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オーストラリア、ビクトリア州Healesville high schoolでの日本語教師派遣 プログラム報告書

文学部人文社会学科 社会学専攻 3年
岡野 晃久

実施期間
10月5日~10月31日

実施場所
Victria healesville in Australia

オーストラリアではLOTE(language other than English)という科目が存在する。このLOTEはその名と通り、英語の他にもう一つ、他言語修得することで、言語習得に慣れさせようというものだ。その他言語の一つに、日本語が推奨されている。このLOTEを入り口に、オーストラリアの日本語教育がはじまる。いわば、多くの子どもたちが日本と繋がりを持つための最初の機会である。私はその授業のアシスタントとして、派遣された。

今まで、ボランテイアで日本語を教えた事はあったが、それは個人対個人の日本語勉強であった。今回のようにクラスを団体で教えたことは一度もなかった。

日本語を武器に生きていきたいと考えていた私はあまりにも経験も知識も足りなかった。日本語で飯を食っていくことがどれだけ大変なのか、この道を本気で進んで行くのか、悩むよりも行動することにした。悩むだけ悩んで諦めるだけなら、机上でできるし、なんであれ「教師」という言葉がつく以上、一番大切なのは経験であるからだ。悩むなら、行動して逃げっれない状況に自分を追い込んでから、好きなだけ悩めばいい。そして、この派遣を通して、この道を進むか、諦めるか、決めることにした。

そもそも、私が日本語教師を選んだ理由は日本語が自分には選べないものであり、逃げられない物事であるからだ。私は自分で英語やスペイン語、中国語などから、どれを母語にしようか選べるわけではない。しかも、その日本語から逃げる、抜け出すことも容易ではない。単に海外に住めば、環境的には抜け出せるのかもしれない。しかし、英語を話すとしても、私たちはその内容や意味は脳の中では日本語で認識してしまう。どんなことがあっても、日本語から逃げることは出来ない。

自分のなかにあるものは選べなくて、逃げられない、「宿命性」を持ったものが殆どだと気づいた時、私はそれら全てに疑問を持つようになった。言語、家族、身体、地縁、国籍、それら全てが選べないことにこの歳になって、初めて疑問を持ったのだ。これらが自分では選べないことが不服なわけでもないし、悪いわけでもない。ただ、私たちはそれらのものの理由を深く考えようとはしない。「なぜ、日本人である私が日本語を話しているのか」。この問いに少しでも語れるようになりたい。これが私の出発点だった。

その中でも日本語を教える教師になること、「日本語を実際に必要としている人」と意見を交わすことはとても重要だ。両者とも、日本語教師のインターンで機会が得られる。

日本語教師に必要な知識は日本語の歴史的知識、実用的知識、認識的知識、全てに渡る。日本語の知識を得るにはいい環境だ。

日本語を実際に必要としている人と意見を交わすことは、自分の中の日本語を再び再発見できるし、学習者がどんな理由で日本語を知りたいのか知ることもできる。

以上の理由で私は日本語教師に興味を持っていた。自分では選べないものの一つである日本語という言語に自分の答えを見つけたかったのだ。

では、本活動を志望した理由を話した上で、オーストラリアでの活動について、報告に移る。

まずは、環境や地勢、学校の概要についての報告からだ。

私が派遣された学校はオーストラリア、メルボルンのある州のビクトリア州である。そこの北東にある町Healesvilleにあるhealesville high schoolだ。全校生徒約400人、小さめの学校だ。この学校は中学校部と高校部から成っている。ビクトリア州の義務教育は10年生までだが、希望者は12年生(以下、年生=th)までこの学校にいて高校生活を送る。その中で私が受け持った学年は、7thから10thまでの学年だ。7thはA・B・Cの3クラス、8thは1クラス、9・10thは合同1クラスであった。高校もあるのだが、昔あった日本語クラスが一旦なくなり、再開したのが4年前で、高校生の希望者がいないらしい。しかし、7thは全クラス共通科目で、8thになる際に、選択制になるようだ。Healesville High Schoolでは、7thはLOTEで2時間分、8thは選択制のJapaneseで2時間分、9/10thも選択制のJapaneseで4時間分が1週間のスケジュールに組まれている。その他に、放課後の日本語クラブとして、「After School Japanese」が週に一回行われる。

この学校のLOTE担当の先生はAshleigh=colemanという女性の先生で、7thのクラス担任でもあった。日本語は高校まで勉強していて、高校で日本に一年留学と3ヶ月間長野のスキー場でアルバイトをしていたそうだ。日常会話は基本は日本語でしてくれるが、単語はわからないところは英語ですることが多い。

年間の予定は州ごとに違っていて、ビクトリア州は4Term制で私が行ったのはちょうど4thTermがはじまるときだった。正確には10月8日から学校がはじまり、私が着いたのは10月6日でした。

Healesvilleはメルボルンに近い、といっても車で1時間かかるのでかなり田舎だ。周りはワイン畑や牧場が殆どで、とても長閑なところだった。やはり、ワインや果物が特産品だった。有名なところはオーストラリアの動物を集めた「healesville Sanctuary」という動物園がある。私はAshleighの家にホームステイさせてもらっていたが、Ashleighの家から学校までも車で30分かかる。車移動がやはり基本のようだった。Ashleighの実家が牧場で週末はそこで過ごすことも多かった。

次に具体的な活動を時間を追って報告する。

オーストラリア出発前には特に、準備という準備をすることはなかった。Ashleighとのメールで到着したときの打ち合わせをして、プログラム提供の本社からオリエンテーションがあったが、特に時間をかけて用意するものはなかった。

オーストラリアについての知識はある程度、勉強してから出発した。首都の変遷、気候、オーストラリアの一般的な学校生活等、そういうものを勉強していくと、日本のどのような面、どのようなことを紹介すればいいか、見えてくることもある。

日本とオーストラリアでの一般的な学校生活の違いが特に顕著だった。まず、オーストラリアの学校では、「リセス」という午前中に長い休み時間を取る仕組みがある。この時間、生徒たちは軽食として、持ち込みのお菓子や果物を食べたりする。教師も同じく、自宅から持ち込んだ軽食をとる。また、お昼も給食はなく、生徒がそれぞれ、ランチパックを持ってくる。そして、日本で言うところの購買部も存在する。パンや果物、飲み物はもちろん、頼めば、制服やマフラーも出てくる。しかし、オーストラリアの購買部である「キャティーン」は民間企業と提携してるわけでも、学校が独自に用意するわけでもない。保護者のボランティアで成り立っている。お店のスタッフも誰かの母親である。母親たちが独自にスタッフをして、商品も用意しているようだ。そのため、結構、融通が効くことが多い。お財布を忘れたら、ツケにしてくれるし、生徒とキャティーンで話していたら、お菓子をサービスしてくれた。生徒がサンドイッチやドーナツを作って、売り出すこともあった。修学旅行のお小遣い稼ぎや募金活動だそうだ。寿司を作ったり、おにぎりを作って、生徒が外で売り出すこともあるそうだ。

オーストラリアに到着したのは、スクールホリディが終わる2日前だった。前述した通り、二日後には4thTermがはじまる。Ashleighが空港まで迎えに来てくれていて、メルボルンからHealesvilleまでは苦労なく、移動出来た。スクールホリディが終わるまでの二日間は、Ashleighの弟とパーティに行ったり、メルボルンのカジノに行ったり、ついていきなり、楽しいと同時に、自分が日本語教師の派遣プログラムに参加しているのか不安になった。しかし、ゲスト扱いされていない分、とてもいい環境であるように感じた。

そして、4thTermがはじまった。毎朝、8時半に学校でホームルームがあるため、7時には起きて、8時前には出発しなくてはならない。月曜日・木曜日にはスタッフミーティングが朝にある。ミーティングは掃除のスタッフは施設管理のスタッフなど、教師以外のすべてのスタッフも集まり、ミーティングをする。それが、日本でもそういうものなのか、日本ではないことなのか、日本の教育現場を見たことがないのでわからない部分があったが、掃除のスタッフがスタッフ全員に向かって、「整地中だから、ここははいらないで」と言っているのに違和感があった。初日は新学期ということもあり、朝のスタッフミーティングがあった。順番に報告があるスタッフから話が続き、その時は私も自己紹介をした。自分でも何を言っているのかわからない自己紹介をして、ミーティングが終わる。

その次は朝のホームルームがあった。Ashleighは7th

Aで、いわゆる、ホームクラス、クラス担任であった。クラスの雰囲気はやはり中学1年生だけあって、元気で、活発、そして、落ち着きが無い。日本でいたら、まさに個性だろうというくらい、男子ほぼ全員が落ち着きが無い。朝のホームルームでは連絡事項と出欠確認をして、終了次第、一時間目に入る。

Ashleighは3つの教科を受け持っていた。ひとつはもちろん日本語の授業である、「LOTE」と「Japanese Language」、2つ目はホームクラスの地誌「Humanity」、そして、「IT(Information Technology)」だ。「IT」の授業をなぜ持っているのか聞いたら、大学の専攻であったらしい。

LOTEの授業が始まった。7thはまだまだ初歩的なところだった。最近になって再開されたこともあり、ひらがなを覚えたり、数え方を覚えたりが基本だった。やはり、この時点では必修ということもあってか、7thは興味がある子とない子で顕著に意欲が違っていた。基本的にはテキストや私との会話、単語カードで勉強した後、日本語ひらがなカードでカルタ形式のゲームをしたり、数でゲームをしたりが主だった。机に向かって勉強ということは一切せずにアクティブなことが多かった。また、ゲームでは必ずプライズがあることがおもしろかった。ゲームで勝った人、会話に答えられた人には日本のお菓子をあげていた。日本ではお菓子の持ち込み自体、ほとんど許されていないが、オーストラリアではリセスのときに教師も生徒もだれでも食べるので、こういったプライズとしてお菓子をあげたり、リセス前の授業が終わると先生が生徒にお菓子をあげることも少なくない。日本語の授業では、ゲームに勝った人に、日本のラムネやべっこう飴をあげた。みんな積極的にゲームに参加していたし、Ashleighや私たちも自然に参加できるし、最初の段階で、ゲームを取り入れることはとても効果的に感じた。

8thはひらがなカードを習得した生徒は自己紹介等、自分の身の周りのことを文に起こしたり、私に質問したり、自分で選んできたこともあり、積極的に学習していた。8thは来年から4時間分授業が取れるそうだが、今年はまだ学校側に交渉中で2時間しか取れないことが悔やまれた。

9/10thは自己紹介を主に、漢字や数詞も勉強していた。来年は日本に修学旅行に、11月には日本食レストランに行くそうだ。日本語でも質問もなかなかうまく、やはり、「来年日本に行く」という目標があると意欲が上がるのもわかる。

ひらがなを覚えるだけでも、面白い工夫があり、「る」は○の部分を「Ruby」に例えたり、「こ」を英語の咳の擬音語「koh…koh,,」に例えたり、生徒より私が勉強になることが多かった。ひらがなを覚える上で濁音、半濁音は難しく、「k」の音が「g」に変わることを「kangaroo」で覚えたり、「t」が「d」になることを「Terry is dead.」で覚えたり、工夫を重ねた。

また、放課後のAfter School Japaneseでは自由度が高かった。日本に興味がある学生が積極的に自由参加するので、一人ひとりに合わせて教えることも出来るし、日本語だけでなく、日本文化に対しても、気軽に教えられる。団体授業だけでなく、個人授業との兼ね合いもやはり大切だった。集団では詳細な部分、日本語のディテールやなにより興味のある日本文化は一人ひとりには教える暇はない。しかし、実際はどんなことに興味があるかは、生徒それぞれで、集団授業ではその兼ね合いが難しい。

英語力が必要な場面はたくさんあった。オーストラリアの英語は聞き取れないことがままあり、お互いに首を傾げることも多かった。では、英語が必須であるかと考えるとそうでもない。今後、英語すら通じないところで教える可能性も含めれば、それ以上に、相手に感情が伝わるかが一番重要だと感じる。それは、言語的なことはもちろんだが、相手の文化、習慣を踏まえた上でのジェスチャー、慣用句、これが必須だ。日頃から、生徒の間でよく使われている言い回し等に、かなり聞き耳を立てた。

そのようにして、授業は進んでいくが、自分は何が出来るのか、全く見えてこなかった。日本を紹介しようと考えるのは簡単だったが、最近ではインターネットで簡単に動画が見れるし、そういう意味では、私には教えられることははとんどないのかとも感じていた。しかし、それでも生徒たちは、楽しそうに私の話を聞いてくれるし、話しかけてくれる。けん玉を常備している子もいれば、私よりも折り紙が出来る子もいた。そういう中で教えていくうちに、なんでもいいのかなと感じるようになった。私が普段は身近すぎて、意識しないようなこと、習慣になっていて目にも留めていないようなこと、それらの中にも日本は存在していて、生徒はそれを楽しく聞いてくれる。はじめは全く、何をすればいいかわからなかったが、段々と自分に出来ることは全て教えようと思った。何が出来るかわからないなら、紹介できることは全て、紹介しようと考えだした。私はオーストラリアの授業を受け持つのは初めてだし、集団で授業するのも、英語で教えることも初めてだ。何も見えてこないなら、自分で手当たり次第にやるしかなかった。

なにかを作り出すこと、形に残ることがしたかった。なぜなら、日本語が最近再開されたと聞いて、これからも受け継がれていってほしいと思ったからだ。生徒みんなが作品という形で日本の文化、日本語の楽しさを残していくことで、今後の生徒もそれをみて、日本に興味を持ってくれたら、それが一番いい。みんなと一つの何かを残す、ということは私の中で大切な目標だった。

まずは、折り紙を教えてみた。日本語で教えても分からないところは英語で、折り紙の日本語的表現を代用しないといけないし、集団に折り紙を教えるのは非常に難しい。折り紙自体はもちろん、生徒も知っている。折り鶴くらいなら、折れる生徒もいた。その中で折り紙を教えることはいい環境でもあり、また難しい環境でもあった。ある程度知っているということは、言うまでもなく教えやすい。しかし、新鮮さがないという意味では工夫しなくてはいけない。結果、私が教えたのはまず、風船だ。息を吹き込む、風船として機能する、という点で五感的で結構面白いと考えたからだ。次は、みんなで一つのものを作る折り紙だった。いわゆる、ユニット折り紙である。みんなで手分けしてパーツを折り、ひとつの作品を作成する。一つのゲームのようにみんなでやるため、これも効果的だったように感じる。また、折り紙は一度展開すれば、教えなくてもわかることが多い。その点でも便利である。実際、私は教えられるよりも、実際の作品を展開して、自分なりに真似たり、展開図から予想したほうが折り紙は楽しいと思う。形が残り、それが受け継がれていくというのはそういうことだ。

他にも、あやとりも教えた。これはかなり苦労した面もあったが、ゲーム性もあって、新鮮さもあって、面白い回となった。ただ、非常に説明が難しく、簡単なのはみんな出来たが、難しいものになると数人しか出来なかったので、自分の語彙力のなさがかなり露見した。

派遣の最終週には箸のゲームをした。箸で、日本によく売っている食べ物消しゴムを取っていくゲームだ。正しい箸の持ち方を英語で教えるのは苦労したが、ほとんどの生徒が持てるようになり、ゲームを始めた。対戦形式にして、私も参加したが、私だけ中国式箸だったので、一個も掴めなかった。

本当に一ヶ月が一瞬のことのように過ぎ去ってしまい、まだまだやりたいことはあったのに、出来ないことばかりの一ヶ月になった。得られたことは言葉に出来ないことも多く、まだ整理できないことも多いが、それでもたくさんあった。経験すること、それがどれだけ大切か、身にしみる一ヶ月となった。

この一ヶ月でわかった、オーストラリアにおいての日本語の現状を報告していく。私の考察や見聞きしたことがほとんどなので、立証できることはないが、「現状」以上に、「現場」を知ったので、できる限り、報告していく。

私の派遣したメルボルン近郊では、日本語教師の大体はボランティアであるようだ。以前は私が派遣された学校で日本人の日本語教師が働いていたようだが、定年退職していた。そのひとと話す機会が何回かあったので、話していると、最近は以前より日本語熱は冷めてきているようだ。LOTE自体、生徒が選択できるように見えて、選択でない部分が大きい。語学教師を言語ごとに用意しないといけないし、大きな都市の中心部にある学校ならまだしも、国土に広いオーストラリアに点々とする、多くの地域の学校が、そんな面倒で、お金のかかることが出来るわけがない。実質、生徒が選択できるほどの言語種類はないのだ。私の派遣した学校もLOTEとしては日本語しかなかった。聞いてみると、メルボルン近郊の他の学校では日本語のLOTEは実施されていないようだ。日本語の学習が流行していたのは一昔前らしい。オーストラリアのLOTEで日本語をやるには、やはり学長や校長、学校全体が意欲的でないと、日本語の授業は出来ないようだ。日本語を教える環境を学校側に働きかけていくのも今後の日本語教師の役目なのだ。

また、日本語教師の雇用も、当たり前だが、オーストラリア人が優先されている。ネイティブはボランティアが殆どで、日本人の枠は多くはない。いわば、日本語教師が競い合うのは日本人の日本語教師だけでなく、世界の人々と競い合わなくてはならないのだ。しかし、それは世界中に仲間がいるということでもあるし、捉え方次第である。

この活動を通して、私が立てた目標は2つあった。第一に作品を作り上げるといこと、第二に生徒の記憶に刻まれる日本人になろうということだった。

作品を作り上げるというのは、形に残るものを後輩にも受け継いでいてほしかったからだ。私は折り紙をみんなで作ったり、絵本をみんなで作ったり、来年の学年も使えるような、また、同じように作れるような作品を授業で作っていった。Youtubeで日本の動画を見せることは簡単だろうし、日本の写真もインターネットで簡単に手に入る。これが日本ですよ、と紹介することも可能だろう。実体験がなくても、経験がなくても、自分が行ったことも、やったこともない日本文化を教えることは可能なのかもしれない。しかし、そのようなことを私は果たして、中学生に対して、興味を引きつけられるように話すことが出来るだろうか。そう考えた時に、出来ないと思った。それに、単に日本語教えて、単に日本語を教わるという図式がどうしても、慣れなかったし、好きになれなかった。私はただただ、日本語を教えるほどの力はないし、中学生である彼らからもっと日本語だけでない、日本に興味のあることを引き出していきたかった。中学生という義務教育の中で日本語を詰め込んでも、時間が限られているし、日本を漠然としか知らないうちに日本語を教えても、それは意味が無いように感じた。まずは、まだ歴史の浅い、この学校の日本語教育で、生徒に日本に興味を持たせるような活動をしたかった。そして、今後、次の生徒に受け継がれていくであろう作品をみんなで作りたかったのだ。

渡航前は、おにぎりをつくったり、和紙を作ったりと考えていたが、実現性があるものに変え、結果的に、共同作成は折り紙と絵本になった。絵本を作るとなると、その作成過程で、日本語で文章を作る。自分でイメージした絵に日本語をつけるため、日本語自体も解りやすくなった。絵本自体は期間も短く、完成こそしなかったが、完成したら送ってくれるということだったので、とても楽しみにしている。

もう一つの目標、生徒の記憶に刻まれる日本人になるということだが、渡航後に気付いたが、まったく自分では達成できたかわからないことだった。数年たってから、また生徒たちにあった時、連絡をもらった時に初めて実感できることであって、それまでは、正直、相手の記憶に残ったかなんてわからないのだ。しかし、私が授業に参加していく中で、放課後のAfter School Japaneseに来てくれた生徒がいた事には、とてもうれしかった。今まで、来たことはなかったが、来てみたと言って興味を持ってくれる。それが純粋にとても嬉しかった。多分、この一ヶ月の活動の中で一番嬉しかったのは、そのような日本語に興味を持ってくれる生徒が増えることだった。生徒にどんな形であれ「入口」を紹介できたことはとても大きな経験だし、私の糧に、意欲に、モチベーションになった。

後悔していることも数えきれないほどある。もっと、事前の打ち合わせを密にするべきだったし、日本で用意する段階から、生徒と連絡を取るべきだった。オーストラリアの英語に慣れておく必要もあったし、用意できる段階から後悔していることも多かった。オーストラリアの「現状」を勉強しただけで「現場」を知ったつもりになり、現地に着いてみると、何をやっても不安しか覚えなかった時もあった。なによりも反省する点だ。

簡単に、今までの個人教室が、団体になるだけ、そう考えていたが、そんなことは全くなかった。日本では日本語を必要とする人が受ける日本語教育が、オーストラリアでは義務教育の一環で、私達が英語の授業を受ける感覚で日本語の授業を受けるのだ。興味がある生徒も興味が無い生徒も、全員に教えなければいけない。その上、多民族社会で、文化も違うし、言語も違うし、中学校の存在意義すら日本とは違うだろう。日本語教師に問われるスキル、経験の広さを改めて、実感した一ヶ月だった。