられる方法や建築材を使い、出土した粘土模型を参考にした外観になるように行われる。そうすることで、当時の建築方法や建物の維持方法について知ることができるのだ。もう一つが観光的な目的である。遺跡を楽しみにやってきた旅行者にとって、石の土台が残っているだけでは物足りない。立体的な建築物を遺跡に作っておくことは、観光における目玉を作ることにつながるのだ。この研究、観光の二つの目的を両立させた遺構再建の例は、学芸員課程の科目などで文化遺産や遺跡の活用法を学んでいる私にとっては興味深いものだった。また、ボアズキョイでは博物館にも行ったが、そこに展示されている動物を象った土器や造形物を見たことは、遺物研究へのヒントにもなった。

 そして発掘は2週目に入った。まだ自分のしていることが全体のどの部分に位置づけられるか、ということを把握することは難しかったが、この頃になると作業自体には慣れてきていた。週の終わりごろに行ったピットの内部を掘る作業では、ピットの縁にチャパが触れる感覚を理解することができ、きれいに内側の土だけを掘り出すことができた。そこからピットの切り合い関係が判明し、次の作業への発展もできた。ミーティングでの隔日の発表では、話の要点をまとめ、キーワードを決めてそれを覚えるようにした結果、メモを見なくても発表をやり遂げられるようになった。大村先生からは以前より発表がスムーズになったと言われ、わずかだが進歩を感じることができた。


 

遺物研究発表の様子

 そして最終日。いよいよ遺物研究発表の当日となった。論文を読んだり遺物研究担当の松村先生と相談をしたりすることを通して、最終的に遺物の用途、そしてモチーフになった動物の種類は何かということに焦点を絞ってまとめた。用途に関しては先生との相談の中で内部が空洞になっていることに注目し、ストローとして利用されていたのではないかと推測するようになった。そのためストローの先につける金属製や骨製のろ過装置の分布に関する論文を参考に、遺物の時代にこの地域でもストローが使われていたことを示した。動物には2本の角が生えていることから、古代のアナトリアにおける角のある動物の表現方法を比較し、この動物は牛を象っているという結論を出した。そして先生からのアドバイスを踏まえ、動物の鼻先にかけての表現からアリシャール・ホユックという遺跡の第Ⅳ層の文化と関連があるのではないかという部分まで意見を述べた。しかし自分の研究にはまだまだ至らない点が多々あり、この発表を聞いて下さった先生方からは、「銅合金製のストローは使われていなかったのではないか」「時代がわからないため用途と動物に内容を絞ったのに、最後にまた時代の話を持ち出すのは前提を無視しているのではないか」という指摘をいただくこととなった。しかし、発掘という肉体的に負担のかかる作業を並行しながらも、自分ができる限り調査を進めることができたため、個人的には満足している。今回で至らなかった点を踏まえて、自身の研究に活かしてしていきたい。

 遺物研究発表をもってフィールドコースの内容はすべて終了となった。

 このフィールドコースでは、とにかく一度も体調を崩すことなく日程を終えることができたことが一番の成果だった。毎日の炎天下での作業、そしてミーティングをこなしつつ、遺物研究まで行うという忙しいスケジュールをやり遂げることができ、無駄なくコース全ての内容を吸収することができた。

 海外で考古学の勉強、及び実地作業ができたこともいい経験になった。自分の専攻が文献史学であり、まだ本格的な研究はしたことがなかったので、これまでは一人で史料を読むことが自分の学習の中心だった。しかし、今回は遺跡に実際に赴き、多くの人たちとで発掘を行ったことで、多人数の協力があって初めて成り立つ研究を体験でき、新たな視点を持つことができた。考古学の調査のやり方についても座学と実践の両方で学んだ上に、必要な器具の使い方まで教わることができた。海外の研究者から指導を受けるという貴重な経験もすることができた。そして現在大学院への進学も考えている私にとって、考古学に限らず人文社会科目全ての研究者が共通して持つべき「今の社会にとって意義のある理論を立てる」という問題意識について、大学の授業だけでなく海外でも指摘されたことで、「今後の学習において自分は何を問題にするべきか」ということについてより深く考えるようになった。

カマンの考古学博物館

カマンの考古学博物館

 また、この活動を通してアナトリア考古学研究所の地域社会、および研究者育成への貢献活動の様子を見ることができた。遺跡発掘は地元の人たちに支えられて初めて行えるものであり、その分地域に対するフィードバックを行うことは研究者としての義務である。そのためこの研究所では地域への教育啓蒙活動が行われていた。発掘によって収集された遺物を研究所に併設された博物館で公開することで、この地域がどんな歴史をたどってきたか地元の人たちに示すと同時に、それを彼らが後世へと語り継ぐことができる機会を提供していた。また、この研究所ではカマンの村に住む子どもに遺物の選別などを手伝ってもらっている。毎週土曜日には彼らを遺跡に招いて課外学校が行われ、発掘状況についての説明がされていた。私が水準儀を大勢の人の前で立てたのはここでのことだ。自分たちの作業がどういったことに貢献しているかということを理解してもらうと同時に、考古学に関する学習もすることで、子どもへの教育に貢献していたのだ。こういった社会貢献に対する態度は、研究者として見習うべき部分であった。また、このフィールドコースだけでなく、日本、トルコや海外からの学生を受け入れ、学習、研究の場を提供するという活動でも、後進の育成への力の入れ具合を感じることができた。

 フィールドコースでは多くのことを学ぶことができたが、自分の不注意によるミスが目立つこともあった。最大の失敗は、本来日本から持ってくるはずだったノートパソコンを忘れてしまったことだ。遺物研究ではワープロソフトでのレポート作成とスライドの作成をしなければならなかったのだが、自分のパソコンがないため他の参加者や研究所のパソコンを使わせてもらわなければならなかった。周りに迷惑をかけたうえ、使い慣れたパソコンを忘れたために作業をスムーズに行うことができず、何とかスライドは発表に間に合ったが、レポートを期間中に提出することができなかった。最終的に提出できたのは、自分の怠慢のせいもあり帰国後数ヵ月がたった後だった。この失敗は完全に自分のミスであり、これからはこのようなことがないよう気を付けなければならないと感じた。

活動2:イスタンブール市内見学

スルタンアフメット・ジャーミーの前で

スルタンアフメット・ジャーミーの前で

 フィールドコースが終わった次の日、私たちは研究所を後にし、イスタンブールへと向かった。参加者のうち一人はイスタンブールへ同行をせずに帰国し、残り五人の内二人は市内見学の途中で帰国することが決まっていたため、計画の最後まで共に行動するのは私を含めて三人であった。

 このイスタンブール見学のテーマの一つは、フィールドコースで学んだ考古学の時代から現代にいたるまでの歴史について、博物館にある遺物や建築物などを通して理解を深めることだ。ここでは入館料のかかる博物館を利用することが多いため、ミュージアムパスというイスタンブール市内の特定の博物館に一度ずつ入館できるカードを事前に購入した。これは見学予定のほとんどの博物館で使うことができ、大幅な節約になった。もう一つのテーマは、ワクフというイスラームの宗教寄進制度に基づいて作られた、モスクを中心とする複合施設について学ぶことだ。ワクフとは宗教施設や社会福祉施設のために不動産などを寄進し、そこから生み出される収益を施設運営にあてるようにするという制度だ。大規模な寄進になるとモスクの建設時に救貧院や学校、その財源となる市場やハマム(蒸し風呂)などが共に建てられることで、モスクを中心とするキュリエ(複合施設の意)が作られていた。オスマン朝ではこの制度がかなり活用されていたため、複合施設も多数存在する。これらのいくつかを見学することに加え、そのモスクについての情報を得ることでワクフ制度に関する理解を深めることが、このテーマでの目的だ。

・テーマ1……トルコ歴史学習

「カデシュの条約」の粘土板

「カデシュの条約」の粘土板

 第一のテーマのためにまず見学したのは、国立考古学博物館だ。ここには先史時代からオスマン朝までのトルコ国内(1881年の設立当時の領土範囲)で発見された遺物が収められている。特にフィールドコースに関係する遺物として、「カデシュの条約」を記した粘土板を見ることができたのが収穫だった。これはヒッタイト時代にエジプトとの間に結ばれた和議の内容を記したもので、史上初の明文化された平和条約ともいわれている。楔形文字の記された多くの粘土板や、先史時代の遺物も展示されており、自分が発掘に関わった時代の文化について深く知ることができた。また、ヘレニズム、ローマ時代の彫像や墓碑、イスラーム時代のタイル装飾や陶器など、幅広い時代の文化遺産を見ることができ、現在のトルコやその周辺の地域に様々な文化があったことを実感した。

 トプカプ宮殿も見学した場所の一つだ。オスマン帝国の宮殿だったここは歴史的な建造物であり、建物の中では美術品や聖遺物、食器などが展示されていた。豪華な宝飾品や美しいタイルで装飾されたハレムからは帝国の豊かさが感じられ、ヨーロッパ諸国から贈られた時計の展示では当時の国際関係の一端を知ることができた。また、かつて厨房だった建物には実際に宮殿内で使用されていた食器や調理器具が展示されていた。ここではスルタンなど高位の人たちは帝国内で作られた食器をほとんど使わず、代わりに中国産の陶器を好んで用いていたことがわかり、それまで知らなかったオスマン宮廷内の好みや日々の生活についての理解が深まった。

アヤソフィア外観

アヤソフィア外観

 このように、トルコに豊かな文化が存在したことを見てきたが、今回の活動では文化間のつながりについても知ることができた。アヤソフィアやキュチュク・アヤソフィア・ジャーミーなど、ビザンツ時代の教会を転用したイスラームのモスクが見学場所の例として挙げられる。支配する宗教がキリスト教からイスラームに変わった後も、これらの建物は内装のモザイク画が漆喰で隠され、ミナレットが増設される以外には手を加えられることなく、現代にいたるまでその形を残している。また、オスマン帝国のモスクはアヤソフィアを参考にしながら建てられたため、建物だけでなく建築様式も受け継がれてきた。

地下宮殿にて。
太さの違う2本の柱がつなげられている。

 地下宮殿と呼ばれる地下貯水槽も、ビザンツ時代から現代まで残ったものだ。この建造物において興味深いのは、古いローマ時代の建築物から柱などの資材を持ってきて作られたことだ。地下宮殿の目玉の一つであるメドゥーサの頭部もその一例である。複数の建物から転用したため、天井を支えるローマ時代の柱には様式の異なるものが混在し、2本の別の柱を組み合わせたものさえある。保存とは違うが、再利用されることより古い時代のものが活用されてきたのだ。

ルーム・セルジューク朝の造形美術に関する展示

ルーム・セルジューク朝の造形美術に関する展示

 博物館見学の中で特に印象に残ったことは、トルコ・イスラーム美術博物館においてイスラーム美術の中の動物造形について知ることができたことだ。ここは預言者ムハンマドの時代からオスマン帝国期までのイスラームに関する美術品が収められているが、この展示の中にグリフォンやスフィンクスなど、イスラーム以前の神話動物を象ったレリーフや石像があったのだ。イスラームでは偶像崇拝を禁じているため、多神教的な造形美術があるとは思っていなかったので驚いた。図録の解説によれば、これらの遺物が作られたイスラーム王朝、アナトリア・セルジューク朝では、イスラーム以前の文化を芸術品に取り入れていたそうだ。この体験を通して、イスラーム文化に関する新たな視点を持つことができた。

 このテーマに基づいた見学では、トルコとその周辺の歴史について、本物の遺物や建築物に触れながら学ぶことができた。また、長い歴史の中で成立した文化同士のつながりについても理解を深められた。この地域はアジアとヨーロッパの境でもあり、様々な勢力が入れ代わり立ち代わり支配してきたため、その違いについて強調されることが多いが、古い文化が新しい文化に取り入れられ、受け継がれていくこともあると実感することができた。

・テーマ2……ワクフ制度による複合施設の調査

 ワクフに関するテーマではイスタンブールのモスクを幾つか訪れた。

スレイマニエ・ジャーミー外観

スレイマニエ・ジャーミー外観

 調査した中でもイスタンブール最大のモスク、スレイマニエ・ジャーミーの複合施設は大規模である。ここにはスレイマン・ハマム、隊商宿、救貧院、図書館、学校、モスクを建築したミマール・スィナンやスレイマン大帝の霊廟など数多くの施設がモスクに付随するものとして存在している。これらの施設群はモスクを中心として広範囲に建設された。周囲の街区はこの複合施設、スレイマニエ・キュリエにちなんでスレイマニエ街区と名付けられ、その規模は7万平方メートルにもなった。

 17世紀に建てられたイェニ・ジャーミーの複合施設には、有名なエジプシャン・バザールがある。これはモスクを運営運営する財源を生むために作られた屋内市場だ。他にも泉亭や「スルタンの屋敷」がある。ここはスルタンやその家族が礼拝の前後に滞在したり、祭日に休息や礼拝をしたりするために利用された。

イェニ・ジャーミー外観

イェニ・ジャーミー外観

エジプシャンバザール内部の様子

エジプシャンバザール内部の様子

 リュステム・パシャ・ジャーミーは二階建てのモスクで、一階部分が商店として貸し出されている。そこからの賃料はモスクの運営にあてられていたのだ。前二者に比べると小規模にまとまった複合施設である。

アラスタ・バザール

アラスタ・バザール

 現地で実際に見学した結果、初めて詳しく知ることができたのが、スルタンアフメット・ジャーミーの複合施設についてである。モスク自体は日本でも有名なのだが、国内の書籍には付属施設にまで触れているものは少なかった。イスタンブールで手に入れたモスクのパンフレットやガイドブックによると、この施設群は霊廟、泉亭、マドラサ、診療所、救貧院、商店、ハマム、住居や商店からなっているという。モスク脇のアラスタ・バザールも付属施設の一つだ。しかし火災などの影響でいくつかの施設は失われてしまった。今回の調査のおかげで、今までわからなかった複合施設の規模が判明した。

 これらのモスクを見学する中で、複合施設の性質が現在までの間に変化していることがわかってきた。例えばワクフ財源による運営についてだ。スレイマニエ・ジャーミーで見学者の質問に対応していたCENTER FOR CROSS-CULTUAL COMMUNICATION FOUNDATION(CCC)の人に聞いてみたところ、付属施設からの収入によってモスクの運営がなされていたのは昔のことで、今ではモスクは政府に管理され、水道代、電気代などの費用は政府が支払っているそうだ。質問したのはここだけなので、全ての複合施設がそうなっているかはわからないが、少なくともスレイマニエ・ジャーミーの複合施設群はもう宗教寄進による施設という側面をもっていないのだ。

スレイマニエ図書館

スレイマニエ図書館

 また、利用方法が変化した施設もあることもわかった。同じくCCCの人によれば、かつてスレイマニエ・ジャーミー複合施設群の小学校だった場所はイスタンブール大学の教授のための寮に、別の学校はスレイマニエ図書館の一室になっているそうだ。また、かつて僧侶や礼拝者のための食堂であり、貧しい人たちへの無料給食施設であった建物はレストランになっている。こういった転用はほかの複合施設群でもある。スルタンアフメット・ジャーミーではほとんどの施設が別の目的に使われている。例えば宗教教育のための初等学校はモスクの情報センターとなり、かつて診療所のあった場所にはマルマラ大学の一部が建っている。

 しかし、このように用途が変わってしまったものもあるが、複合施設群は現在でも利用され続けている。リュステム・パシャ・ジャーミーの一階は今も店舗として使われ、人々で賑わう商店街の一角をなしている。イェニ・ジャーミーの泉亭は紙コップが常備され、公共の水飲み場として利用されていた。スルタン・アフメット・ジャーミーのアラスタ・バザール、イェニ・ジャーミーのエジプシャンバザール、先述したスレイマニエ・ジャーミーのレストランやハマムは多くの観光客も利用しており、観光名所となっている。かつてのモスク付属施設は活用され続けているのである。

リュステム・パシャ・ジャーミーの一階部分

リュステム・パシャ・ジャーミーの一階部分

イェニ・ジャーミーの泉亭。

イェニ・ジャーミーの泉亭。
現在は写真の中央左にある蛇口が使われている。

 現代における活用例の一つとして、先述したイェニ・ジャーミーの「スルタンの屋敷」を挙げよう。17世紀にモスク付属施設として建てられたここは、オスマン建築の重要な作品のひとつだ。現在はイスタンブール商工会議所が所有している。彼らは建物を修復した後、博物館として建物の内部を一般に公開した。それだけでなく、「スルタンのパビリオン」では毎月第二木曜日から二週間の間、商工会議所の提供の下で展覧会が開かれて芸術作品が展示されており、トルコ人、外国人に関わらず無料で観覧することができるようになっている。歴史遺産としての文化的価値を損なうことなく、新たな役割を付与して現代に合うよう活用しているのだ。この事例はハットゥシャの城門と同じく、歴史遺産の保護と活用の両立という点で非常に興味使いものであった。

「スルタンの屋敷」の外観(左)と内部(右)

 この調査を通して、オスマン朝の時代に作られたモスクに付属する施設が、元の役割のまま、もしくはその性質を変えながらも利用され続けているということがわかった。オスマン朝における大規模なワクフは寄進財産による宗教、社会福祉施設の運営の他に市街整備という役割も持っている。スレイマニエ複合施設群が一つの街区を形作ったように、ワクフ制度に基づいてモスクを中心とする大規模な複合施設群を作ることは、イスタンブールの街づくりにつながっていた。その後の時代とともに変化し、宗教的な意味合いがなくなっても、寄進制度によって建てられた建物自体はイスタンブール市街の人々に活用され続けているのだ。

・市内見学まとめ

リュステム・パシャ・ジャーミー

 二つのテーマで行ったイスタンブール市内見学では、現地に行って実際に遺物や歴史的建築物を見たことにより、日本の本やインターネットではあまり紹介されていない情報を手に入れトルコの歴史に関する理解を深めると同時に、過去の遺産が今はどのように利用されているかということについて知ることができた。無料配布のパンフレットや日本語、英語で書かれた現地書籍も手に入れることができたので、今後の学習に役立てていきたいと思う。

 本活動での失敗は、予定があったにもかかわらず、自分の調べ物を優先させすぎた結果、見学時間を大幅にオーバーすることがあった点だ。予定していた見学先はなんとか全て回ることができたが、食事の時間が不規則になったりホテルへの帰りが遅くなったりするなど、一緒に行動した人たちに大変な迷惑をかけてしまった。安全上複数人行動が必要であることがわかった上で自分が計画を立てたにもかかわらず、自らそれを無視してしまったのだ。予定を守れないということは、これから学習活動や社会生活をしていく中で大きな問題である。今後何らかの活動をする際には予定時間を守ることを前提に、その範囲内でやるべきことを終わらせるよう肝に銘じて行動するようにしたい。

全体まとめ

 学外活動応援奨学金を利用し、実際に海外に行くことで、国内ではできない貴重な体験をすることができた。考古学フィールドコースでは考古学という今まで触れたことがない分野について実際の遺跡で学ぶことができ、イスタンブール市内見学では先史時代から現代にいたるまでの歴史、及び、自分が関心をもっている社会制度について理解を深められた。今までもトルコには関心があったが、本活動でトルコの歴史についての新たな発見が多々あったことで、この地域に対する学習対象としての興味が一層強くなった。ここで学んだことを無駄にしないよう、そして明らかになって欠点を直しつつ、これからも学業に精進するつもりだ。

 今回の活動は、フィールドコースを主催したアナトリア考古学研究所とその先生方、共に活動したフィールドコースの参加者達、発掘現場でお世話になった学生、親方、作業員の方達、スレイマニエ・ジャーミーで質問に答えてくれたCCCの方、奨学金申請書作成を手助けしてくれた東洋史学専攻の新免康教授、そして活動を後押ししてくれた中央大学文学部など、たくさんの人に支えられたものであった。最後になってしまったが、お世話になった人々全てに感謝の意を表したい。

【参考資料】

  • 「地球の歩き方」編集室.『イスタンブールとトルコの大地 2015~2016年版』.改訂第26版,ダイヤモンド・ビッグ社,2015.
  • Ali Serkander Demirkol. "The Stonework Collection". THE MUSEUM OF TURKISH AND ISLAMIC ART, 2011, p.74-85
  • K&Bパブリッシャーズ.『トラベルデイズ イスタンブール トルコ』.昭文社,2013.
  • 大村幸弘.「カマン・カレホユック」.アナトリア考古学研究所ホームページ.
    http://www.jiaa-kaman.org/jp/excavation_kalehoyuk.html,(参照 2016年3月31日)
  • エルデム・ユジェル著.『イスタンブール』.岩村貴子・オズデン訳.ANADOLU TURİZM VE TANITIM YAYINLARI,2015.
  • ナジフ・オズトルコ著『ワクフ―――その伝統と「作品」』.東京・トルコ・ディヤーナト・ジャーミィ,2012年.