法学部

【活動レポート】米村 麻利枝 (法律学科5年)

「やる気応援奨学金」リポート(27) OHH! CANADA!!(下) 後期はハードなコースを選ぶ

私のフレデリクトンでの留学生活も後半戦に入りました。当然ながら、留学当初は勉強面だけではなく、生活のリズム・食事・人間関係・授業スタイルすべてが日本と異なるシステムだったため、何もかもが行き当たりばったり、楽しい半面、精神的体力的に疲れることも多々ありました。心底リラックス出来ることはめったになく、どこかでいつも緊張していたように思います。一方、後期は授業に集中して取り組むことが出来るようになり、時間にも余裕が出来てきたので、積極的にパーティーやクラブ活動に参加したり、旅行をするようにしました。

親戚宅でのクリスマス

後期が始まる前に1つ。それは、前期も終わりに近くなった12月の話です。前期末のテスト自体も気掛かりでしたが、もう一つ頭を悩ませる問題がありました。それは、クリスマスから年始にかけての「住」を探すことでした。冬休みは日本よりも少し長く、約3週間あるのですが、その間、すべての寮・学食が閉鎖され、全学生はバックホームします。ここで問題なのが留学生。ある留学生はわざわざ日本に帰り、ある留学生はカナダ人からの誘いがあって冬休み中泊めてもらうことにし、またある学生は、大学の近くに部屋を借り急いで引っ越しを、などなど留学生はそのたった3週間を過ごす場所を探すのにとても苦労するのです。当初私はルームメート宅に泊めてもらえれば良いかと楽観的に考えていたのですが、彼女は冬休み中手術を予定していることが分かり、当てに出来なくなったのです。日本にいた時のように、当たり前に家があるのではなく、どこもしょせん仮住まいなので、出ていけと言われればすぐに出ていかなければなりません。

さて話を戻しますと、幸運なことにバンクーバー近くのケローナ(Kelowna)という町に遠い親戚が住んでいて、私の滞在を受け入れてくれました。こうしてクリスマスそしてお正月を1人で過ごすことなく、多くの親戚と共に楽しく過ごすことが出来ました。ここで少しその親戚の話をしたいと思います。彼らはいわゆる日系カナダ人と呼ばれる人たちで、ルーツは日本人ですが、カナダ人として暮らしています。ちょうど2005年が移住100周年でした。私の親戚は大正時代にカナダへ移住しましたが、第2次大戦中そして戦後まもなくは日本人という理由で差別されたそうです。今でこそケローナは、定年後に住むリゾート地として発展していますが、当時は荒れ地が広がり、農業で生計を立てていくことが大変困難だったそうです。ですので、ここへ移住してきた日本人たちはコミュニティーを作り、共に支え合って生きてきました。今でも多くの日系人が住み、「日本人会」と呼ばれるコミュニティーが設けられています。とても感銘を受けたのが、そこでの相互扶助精神でした。古き良き日本といっても良いくらい、日本の伝統を大切にしている印象も受けました。例えば、ようかんや漬物など日本食を素材から作って皆で分け合い、またケローナに建立されているOtera(お寺があるんです!)にお参りに行くなど、カナダの社会に溶け込みつつ自分たちのナショナリティーである日本の文化も大切にしているのです。私の親戚もそのようなコミュニティーを大切にしていて、クリスマスやお正月には多くの親戚が集まりました。

後期の流れ

さて本題の学校生活ですが、後期は年始早々1月3日に始まり4月19日に終わります。カナダではクリスマスが一大イベントなので、お正月は日本のように大きな祝日にはならないのです。日本人の私としてはがっかりでした。後期は合計4つのクラスを取りました。

・Philosophy of Human Rights(哲学から見る人権)

・History of Modern Asia(近現代アジア史)

・Printmaking(美術・版画)

・English Literature(英文学)

後期では、前期よりもハードなコースを選びました。具体的には、前期では1・2年次で取るコースを履修したのに対し、後期では3・4年次開講のクラスを2つ取りました。それが前2つの科目です。特に“Philosophy of HRs”は想像以上にハードで、前期以上にチューター制度を利用することになりました。私は中央大学で法律学科の専攻で、多少人権について勉強していましたが、この授業では、私が想像していた法学的な人権を扱うのではなく、あくまでも哲学的思想から人権の思想を学ぶものでした。つまり、古代史に出てくるプラトン、アリストテレスから始まり、近現代史に登場するグロティウス、ケインズなどの思想を通して、人権と国家の関係とは何かを学びました。彼ら哲学者は、もともと人権について語っているのではなく、人間の本来あるべき姿、国家のあるべき姿を語っています。ですので、哲学的思想から人権を考えるというのは、教授の授業アプローチの1つであって、まだしっかりと確立されている学問ではないのかも知れません。ただ、今ある国連憲章は、政治学者の手によってだけでなく、同時に多くの哲学者たちも知恵を絞って作られました。つまり、人種や文化に惑わされることなく、地球全人類の普遍的な価値観をかんがみて作られたものなのです。法学的見地だけでなく、哲学的見地から学ぶことも同様に価値があるのだと徐々に感じるようになりました。実際それはずっと後のことなのですが。

このクラスで苦労した点は本当に多くあります。まず、哲学に関しての知識が皆無であったことです。私が過去受けた日本の教育において哲学が重視されているようにはあまり感じられませんでした。倫理の授業はありましたが、正直それほど印象に残っていません。もちろん私の勉強不足もあるでしょうが。一方カナダの大学では、哲学の授業は重視されています。どの授業を専攻するにしても、哲学のクラスは1年次必修科目となっています。私の通うSt.Thomas University(STU)では、Humanityと呼ばれており、そのクラスでは、2人の代表的な哲学者プラトンとアリストテレスの哲学観を通して、今後の大学での勉強方法を学んでいくというものでした。とても不思議に聞こえますが、1度勉強をしてみると、先人の物の見方は抽象的に見えて、実は真理を突いているのです。ただし、それが分かるのは、一通り勉強が終わってからでした。

また、すべてが抽象的過ぎることにも苦労しました。教科書に始まり、講義の中身すべてが抽象的で普通の考え方では理解し難いものでした。教科書は、現代英語に完ぺきに直された物ではなく、昔の物をそのまま使いました。その英語が文法から単語のスペルまで、現代英語と大きく異なっていて、数頁読むだけでも大変でした。日本語に例えると、古文の読解にあたると思います。しかも読み進んでも頭に入らない、理解出来ないの繰り返し。教授は授業の中で教科書に書いてあることを話すのではなく、その先の話をするので、教科書すらまともに理解出来ていない私には、教授が何の話をしているか全く分かりませんでした。正直にいって、このクラスに付いていけたとは今でも思っていません。前期が意外に楽しく授業に参加出来たので、余計にそのギャップに苦しみました。ただし、とても心強かった、というか安心したことは、カナダ人でさえ理解出来ていない人がいるということを、少したってから知ったことです。落ちこぼれが私以外にもいたということをいいたいのではなく、英語が母国語のカナダ人でさえ理解し難いことをしているんだ、ということに気付かせてくれ、良い意味で開き直ることが出来たのです。
これ以降、私は積極的に教授にアプローチを掛け、自分が授業に付いていけていないことを正直に伝え、分からないことや勉強方法を頻繁に聞きにいきました。そこで最も良かったことが、チューターを紹介してもらえたことでした。彼の名前はデニス(Dennis)といい、前期にこのクラスを受講していて、クラスで唯一のA+保持者でした。彼に紹介されたのがクラスが始まって1カ月後です。既に私は大きく出遅れていたので、週に2回、多い時には土日を含めて3回チューターリングをしてもらいました。前期は1対1で勉強を見てもらっていましたが、今回はカナダ人と2人でチューターに見てもらうことになりました。彼女の名前はサーシャ(Sacha)といって、卒業を控えた4年生でした。彼女はいわゆる今時の女の子で、日焼けやジムに励み、「あの教授は嫌い。クレイジーだわ」なんて、はっきり物を言う子でした。私は、前期は割と優等生と呼ばれる学生と一緒にいたので、彼女の存在はとてもインパクトがありました。彼女とこの授業をきっかけに仲良くなり、半年後寮を出て一軒家に住み始める際のルームメートの4人となります。
話は戻って、3人での勉強がスタートしたおかげで、怒涛の勢いでクラスに追い付いていきました。2月の下旬には中間テストが控えていました。相変わらず授業はどんどん進んでいくので、教授の話す内容は分からないまま、チューターに1から重要なポイントを教えてもらいました。今まで全く分からなかったものが、チューター、時にはサーシャのサポートもあって、少しずつ理解出来るようになったのです。2人は本当に私のことを心配してくれ、時には時間をオーバーしてでも分かりやすく説明してくれました。そのかいあって、中間テストでは2人とも標準点をクリアし、問題なくパスすることが出来ました。

マーチブレイクと後半期

後期中間テストが終わり3月になりました。実はSTUでは後半期折り返し前に、3月4日から12日まで「マーチブレイク」と呼ばれる九連休が設けられています。冬休みと異なり、この期間、寮と学食は開放されていますが、多くのカナダ人学生はバックホームします。ここが田舎だからなのか知れませんが、多くの学生はすぐに実家に帰りたがるような印象を受けました。例えば、マーチブレイクのような長い連休だけでなく、3連休あっただけでも故郷に帰る人は少なからずいます。寮に住むのが主に1、2年生なので、まだ親元を離れての生活に慣れていないことも理由の1つかも知れません。
この期間私は、最初の3日間をペーパー課題の勉強期間に充て、残りの数日をカナダ東海岸のプチ旅行に充てました。私の住んでいた所はNew Brunswick州にあり、大西洋に近いのですが、更に東に位置するノバ・スコシア(Nova Scotia)州のハリファックス(Halifax)に2泊3日で遊びにいきました。聞いたことがある方もいらっしゃるかも知れませんが、ハリファックスはカナダ東海岸で最大の漁港です。ヨーロッパに最も近いという位置の関係で、アイリッシュ文化が流れてきた町でもあります。アイルランドからアメリカに多くの人々が移民したことは、映画「タイタニック」などで知られていると思いますが、同様にカナダにも多くのアイルランド人が移住しました。ですので、アイルランドの郷土料理やお土産を町で見掛けることがありました。
カナダにいて興味深く感じたことは、1つの国にいながらも同時に複数の文化に触れる機会があることです。ハリファックスではアイリッシュ文化、フレデリクトンから少し西に行った、ケベック(Quebec)州ではフランス文化が根強く残っています。また、トロント(Toronto)まで足を伸ばせば、更に多くの文化に触れることが出来ます。まさにこれがカナダのだいご味と言っても過言ではないと思います。

小旅行も終わり、後半期からはファイナルに向けてのラストスパートです。ファイナルでは、テストの準備だけでなくペーパー提出も重なるので、徹夜の日々でした。ペーパーの量の多さには泣かされましたが、チューターや友達がアドバイスをくれたり、教授に提出期限を延期してもらったりして、何とか乗り越えることが出来ました。ただ、落第してしまった教科もあります。単位の取得は、単に頑張りと熱意を見せるだけではなく、理解度をペーパーなりテストなりに打ち出さねばならず、やはり自分の英語力では至らなかった点があったのです。
カナダの大学では、教授が学生を評価するだけでなく、学生が教授を評価する機会がきちんと設けられています。具体的にいうと、1回分の授業時間を割いて、マークシートと筆記の両方の形式で教授の授業内容はどうか、きちんと準備されているか、学生との双方向性が保たれているかなど細分化してアンケートが採られます。この回答は、学部長を通して各教授に伝えられ、今後の教授方法の参考にされます。これは、全学生が教授に思っていることを素直に伝えられるとても良い機会だと感じました。なぜなら、私が教わった教授全員が、学生と積極的にコミュニケーションを取ろうという姿勢を見せていたからです。STUは小規模の大学なので、クラスの人数も少なく、多くて40人前後です。ですので、コミュニケーションは比較的取りやすい環境ですが、それ以外にも、教授たちが授業内容に創意工夫を凝らし、学生が理解出来る授業作りを心掛けている印象を受けました。
4月いっぱいで後期は終わり、下旬にはほとんどの学生が故郷に帰り、アルバイトをするなどして、9月から始まる新学年に備えて学費を稼ぎます。ただ私は、もう少しカナダで勉強したいという思いがあったので、5月から始まるインターセッションを取ることにしました。ただ、紙数も限られていますので、別の機会があればお話ししたいと思います。

終わりに

約1年間の留学生活を通して、とても一言では言い表せないほどのたくさんのことを経験することが出来ました。これも留学生活を支援してくださった、「やる気応援奨学金」の支援者・スタッフの方々、そして三枝先生、Mike Nix先生、田中拓男先生の多大なる御支援のおかげだと思っています。

私は留学を経験することで、今まで日本にいては感じ得なかっただろうことを身に染みて感じることが出来ました。それは、英語観から人生観まで幅広いものです。もし今、留学しようか迷っている人がいれば、私はぜひトライしてほしいと思います。旅行ではなく、ある一定の期間日本から離れて暮らすことは、自分がどのような人間か、日本は世界から見るとどのような国なのかを改めて見詰め直すことが出来る、とても貴重な体験となるのです。もちろん苦労も絶えません。ですが、後から振り返った時、その苦労が掛け替えのない財産となってくれることと思います。最後に、私の留学生活を多方面からサポートしてくれた両親に多大なる感謝の念をささげます。

草のみどり 201号掲載(2006年12月号)