研究

2010年度

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2010年度
フリガナ・漢字
氏名
所属 国名 受入区分 受入期間 講演日 講演タイトル
ポベロ,ジャン
Bauberot,Jean
パリ高等研究院名誉学長 フランス 第2群 2010.5.26~
2010.5.30
2010.5.27 第5共和政におけるライシテの変容(1958-2010)
オウセレット,ギオン
Rousselet,Guilliaume A.J.
グラスゴー大学専任講師 フランス 訪問 2010.9.12 2010.9.12 顔処理のEEG研究:刺激空間、課題制約、データのモデル化
ゴリヨ,ベネディクト
Gorrillot,Benedicte
ヴァランシエンヌ大学准教授 フランス 訪問 2010.10.30 2010.10.30 ジャン・コクトーのオルフェウス‐戯曲『オルフェ』と映画『オルフェ』『オルフェの遺言』をめぐって‐
マルコビッチ,スロボダン
Markovi?,Slobodan
ベオグラード大学准教授 セルビア 訪問 2010.11.1 2010.11.1 抽象的形状の美的経験における外的な制約と内的な制約の効果
ボード,クリストフ
Bode,Christoph
ルートヴィッヒ・マキシミリアン大学教授 ドイツ 訪問 2010.11.8 2010.11.8 イギリス・ロマン主義における主体的自我 ‐S.T.コウルリッジの場合
オフォード,ベイドゥン
Offord,Baden
サザンクロス大学准教授 オーストラリア 訪問 2010.11.23 2010.11.23 オーストラリア文化入門
ザルコヌ,ティエリ
Zarcone,Thierry
フランス国立科学研究センター上席研究員 フランス 訪問 2010.12.21 2010.12.21 カシュガル旧市の聖性に係るマテリアル・ヒストリー:イード・ガーフ地区の失われたハーンカー
パパス,アレクサンドル
Papas,Alexandre
フランス国立科学研究センター研究員 フランス 訪問 2010.12.21 2010.12.21 カシュガリアの宗教史に向けて ‐カシュガルにおける「記憶の場」の問題
大塚 由美子
Otsuka Yumiko
ニューサウスウェールズ大学ARCポストドクトラルフェロー 日本 訪問 2010.12.27 2010.12.27 モーダルとアモーダル補完の経時的変化

ボベロ,ジャン氏の講演会

日 時:5月27日(木)
場 所:日仏会館ホール
講 師:ボベロ,ジャン氏(パリ高等研究院EPHE名誉学長)
テーマ:第5共和政におけるライシテの変容(1958-2010)
企 画:研究会チーム「総合的フランス学の構築」

文庫クセジュ「フランスにおけるライシテの歴史」のエッセンスを紹介した。

オウセレット,ギオン氏の講演会

日 時:9月12日(日)
場 所:駿河台記念館510号室
講 師:オウセレット, ギオン氏(グラスゴー大学 専任講師)
テーマ:EEG studies of face processing:stimulus space, task constraints and data modeling
顔処理のEEG研究:刺激空間、課題制約、データのモデル化
企 画:研究会チーム「視覚認知機構の発達研究」

I will start by describing experiments showing that human beings are both very fast and accurate at detecting objects in natural scenes, for instance animals and vehicles (http://journalofvision.org/3/6/5/, http://journalofvision.org/4/1/2). Many papers have claimed that our visual system is even faster at processing one category of objects: faces. However, measuring visual processing speed is challenging because of [1] uncontrolled physical differences that co-vary with object categories; [2] the effect of task constraints on diagnostic information; [3] statistical issues. Recently, my efforts have focused essentially on controlling the stimulus space to provide better estimates of the time course of face processing. For instance, early ERP differences between faces and objects are preserved even when images differ only in phase information, and amplitude spectra are equated across image categories (http://journalofvision.org/8/12/3/). Beyond simple categorical designs, parametric designs can be used to establish the relationship between stimulus space and brain activity. I will use the example of a single-trial GLM approach to demonstrate how more meaningful averages of EEG/MEG data can be computed (http://www.biomedcentral.com/1471-2202/9/98), for instance to study task effects on face processing, and visual processing speed in younger and older observers (http://frontiersin.org/perception science/10.3389/fpsyg.2010.00019/abstract). I will also present data suggesting that group statistics can be misleading and hide unexplained inter-subject variability. My take-home message is that to understand face processing we must use tightly control stimuli and tasks, and perform statistical analyses on individual subjects to go beyond the activity of the average brain.

ゴリヨ,ベネディクト氏の講演会

日 時:10月30日(土)
場 所:研究所会議室2
講 師:ゴリヨ,ベネディクト氏(ヴァランシエンヌ大学准教授)
テーマ:ジャン・コクトーのオルフェウス
-戯曲『オルフェ』と映画『オルフェ』『オルフェの遺言』をめぐってー
企 画:研究会チーム「英雄詩とは何か」

20世紀の奇才ジャン・コクトーは、紀元前6世紀頃にトラキアで活躍した詩人オルフェウス(フランス語ではオルフェ)という神話的表象を好んで用いた。これまでコクトー研究者たちは、コクトーの作品群に用いられた神話素材のリストアップに力を注いできた。オルフェウスのケースでは残念ながら、コクトー研究者たちの関心を惹いたのは、恋人エウリュディケ(フランス語ではユーリディス)を失った不幸なオルフェウスという、古代ローマ人が後代になって念入りに創り上げたイメージだけだった。ところがオルフェウスは、古代ギリシアでは何よりも、オルフェウス教という密儀宗教を広めた祭司だったことを忘れてはならない。こうした研究動向をふまえゴリヨ氏は、ジャン・コクトーが、恋人の死を嘆くオルフェウスよりも、密儀宗教を広めたトラキアのシャマンとしてのオルフェウスに重点を置いたことを明らかにした。具体的に分析の対象となったのは、1925年の戯曲『オルフェ』、2つの映画『オルフェ』(1949年)と『オルフェの遺言』(1959年)である。講演に先立って、映画『オルフェ』のうち、中心的な4つの場面が上映された。
3部からなる講演の第1部では、「コクトーと<オルフェウス>の名」の検討がなされた。戯曲と2つの映画においてコクトーは、自分とオルフェウスの同一視を試みている。コクトーにとってオルフェウスとは、「詩人」と「ポエジー」の冒険の神話に他ならなかった。コクトーは「神話」を、「1つのモデル」の上に「刺繍を施す」技術、つまりモデルのなる物語を現在の感受性(「新しい血」)に「適合させ」、そこに彼「独自」の雰囲気を注ぎこむことにより、自分の思い通りに使いこなす技術ととらえていた。また古代ギリシアで「神話」に相当する「ミュトス」が、真実の物語と同様に説得力を持つものと考えられていたことをうけてコクトーは、「神話」を真実と虚偽の問題とは無関係なかたちで理解していた。オルフェウスは、一方の足を妻のいる地獄へ、もう一方の足を単独での帰還を余儀なくされた地上に置いているため、引き裂かれた実存として、死すべき人間が経験するドラマのお手本である。愛していたレモン・ラディゲが1923年に亡くなり、第一次世界大戦中にも友人たちを亡くしたコクトーの個人的な体験は、オルフェウス神話と共鳴しあっていたのである。コクトーは、実存の危機を克服するために、魂の「不死」の問題ととりくみ、オルフェウス教を初めとする密儀宗教と出会ったのである。
講演の第2部では、オルフェウス教のもつ象徴的意味が、コクトーの作品世界との関連で検討された。オルフェウス教の描くオルフェウスは、恋愛物語とは関連のない、詩と原初の根源へと向かう人物である。原初の「夜」でオルフェウスが学んだとされるのは、人間が死後経験することを伝える密儀である。そこで語られる神話は次の通り。ゼウスとペルセポネの不倫の子だった幼子ディオニュソスを、ティタン族が八つ裂きにして貪り食った。これに立腹したゼウスが雷でティタン族を焼き尽くした。その灰から生まれたのが人間である。そのため人間は神の属性を受け継ぐ存在となる。ディオニソス自身は救い出された心臓をもとに、後に蘇ったという。オルフェウス教の教えでは、デュオニソス殺されたゼウスとペルセポネの怒りをなだめるため、血なまぐさい罪を自らに禁じるとともに、魂が肉体から解放され、原初の「夜」へ赴いて安らぎを得るための「オルフェウス式」をするよう求められるという。パリの歴史図書館が所蔵する「コクトー・コレクション」を参照すると、コクトーが密儀宗教としてのオルフェウス教を熟知し、それを作品に反映させたことが分かる。たとえば戯曲『オルフェ』の大団円で、オルフェウス夫妻が地上でハッピーエンドを迎えるのは、オルフェウス教を考慮して初めてその意味が理解できる。さらに映画『オルフェ』でコクトーは、プリンセス=「死神」をオルフェウスと相思相愛になる人物として描いているが、そのルーツも「自分の死を愛する」ことを学ぶオルフェウス教にある。
講演の第3部では、コクトーがオルフェウス教の教えを作品に反映させた証拠として、オルフェウスが登場する作品の創造にあたって、コクトーが小説などの「読まれる」ジャンルではなく、戯曲や映画といった「見られる」ジャンルを採用したことが論じられた。コクトーによれば映画は、「人間のまずしい限界を超えて出てくるもの」に他ならない「非現実に現実の外観を与えるもの」であり、嘘偽りではなく啓示をもたらす場である。コクトーは演劇や映画を人生と同一視し、現実とフィクションの役割を逆転させることで、演劇や映画にこそ本当の生の場があることを示そうとした。「降神術的ジャンル」と呼ぶことのできる演劇や映画(あるいは絵画の展覧会)では、密儀としてのオルフェウス神話を「再現」する以上に、「そのまま提示」することが可能となる。古代ギリシアにおいてオルフェウス教は「個人」ではなく「集団」で実践されたが、その集団的次元はまさしく演劇や映画にそなわるオルフェウス的語りと不可分であった。
コクトーの描くオルフェウス像は、フランス人にとっても難解だと言われている。その理由はコクトーが、亡き妻を追って冥界下りをするオルフェウスを描く恋愛物語だけでなく、密儀宗教としてのオルフェウス教を初めとする、オルフェウスの神話伝承のさまざまなバージョンを熟知し、それを作品世界に反映させたためである。たとえば映画『オルフェ』の土台となるテーマの1つ「鏡」については、すでに紀元後3世紀にアレクサンドリアで生まれたオルフェウス神話のエジプト版に、「金枝」ではなく「鏡」を手にしたオルフェウスという形で登場しているが、コクトーはこのエジプト版も知っていたようである。20数年の隔たりのある戯曲『オルフェ』と映画『オルフェ』は、基本線を共有しながら、興味深い相違点も見せている。映画に見られる「死神」を愛するオルフェウスの側面は戯曲には認められない。戯曲と映画の違いとして特に際立つのは、映画においてオルフェウス神話の現代化が試みられていることである。戯曲ではギリシア神話の痕跡である馬(ケンタウロス)や竪琴の表象が心象的であるが、映画ではラジオや車という現代文明の象徴が全面に出されている。

マルコビッチ,スロボダン氏の講演会

日 時:11月1日(月)
場 所:駿河台記念館510号室
講 師:マルコビッチ,スロボダン氏(ベオグラード大学准教授)
テーマ:Effects of external and internal constraints on aesthetic experience of abstract forms
抽象的形状の美的経験における外的な制約と内的な制約の効果
企 画:研究会チーム「視覚認知機構の発達研究」

In this study the external and internal constraints of aesthetic experience of abstract forms were investigated. In the preliminary factor analytic study the aesthetic experience was defined by three descriptors: fascinating, irresistible and unique. External constraints were defined by four bipolar stimulus features: asymmetry-symmetry, compactness-dispersion, simplicity-complexity and ovalness-sharpness. The set of 16 forms was generated by combining these features. Internal constraints were defined by dimensions of subjective judgements of paintings and drawings extracted in previous study: Regularity (scales: precise, clear,regular), Arousal (unusual, imaginative, impressing), Attraction (beautiful, pleasant, healthy) Evaluation (clever, balanced, interesting) and Serenity (unimposing, tender, serene). 34 subjects judged 16 forms on the 3 unipolar seven-step scales of aesthetic experience and 12 bipolar seven-step scales of subjective dimensions. The results indicate the significant effects of complexity and dispersion on aesthetic experience: complex forms have higher values than the simple ones, and dispersed forms have higher values than the compact ones. Regression analysis revealed the signifficant relationship of aesthetic experience with the dimension Arousal. In additional studies the cross-modal aspect of abstract forms experience was investigated. The results show two clusters named as takete and maluma visual patterns. Takete patterns were judged as physicaly sharper and darker and subjectively as more potent, active and intersting; in naming task they contain more phonemes t, z, r, c, k, etc. Maluma patterns were judged as smoother and lighter, and less potent and active, but as more peasant; their pseudonames contain more phonemes m, a, l, o, n, etc.

ボード,クリストフ氏の講演会

日 時:11月8日(月)
場 所:研究所会議室2
講 師:ボード,クリストフ氏(ルードヴィッヒ・マキシミリアン大学教授)
テーマ:“Subjective Identity in British Romanticism: The Case of S.T. Coleridge”
イギリス・ロマン主義における主体的自我‐S.T.コウルリッジの場合
企 画:研究会チーム「十七世紀の英詩とその伝統」と「ロマン主義世代のヨーロッパの文化風景」共催

The lecture first sketches three premises from which the speaker's research into the discursive construction of identity set out:
My first premise is that in the 18th century, we witness the formation of what Niklas Luhkmann calls a fully-fledged functionally differentiated modern society with a variety of different social sub-systems. The coincides with the event of new, discursive practices of identity construction that are dynamic, flexible and open-ended. These new discursive practices allow the different social sub-systems to operate with variable and fluid identity designs and thereby to avoid the counterproductive and dysfunctional rigidity of identity concepts that are prematurely fixed by 'substantialist' parameters or content-defined entities.
My second premise is that such discursive constructions of identity are always prone to paradox and self-contradiction, they are inevitably contingent and self-contradictory. But this fact must be masked or veiled in ordinary communication, because a systematic unmasking or ostentatious exhibition of these paradoxes would be counterproductive in virtually all social sub-systems.
There is, however, and that is my third premise, one arena in which the contingency and the very 'impossibility' of discursive self-grounding can be displayed conspicuously and without sanction, and that is exactly the designated field of texts that are freed from fulfilling any specific function: literature.
Before I turn to the case of Samuel Taylor Coleridge, I will briefly sketch how differently these attempts at deducing the subject from itself come out in Keats, Byron, Shelley, Lord Byron, Wordsworth, and Charlotte Smith. Now, Coleridge differs from these other Romantics in that he tries to deduce the subject not from itself but from some higher entity, be it called logos or Divinity or God. In this respect he seems quite out-dated, compared to his contemporaries. In Colerige's philosophical writings this attempt at a transcendentaldeduction of the human subject is very obvious. What about his poetry?
The core part of my lecture consists of a close reading of Coleridge's Frost at Midnight and the different versions we have of it (the variants will be given on the handout). In tracing both the evolution of the poem and its internal dynamics, it will be attempted to lay bare what could be called its inherent self-cancellation or self-consumption, since, it is argued, its first part forever undercuts what is stipulated or supposedly stated in its second part.
The lecture will also look at some 17th-century poetry, most notably John Milton's “L'Allegro” and “I1 Penseroso”, in order to assess in which way Coleridge's construction of subjective identity differs from that of his precursor(s). In the end, it will be argued that in an unexpected way and in at least on respect, Samuel Taylor Coleridge, the least modern of the lot of Romantics, turns out to be the most modern of them all-pointing the way to Kierkegaard, Existentialism, and twentieth-century theology (Martin Buber, Karl Barth, E.Levinas).

オフォード,ベイドゥンの講演会

日 時:11月23日(祝)
場 所:3号館3551教室
講 師:オフォード,ベイドゥン氏(Southern Cross 大学准教授)
テーマ:A Cultural Encounter with Australia
オーストラリア文化入門

企 画:研究会チーム「暴力と文学的想像力」
本講演の構成は以下の通りである。

  • Introduction
  • Thinking about Australia
  • History, Myth and Memory
  • Culture, Nation and Identity
  • Getting inside another culture…

オフォード教授はレイモンド・パニカーを引用しつつ「文化の翻訳」について述べることから講演を始めた。
次いでマカデミアナッツの現物を聴衆に配布し、その寓意性を説き、さらにエドワード・サイードの「自己定義」を紹介する。
その後、さまざまな映像を示しつつ、「文化のリタラシー」(つまり文化を読み解くこと)について説明を重ねていく。具体的にはオーストラリアに関する何層もの意味を、さまざまな事例を参照し、対照しながら、解きほぐしていく。
多様な「オーストラリア人」の表象を概観したあとで、オフォード教授は本講演を契機とするオーストラリア入門の結論として以下の三点をあげる。

  • Ingenuity
  • Colonialism
  • Immigration and multiculturalism

講演後は聴衆からの質問に答え、なごやか雰囲気のうちに講演会が終了した。
尚、中尾が適宜、司会と通訳の役を務めた。

ザルコヌ,ティエリ氏・パパス,アレクサンドル氏の講演会

日 時:12月21日(火)
場 所:駿河台記念館310号室
講 師:ザルコヌ,ティエリ氏(CNRS, France)
テーマ:“Material History of Sacredness in Old Kashgar: 
About a Lost Khanaqa in the Id-Gah District”
カシュガル旧市の聖性に係るマテリアル・ヒストリー:
イード・ガーフ地区の失われたハーンカー
講 師:パパス,アレクサンドル氏(CNRS, France)
テーマ:“Toward a Religious History of Kashgaria: The Question of
the 'lieux de memoire' in Kashgar
カシュガリアの宗教史に向けて
‐カシュガルにおける「記憶の場」の問題
企 画:研究会チーム「イスラーム地域における聖地巡礼・参詣」
共 催:(日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究C・研究課題「新疆に
おけるイスラーム聖地に関する基礎的研究」(研究代表者:菅原 純)・
中央大学政策文化総合研究所 プロジェクト「中央ユーラシアと日本」
(研究代表者:梅村 坦)
全体趣旨:「麗都カシュガル」再考:歴史的視点から見た聖地と信仰

研究会チーム「イスラーム地域における聖地巡礼・参詣」においては、中央アジア地域(旧ソ連領中央アジアおよび中国新疆ウイグル自治区)を重点的な対象地域として、とくにそこにおける宗教施設、すなわちイスラーム聖者廟やスーフィズム関係施設の様相について検討することを主要な課題の一つとしている。今回の公開講演会は、フランスから著名な中央アジア・イスラーム史研究者2名をスピーカーとして招き、古来東西交易の要衝として栄えた、そしてウイグル人居住地域におけるイスラーム信仰の中枢であったと言えるオアシス都市カシュガル(新疆ウイグル自治区喀什市)に焦点を当て、その宗教面における歴史的な具体相に、主に宗教施設と都市住民の信仰に注目しつつ、目下当地で進行中の都市空間の変貌も視野に入れながらアプローチするものであった。
冒頭で、共催者である科学研究費補助金プロジェクトの研究代表者であり、今回の研究会における基本コンセプトの創案者である菅原純氏(東京外国語大学非常勤講師)より、研究会の趣旨についての説明が行われ、続いて4名のスピーカーより講演があった。司会は濱田正美氏(龍谷大学文学部教授)が務められた。

Thierry ZARCONE氏 (CNRS, France), “Material History of Sacredness in Old Kashgar: About a Lost Khanaqa in the Id-Gah District”(カシュガル旧市の聖性に係るマテリアル・ヒストリー:イード・ガーフ地区の失われたハーンカーについて)
本報告は、カシュガル市中心部に存在し、近年取り壊されたイスラーム神秘主義の修行場であるハーンカーと、そのハーンカーを活動の場としていたスーフィ一の一族について、自らのフィールドワークを通じて取得されたデータに基づき明らかにしたものである。そのスーフィーは、ターヒル・ハーン、あるいはイゲルチ・イーシャーンと呼ばれる指導者で、19世紀にフェルガナ盆地のナマンガン方面から、当時は清朝領内にあったカシュガルに到来し、カシュガルで活動を展開した。ターヒル・ハーンは、カシュガルのジャーミーであるイードガーフ・モスクに程近い土地にハーンカーを開設し、20世紀前半に至るまでカシュガルで一定の宗教的影響力をもち、社会的ステイタスを保持した人物であったと考えられる。たとえば、1930年代にカシュガルで刊行されていた現地テュルク語の新聞である『新生活(Yengi Hayat)』などにも、その名前は登場する。
報告者は、1990年代にカシュガルに在住していたこのスーフィーの子孫を訪ね、ターヒル・ハーンらによってハーンカーとして使用されていた部屋や、スーフィーの伝統的な旗や衣装など、子孫が所有するターヒル・ハーンの遺品、そしてスーフィズム関連の文書などをビデオに収めた。本報告においては、伝統的な帽子とベルトを着用し、スーフィーとしての出で立ちをしたターヒル・ハーンの子孫の姿をはじめとして、自ら撮影したそれら貴重な映像を写して参加者に披露した。本報告は、中央アジアにおけるイスラーム神秘主義の過去と現在を、実地調査の成果に基づきつつ結びつける試みであったと言える。

Alexandre PAPAS 氏(CNRS, France), “Toward a Religious History of Kashgaria: The Question of the 'lieux de memoire' in Kashgar”(カシュガリア宗教史へむけて:カシュガルにおける「記憶の場」の問題)
本報告は、カシュガルを中心とする地域における信仰世界の現在に、過去との連続性を見出し得ることを明らかにした。中華人民共和国成立後、社会主義化や改革開放後の市場経済化など、カシュガルを中心とする地域の社会は、物理的にも人々の意識面においても大きな変動を被った。また、現在もカシュガルは激しい変容の只中にある。とりわけ経済発展にともなう都市の大々的な再開発により、古くからのモスクやイスラーム聖者廟が破壊され、失われている。そういう意味で現在のカシュガルのムスリム住民のイスラーム信仰をめぐる状況と、歴史的様相との断絶性は否定できない。しかし、より長い時間的スパンで事態を眺めてみると、むしろ人々の信仰や宗教行為が示している継続性には、注目に値する側面がある。実際、ものとしての特定の聖者廟という施設に対する参詣・信仰行為というものは、スーフィズムの文化的・歴史的要素のごく一部に過ぎない。「バラカ」をめぐる信仰行為は、そのような歴史的に存在してきた物理的な施設を離れてもなお存続しているのである。このような継続性に重要性を見出す視点は「楽天的なものの見方」とも言えるけれども、しかし、旧ソ連領中央アジアでは早々と姿を消した遊行のイスラーム神秘主義修行者たるカランダルたちは、カシュガル地域をはじめとする新疆において、いまもなお各地を周遊し、その歴史的な姿をわれわれの前に示し続けており、このことはそのような考え方の妥当性を証明する。

大塚 由美子氏の講演会

日 時:12月27日(月)
場 所:3号館3913教室
講 師:大塚 由美子氏
(ニューサウスウェールズ大学ARCポストドクトラルフェロー)
テーマ:Temporal dissociation of Modal and Amodal completion: ERP study
モーダルとアモーダル補完の経時的変化
企 画:研究会チーム「視覚認知機構の発達研究」

本研究では、感性的補完・非感性的補完の知覚過程についてERPを用いた検討を行った。Kanizsaの主観的輪郭図形に基づいて、同一の閉合形状を持つ透明視(感性的補完)・遮蔽(非感性的補完)・無補完パターンを作成し、これらの3種類のパターンに対する脳活動を比較した。分析の結果、後頭領域の電極では刺激提示後およそ100ミリ秒(P1)から補完に関連する電位変化が観察された。補完に関連した電位変化は刺激提示後約200ミリ秒(N1)および250ミリ秒後(P2)にも確認された。P1およびP2の反応は後頭領域の電極に限られており、感性的補完パターンにおいて他のパターンよりも顕著な反応が見られた。これに対し、P2の反応は感性的補完パターンよりも他の2種類のパターンにおいてより顕著であるとともに、この反応は後頭部のみならず前頭部の電極を含む広範な領域に観察された。さらに、P1およびN1とは異なりP2では無補完パターンと補完パターンでの振幅の差が見られなかったことから、P2の反応は補完知覚過程をではなく課題遂行に関連した閉合形状の検出処理を反映している可能性が示唆される。