法学部

【活動レポート】坂下 麻里子 (法律学科2年)

「やる気応援奨学金」リポート(57) アメリカ留学で苦労重ね成長 英語と文化学び裁判所も見学

はじめに

今回私は「やる気応援奨学金」の英語分野の受給生として、夏休みに1カ月間、英語力の向上・アメリカ文化の学習と裁判所を見学するためアメリカに短期留学させていただきました。

留学生活の間には楽しかったことももちろんたくさんありましたが、強制送還でも良いから日本に帰りたいと思ったり、泣いたり、失敗したり、本当につらく大変だったこともありました。しかし、今となってはこの経験のおかげで大いに成長することが出来たと思います。

私のアメリカでの波瀾万丈の留学生活を報告いたします。

七転び八起き

私は留学する語学学校の条件として、①日本人の割合が少ないこと、②全体の生徒数とクラスの生徒数が少人数であること、③学校が大学付属の語学学校であることに着目しました。その後幾つかの学校にメールを送り、何回かやりとりした上で、返信の速さや内容の丁寧さなどを考慮し、ペンシルヴァニア州のFLSロックヘヴン校に決めました。日本人の割合も10%以下で、生徒数も少なく、また大学付属の語学学校だったので現地の大学生と触れ合う機会が多い点が決め手でした。この時の私は当然、この決定を後悔する日が来ることを知る由もありませんでした。

始まりは「乗り継ぎ失敗事件」でした。文字どおり、私はサンフランシスコで乗り継ぎ便に乗り遅れ、一晩掛けてのアメリカ大陸横断となってしまったのです。事件の原因はもともと乗り換え時間が1時間45分と短かった上に、成田空港で出発時間が40分遅れ、更に税関手続きに手間取ったことです。そして私の乗るはずだった飛行機は無情にも私を置いて飛び去ってしまったのです。サンフランシスコからワシントンDCへ向かう予定だったのですが、つたない英語で交渉した結果、何とかデンバー経由の便を確保することが出来ました。サンフランシスコからデンバーに向かう途中で機内から見た、ロッキー山脈に沈む夕日に感動し、アメリカ大陸の広大さを身をもって実感しました。結局、ワシントンDCに着いたのは翌朝の5時。日本からは24時間経過していました。ほぼ徹夜の移動で疲れきっていた私ですが、その足で電車に乗り、出迎えスタッフとの待ち合わせ場所のフィラデルフィア(以下、フィリー)に向かいました。

そこで追い打ちをかけるかのように「スタッフ大遅刻事件」が起こりました。待ち合わせ時間から1時間たっても連絡がなかったため、学校側に連絡をするもらちが明かず、結局、スタッフが現れたのは約束の時間から2時間半後でした。その時点で既に日本が恋しくなっていたのは言うまでもありません。そして私はフィリーから車で3時間、やっとステイ先のロックヘヴン(以下、LH)という町に着いたのでした。

ここはドコ!?

さて、私が1カ月滞在したLHという町についてお話しします。LHはペンシルヴァニア州東部の人口1万人の小さな田舎町で、州都のフィリーから車で3時間の所に位置します。もちろん交通手段は車かバスのみ。町の至る所で野生のリスを見ることが出来ますが、スターバックスやマクドナルドはありません。自分が本当にあこがれの地・アメリカにいることさえ疑問になり、思い描いていたアメリカのイメージがガラガラと音を立てて崩れ去っていきました。また、8月だというのに、朝の気温は15℃しかなく長袖が必需品だったことにも驚きました。

学校に行くと、全生徒数は30人ほどで、うち日本人は私を含めて3人でした。1クラスは10人未満で、生徒が自主的に授業に参加し発言するといった難易度も量も質もレベルが高い授業が行われていました。

ホストファミリーはシングルマザーと彼女の娘、マザーの友達という女性3人で暮らしている家でした。日本からメールのやりとりをした際、マザーは料理が好きと言っていたのですごく楽しみにしていました。部屋は1人部屋で、好きな時間にバスタブなども使うことが出来、家自体には満足していましたが、学校までは40分歩かなければならず少し不便でした。

事件多発!……話が違うぅ!!

さて、LHで勃発した数々の事件をお話しいたします。

まず初めに御紹介するのは「かごの中の鳥事件」です。最初にLHはフィリーから車で3時間と紹介しましたが、これは自家用車で直接行った場合の時間を表します。当然ですが、私は自分の車を持っていませんし、ホストマザーもさすがに往復6時間のドライブは出来ないと言っていたため、どこか小旅行をする際や大都市に出る時はバスを利用するしか選択肢がありませんでした。しかし、バスではLHからフィリーまではほかの町も経由して行くため7時間も掛かります。しかも、バスは5時と13時の2択のみ。これではどこにも出掛けられないと頭を抱え、小旅行をあきらめるべきか悩みました。

次の事件は「発覚!うそつきホスト事件」です。メールで料理好きと宣言していたマザーですが、実際はデリバリーのピザがほとんどでしたし、先に夕飯を食べ終わっていることがしばしばあり、思い描いていた家族との楽しい食事というイメージは一掃されてしまいました。また、これはアメリカ人全般の食習慣かも知れませんが、基本的に朝食はパンやシリアルで簡単に済ませるため、朝御飯は自分で用意しなければなりません。食習慣の相違とホームシックで食欲不振・体調不良に陥った私はりんご1個と日本から持参したせんべい2枚で1日を過ごし、4日間で約2キロ体重が減りました。

次に「人皆無事件」が勃発しました。まず私がLHを選んだ理由の1つでもあった「大学付属」についてですが、8月は夏休みで大学生は全くいませんでした。そのため大学町のLH自体に人がいません。家から学校まで誰にも擦れ違わずに通学することが出来るほどです。もし誘拐されても誰も気付かないでしょう。

そして最後に起こったのが「徒歩ホ事件」。それがアメリカの田舎町では普通だと思い毎朝1人で40分学校まで歩いていた私ですが、友達に「40分も歩いてるの!?ありえないよ!!皆、この学校の人たちは車で送迎してもらうか自転車を貸してもらってるよ」と言われたことで目が覚め、ホストマザーに早速交渉を試みたのですが断られ、おまけに自転車はパンクしていてとても使える状態ではありませんでした。

と、数々の事件が起こった後、最初に私が取った行動は学校にホストを変えてくれるように要請したことです。しかし学校側の対処もいい加減かつ不親切だったため私は学校自体を変えることを決断しました。

さらばLH初めましてボストン

前記の事件はすべてLHに来て4日の間に起こったことでした。しかし学校を変えると決めた以上、のんびりしている暇はない。早く動けば来週から転校出来ると知った私はその日のうちに学校と交渉して、見事次の週からボストンに移れることになったのです。思い返すと、この交渉が留学中で1番大変で英語を駆使した時かも知れません。まだアメリカにも英語にも慣れていないのに、転校したい理由を英語で説明し、手続きの説明を聞き取らなければならないのです。

なぜこんなに早く移ることが出来たかというと、FLSの提携校があったこと、転校先のボストン校でのステイ先の手配が円滑にうまく決定したからでした。LHでは1分1秒がすごく遅かったのに、移動すると決めた後は瞬く間に時間が過ぎていました。いざ離れるとなると急にLHにも愛着がわき、最終日に友達や先生と別れるのも寂しかったです。

ボストンへは同じ東海岸ということもあり、電車で移動することが出来ました。途中、フィラデルフィア博物館に立ち寄って芸術を堪能し、映画・ロッキーの銅像と写真を撮ってから、ボストンに向かいました。ボストンでの生活はLHでの1週間と打って変わってあっと言う間でした。

新居・ボストン

ホストは私の両親と同年代のスペイン系の夫婦で、1週間に2-3日だけ13歳の息子が帰ってきます。ホストマザーの弟夫婦とハウスメートの韓国人・ムニも同居しており、大変にぎやかな家庭でした。スペイン系の家族なので料理は米食が多く、大変おいしかったです。ハウスメートのムニは韓国人ですが、日本の大学に通っているため日本語が堪能で、2人で夕食の後に庭に出て、ドラマやアイドルの話から、韓国と日本の文化の違いやお互いの国が相手の国の歴史や教育などをどのように感じているかなど深い問題まで語り合いました。

韓国では、大学進学時に成績だけでなくボランティア活動も必要とされていることや、一世代前の韓国人は戦争の思い出から日本人に嫌悪感を持っているが、うれしいことに現代の韓国人はむしろ親日であることを知るなど、有意義な時間を過ごしました。

日本ではボランティア活動をしている人は少なく、話を聞いて少し気恥ずかしくなりましたが、一方、進学の条件として義務化するのは本来の「自ら進んで」「奉仕する」という意味に相反するのではないかと疑問に思いました。

FLSボストン校はといえば、8月の中旬、そして大都市・ボストンということもあり、日本人が大変多かったです。私のクラスは多い時は半分以上が日本人という時もありました。そのため、やはり授業以外の時間はつい日本人同士で集まって話してしまいます。そこで私は無料の新聞を読んだり、弟に借りて読んでいた漫画を話のきっかけにしてさまざまな国の人に積極的に話し掛けるように心掛け、それによって英語が上達したばかりでなく、他国の文化に触れることが出来ました。また同時に日本の漫画文化の世界的な浸透を実感することも出来、うれしかったです。中には私と同じくLHから転校してきた台湾人の男子もいて、一緒にLHについて語り合いました。しかし先生も生徒も時間にルーズで、定刻に着席している生徒は日本人のみという時も何回かあり、授業開始時刻の15分後に授業が始まることがほとんどでした。そのため、授業の質や生徒たちの姿勢はLHの方が良かったという印象を受けました。

ボストンで驚いたことは、ボストンでのルームメート・ムニと日本と変わらないくらい治安が良かったことです。電車の中で居眠りをしている人も、すりなどを気にせず平気でバックパックを背負っている人もいました。私もムニも1人で深夜に帰宅することが頻繁にあったほどです。

レッツゴー!レッドソックス!

ボストンに来てからは平日授業が終わった後に市内を散策し、週末は友達とニューヨークやナイアガラに出掛けました。その中でも1番楽しかった思い出は、同じく「やる気応援奨学金」を利用してボストンに留学していた友達と見にいったレッドソックスの試合です。

レッドソックスの試合は2回見にいきましたが、1回目を見にいった日に「カード停止事件」が起こりました。弟にお土産に頼まれていた松坂投手のレプリカTシャツをクレジットカードで買おうとしたところ、カードが使えないと言われてしまったのです。留学も後半に差し掛かり、ほぼ現金を使い果たしており、カードも1枚しか持っていなかった私は頭が真っ白になり、無銭でアメリカでの残り1週間を過ごすの!?とパニックになりました。冷静になって家でネットで調べた結果、カードの上限を超えていたことが分かり、カード会社に電話して1件落着しましたが、冷や汗をかいた瞬間でした。このため、1回目の試合はショックで記憶がありません。

1回目のリベンジの意味もあって2回目の観戦に行き、アメリカ文化の1つである野球を堪能することが出来ました。特に野球に興味を持っていたわけでもなく、野球のルールさえまともに知らない私でも、レプリカTシャツを着て、周りの観客と共に騒いで、歌って、ウエーブをして、ボストニアンと一緒にレッドソックスを応援しているだけでとても楽しく、すっかりレッドソックスのファンになりました。

これがアメリカ!

アメリカに滞在している間に4つの美術館(フィラデルフィア美術館・メトロポリタン美術館・ボストン美術館・ナショナルギャラリー)と3つの裁判所(マサチューセッツ州最高裁判所・少年裁判所・合衆国最高裁判所)を訪れ、民事裁判や陪審員の選考前の様子などを見学することが出来ました。

美術館について驚いたことは、アメリカの美術館は日本に比べて格段に入館料が安いということです。特にワシントンのスミソニアン協会に所属する美術館は誰でも無料で見学出来ますし、その他の都市の美術館もある曜日は無料というように入館料が無料の日が定期的に必ずあります。これは学生や子供に、美術館を見学することで、文化的・美術的な知識や好奇心を育ててほしいという国民の願い・意識によるものだそうで、それを実現するための美術館の働きと寄付の多さに感心しました。

裁判所は審議の種類によって日本よりも建物が細かく区分されており、少年裁判所や金融行政裁判所などボストン市内にだけでも7カ所ほどありました。また裁判長が入廷する際、警備官の合図で一斉に“Good Morning!”と大きな声であいさつしたり、法廷内には私のような日本人、ヒスパニック系やアフリカ系などさまざまな人種の人々が集まっており、陪審員1人1人に英語が分かるか確認しているのもアメリカならではだと思いました。また驚いたことは、アメリカでは裁判の様子をテレビ中継していたことでした。日本では考えられませんが、私のホストペアレンツはサンフランシスコで行われているスペイン人の刑事裁判をテレビで当たり前のように見ていて、司法が国民の身近にあることを実感しました。

帰国して

美術館は撮影自由!モネと

ワシントンDCのリンカーン・メモリアルで

留学中、本当に多くの人々に助けられました。ワシントンDCのリンカーン・メモリアルでメールを通じて支え、励まし、気遣ってくれた家族、一緒にボストンに留学した友達、ワシントンを案内してくださった日本人の皆さん、LHでの友達、カード停止になった時お金を貸してくれた友達、迷子になった私に丁寧に道を案内してくれた美人のお姉さん、いつも焼きたてのベーグルを選んでくれたベーグル屋のお兄さん……。

挙げれば切りがないほど、多くの人に出会い、学び、見て、本当に留学して良かったです。留学出来たからこそ、今まで見えなかった日本の良いところも温かさもありがたさも知ることが出来ました。

小旅行でニューヨークへ。自由の女神と共に

「やる気応援奨学金」を与えてくださった先生方、先輩、家族、友達、出会ったすべての人に感謝しています。ありがとうございました。

草のみどり 231号掲載(2009年12月号