法学部
【活動レポート】鎌田 千翔 (政治学科3年)
「やる気応援奨学金」リポート(48) トロント大学へ留学し奮闘(下) 冬休み、学習内容、南米旅行
法学部政治学科4年の鎌田千翔です。後編ではトロント大学での冬休みから、留学終了まで、冬休みの過ごし方や学習内容、南米への一人旅を報告したいと思います。
カナダの冬、冬休みについて
カナダの冬は非常に寒かったです。マイナス20度や10度の日なんてざらです。カナダ人の友人たちによれば、特に今年は例年以上大雪と寒さに見舞われたそうです。またスノーストームといって吹雪の中で雷がなるという地獄絵図のような日も何度かあり、雪かきをした雪の塊で家が埋もれるぐらいに積みあがる日も沢山ありました。そんなとき、トロント大学はダウンタウンの真ん中にあるにも関わらず、授業がなくなりました。また雪のためにそとに出られない日が続き、食料を買いだめする日もありました。
前期を終えてすぐに冬休みに入りました。吹雪のためバスが動かず、大学から吹雪の中歩いて帰ったため、冬休みの初日からインフルエンザにかかってしまいました。大学の保険プランに入っていたので大学の附属の病院で、無料で診療を受けることができました。はじめは大学附附属の病院ではなく普通の病院に問い合わせたのですが、驚いたことには、基本的に診療には予約が必要だということです。予約といっても風邪をひいた当日に予約できるわけではなく、3日か4日待たなくてはなりません。待ちたくない場合は、救急で病院にいくしかないのです。そのぐらいどこの病院もこんでいました。というのもカナダでは医療費のほとんどが税金でまかなわれ、ホームレスでも無料で診療を受けることができます。そのため気軽に受診できるのです。こうした点がだいぶ日本やアメリカの医療システムと異なると思いました
クリスマス、お正月
カナダではクリスマスは家族や親戚と大勢で過ごします。そのため私のルームメイトたちも実家に帰ってしまいました。そんなときにハンガリー人の大家さん一家が彼らの親戚の家で開かれるクリスマスパーティーに招待してくれました。大家さんの親戚たちは皆トロント近郊に住んでいて、このクリスマスパーティーには総勢30人ほどが集まりました。これにはかなり驚きました。このパーティーではハンガリーの民謡を聞いてダンスを踊ったり、プレゼント交換などをしたりしました。またトロントではクリスマスになると、ほとんど全ての家がクリスマスのイルミネーションを家の屋根や壁、庭にセットしているのですが、日本とは比べ物にならないほど、派手です。トロント市でどの家が1番だったか、その年のベストイルミネーションを決めるコンペティションもありました。ヘリコプターから見て決めるそうです。正月は友人たちと過ごすのが北米では一般的で、この年は初めて家族以外の人たちと正月を迎えました。
授業について
後期は前期同様International Relations とPolitics of DevelopmentとDiaspora and Transnational Studiesを取りました。それに加えて、途中で履修をやめてしまいましたが、Religion and Politics in Middle Eastを取りました。
Diaspora and Transnational Studies(移民政策)
後期はカナダにある移民のコミュニティーに焦点を当て、またカナダ政府の多文化主義政策について議論しました。この授業の最後の個人プロジェクトで、私は日系移民について調査しました。この調査のためにトロント郊外の日加センターに行き、資料を集めました。ここでは日系人によるイベントが毎週のように開催され、カナダに住む日本人向けに日本語と英語による雑誌の発行も行われています。また日系2世や3世が日本文化や日本語を忘れないようにするためのカルチャーセンターのような役割もしており、カナダにおける日本人の連帯を強めるのに重要な役割を担っていました。日本人街というのがトロントには無かったので、このような機関があること自体が驚きでした。
この後期の授業で学べたことは以下のことに集約できると思います。それぞれの人種や民族がその独自性を主張することは必要ですが、それが唯一絶対のものであるとするとお互いを理解できず、国が分裂してしまいます。ここでアイデンティティとは重層的なものと理解する必要性があることを学びました。例えば、カナダに住むイスラム教徒である場合、イスラム教徒とであると同時にカナダ人でもあるということです。またアフリカ系カナダ人である場合、アフリカ系であると同時に、カナダ人でもあるのです。またさらにはイスラム教徒であると同時に妻であったり、姉であったりするわけです。このように私たちは重層的なアイデンティティを持っていて生活しています。しかし私たちは一つのアイデンティティしか持たないと意識されがちです。そして一つのアイデンティティしか持たないと考えると、一つの民族がカナダ人という国民を形成していると考えられ、そこから他の人種が排除されます。よって非白人層が増えるとカナダ人としてのアイデンティティが失われると考えられる傾向にあります。しかし人のアイデンティティというのは先に述べたように両立可能で、重層的なものです。このような重層的アイデンティティの意識を持つことが、移民政策やその下での意識改革には必要です。しかし、他方で、人々の意識というものは、社会生活を営む中で、つまり自分が属する社会で生活する中で生まれてくるものなので、社会がある程度変わらなければ個人の意識の改革は難しいです。カナダは多文化政策を政府の重要な政策の一つに位置づけていますが、それでも未だに非白人に対する差別は存在します。このように社会が急激に変わることは困難なので、それを忍耐強く待ちつつ政策を作っていかなくてはいけないのです。このようなことをこの授業では学びました。
International Relations(国際関係学)では最後の授業が一番印象的でした。これからの国際政治というテーマでしたが、世界の終わりや、文明の衝突、マックワールドという文献を参考に議論しましたが、世界の終わりは冷戦終結後、世界では民主主義と資本主義というイデオロギーが勝ち、イデオロギー対立が終結するという話です。文明の衝突は、異なる文明、例えばキリスト教、イスラム教、アジアの文明といった文明がそれぞれ異なる価値観を掲げ戦い合うという話です。またマックワールドは、グローバリゼーションによって世界がアメリカ化され均一化されていくという話です。
こうした文献を扱う中で、世界は本当に1つの普遍的な価値観に向かうのか、異なる人種や異なる文化を持つ人々の間で今後も戦争は続くのか、それともそうした人種や文化の違いを相互に受け入れられる世界が来るのかという議論をしました。ここで教授が、第二次世界大戦中のアメリカ側の日本人の描き方や、捕虜の扱い方ついて、ヨーロッパでの戦争のそれと比較しました。ヨーロッパ本土での戦争と比べて、太平洋戦争では捕虜の扱いが国際法に従ったものではなく、かなり残酷な扱いがされ、戦争自体が残酷だったらしいです。またアメリカの戦時中のポスターをみると、日本人が虫や動物として描かれていて、人間として見られていなかったのです。一方太平洋戦争に比べてヨーロッパ方面の戦争では、アメリカは捕虜に国際法に従った処遇をあたえ、人間的な扱いをしていました。やはり同じ白人同士のヨーロッパにおける戦争と、白人対アジア人(非白人)としての日本人の戦争は違うのだと根本的に考えさせられました。教授もこの点を指摘しており、いくら平常時は世界平和や人種差別反対を唱えていても、肌の色、人種による差別というものが人の感情や無意識の中に深く埋めこまれており、文明の衝突とまではいかないにしろ、実際に戦争が起こってしまうと、その無意識の差別が爆発してしまうということではないかと感じました。
しかし同時に、民族や人種は人為的に作られた概念でもあるのです。冷戦後世界各地で激化している民族紛争においては、はたから見れば、区別がつかないような民族の間に激しい対立が生まれています。例えば、ルワンダ分銅のフツ族とツチ族はルワンダを植民地化したヨーロッパに諸国によって人為的に作られた民族です。このように一方では、民族や人種は作られたものであり、虚構でもあるのです。つまり人種や民族の違いなど、極論してしまえば、曖昧なものであり絶対的なものではありません。私たちは生まれながらにして自分の人種や民族の違いを認識しているのではなく、そうしたものは社会が作っていくもので、社会の中で私たちの心の中に埋め込まれていくと痛感しました。そのため、人種差別や、移民政策を考える上で、この最後の授業は非常に役に立ちました。
Politics of Development(開発学)
前期は南アフリカ人の教授でしたが、担当が変わりブラジル人の教授が担当しました。後期は、リサーチペーパという14ページ近くの課題が、リーディングウィークという2週間の休み中に出されました。私は授業で学習した途上国の民主化の進展についてインドネシアとナイジェリアを取り上げて書いたところ、自分でもこのリサーチペーパに夢中にな
り、とてもよい評価をもらいました。民主化といっても、欧米の民主化は途上国の状況に本当に当てはまるのかということを考えました。特に欧米と違って多様な部族によって富の配分の違うアフリカや東南アジアでは、欧米で俗に言う民主主義を行い、多数決によって物事を決めていくと、政治が多数派によって握られてしまいます。その結果少数民族の権利が踏みにじられてしまったり、部族間の対立が進み、紛争が起きてしまいます。そのため土地や、富の配分の部族間の間での格差を縮め、民主主義も多数決の原理だけではなく、どんなに少数派の政党でもある程度の議席配分する民主主義を構築すべきであると結論づけました。紛争処理についても、多くの国や国際機関は短期で解決したがりますが、平和構築には長いプロセスが必要で、紛争の終わった国で普通選挙を行うことが解決ではありません。部族対立がひどいままで選挙をやってもまた対立が激化するだけで、民族主義をあおるだけだということです。このように人種や民族によって富の配分が異なると互いの調和は難しいのです。そのため部族間での経済的な格差をできるだけ縮め、すべての党にその大小を問わず、議席を与える必要性があるのです。これは途上国でも先進国でも同じであり、移民政策を考えていく上で非常に大事なことです。この授業でも移民政策を考える上で非常に有意義なことを学ぶことができました。
また特に教授がブラジル人だったので、ブラジルの開発や政治史について学びました。ブラジルにはファベーラといういわゆるスラム街がありますが、貧困層の不法占拠地域で、警察や国家と麻薬組織との板ばさみになっている地域です。ブラジルの大都市では警察と麻薬組織の癒着が問題となっており、住民も誰を信じてよいか分かりません。そんな中で、住民たちは麻薬組織やギャングたちに自警を頼むのです。その見返りとして、麻薬ビジネスの保護をします。こうしたことは日本やカナダという先進国に住んでいると想像することもできません。この授業ではブラジル人の教授から直接南米の貧困の状況を聞くことができて有意義でした。
ブラジル、アルゼンチンの旅行
2月にはリーディングウィークといって2週間ほど休みがあります。この期間宿題も沢山ありましたが、リーディングウィーク前の1週間で30ページほどのリサーチペーパや課題を書き、1人で南米に飛びました。私は特に開発問題と移民政策に興味を持っています。ブラジル人の教授でラテンアメリカを中心とした開発学の授業のなかで、アルゼンチンの90年代の金融危機後、多くの家族が路上で生活している状況にあると聞きました。またブラジルはラテンアメリカでも貧富の差が1番大きい国である一方、国民の満足度が高く、人種の多様性に富んでおり混血が進んでいる国であり、日系移民も多いので、そうした国に実際に行ってみたいという気持ちをかねてから抱いていました。南米に行くことで、これからのことを自分の目で確かめてみたいと思いました。
アルゼンチン
ブエノスアイレスの国際空港はブエノスアイレスの南部にあって、あまり治安がよくない地域にあります。南部をずっと車で走っていくと、多くのスラム街を目にしました。丘の上に不自然にたてられたぼろぼろの家が並んでいて、洗濯物が外に干してあるのを目にしました。ブエノスアイレスの中心街を歩いていても、路上で生活している家族をよく見ました。ただブエノスアイレスは南米からの観光客が多いらしく、英語を話せる人がおらず、スペイン語に苦労しました。また人口のほとんどが白人、特にスペイン系やイタリア系が多かったです。ブエノスアイレスでは地下鉄も発達しています。また町の中ではいたるところでタンゴをしている人を目にすることができました。
ブエノスアイレスで面白いというか皮肉に思ったのは、町全体がそんなに大きくないのにもかかわらず、町の地区に
よってその風景や雰囲気、町のつくりが全く違うことです。それは富裕層と貧困層の格差の大きさを物語っています。パレルモという高級住宅街はヨーロッパのような町並みが続き、日本人の私でもこんな大きな家には多分一生住めないだろうなというほどの豪邸が並んでいました。そしてまたここは本当に南米、途上国の一角だろうかと思わせるほどのおしゃれなヨーロッパ風の町並みが続いていました。一方南部の貧困地区、ボカ地区はタンゴの発祥地として有名な南部の港町ですが、東南アジアでもよく目にするカラフルな小さく、ぼろぼろの家々が連なっています。またスラムを形成して暗く危険な雰囲気が漂っています。このように場所によって全く風景が違うのです。
ブラジル
ブラジルでは南部のポルトアレグリというヨーロッパ系の移民が多い都市に行きました。ブエノスアイレスとはうって変わって英語を話せる人が非常に多く、また白人だけではなく、人種がミックスされた感じで、白人と原住民のハーフが多かったです。 またアフリカ系の人々も多く、日系人もいました。
ブラジルは南米で1番格差があるのに国民の満足度指数が高い国です。格差が大きすぎることで、またその格差が受け継がれることで、そこに満足するしかない、また上流階級と下流の間に壁があるように感じました。私の友人たちは皆プールのある家に住んで、海辺に別荘もあるという人たちばかりでしたが、町の中では、レストランで食事をしていると、小さな子供たちが色々売りに来ます。この状況を見て格差が大きいということを身をもって知りました。またサンパウロなどの大都市だけではなく、私が行ったサピランガという南部の田舎町にも、日系人のコミュニティーがありました。この日系人のコミュニティーは農村地帯にあります。ブラジル人の友人がポルトガル語で話しかけると、ポルトガル語で話し返していましが、私が日本語で話しかけるとすごくうれしそうに、笑顔になって日本語で話してくれました。彼女はブラジルに来て40年ぐらいということですが、未だにポルトガル語が苦手で、この農園では皆日本語でコミュニケーションをするそうです。こうした日系のコミュニティーは多くあって、特に今年はブラジルと日本の友好100年の記念の年だったので、色々なイベントが開催されていました。ブラジルでは歌手やモデルとして活躍している日系人も多く日本の文化が浸透しているように感じました。友人と海にも行きましたが、そこでは本当に人種の多様性に驚かされました。混血が多いのですが、混血の人も、白人も、アフリカ系、先住民系も交じり合っています。それぞれ似た人種で集まるのではなく、ばらばらで友人関係を作っています。私の友人たちは混血系と白人と先住民族の3人で集まっていましたが、それが自然な風景です。カナダでは人種によって固まっている人たちを沢山見ましたが、ブラジルではほとんど見ませんでした。カナダと比べるとブラジルの移民の歴史ははるかに長く、そうした歴史的なものがこの相互理解を生んでいるのだと思いました。こうした経験から実際に自分の勉強した知識を生かして現地の人たちと政治問題などを語れたのは有意義でした。
この留学の目標はカナダの移民政策と開発学全般について学び、さらには市民の半分以上が外国生まれのトロントという非常に国際的な町で実際に人々の意識や移民政策を感じ取るというものでしたが、授業のところでも触れたように、十分理解を深められたと思います。人種や民族がその独自性を主張することは必要ですが、アイデンティティとは重層的なものと理解する必要性があることを学びました。人々の意識、アイデンティティ、さらには人種という虚構は社会生活を営む中、つまり自分が生きている社会の中で、生きていることで生まれてくるものなので、社会がある程度変わらなければ個人の意識の改革は難しいです。トロントという町に住んで、その正と負の側面両方を見て、ある程度の弊害はあるものの、人々の意識は変わりつつある、少なくとも日本よりは悠に差別が無いと感じました。
またこうした学問の分野だけでなく、カナダやヨーロッパなどに多くの友人ができ、とても有意義でした。移民政策や難民問題さらには開発を扱う弁護士になりたいと考えているので、多様な価値観に日々触れて、自分自身、一つの国や人種の価値観にとらわれないように日々努力する必要があります。そうした中でカナダをはじめ、ヨーロッパや南米、アジア等、多くの国々に親しい友人ができたこの一年間は非常に有意義でした。彼らとは夜通し、語りあい、悩みを打ち明けあい、深い友情を築くことができました。根本的な考えは同じなのですが、価値観や人生観が国によって変わり、こんな視点や考え方もあったのかという気にさせられます。また日本の常識が通用しないことも多々ありました。こうした仲間に恵まれたことで、視野を広めることもでき、将来移民や難民問題を扱う弁護士として働くうえで非常に役に立つと思います。留学中は課題が多く、テスト前や課題提出間際は2日や3日寝ないこともあり、精神的にもきつかったのですが、この奨学金を得て留学させていただいたことや奨学金をもらったときの目標達成への決意を思い起こして、乗り切ることができました。大学4年間のうち、1年を海外で過ごすという貴重な体験は自分の将来にとって役に立つと思います。私の場合は自分の将来と留学で学んだことが直結するので、本当に有意義でした。このような体験ができるよう、応援してくださった先生方や奨学金を寄付してくださった方々に非常に感謝しております。本当にありがとうございました。
草のみどり 222号掲載(2009年1月号)