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野﨑 俊一ゼミ 国内実態調査報告書
ゼミ名 : 野﨑ゼミ
調査先名称 : 大丸京都店、野村證券京都支店、
京都外国語大学GT共同研究室
Blue Bottle Coffee 京都カフェ
京セラ本社ビル文化施設 及び 稲盛ライブラリー
宇治小山園 槇島工場
調査日 : 2018年8月27日~29日
授業科目名 : 課題演習Ⅰ
参加学生数 : 2年生15名
Ⅰ.野村證券
お世話になった企業担当者
本店法人営業第一課課長 池上千鶴氏
京都支店シニアアドバイザー 河合一郎氏
京都支店課長代理 安本遼氏
京都支店課長代理 永井美穂氏
- 会社概要
野村證券は1918年(大正7年)に野村財閥の二代目、野村徳七氏によって設立された大阪野村銀行(現りそな銀行)の証券部が独立し1925年(大正14年)12月に野村財閥の総司令部である野村合名の直系会社として創設された。
野村證券は野村グループの持株株式会社「野村ホールディングス株式会社」の100%子会社であり、野村グループのコア業務である証券業務を担う中核会社。日本を代表する証券会社として、資本市場を通じて個人投資家や様々な企業に、資産運用・資産調達などのサービスを提供している。 - 学んだ概要
今回の企業訪問で野崎ゼミは野村證券京都支店を訪れた。そこでは、普段見ることのできないフロアの案内や説明を受けることができた。1階は一般客が普段訪れるところだが2階より上は普通では入れないようなところばかりだった。
2階では主に資産家の方を対象にしたフロア。3階は法人の方や上場企業の上層部の人を対象にしているフロアであり、ここには他の階にはなかった隔離部屋があり、話が外に漏れないようにとのことだった。そして6階ではFA社員が働いているとのこと。FA社員とは地域密着型の営業専門職のことを言い、原則として、転居を伴う異動はなく一定の地域で金融のプロフェッショナルとして、顧客に合わせた資産運用のアドバイスを行う。主に国内の本支店が勤務地となっている。給料は出来高制。最後に8階では、シニアアドバイザーの河合さん、中央大学を卒業された安本さんからお話を聞いた。シニアアドバイザーの河合さんからは金融業界について、証券業界について、そして野村證券についてのお話を聞いた。そして中央大学卒業生の安本さんからは質疑応答と言った形で、取得したほうがいい資格は何か、何を学生時代に頑張ったのかなど細かな情報を聞くことができた。 - 感想
今回、野崎ゼミの合宿で野村證券京都支店に訪れて普段入れないような場所や貴重な体験談などのお話を聞くことができ本当に有意義な時間を過ごせたと思う。話を聞いたなかで気になったのは働き方が選べるというところだった。総合職A, B, C, FA職員と四つに分かれており、様々な経験を生かした働き方や、専門性の高さを必要とした働き方、営業専門職としての働き方などたくさんの働き方があることを知った。これは働く側としては道が広がりとても画期的な制度だと思う。今後多くの企業でもこういった制度が増えることを望む。
(文責 芳澤 龍太郎)
Ⅱ. 観光地としての京都
- 概要
京都外国語大学国際貢献学部村山先生の「観光地としての京都」の講演である。 - 学んだ概要
京都学とは、なぜ京都が世界的にも有名な観光地となったのか研究する学問である。京都が観光地として栄えた原因には、日本の歴史の中で一番長く続いた江戸時代で、一般人が旅をしていたことに秘密がある。江戸時代の人たちはすでに娯楽としての旅をしていたのだが、旅を可能にするためには3つの条件が存在する。それは、治安と経済成長と交通網である。江戸時代には全国制覇されていたこともあり、この3つの条件を満たすことができていた。さらに、当時の人たちは旅をする人向けに、今でいう旅のガイドブックをすでに作っていた。そのガイドブックに京都のことが多く記されていたこともあり、京都が観光地として栄えるきっかけとなった。この時代には、ほかの国とは少し違った土産文化も誕生した。日本では、一つのお土産を分け合ってみんなに配るが、海外では、お土産は1人にまるまる一つ送るものが一般的であると考えられている。そういった慣習は、日本人独特なものであり、文化の違いを感じることができる。 - 自分の意見
京都学の話の中で、京都のお祭りが抱えている問題に言及していた。その中に、祭りに参加する人が少なくなったことによる、伝統的な祭り形態が困難になったことや、女性ばかりが参加してしまい「ギャル山」と呼ばれてしまうことが挙げられた。前者の問題は、重くて人では運べなかった神輿を車で運ぶのはどうかということだったが、この問題が生じる理由には、体力的な問題も関係しているので、祭り自体をなくしてしまうよりは良いのではないかと感じた。後者の問題は、女性ばかりのお祭りになったとしても、祭りとして続行できるのならよいと感じた。自分の地元にも伝統的な祭りがあるので、同じような問題が生じているのではないかと、少しだけ興味を持つようになった。なので、地元に帰ったときは地域の祭りに自主的に参加し、伝統的な祭りの保護と地域の活性化につなげていきたいと思う。
(文責 花田 龍哉)
Ⅲ. 株式会社大丸松坂屋百貨店
お世話になった担当者
不動産事業部長 執行役員 吉川辰司氏
不動産事業部専門課長 戸川哲氏
- 会社概要
創業300年の大丸、400年の松坂屋が2007年に経営統合し、Jフロントリテイリングが発足する。2016年9月には、大丸松坂屋百貨店に「不動産事業」を新設することにより、不動産に関するリソースを集約する。2017年度からは業績開示上も百貨店事業に並ぶ独立したセグメントとして開示している。
- 学んだ概要
1)大丸松坂屋百貨店の店舗網
大丸の発祥の地である近畿圏、松坂屋の東海圏を中心に、全国に幅広い店舗網を構えている。関東圏ではGINZA6や大丸東京店などがあるが多くは関西のエリアに集中している。2)各種経営指標の推移
全体的に百貨店の売り上げは減少しているという百貨店業界にとっては逆風の環境下の連結業績は順調に増益基調を維持している。その理由として外商顧客を中心に底堅いニーズを捉え、客単価が年々増加しているということが挙げられる。外商顧客とは年間必ず一定額以上の高額な買い物をする顧客のことを指す。そういった顧客を一定以上獲得することが増益基調の要因である。3)アーバンドミナント戦略について
アーバンドミナント戦略とは店舗を核にエリアの魅力を高め、地域とともに成長することを目指すという戦略である。大丸松坂屋百貨店は全国の大都市中心部に好立地な店舗資産を保有するとともに、リテーラーとして永年の営業経験から裏づけされた優良な顧客基盤を有している。今後、都市部への人口集中の流れは今後も継続する可能性が大きく、これらの資産を活用することで店舗周辺にも良質な顧客を誘導し街の魅力を極大化し、店舗を核としたドミナントエリアを形成し地域の賑わいを創出することを図っている。アーバンドミナント戦略開発例
①GINZA SIX
旧松坂屋銀座店を核とした1.4haの広大な敷地を市街地再開発として一体で整備した。②上野フロンティアタワー
旧松坂屋上野店南館を大型複合ビルに建て替えした。交通の要衝でありながら高スペックのオフィスが不足していたマーケットに延床3500坪の新規供給を実現し、オフィスワーカーによる街の賑わいも創出している。③神戸元町・旧居留置
各建物のオーナーと連携し、有名ブランドショップをビル低層階へ路面店としてJフロントリテイリングが誘致することで、洋館とブランドショップのコラボレーションによる街歩きが楽しい上質な空間を演出している。④町家プロジェクト
京町家をマスターリースし、伝統を守りながらも革新性を追求してきた京都ならではの多彩なプロジェクトを世界に発信し、歴史的価値の保存と次世代への継承を図っている。第一弾でラグジュアリーブランド「エルメス」、第二弾で高級時計ブランド「ウブロ」、そして第三弾で「ブルーボトルコーヒー」の運営を行っている。5)取組可能なスキーム
オーナーよりJフロントリテイリングが物件を購入する「売却」建物の一部または全部を賃借しテナントを誘致する「マスターリース」立地に応じ、建て替え後の建物を賃借することや、建築コストを負担し共有ビルとすることも可能である「共同再開発」の三通りのスキームを中心に取組が可能である。
- 自分の意見
前期、流通論という授業をとらせていただいたとき百貨店の現状や課題、それに対する対策などを勉強する機会がありましたが、大丸松坂屋百貨店の戸川氏のお話は多くは初めて聞くことばかりでした。大丸松坂屋百貨店では特に印象に残っているのはやはり京都の町家プロジェクトでした。町家の空き家の割合が高いことに注目し、その空き家にお店を入れることによって町家を活用し、その町家のオーナーの人がどういった形で古い町家をJフロントリテイリングに貸したり、売却したりしてお店を運営しているのかという話は特に勉強になりました。
伊勢丹や高島屋は本店が主流で顧客に対して販売しているのに対し、大丸松坂屋百貨店は本店が主流として販売をしていないという点で他の百貨店との差別化を図っているというお話も興味深かったです。こういった多くの話を聞いて企業に勤めたとき、その企業の業界でどういった差別化を図り売り上げを伸ばすのかということは大切だと思いました。
(文責 大平 将弘)
Ⅳ. Blue Bottle Coffee
お世話になった担当者
Senior Coffee Leader 土田真也氏
- 会社概要
Blue Bottle Coffee(ブルーボトルコーヒー 以下BBC)とはクラリネット奏者だったジェームス・フリーマン(James Freeman)氏がその道を諦めた時に、彼のもう一つの情熱であるコーヒー、それも本当に美味しいコーヒーを作ろうと決心し2002年8月に自宅のガレージで営業を始めたのがBlue Bottle Coffeeである。
気になるその名前の由来は、ある戦争でトルコ軍が逃げる際に置いて行ったのがコーヒー豆だった。コルシツキーは褒美としてもらったお金でそのコーヒー豆を買い取り、中央ヨーロッパで初のコーヒーハウス「The Blue Bottle」を開業し、解放されたウィーンにカフェ文化をもたらした。ジェームスはコルシツキーの栄誉に敬意を払い自分の店を「Blue Bottle Coffee」と名付けた。 - 学んだ概要
カリフォルニア州オークランド市で、フリーランスの音楽家でありコーヒーマニアでもあったジェームス・フリーマンは新鮮味が無くロースト具合が深すぎる一般的なコーヒーセレクションにうんざりし、新鮮で本来のコーヒーの味を求めている人々の為に自らコーヒー焙煎を始める決心をした。小さな焙煎機を使い、彼は「焙煎したてのフレッシュなコーヒー豆だけをお客様に販売し、フレーバーが最も美味しいピーク期間に飲んでいただきたい。豆も最高品質で、最も美味しく責任をもって調達したものだけを提供する。」という歴史的な誓約を立てたのです。ジェームスはこの先続くコーヒーのダイナミックな歴史に新たな一章を刻んでいくことになる。それから15年、たくさんのお客様からの熱狂的な支持に支えられ、ブルーボトルコーヒーの創設者であるジェームス・フリーマンは、スターバックスなどのコーヒーをひどく嫌った。 - 学んだこと
確かに味はうまい。しかしコーヒーはもっと心を込めている物で、マニュアル化され効率化されるものではない。カフェの多店舗展開など、様々な成長を成し遂げて行く。
正直BBCの方の話をお聞きして印象に残った内容は、コーヒーの淹れ方である。そのこともあり、後に自らBBCについて調べてみてこの企業のコンセプトに興味を持った。『個人の香りがするコーヒーチェーン』それがコンセプトあった。創設者であるジェームス・フリーマンは、スターバックスなどのコーヒーをひどく嫌っている。
「確かに味はうまい。しかしコーヒーはもっと心を込めている物で、マニュアル化され効率化されるものではない」という言葉が残っている。あくまで個人的な考えだが、ジェームス・フリーマンのこの考えによって製品のマーケティング戦略やターゲティングにおいて効率的に顧客にアプローチすることができた。だからこそ、万人向けの製品を作ろうとせず、製品コンセプトが曖昧にならず的確に消費者ニーズに応えることができたことが近年の成功につながっているのではないかと思った。
今回、企業の方に運営状況やマネジメント上の工夫についてお聞きしたり、学校の外でしかできないような体験をしたりした。現地に赴いて企業の方とのやり取りや実際の体験を踏まえて今後の取り組みに生かしていきたいと思う。
(文責 草野 友敦)
Ⅴ. 京セラ株式会社
お世話になった担当者
稲森ライブラリー責任者 橋浦佳代氏
稲森ライブラリー経営研究係責任者 宮田 昇氏
- 会社概要
1959年に稲盛和夫が社員8人で京都セラミック(現京セラ株式会社)を設立し、初期はブラウン管の絶縁体の製造をして資本金300万に対し売上高2600万円をあげていた。そこから成長を重ね、現在は売上約1兆5000億円また利益約1兆130億円まで伸ばしている。社員はグループ全体で75000人を抱えていて世界にも活躍の幅を広げている。1960年ごろ大阪にて1980年ごろにニューヨークにて上場を果たしている。 - 学んだこと
主に創業者である稲盛和夫について学んだ。自分の予想以上に稲盛氏は受験で幾度となく失敗をしている等、挫折ばかりの人生であったことに驚いた。しかしながら、原価計算による時間当たり採算を行っている等会計を厳密に行っている一方で幼少期から受けていた郷中教育を活かした経営をとり、多面的に優れた稲盛氏を学んだ。 - 自分の意見
個人の遺産は社会からの一時的な預かりものでいつかは社会にお返しするべきとおっしゃっている等、かなりの人格者であることがいえる。そんな人物ゆえ元々勤めていた会社を辞める時に稲盛氏についていった同僚たちも多くいて、同輩に好かれ尊敬された存在で、なるべくして経営のトップになったのだろうと思った。京セラ本社は1階2階が会社見学者用のフロアとなっている。このビルとは別に稲盛ミュージアムが隣接している。ミュージアムには等身大の稲盛氏がいる。
(文責 森本 真央)
Ⅵ. 株式会社丸久小山園
お世話になった担当者
取締役 小山一彦氏
- 会社概要
今回伺った株式会社丸久小山園という会社は、元禄年間創業。当時の園祖、小山久次郎さんが茶の栽培と製造を手掛けたのが始まりになる。そして昭和39年2月に現在の株式会社丸久小山園となり、現在に至る。店舗数は、宇治市の本社工場本店に加え、宇治市に槇島工場が1つ。京都市内にショップが3つとなる。 - 学んだこと
工場見学では、京都のお茶の歴史、お茶の種類を学び、実際にさまざまな緑茶を触り、また加工工場の内部をみることができた。思っていたよりもお茶は非常に繊細で、一つ一つの製造過程の緻密さや丁寧さは、日本らしいと感じた。お茶の種類や製造についてはこれまで、ほとんど学ぶことがなかったので大変貴重な体験だった。また、抹茶を練る体験も初めてのことだった。 - 自分の意見
今回の見学と体験を通じて、やはり京都はお茶のイメージもあり、観光客からのニーズもあるので、今後もお茶の需要は続くのではないかと思った。日本人は比較的お茶を好むように感じるので、国内の観光客には確実に理解されるとは思うが、外国から来られた観光客はお茶をどのように感じ、どう受け入れるのか、という点は、今回の経験を通じて新たに浮かんだ疑問になる。緑茶をもっと世界に広めていけたら、日本としても緑茶業界としても面白いのではないかと思った。
(文責 伊東 瑞生)