法学部

【活動レポート】小川 雄 (国際企業関係法学科4年)

「やる気応援奨学金」リポート(81)
 インドでボランティア活動を 世界を広げ自分を見詰め直す

はじめに

飛行機に乗り込むと、そこはインドだった。離陸前でも携帯電話は鳴りやまず、サリーを着た添乗員が一人一人に注意を促す。機内食は当然のようにカレーしかなく、チキンかベジかを選ぶのみだ。二月一〇日、エア・インディアの機内でこれからの一カ月に未知への興奮と一抹の不安を抱えながら、インド・コルカタへと向かった。

 二〇一〇年二月-三月の一カ月間、「やる気応援奨学金一般部門」の支援の下インドでボランティアをしながら生活をするという機会に恵まれた。一人でインドに渡り、猛暑の中で毎日ボランティアにいそしみ、世界中からの旅人と出会い、現地の人に交じって屋台で御飯を食べる。こんな日々を過ごす中、全身を異文化にうずめ、何度も衝撃に直面し、そしてあまたの人々と語らった。

 この経験は一時の成長や異文化体験にとどまるものではなく、これからの人生に深く影響を与えるものだったと確信している。

なぜインドに

父の転勤に伴うアメリカでの生活経験から、僕は漠然と海外とかかわる仕事がしたいと考えていた。そんな中、中央大学に入学して以来、多くの形で自分の将来像を確立しようと努めてきた。一年次からアジア法学生協会(ALSA)という団体に所属し、アジア各国の学生とのディスカッションや模擬裁判を通じ文化の多様性や差異に対する柔軟な価値観を養った。二年次にはFLP国際協力プログラムでの学習も始まり、他学部の学生と共に社会開発分野に関する研究を進めた。また法学部の授業の一環として「国際インターンシップ」を受講し、横浜とタイにおいて国際的非営利団体YMCAでインターンシップをさせていただく機会にも恵まれた。

 そんな経験を通じて常に根底にあったキーワードが「国際協力」であった。しかし勉強をすればするほど、話を聞けば聞くほど、何も分かっていない自分に気が付いた。いったい「国際協力」とは何だろうか。解決すべき「国際問題」とは何だろうか。本を読めば「絶対的貧困」といった言葉の定義を見付けることは簡単だ。しかし、では、そんな環境で暮らしている人々は本当に不幸なのだろうか。それらは是正すべき問題なのだろうか。そして、果たして今の自分には何が出来るのだろうか。その答えは、本でもテレビでもインターネットでもなく、現地に、その場所にあるように思われた。

 そして僕はインドへと赴くことを決めた。インドは資金規模や関与する人数からしても、世界有数のNGO大国と言われている。それはインドという国に、今でも多くの問題が現存していることを意味する。そんな土地で自らが草の根の活動に身を投じることには、自分なりの「国際協力」を確立するためにも、かかわる組織の一端を垣間見るためにも、そして今の自分に出来ることを知るためにも、大きな意義があるように思えた。

 しかし理由はそれだけではない。大学に入学して二年がたち、僕は何か新しい挑戦を欲していた。バックパッカーの聖地、インド。ベッドにたかる南京虫や深刻な大気汚染。体調を壊すのは当然で、入院した話もよく耳にする。タフな日々の中で、何か得られるだろうと直感した。むしろこれが本音だったのかも知れない。

インドでの生活

インドでは多くの文化圏を体験しようと、三つの街に滞在し、各地で活動を行った。コルカタ、バラナシ、ベンガルールは各々に異なる雰囲気を持つ街で、それぞれで使う言語も異なっている。

 最初に訪れたコルカタは、首都デリーに続くインド第二の都市だ。一二億人もの人口を抱えるインドを代表するように、街は常に活気にあふれ、どこを見渡しても人がいる。人人人人牛牛人人牛人人人、といった具合である。マザーハウスはそんな街にある。実際にはマザーハウスは、故マザーテレサの眠る修道院であり、計七カ所のチャリティー施設の中心となっている施設である。毎朝ミサが行われ、その後に質素ながら朝食が振る舞われる。ボランティア希望者はここで希望の施設への登録を行い、各施設へと赴くこととなる。

マザーベイビースクールの先生と生徒

孤児の子供たちの施設や重症を負った患者の施設がある中で、僕はダヤダンという施設に登録をした。ここはハンディキャップを背負った子供たちの家である。仕事の内容は実に多様で、公園に行って一緒に遊んだりすることから水ぞうきんを使った各部屋の掃除。汚れた布おむつを洗ったり、屋上でひたすら洗濯物を干したりもする。子供たちとも慣れてきたら御飯の介助をしたり、重度の障害を持つ子供のエクササイズも行った。優に二〇人はボランティアがいるはずなのに、毎日こなすべき仕事は決して少なくなく、肉体的にハードな仕事も多かった。

 ボランティアは世界中から集まってくる。もう何十年もボランティアを続けている方がいれば、世界一周中のカップル。小中学生の子供が一緒の家族連れ、そして驚くことにツアー客までいた。そんな人たちと対等の立場で自由に言葉を交わすことが出来たのは、日本では得られないであろう貴重な機会であった。

 バラナシは世界でも最古の街の一つであり、ヒンドゥー教の聖地の一つとして有名だ。街の東を流れるガンジス川の水は聖水としてあがめられており、そこには火葬場で灰になった死者が流され、もく浴をすればすべての罪が洗い流されるという。ちなみに僕ももく浴をしてきたが、水底はなぜかぬるぬるし、水はどちらかというと緑色で、少し嫌なにおいがした。

 ここではNPO法人OnTheRoadの施設でスクール&ロッジプロジェクトに参加した。経済的・社会的な理由から学校に通えない子供たちのためのフリースクールが運営されている。そこで算数と英語を教える機会に恵まれた。以前は施設の二階を宿として経営し、そこでの収益をスクールの運営に充てていた。この仕組みはNPOとしての独立性や自律性を維持しつつ活動を行う良い仕組みだと思われたが、やはり資金繰りには困難があるという話であった。

 インドはその人口の多さやIT技術の水準、語学力といった意味でもアジアで大きな注目を集める国である。中でもベンガルールはインドのシリコンバレーとも呼ばれ、インド経済の一つの中心ともなっている。近年インドでは多くの産業が急成長しており、日本を支える自動車産業もその一つだ。例えば二〇〇二年には五〇〇万台程度だったインド国内での自動車販売台数は、二〇〇七年には倍の約一〇〇〇万台を超えた。愛知県出身ということもあり地元を支える自動車産業にも興味のあった僕は、日系企業の活躍や現地での働き方を見るという目的も兼ねて工場を見学させていただいた。アイシンNTTFという、日系自動車部品メーカーのアイシン精機とNTTFというインド企業の合併会社が快く受け入れてくださった。インドならではの宗教的・風俗的問題や、仕事をスタートさせるまでの難しさ、現地での生活ぶりなど、多くの質問にも丁寧にお答えをいただいた。ベンガルールは今まで見てきたインドとは全く異なり、街を歩けばスーツ姿の人々も多く見受けられ、工場では多くの従業員が目の前の部品を素早く組み立てていく姿に目を奪われた。ここの従業員の多くはNTTFの運営する職業訓練学校の卒業生だということだった。学校に通わず家業や農業を手伝う子供たちを見てきたこともあり、この国の大きな教育格差を改めて実感した。

ボランティアを終えて

およそ一カ月間のボランティア生活を終えて、幾つか感じたことがある。一つはボランティアというのは、誤解を恐れずに言えば、きっと自分自身のためにするのだということだ。インドで多くのボランティアと出会い、彼らの献身的な姿勢と笑顔を見て、語弊のある言葉かも知れないが、実にボランティアを楽しんでいるように感じた。僕自身もそうであった。自分自身がどれだけボランティアをしようが、子供たちの障害は治らないし、貧困層が減ることはないし、社会の不正義が直ちに正されるわけでもない。でも人のために働く、そういった活動を通して自分の存在意義を強く感じ、人に愛情を注ぐことで自分自身の幸せを見付けられるのだと思った。

ガンジス川とインドの日常

また話が多少それるが、僕はインドの生命力あふれる人々に、空気に、そしてその魅力に圧倒された。途上国と聞けばネガティブな印象が付き物だが、それは一面的過ぎるだろう。確かにインフラの整備すらままならない状態で、今でも多くの問題が山積している。それでも極彩色の建物の間はいつも人や牛や猿でごった返し、道路はタイヤの巻き上げるほこりとクラクションで満たされ、そこにはLivelyと形容するにふさわしい日常がある。インドの路上を歩き回り、自分の生とバイタリティーを改めて実感した。生命のあふれるこの国に、日本にはない魅力があるのも事実だ。

一カ月の成果

この一カ月の経験によって得たものは、正直計り知れない。第一にメンタルもフィジカルも確実にタフになった。実はコルカタの排気ガスにやられてのどを壊し、数日間文字どおり血を吐いていた。しかしそれでも体は元気で、毎日ボランティアに参加し続けた。睡眠薬強盗がいると言われる寝台列車での移動も経験し、友達に止められていたガンジス川でのもく浴も達成した。毎日屋台で御飯を食べ、まさに一人でインドを歩き回り、インドの庶民的な生活に身をうずめてきた。この経験は将来どのような仕事をするにしても、自分を力強く支える屋台骨となるだろう。

 またほんの一部だけであろうが、世界の広さを実感した。一日は爆音のようなコーランの祈りと共に始まる。初日の朝六時から怪しいタクシー運転手と口論になった。飲んだチャイの器は道路に投げ捨てる。トイレにペーパーはなく、使うのは水だ。このような経験を通して今までの常識が、いかに偏った常識であったのかを痛感した。自分の想像を超える世界の存在を、素直に肯定出来るようになった。

 そして何よりも、多くの矛盾を目の前にして、自分自身の人生や生き方や社会について深く考える契機となった。インドという社会の貧富の差は本当にすさまじい。マクドナルドで散々定員を怒鳴った揚げ句、全部残して店を出るおばさんがいれば、路上では両手両足のない物ごいが空き缶を目の前に喜捨を求める。全身を金で着飾りスーツを着たビジネスマンがいれば、一口でもと御飯を求めて近寄ってくる少女がいる。では僕に出来ることは何だろうか。彼らの助けになればと、少しでもお金や御飯を恵むことだろうか。しかし下手な商売よりももうかると、観光客相手の物ごいが割の良い仕事になっているとも聞いた。こんな場所で自分に出来ることは何だろうか。目の前の人々に手を差し伸べるべきなのだろうか。とにかく自分の無力さを痛感しながら、もんもんと悩む日々が続いた。

インドの経験とスペインでの生活

このインドでの一カ月の活動は僕の二〇年の人生において、最も濃い日々だったように思う。それほどまでに毎日が刺激に満ち、チャレンジングで、そして考え続ける日々であった。当然毎日大変なこともあったのだが、それを上回る面白さがあったのも事実である。

 この経験の後、僕の考え方は少し変わった。それは物事を「出来る・出来ない」で考えるのではなく「やる・やらない」で考えるようになったことだ。もちろん社会に出たことのない青臭い学生の意見で、挫折を経験していないから言えるだけなのかも知れない。でも僕は今まで本当は可能なことでも、「出来ない」と決め付けて、あえて「やらない」という選択をしていた気がする。本当にやりたいことであればやれば良いのだ。きっと僕が思い付くもので、本来的に不可能なものなんてほとんどないはずである。このような考え方は、これから述べる今回の休学とスペイン留学にも結び付いている。

 大学三年生の春季休業を迎え、僕は今スペインにいる。目的はスペイン語の習得とヨーロッパでの生活を通じた新たな視座の獲得だ。実は日本でスペイン語の勉強したことは一秒もなかったのだが、五カ月ほどたった今では日常生活におけるコミュニケーションに問題はない。

 まさにスペインで生活していても感じることであるが、英語だけではなく現地の言葉を少し話せるというだけで、相手の態度や親近感は大きく変わるものである。人とコミュニケーションを取るツールが多いに越したことはないだろう。これから世界を舞台に仕事をしたいと漠然と考えている自分には、将来が定まっていないからこそ、可能性を広げるうえで他言語の習得をすることにも意味があるように思えた。

スペインのカーニバルで仲間と

スペインではレオンという街で、毎日大学に通いながらスペイン語を学び、週に二日は英語の授業も受講している。一二月までは一番下のクラスで勉強していたが、一月からは飛び級をし新たなクラスで学習を始めた。クラスにはオーストラリア人、アメリカ人、ロシア人、アラブ人がいる。大学の交換プログラムであったり、大学入学前の準備であったり、スペインでのマスター取得のためであったり、スペイン語を学ぶ理由もさまざまだ。そんなクラスで日本人は自分一人で、スペインにいながら多様な価値観に触れられるのは興味深い。運の良いことに日本人びいきのスペイン人とも仲良くなり、誕生日会や大学・学部で開催されるフィエスタにも呼んでくれるようになった。フィエスタとは日本風に言えば飲み会で、シエスタと並ぶ立派なスペイン文化である。スペイン語の習得に関しては英語に助けられることが多く、今の課題は単純な語彙力の強化だ。春以降はチュニジアに渡り、フランス語の学習をするつもりである。

おわりに

これまでに述べてきたインドでの活動は多くの方々に支えられたからこそ達成出来たものだ。最後ではあるが、この場を借りて感謝を述べたい。やる気応援奨学金委員会並びに関係者の皆様、今までお世話になった教授の方々、色々と迷惑を掛け続けている家族、日本で頑張っている友人たち、Uniとその家族、Evan、がくしさん、ふみやさん、インドで出会った多くの友人たち、マザーハウスのシスター、OnTheRoadのスタッフの方々、学校で出会った子供たち、アルジュン、夜行列車で仲良くなったおじさん、そして何よりも多方面で相談に乗ってくださった三枝教授。最高に素晴らしい友人、家族、仲間、そして先生に恵まれたことを誇りに思います。本当にありがとうございました。