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多民族都市ニューヨークでの博物館を通して見る移民の歴史認識と現状調査

文学部人文社会学科 西洋史学専攻 3年
林 文絵

Ⅰ 目的・概要

 私は今回、2015年度・文学部学外活動応援奨学金の奨学生としてアメリカ・ニューヨークに約2週間滞在し、移民に関する博物館と歴史協会への訪問や資料収集、またインタビューといった調査を行った。私は、大学3年次を休学し1年間カナダ・トロントに留学していた時に、さまざまな人種が共存し、それが当たり前のように成り立っている社会や移民都市にとても興味を抱くようになった。その留学経験から、留学前悩んでいたゼミ論・卒論のテーマをおおまかではあるが、「移民」「多民族文化」という方向で進めたいと今年の4月、復学した時に決めていた。ニューヨークは世界でも最大級の移民都市であり、移民に関する博物館などが多く存在するということ、また、実際留学時にニューヨークは観光で2度行ったことがあるということから、研究対象とする都市をニューヨークに決めた。しかし未だにおおまかであるテーマであり、悩んでいた時、今回奨学金を頂けることとなり、実際に現地での調査を行った次第である。

 以下の4点が主な調査概要である。① 博物館と歴史協会を訪問し、書類や展示物を見学すると共に展示方法についても注目し、移民を受け入れる側と移民側の歴史認識について考察する。② 図書館や本屋での資料収集。③ エスニックタウン(各移民ごとの居住区域)を訪れライフスタイルを知る。④ 博物館の方へのインタビュー。

Ⅱ 日程

9月 6日  成田国際空港 発

9月 7日  ジョン・F・ケネディ国際空港 着
日程の確認、下調べ

9月 8日  ロウワー・イースト借家博物館
国立アメリカン・インディアン博物館

9月 9日  エリス島移民博物館、自由の女神

9月10日 在米中国人歴史博物館、インタビュー

9月11日 ヒスパニック・ソサエティ・オブ・アメリカ
ニューヨーク歴史協会

9月12日 ユダヤ移民博物館

9月13日 ニューヨーク市立博物館
在米イタリア人歴史博物館、インタビュー

9月14日 ワンワールド・トレード・センター
9.11メモリアル

9月15日 ブルックリン地域
書店を回り、参考図書資料購入

9月16日 ブルックリン・クイーンズ地域
ブルックリン歴史協会

9月17日 図書館での資料収集、資料整理

9月18日 ジョン・F・ケネディ国際空港 発

9月20日 成田国際空港 着

Ⅲ 移民都市としてのニューヨーク

 タイムズスクエアやウォール街、ワールド・トレード・センターなど、ファッションや経済の中心として常に注目を集める、観光地としても大変有名な都市ニューヨークであるが、ここでは"移民都市"としてのニューヨークとその歴史を少し紹介してから、報告に入りたいと思う。

 2011年時点でニューヨーク市の人口は約820万人、うち約300万人が移民である。民族別でみると、ドミニカ共和国、中国、ジャマイカ、メキシコなどからの移民が多い。1850年代は90パーセント近くがドイツやイタリアなどのヨーロッパからの移民であったが、20世紀になるとラテンアメリカとアジアからの移民が増え始め、2000年にはラテンアメリカとアジア移民が80パーセントを占めている。特に顕著にみられるのが中国系移民の増加で、2000年から2010年の10年間で約24万人の増加となっている。実際、街を歩いていたり、地下鉄に乗っていて、アジア人が多いなと感じたことは多かった。ニューヨークは1892年から1954年までの約60年間、エリス島にアメリカ移民局が置かれていたこともあり、歴史的にみても、移民が多く流入してきた都市である。そのため、ニューヨークには多くの"エスニックタウン"と呼ばれる、各民族の居住区域が存在し、約170近くの言語が話されている。

Ⅳ 博物館の紹介と考察

 私は12日間のニューヨーク滞在中、計10件の博物館と歴史協会へ足を運んだ。初めにこの企画書を作り始めた時に、博物館に行くとこはただの観光になってしまうのではないかと心配だった。しかし、博物館の展示方法や存在意義なども考察することで、ただの見学ではなく、違った視点から展示を見ることができた。ここでは特に重要だと感じた、または面白いと感じた5件の博物館を紹介したい。

(1)エリス島移民博物館

 ここエリス島移民博物館の見学は今回の研究で一番大きな目的のひとつであった。アッパーニューヨーク湾に浮かぶエリス島へは、マンハッタンから自由の女神・エリス島移民博物館行きのフェリーチケットを18ドルで購入する。先述した通り、エリス島は1892年から1954年までの約60年間、アメリカの移民局として存在していた。1200万人もの移民がこのエリス島を通過しアメリカへ入国し、現在のアメリカ人の5人に2人がエリス島を通ってきた移民を先祖に持つといわれている。現在は移民博物館として管理されており、実は今年5月にリニューアルオープンしたばかりである。

 

エリス島移民博物館 入口

自由の女神のあるリバティ島から見たエリス島とマンハッタン

 博物館は「Island of Hope, Island of Tears」(=希望の島、嘆きの島) という、移民から呼ばれてきたエリス島の"別名"をテーマにし、展示している。私は博物館に入ってまず、スペイン語やアラビア語、中国語など8カ国ごから選べる音声ガイドの日本語のものを借りた。ガイド通りに進むと、実際に移民たちがエリス島に着き、審査などを受け、アメリカに入国するまでの過程と同じ順でルートをまわることができる。音声ガイドでは「想像してみてください・・・」といって当時同じ場所で聞こえていただろう、人々の声や物音を流し、私たちに想像を膨らませる。実際音声ガイドを付けて見学している人の中には椅子に座って当時を想像し複雑な顔をしている人も多くいた。

 

移民たちが最初に上る階段

2階登録ホール

 約1週間の船旅を終えエリス島に着いた移民たちは、荷物を預け、まず写真にある階段を上る。これは2階登録ホールに向かう階段なのだが、すでにここが最初の審査となっていた。脚を引きずっていたり、少しでも疲れた様子の者は即行健康診断にまわされたという。名前などの確認が行われていた登録ホールには当時使われていた名簿や用紙が数枚あり、誰でも見ることができる。登録ホールの後には、健康診断や法的審査があった。特に健康診断は厳しく、目の伝染病や精神病などを患った社会の負担になりそうな者はチョークでマークをされ、移民になるのが難しかった。移民を受け入れるアメリカ側からすれば、受け入れて損になる人は安易に入国させるわけにはいかないのだろう。酷なのは家族で移住するために来たにもかかわらず、この健康診断で家族ばらばらになってしまうことも少なくなかったということ。音声ガイドには、当時本当に両親とここエリス島で離ればなれになってしまったお婆さんの話などもあり、胸が痛くなった。館内には実際に使われていた健康診断器具や精神病診断テスト、写真がたくさん展示されていた。一通りの審査の流れをたどった後は、審査を通過し、アメリカ人となった移民たちの新天地アメリカでの生活についての展示になる。『当時、アメリカ人になるということは、全てを手に入れること。自由、言論、信仰、全て。』こう信じてアメリカにやってきた移民のたちの実際の厳しい労働生活や暴動などを体験談と写真と共に生々しく展示していた。また、当時の風刺画も多く展示しており、移民たちの生活の厳しさが鮮明にうかがえた。

 

移民の数を表した図

移民たちのアメリカでの生活展示②

 次の展示はエリス島自体の歴史について。模型を使って、エリス島が大きくなっていくのを視覚的に分かりやすく見せると共に、音声ガイドでは戦時中は法を破ったものを拘留する場所として利用されていたとこも説明していた。  私がこのエリス島移民博物館で一番魅力的だったのが、最後の、「新しい移民の時代」という展示だ。「Leaving」「Making the trip」「Arrival」「Struggles and Survivals」という4つのテーマで構成され、21世紀の移民に焦点を当てている。特に印象に残っているのが、いかに自分たちの文化・価値観・習慣を維持しながらアメリカに適応することが移民にとって重要で難しいかということを訴える展示だった。実際にニューヨークに住む移民の意見を聞くことのできるコンピューターでは、「アメリカに住むことに価値を見いだせるか」という問いに対して、YESとNOの意見があった。NOと答えた人は、お金のため、家族のため、仕方ない、いつか母国に帰りたいという。YESと答えた人でも、子供にはスペイン語は教えているなど、親のバックグラウンドの伝承は重要のようだった。

 

展示「新しい移民の時代」

移民たちの意見を聞けるブース

 目で見て、耳で聞いて、想像させながら進んでいくエリス島移民博物館の見学は、自分がひとりの移民としてエリス島を訪れているような感覚にさせた。移民の入国からその後の生活、移民2世3世の生きる21世紀の移民問題まで、幅広く且つ詳しいニューヨークの移民に関する展示は私にとってとても魅力的だった。結局予定をはるかに上回る6時間もかけて見学したが、それだけ私には価値ある展示であったことは間違いない。

(2) ニューヨーク市立博物館

 アッパー・イースト・サイドにあるニューヨーク市立博物館は学生料金10ドルでチケットを購入できる。4階建ての建物の中では「ニューヨークとフォークミュージック」「ニューヨークのランドマークの50年」「ヒップホップ革命」といったすごく具体的なニューヨークの歴史の展示が多かった。「Timescapes」という22分間のショートムービーの上映は、マンハッタンにオランダの入植がはじまる前から2015年までを、ざっくりとではあるが紹介するものだった。ここでは特に面白かった「Activist New York」という展示を紹介したい。これは、移民・市民権・人権という3つの問題点からダイバーシティ・ニューヨークを考えるという展示テーマであった。

 

展示「Activist New York」

同性愛者に関する展示

 壁一面がその時代を象徴する写真や風刺画で展示されていて、各コーナーにも多くの写真と実際の道具や書籍があり、また当時流されていたニュースなどを見ることもできる。私が特に感じたのは、ブロンクスの黒人コミュニティに関する展示が他に比べて広かったことだ。特に、1970年代のサウス・ブロンクスで起きたアパート火災暴動に注目し、その問題とそこからのアフリカン・アメリカンとしての在り方の変化などを紹介していた。他には現在進行中で起こっている、同性愛者についてのテーマや、市民が大気汚染という問題に気づき、市民運動からできた、自転車レーンの誕生につての展示もあった。この展示を見た後、私は街中を歩く時実際に自転車レーンを注視してみたが、かなりの人々が通勤などに自転車を利用していることに気づいた。車の交通量も未だ多いため、渋滞を避けるという理由もあるようだ。

 

「Activist New York」自転車レーンに関する展示

実際の街中の自転車レーン

 テーマを絞って具体的に紹介する形の展示だった、ニューヨーク市立博物館の展示方法。知らないことばかりだったので、大変面白く、ニューヨーク全体の歴史というよりは、部分部分を深く知ることができた。

(3)ロウワー・イースト借家博物館

 19世紀から20世紀にかけての移民たちが実際に暮らしてきた共同アパートをそのまま利用し、さらに内部を忠実に再現した、ロウワー・イースト・サイドに位置する博物館。20ドルでチケットを購入する。見学はツアー形式で約90分間。私が参加した時は、ブラジル人、イタリア人、アイルランド人、アメリカ人など観光客、計12人のツアーだった。残念ながら館内は写真撮影禁止だった。アパートの2階3階部分を利用し、時代別に当時を再現し、雰囲気を作り出していた。1860年代初めはドイツ移民が多く住んでいた。ニューヨークのロウワー・イースト・サイドは当時世界で5番目に大きなドイツ人街だったという。その当時を再現した部屋は、薄暗く、エアコンもなく、窓も少なかった。食器などの日用品はかなり充実していた。その後ヨーロッパや中南米、アジアからの移民が増え、1920年代からは特にイタリア人系移民が多くこのアパートに住んだ。この時期になると、ガスが通り、食器棚や化粧鏡などの家具も増えていて、移民の生活が少しずつ豊かになっていったのがわかった。各部屋には、当時を再現した家具などだけでなく、実際に住んでいた人たちの当時の写真を見せ、ツアーガイドの方が説明してくれたり、クイズ形式で話をしてくれたりした。実際住んでいた人の肉声での当時の話を聞く部屋では、リアルに移民たちの生活が想像できた。実際の移民たちの経験と協力で成り立っていることから、とても本当の生活に近い、忠実に再現された博物館だと思う。

 

チケット売り場と移民に関する書店

博物館となっているアパートの外観

(4)在米中国人歴史博物館

 チャイナタウンの近くにある在米中国人歴史博物館は学生料金5ドルで見学することができる。展示は1784年に中国人がニューヨークにやってきたところから始まる。お茶やシルクなどの貿易についての展示が多かった。1850年代になると中国系移民たちは洗濯業とレストラン営業で生計を立てるようになる。"アメリカン・チャイニーズフード"でなくてはいけない厳しさや苦労話などが、当時実際使われていたメニューと共に展示されていた。その後、中国系移民は、マジシャン・映画俳優などの分野にも進出していく。実際の、音なし白黒の映像を見ることもできた。

 

インタビューに答えて下さった博物館の方

ニューヨークにある中国系移民の団体の紹介展示

 他には、ニューヨークにある中国系移民の団体の紹介や、中国の漢方やお茶の店を再現した部屋、中国の伝統芸能を紹介する展示などがあった。博物館最後の展示は戦争に関わるものだった。全体の4分の1はその展示であり、特に中国系アメリカ人、または中国人としての視点から見た太平洋戦争についての展示がほとんどだった。私は正直とても驚いた。日本のことをすごい言葉で非難する説明書きが多く見られたからだ。ただ、日本の歴史教育しか受けていない私は、戦争で敵対していた国の、そのような戦争に対する表現の仕方を知れて良かったと思っている。アメリカ側、中国系アメリカ人、または中国側の歴史認識を学べたと思う。最後に、博物館の方に少しではあるがインタビューという形でいくつか質問させて頂いた。左の方は中国系移民3世、右の方は台湾から移民として幼いころニューヨークへやってきたという。中国系移民のコミュニティーに属していたり、"中国系"移民として何かやっていることはありますか?という質問に対し、彼女たちは、「移民として、又は民族意識を強くもっているのは高齢者の方が多い。私たちは正直アメリカ人として生活していて、特に移民であるという意識はないし、それがニューヨークでは当たり前になっている。でも、自国の祝日、例えば旧正月などは一家でお祝いする。」と答えてくれた。また、いろんな人種の人と繋がりを持てるニューヨークが大好きだと言っていた。アメリカという国に属しながらもバックグラウンドの国の文化を持ち続けることが移民にとって重要なポイントなんだということを改めて考えさせられた。

(5)在米イタリア人歴史博物館

 リトルイタリーの中心にある、在米イタリア人歴史博物館。入場料は特になく、寄付という形で3ドル払った。ここはMulberry St.に面する小さな建物の1階部分が博物館になっていて、正直今まで紹介してきた博物館とは規模ははるかに異なる。しかし私はこの博物館の存在意義にとても共感したので紹介したい。ロウワー・イースト・サイドにあるMulberry St.はリトルイタリーの目抜き通りとなっていて、レストランが立ち並ぶ。博物館となっている建物は1880年代から銀行として使われていた。今のメガバンクとは違い、イタリア系移民にとってただひとつの頼れる銀行だったという。つまり、イタリア系移民の生活の中心には常にMulberry St.とその銀行があったのだ。銀行がなくなってからは、今の博物館となり、具体的な展示物は、リトルイタリーでのイタリア系移民の生活を表す写真やモノ、そしてこの建物の銀行としての歴史と、Mulberry St.の歴史についてだった。実は私が訪れた9月中頃は毎年リトルイタリーでサンジェローナ祭りが行われていて、メインストリートのMulberry St.は活気に溢れていた。その為、私はこの博物館を探すのに道に迷い、地元の人にこの博物館はどこですか?と聞いた。すると、場所を教えてくれたあとに、「優しいおじちゃんがいるから!」と教えてくれた。実際行ってみると「お金はいいから見てってね」と言って優しいおじいちゃんが受付にいた。展示は思っていたのとは少し違っていたが、なにかほっとするような気がした。展示を見学し終えた後、案内の方とお話することができた。先述した、Mulberry St.と銀行の歴史を教えて下さった。そして彼女は最後に、「ここはずっとイタリア系移民たちの中心なんです。」と言った。彼女自身もイタリア系移民4世にあたり、17歳ながらボランティアでこの博物館で案内しているという。本当にこのリトルイタリーが好きなのだろうと思った。博物館は、写真やモノの展示や説明だけでなく、その民族の中心、民族意識の起点になりうる存在であることに、今回この在米イタリア人歴史博物館を訪れ、新しく気づくことができた。

 

在米イタリア人歴史博物館内

説明して下さった案内の方

 

銀行だった時実際使われていた金庫

Mulberry St. サンジェローナ祭り

(6)考察

 "ニューヨークの歴史""移民の歴史"といっても様々な方面からとらえた展示方法があり、ひとつとして同じものはなかった。例え同じ事象を説明するにしても、注目する点が違っていたり、表現方法が違っていた。本や論文で、ニューヨークの歴史について学んでいただけの私にとって、全てが新しい学びで、発見だらけだった。エリス島移民博物館では、移民を受け入れる側のアメリカの移民に対する厳しい姿勢を見ることができ、在米中国人歴史博物館では、"中国系"移民のリアルな歴史を知ることができ、在米イタリア人歴史博物館では、博物館の存在意義についても考えさせられた。同じ博物館といっても、こんなにも違うということにとても驚き、またこれがひとつのニューヨークを象徴することだと感じた。

Ⅴ エスニックタウンの紹介と考察

(1) マンハッタンとブルックリン・クイーンズ

マンハッタン島は、東京の山手線の円の中に収まるほどの大きさしかなく、地下鉄はとても便利だが、私は滞在中、徒歩での移動も多かった。そんな小さな島の中にはたくさんのエスニックタウンと呼ばれる、各移民の居住区域が点在している。有名なところでは、チャイナタウンやリトルイタリー、コリアンタウン、マンハッタン島の北部・ハーレム地区の黒人街などで、そのほかにもギリシャ人街やロシア人街などがある。一足エスニックタウンに入ると、本当にその国にいるかと思うほどに、レストランの看板は全てその国の言葉、周りではその国の言語が話され、"におい"までもが違う。特に驚いたのは、チャイナタウンとリトルイタリーはほぼ隣り合っているにも関わらず、全く違う雰囲気を持っていることだ。ここでは主に写真で紹介したいと思う。

チャイナタウン

果物屋さん

中国語の看板が並ぶ

リトルイタリー

イタリア語の看板と国旗

サンジェローナ祭のため、いつもより派手な装飾がなされていた

ハーレム地区・黒人街

左の写真はハーレムにある、ニューヨークで最も古い黒人教会、アビシニアン・バプテスト教会。ハーレムは黒人のほかにも、メキシコ、ドミニカ共和国、プエルトルコなどの中南米系の人々も多く住み、スパニッシュ・ハーレムとも呼ばれる。道を歩いていても、アジア系の人はほとんどおらず、本当に黒人や中南米系の人しかいなかった。

青で囲ったブルックリンと赤で囲ったクイーンズは、マンハッタンとは違い、これといった観光名所はなく、閑静な住宅街がほとんどである。しかし最近はニューヨークの人口増加に伴い、開発が進んでおり、地価も急激に上昇しているという。今回私はクイーンズのジャクソン・ハイツとそのまわりの地域まで足を運んだ。特に有名なものがあるわけでもないが、エリス島移民博物館の「新しい移民の時代」の展示のひとつに、クイーンズに住む人へのインタビューがえあり、興味をもったので行ってみることにした。ジャクソン・ハイツはドイツ系・イタリア系の労働者階級がかつて住んでいたが、現在はインド・バングラデシュなどの南方アジア系をはじめ、メキシコなどのヒスパニック系が多く移住している地域となっている。

クイーンズ ジャクソン・ハイツ

インド系の伝統的な服が店頭に並ぶ

広告は南アジア系の人々に向けて

クイーンズでは地下鉄は地上に通っているため、このような高架下のイメージが強い

アラブ語の表記があるスーパーマーケット

 ブルックリンにあるエスニックタウンは今回訪れていないが、ここにもまたポーランド人街や、ユダヤ教徒とカリブ系の黒人が住むエリアなど、多くのエスニックタウンが存在する。最近とても人気があるブルックリンは、ニューヨークだがマンハッタンのようにギラギラしていない、落ち着いた雰囲気で、私個人的にはとても気に入った。エスニックタウンではないがいくつか写真で紹介したい。

ブルックリン・ベッドフォード

ブルックリン・ハイツ

(2)考察

 同じ国や人種で集まりながら生活することは、お互い助け合って、移民としての辛さを共有できるのかなと感じた。また、もうひとつ、私が感じたのはエスニックタウンは"文化の伝承"の場であるということ。博物館の見学やインタビューを通して、アメリカにアメリカ人として生きながらもバックグラウンドの文化や言語を大切にしたいという移民の存在を知った上で、点在するエスニックタウンをみると、そこにはもちろんその言語だけでなく、例えば、スーパーに並ぶ食材が中華料理にしか使われないものだったり、売っている服がインドの伝統的な衣裳だったり、さまざまな"文化の伝承"があることに気づく。ニューヨークが移民の都市で在り続けることができるのは、これらのエスニックタウンの存在が大きいのではないかと思う。

Ⅵ 9.11のニューヨーク

 研究テーマとは少し離れてしまうが、9月11日のニューヨークの様子を少し紹介したい。私が今回この日程を組んだのは9月11日のニューヨークをこの目で見てみたかったからである。世界同時多発テロから14年、新しいワンワールド・トレード・センターも完成し、着実に復興していた。9月11日、私は朝早くにワールド・トレード・センター跡地に向かった。しかしそこにはいつもの数倍の沢山のひとがいた。追悼セレモニーは遺族のみの出席で、参加はできないが、多くの人がそのまわりに集まっていた。いつもはフレンドリーな警察の方もその日だけは厳しい顔つきをしていた。最初に飛行機が追突した8時46分には、皆が新しくできたワン・ワールド・トレード・センターを見つめていた。今までに見たことのないニューヨークの姿だった。夜には毎年行われている、「トリビュート・イン・ライト」と呼ばれる、ツインタワーの姿を表す追悼のライトアップがる。1日を通して粛々とした雰囲気であった。

星条旗を持った男性は無言のままじっと立っていた

ワン・ワールド・トレード・センター

沢山の人が押し寄せた9.11の朝

「トリビュート・イン・ライト」

 

Ⅶ 活動を振り返って

 渡米前はひたすら、本当に何か有益なことを得られるのだろうかという不安しかなかったが、博物館の展示方法に注目することで、さまざまな違いを見出すことができた。また、大きな収穫となったのは、博物館で働く方へのインタビューだ。インタビューといっても堅苦しいものではなく気軽に聞きたいことを聞けた。実際にニューヨークに住む方の意見を生で聞けたことはすごく大きい。奨学生としてでなければ正直ここまでやっていなかったかもしれない、と思うと奨学生として、また研究としてニューヨークに行くことができて本当に良かったと思う。また12日間という比較的長い滞在を通して、観光都市ではなく、移民都市としてのニューヨークを知ることができた。漠然とした大まかだったゼミ論・卒論のテーマも、私なりにかなり絞れてきた。現地で図書資料も収集でき、なにひとつ後悔のない、とても充実した滞在であった。研究外の部分では、滞在したホステルでさまざまな国の人との交流の機会があり、個人的にも"多民族都市"ニューヨークを感じることができた。1年間の休学留学で得た英語力とコミュニケーション力を大いに発揮することができ、とても満足している。

 最後になるが、今回中央大学からこの、文学部学外活動応援奨学金を頂くことができて、また、新しいチャレンジをする機会を与えて頂き、本当に感謝している。この活動で得たこと活かして、これからの研究に繋げていきたい。

ブルックリンブリッジにて

19世紀20世紀に世界中から移民を迎え続た、勇気と希望の象徴である自由の女神