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イギリス留学が夏目漱石に与えた影響~日英同盟期の日英関係~

文学部人文社会学科 西洋史学 3年
笹井 喜幸

はじめに

 この報告書は中央大学から学外活動応援奨学金を受給させていただき、2014年8月19日(火)~24日(日)、愛知県と熊本県で活動した記録である。最初に計画の目的を記述し、次に愛知県と熊本県での具体的な報告、最後にそれらを踏まえてイギリス留学が漱石に与えた影響を考察する。

1.計画の目的

 この計画の目的は卒業論文の史料を新しい視点から集めることであった。私は卒業論文で日英同盟をテーマにしようと考えている。日英同盟とは1902年、日本とイギリス間で結ばれ、1923年に世界情勢の変化により破棄された同盟である。鎖国から一転して開国し、急速に近代化した日本と、衰えは見せていたものの、世界中に植民地を持ち繁栄していたイギリスという全く性質の異なる2国間の同盟に興味があるというのが理由だ。だが、本来の専攻は西洋史であり、普段の講義のみでは欧米中心の視点からの史料に触れることが多い。史料を集める際、「では日英同盟の時代、つまり明治時代の日本人から見てイギリスはどのような国だったのか」という疑問が生じ、史料を様々な視点から集めるため、学外活動応援奨学金を利用させていただいた。
今回私が提示したのは夏目漱石を中心に日英同盟期の日英関係を考察する計画で、明治時代の日本人の中で漱石を中心人物に選んだ理由は以下の3点である。1点目は、明治時代(1868~1912年)と漱石の生きた期間(1867~1916年)が一致している点。2点目は漱石のイギリス留学期間が1900~1902年2月であり、日英同盟が締結された1902年1月にイギリスに滞在している点。3点目は『吾輩は猫である』をはじめ、作品に欧米の影響が見られる点である。以上3点の理由から漱石は日英同盟期に生きた人物であるといえ、今回の計画に最も適した人物だと考えた。
 訪問場所が熊本県と愛知県である理由は、漱石の留学以前と以後を比較して、どのような変化が見られるかを考察するためである。熊本県は漱石が留学直前まで在住していた地域で、愛知県は留学後の住居が存在する。
 以上が計画の目的である。次に、具体的な活動の報告を行う。

2.愛知県での活動報告

 8月19日(火)~21日(木)、愛知県に滞在した。愛知県では漱石の留学後の住居が残る明治村を訪問した。
明治村は、明治時代の建築、歴史資料が保存、展示されている場所である(写真1、2)。現在の建造物の数は60以上で、大半が重要文化財、有形文化財として登録されている。建築の他にも、明治の雰囲気を残した食べ物を提供する飲食店や、明治の衣装で写真撮影ができるハイカラ衣装館など、気軽に明治時代の気分が味わえる施設であった。実際、夏休みに行ったということもあるが、来客層は地元の恋人、友人同士と思われる人が多く、単純に歴史資料という視点だけではなく、明治時代の雰囲気を楽しめる場所であった。ドラマのロケ地としても数多く使用されていて、最近ではNHKの朝の連ドラの「ごちそうさん」や「花子とアン」などで使用されている。
 私が明治村を訪問した主な目的は森鴎外・夏目漱石住宅を見学すること、明治時代の生活様式を体験することだった。明治村では特定の場所でボランティアガイドというサービスが行われている。ボランティアの方の案内により、施設の詳しい情報や、普段は公開していない部分を見せてもらうサービスだ。当初はそのサービスを知らなかったのだが、偶然ボランティアガイドの酒向道夫さん(写真3)に声をかけていただき、学習院長官舎を案内してもらった。1人で見学しているだけではわからないこと、例えば建築様式の技術的な知識を現代風のわかりやすい例えを用いて教えていただいた。学習院長官舎の案内が終わった後に計画の目的を話したところ、酒向さんの担当箇所ではないにも関わらず、森鴎外・夏目漱石住宅を直接案内していただけた。案内以前にも見学はしていたが、酒向さんの説明により、自分だけでは気づかない部分や裏話などが聞けて大変参考になった。以下は酒向さんのお話、明治村のガイドブックをもとに記述している。

写真1:明治村 正面

写真2:明治村 外門

写真3:ランティアガイドの酒向道夫さん

<森鴎外・夏目漱石住宅>

明治村にある森鴎外・夏目漱石住宅は移築されたもので、旧所在地は東京都文京区千駄木町である。鴎外は1893年から1年、漱石は1903~6年まで、この家に住んでいた。鴎外は『文づかひ』、漱石は『吾輩は猫である』を発表した場所としても知られている。この漱石の住宅を建築様式、小説内の記述と実物の比較という2点から記述する。
外観(写真4)も中の間取りも含めて、住宅は当時の日本建築の様式であり、洋室は存在しない。酒向さんの説明で気づいたのが、玄関と勝手口(写真5)の存在だった。明治時代の住宅は主にお客様を通す玄関口と日常生活で子供たちが出入りする勝手口があるということだ。また、住居は明治時代の典型的中流住宅であったといえる。元々は1887年頃、医学士である中島襄吉の新居として建築され、鴎外や漱石は借家として住んでいた。明治村の他の建築と比較すると、1877年に建築された西郷従道邸は全室洋室の西洋建築であったのに対して、漱石の住宅は全室和室である。個人的な感想としても1室が特別に広いわけではなく、明治時代と現代では建築様式が違うことを考えても大きい家ではなかった。しかし、住宅の中で発展が垣間見えるのが長廊下(写真6)の存在である。明治時代はこのような廊下は珍しく、後に各部屋が個別に分離する現在のような形態が生まれた。
また、お話の中で興味深かったのが、明治時代の和室と洋室の区別である。酒向さんによると、「明治時代においては公的な仕事は洋室で行う取り決めであった」という。この説明は学習院長官舎を案内してもらった時に聞いたが、官舎では和室と洋室が存在していた。これは公的な場所と私的な場所を1つの空間で両立させようとした結果であるという。これらの点を考えると、明治村にある漱石の住宅は留学後の住居であるにも関わらず、西洋文化をあまり取り入れていないという結論に至った。
 2点目の小説内の記述と実物の比較では『吾輩は猫である』を扱う。『吾輩は猫である』は猫の視点から描いた小説だが、作中の家の描写と実物は似た点が多い。特徴的な例は猫のためのくぐり戸(写真7)である。そのため漱石の小説はモデルに対して忠実に書かれたといえる。

写真4:森鴎外・夏目漱石住居 外観

写真5:左が玄関で右が勝手口

写真6:長廊下

写真7:猫のためのくぐり戸

 

<明治時代の体験>

 日本の明治時代は鎖国から一転して開国し、イギリスを含む西洋文化を積極的に取り入れて、急速な近代化を進めた時代である。お雇い外国人の活用など、国の政策として西洋文化を受容し、教育、建築、郵便、交通など多方面に影響した。これらのことは歴史的事実として今まで勉強していたが、では実際、漱石を含めて明治時代に生きた日本人にとって西洋とはどのようなものだったかを、明治村での体験と共に考察していきたい。体験は衣装と建築の2点を中心に記述する。
初めに、明治時代の衣装を体験するため、当時の女学生の衣装(写真8)をハイカラ衣装館で借りた。衣装館には他にも、当時の西洋風のドレスがあった点が印象的である。ドレスはバッスルスタイルというものが多く、ウエストがしまりヒップの部分が強調されたデザインであった。女学生の衣装と比較してバッスルスタイルのドレスは体の凹凸を強調し、色合いが鮮やかなものが多かった。明治時代よりも西洋文化が流通している現代で生活する私ですらも、バッスルスタイルのデザインは日本との文化の違いを強く感じた。前述の通り、明治時代は鎖国から一転して開国したため、西洋文化は一般的ではなかった。そのため日本文化と西洋文化との違いを、明治時代の日本人は現代の日本人より感じたと推測できる。現代は着物などの和装の他に洋装も一般的に普及している。例えば、結婚式では和装の白無垢よりも、洋装のウェディングドレスを着る人が多い。衣装の点から西洋文化について深く考えたことはなかったが、どのようなものにでも歴史がある、という事実をこの体験では強く感じた。
また、明治村で様々な建築を見て1番感じたことが、西洋建築と日本建築の違いだった。森鴎外・夏目漱石住宅などの明治時代の日本建築が木材を中心としているのに対して、西郷従道邸などの西洋建築は石材、煉瓦を中心としている。この違いは外観にも表れていて、現代のように和洋混合の建築は少ない。鉄筋コンクリートを中心とした建築や、現代のマンションは明治時代にはまだ存在しない。外観のみならず、内装の点でも違いがある。学習院長官舎は前述の通り、和室と洋室が存在しているが、これらを両立させるため、内部で段差が付けられ、洋室の屋根は高く設計されている。現代日本の住宅では洋室と和室が存在している場合が多いが、このような違いは見られない。
明治時代に生きる人々にとっては、西洋文化は日本文化とは大きく違う「異質なもの」という認識が、現代の日本人より強かったのではないかと感じた。現代の日本は家に洋室があるのが当たり前になり、ベッドで眠ることなど、元々は西洋の文化である点をあまり意識しないで受け入れている。しかし、その意識が形成されるまでの過程を垣間見たように思う。

写真8:明治時代の女学生衣装

3.熊本県での活動報告

8月21日(木)~24日(日)の間、熊本県に滞在した。熊本県は漱石が留学直前まで在住した地域であり、住居を中心に留学後との比較をすることが当初の目的だった。愛知県では行きの高速バスが1時間遅延した以外は予定通りに進んだが、熊本県では予定を変更しなければいけなくなった。理由は22日に熊本市内で大雨洪水警報が発表されたためである。22日は10時から漱石の住居を見学する予定だったが、天候の様子を見て12時以降に出発するように変更した。そのため、22日に訪問予定だった夏目漱石内坪井旧居を23日にずらし、代わりに熊本大学五高記念館への訪問を取りやめた。五高記念館は訪問予定の施設の中で、唯一ホテルから離れていたため、開館時間に行けなかったのだ。計画の変更にしたがって、22日はホテルから近い熊本洋学校教師ジェーンズ邸、小泉八雲熊本旧居を追加した。五高記念館は漱石の声を再現した装置があると聞いて興味を持っていたため、訪問できなかったのは残念だが、卒業論文のために新しい視点から史料を集めるという元々の目的を考えると、今回の予定変更は新しい視点からの参考になった。ジェーンズ邸の見学は日本人の西洋文化の受容の考察に結びつき、小泉八雲熊本旧居の見学は八雲と漱石の比較により、漱石の多面的考察に繋がった。また明治村に引き続き、施設の館長は丁寧に施設を説明してくれただけではなく、計画の目的を話したところ貴重な文献をコピーしてくださった。この文献は報告書を書く際に大変、参考になった。以下、漱石の熊本での生活を要約した上で、訪問場所を順に記述する。

<夏目漱石の熊本生活>

 漱石は1896年4月、第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師となるため、愛媛県松山から熊本へ引っ越した。松山での経験は後に『坊ちゃん』のモデルになっている。それからイギリス留学までの4年3ヶ月を熊本で過ごし、在住中に6回の引っ越しをしている。理由はあるとはいえ、漱石は当時としては転居が多かったといえる。熊本ではまだ小説を書いていなかったが、多くの俳句を残し、後に熊本での体験を『草枕』や『二百十日』などの小説のモデルとした。
 漱石は熊本に来た直後は満足な家が見つからなかったため、五高の同僚の家に寄宿し、1ヶ月後に光琳寺町に引っ越した。光林寺町の家は東京から中根鏡子を迎えて結婚式を挙げたことで知られている。しかし、家の近くに墓があると鏡子夫人が嫌がったため、3ヶ月ほどで合羽町の家に引っ越すことになる。合羽町の家は家賃が高かったため(当時15円。漱石の月収は100円だった)、すぐに大江村の家に引っ越す。大江村の家では俣野義郎という五高生が書生として下宿していた。彼は朝寝坊しがちな上に大食漢で、漱石から怒鳴られてようやく起き、勝手に漱石の弁当と自分の弁当を交換して食べていたというエピソードがある。彼は『吾輩は猫である』に登場する多々良三平のモデルであると言われている。大江村の家を漱石は気に入っていたようだが、元々の家主である落合東郭が東京から帰ってきたため、次に井川淵町の家に引っ越す。だが、この家は部屋数が少ないということで3ヶ月後にすぐ、内坪井町の家に引っ越す。内坪井町の家は鏡子夫人が長女の筆子を産んだ家であり、熊本では1番気に入っていた家だとされる。最後に引っ越したのは北千反畑の家であり、イギリス留学までの4ヶ月を北千反畑の家で過ごした。
 このように漱石は熊本内で多くの引っ越しをしているが、現存している住居は少ない。空襲でなくなってしまったり、取り壊されたり、一般の方が住んでいる場合が多い。今回の活動では、現存している家の中から漱石が気に入っていたとされる大江村の家と内坪井町の家を訪問した。

<夏目漱石第三旧居>

 漱石の大江村の家を水前寺に移築したものである(写真9)。残念ながら内部の見学はできなかったため、外観のみの見学となった。だが、明治村で見学した留学後の住居と同じく日本建築であり、全室和室であることはうかがえた。

写真9:夏目漱石第三旧居 外観

<熊本洋学校教師ジェーンズ邸>

 夏目漱石第三旧居はジェーンズ邸の敷地内にあり、前述の天候の関係で遠出が難しくなったため、訪問した。ジェーンズ邸の予備知識がほとんどない状態での訪問となったが、館長の堀川重昭さん(写真10)にはわかりやすい説明をしていただいた上に、計画の目的を話したところ漱石の貴重な史料をコピーしてもらうことができた。ジェーンズ邸の歴史は漱石からは脱線するが、明治時代の日本人の西洋文化の受容の一例として記述する。
 ジェーンズ邸は熊本洋学校にアメリカ人教師ジェーンズを迎えるため、1871年に建築された、熊本で最も古い西洋建築物である(写真11)。堀川さんの説明の中で特に興味深かったのが、熊本洋学校での教育方針とその後の日本への影響である。洋学校はジェーンズの指導の下、英語による授業や自学自習を徹底した。キリスト教迫害の影響を受け5年で閉校となるが、ジェーンズの教えを受けた生徒は彼の勧めにより、京都の同志社英学校へ進学する。同志社英学校は新島襄がアメリカから帰国後、1875年に設立した学校で、現在では同志社大学として知られている。設立直後はキリスト教迫害の影響もあり知名度も低かったが、洋学校の生徒によりその発展期が形成されていった。彼らは熊本から来た集団、あるいはグループという意味で熊本バンドと呼ばれた。熊本バンドは札幌バンド、横浜バンドと並ぶ日本三大バンドとも呼ばれるようになった。熊本バンド出身者は同志社卒業後には各界に影響を及ぼした。現在も同志社大学のホームページの歴史年表には熊本バンドが掲載されている点からも、同志社への影響は大きい 。また同志社の歴代の学長は小崎弘道、海老名弾正など熊本バンドの出身者が多い。
上記のジェーンズ邸の歴史では西洋文化(特に教育)が日本へ影響を及ぼした例を記述した。次は更に具体的に西洋文化の中でも男女共学をとりあげる。洋学校は日本で最初に男女共学を取り入れた学校である。しかし、明治時代の日本では男女が同じ場所で勉強をする習慣はなく、男子生徒から女子生徒への反発があった。男子生徒はジェーンズに直訴し女子生徒と同じ教室では授業をしないという措置を求めた。その時にジェーンズは「あなたのお母さんは男ですか女ですか」と男子生徒を説得した。抗議した男子生徒の内の1人が後に同志社大学の学長になる海老名弾正であったが、彼は洋学校の女子生徒の内の1人である横井みや子と後に結婚する。男女共学になるまでの歴史を知らなかったため、1つの話としても個人的には感動したが、ここで注目したいのは西洋文化の受容という視点からである。当初は日本文化とは異質なもの(ここでは男女共学をあげた)を拒否するが、その後は抗議した本人だけではなく、日本全体でこの文化が定着した。現代日本では共学は珍しいものではない。明治村での明治時代の体験ではこのような西洋文化への反発まで考慮できていなかったので、ジェーンズ邸で話を聞けたことはいい発見になった。

写真10:館長の堀川重昭さん

写真11:熊本洋学校ジェーンズ邸 外観

2 同志社大学の理念と歩み 年表(2014年9月22日閲覧)

<近代文学館>

 熊本にゆかりのある作家や文学者を紹介し、その作品を展示している施設である。漱石の作品を展示するコーナーもあるため訪問したが、残念ながら夏期は作品展示が臨時休業となっていた。開館している部分は熊本県全体の歴史が中心で、本計画に関連するものは少なかったため、ここでは省略する。

<小泉八雲熊本旧居>

 計画の前段階では八雲と漱石の比較を検討していたが、日程の都合上、計画から外していた。ジェーンズ邸と同様に天候の理由で訪問をしたが、八雲との比較で漱石の人柄が一層身近になったように思う。 旧居は移築されたもので、熊本市電の通町筋駅から徒歩5分程度である(写真13)。通町筋は熊本内でも若者向けの店が多く並んでいるエリアで、ファッションビルPARCOの近くに違和感無く存在している点が面白かった。
 八雲はイギリス人の父、ギリシア人の母の間に生まれた。本名はラフカディオ・ハーン(Hearn,Patrick Lafcadio)であり、島根県松江で小泉セツと結婚後、帰化して小泉八雲と名乗るようになった。日本文化を好み、『知られざる日本の面影』などの著作で欧米に日本を紹介した。旧居も日本建築であり、近眼を理由として机と椅子は洋式だったが、その他は全室和室で日本様式だった。印象的だったのは、家の中に神を祭るために設けた神棚(写真14)があった点である。神棚は明治村の森鴎外・夏目漱石住宅でも見かけたが(写真15)、それと比較しても大きく、施設内で確認したところ八雲が特別に注文して作ってもらったものであった。この点からも八雲の日本好きを感じた。
 話を戻して、漱石との比較に移る。漱石と八雲の共通点は第五高等学校、東京帝国大学の英語教師であった点、文学者であった点である。しかし、漱石は八雲の後任教師として勤めていたため、学校内で直接的な接触はない。年表での比較は以下の通りである。

  生年月日 第五高等学校へ就任 東京帝国大学へ就任 死去
小泉八雲 1850年 1891年 1896年 1904年
夏目漱石 1867年 1896年 1903年 1916年

 八雲はどちらの学校でも1枚も原稿を持ち込まず、授業を行ったのに対して、漱石は入念に用意した原稿を持ち込んで授業を行い、内容は間違いを許さない厳しいものであったと施設内で紹介されていた。このように、授業スタイルが全く異なる2人であるが、漱石は八雲を敵視していたわけではなかった。むしろ、第五高等学校でも東京帝国大学でも八雲の後任である点に恐縮していたという。漱石の著作である『吾輩は猫である』にも「八雲先生」という人物が登場する。八雲と比較したこれらのエピソードでは漱石の実直さ、神経質な面が実感できた。

写真13:小泉八雲熊本旧居 外観

写真14:小泉八雲熊本旧居の神棚

写真15:森鴎外・夏目漱石住宅の神棚

 

<夏目漱石内坪井旧居>

 他の漱石の住宅が移築されたものであるのに対して、内坪井は唯一、当時の場所に残って記念館となっている(写真16)。旧居までは徒歩で向かったが、わが輩通りと名付けられた通り(写真17)が近くにあり、漱石のパネルや、漱石ゆかりの地をめぐる熊本地図などが置いてあった。時間帯や日程が違うため一概に比較はできないが、熊本で訪問した施設の中では1番観光客を見かけた。そのため館長も忙しそうで、あまり話を聞くことができなかった点が残念だった。施設内には観光客用に感想ノートが設置されていたが、日本全国のみならず、海外からの観光客も多く書き込んでいた。
 施設内は熊本での漱石の生活を紹介する展示の他に、長女の筆子の産湯として使った井戸(写真18)など当時のものが多く展示されていた。内坪井に住んでいた時のエピソードの中で興味深かったのが飼い犬の話である。内坪井で漱石が飼っていた犬が通行人に噛みついてしまい、巡査に取調べを受けることになる。この時漱石は、犬は利口だから慣れた者や危害を加えない者には噛みつかない、危害を加える恐れがあったから噛みついたのだと反論して巡査を言い負かしてしまう。だが、内坪井から北千反畑の家へ引っ越しをした後、漱石自身が噛まれてしまった。漱石は自分で、飼い犬は慣れた者や危害を加えない者を噛まないと発言してしまったため、すぐには事実を受け入れがたく、鏡子夫人に声をかけられるまで着衣が乱れたまま家の外で茫然としていたという。このエピソードでは漱石の口が達者な点、頑固な点が実感できた。 内装の点では内坪井には洋室があったため、留学前の住居の方に洋室があるのかと初めは驚いたが、説明を見ると漱石の後に住んだ人が大正時代に増築したとのことだった。小説の原稿の復刻版(写真19)や『吾輩は猫である』が掲載されている当時の雑誌(写真20)など史料が豊富に残されており、漱石と猫のからくり人形(写真21)が置いてあるなど、全体的に細かな仕掛けが多かった。漱石が約100年前に住んでいた場所だと思うと感慨深くもあった。

写真16:夏目漱石内坪井旧居 外観

写真17:わが輩通り

写真18:筆子の産湯として使った井戸

写真19:『こころ』の原稿復刻版

写真20:『吾輩は猫である』掲載雑誌

写真21:漱石と猫のからくり人形

4.イギリス留学が漱石に与えた影響

 以上の活動を踏まえて、イギリス留学が漱石に対してどのような影響を与えたのかを考察する。
 漱石は1900~2年、英語と英文学を研究するため、文部省給費留学生としてイギリスに留学した。年間1800円をもらっていたが、大半は本代として使っていたため、常に資金不足であった。家賃の安い場所を転々として、留学中の2年間で5つの地域に住んだ。漱石は留学中、資金不足などのストレスで思い悩み、日本では「夏目狂せり」という噂が広がっていた。漱石自身もイギリスからの帰国後、この留学を「もっとも不愉快の2年なり」と著書である『文学論』の中で記述している。これらの点から、漱石は留学を快く思っていなかったといえる。では漱石はイギリス留学でどのようなことを見たのだろうか。
 留学中の1900~2年は、イギリスも転換期に直面していた。1901年1月にイギリスの帝国主義の繁栄を築いたヴィクトリア女王が亡くなる。彼女は歴代国王最長の63年間イギリスを統治していた。対外的にも中国権益を巡ってロシアと対立し、1902年、他国と同盟を結ばない孤立政策を放棄して、日本と日英同盟を締結した。
 小泉八雲との比較、漱石の熊本でのエピソードを考えると、物事に対して常に真面目である反面、自分にも他人にも厳しく、こだわりの強さから模索しがちな漱石像が浮かぶ。明治時代の西洋文化と日本文化の違いについては、明治村での体験を中心に記述した。実際、1900年当時の東京駅周辺は原っぱだったが、イギリスの首都であるロンドンの周辺は地下鉄が開通し、技術面でも大きな差があった。だが技術面では日本より栄えていたイギリスでも、漱石は留学中に繁栄の限界を見ていたと考えられる。ヴィクトリア女王の死去、日英同盟の他に、家を転々とする中で当時のイギリスでは貧民者が多かった地域も目撃しているためだ。そして西洋文化に関しては、漱石は日本人の西洋文化の受容、広く言えば文明を批判する立場をとるようになる。今回の目的であった留学以前と以後の比較でも、西洋文化を取り入れている様子が見られなかった。また、漱石は留学後に小説を書き始め、小説内でたびたび日本人の西洋意識を批判している。漱石がモデルに対して忠実に小説を書いているのは明治村の森鴎外・夏目漱石住居で記述した。小説内での記述には漱石の思想が多少なりとも、反映していると考えられる。批判の一例が『吾輩は猫である』の中で帝国ホテルで着飾る日本人を批判するシーンだ 。
以上をまとめると、漱石はイギリス留学で西洋文化と日本文化の違いに直面すると同時に西洋の変化も目撃し、西洋文化や、明治時代の日本の西洋文化の受容形態を批判するようになったと考えられる。

おわりに

 構想の段階から不安な部分があったこの計画を実行に移し、報告書としてまとめる中には様々な人の協力がありました。計画の前段階から、他専攻であるにも関わらず熱心に指導をしてくださった国文学の宇佐美先生、日英同盟というテーマに関して助言をくださったゼミの松本先生、明治村のボランティアガイドである酒向道夫さん、熊本洋学校教師ジェーンズ邸の館長である堀川重昭さん、漱石の史料として朝日新聞の切り抜きをまとめてくれた家族など多数の人に、紙面をお借りして感謝申し上げます。ありがとうございました。

参考文献
  • 朝日新聞 夏目漱石に関する記事 7月18日~9月22日

    (特に7月30日の精神科医による漱石分析、9月5日の漱石の人柄考察、9月8日のイギリス留学に関する記事を参考にした)
  • 新潮社編『文豪ナビ・夏目漱石』新潮社, 2004年
  • 夏目鏡子『漱石の思い出』文藝春秋, 1994年
  • 夏目漱石『こころ』集英社, 1991年
  • 夏目漱石『吾輩は猫である』文藝春秋, 2011年
  • 博物館明治村『博物館明治村 ガイドブック』名鉄インプレス, 2013年

    その他、訪問場所の展示資料、案内など。

2「現にこの不合理極まる礼服を着て威張って帝国ホテルなどへ出かけるではないか。その因縁を訪ねるとなるとなんにもない。ただ西洋人がきるから、着るというまでのことだろう」夏目漱石『吾輩は猫である』(文藝春秋, 2011年)pp.272-273