法学部

【活動レポート】恒川 賢史 (政治学科2年)

「やる気応援奨学金」リポート(33) インドの大地でボランティア マザー・テレサの遺志継いで

はじめに

朝、目覚めると、見知らぬ女性が目の前に立っていた。窓の外からは鳥のさえずりと車のクラクションが聞こえる。私は大きなベッドの上にいた。そして、女性が私に何か話し掛けている。しかし、何を言っているのか分からない。聞き慣れた日本語ではなかった。そこで、ようやく1つのことに思い当たる。私は昨夜、インドに到着したのだということを。
私のインドでの活動が実現したのは、ひとえに法学部の「やる気応援奨学金(海外語学研修部門英語分野)」のおかげである。大学1年の秋にこの奨学金の存在を知ってからというもの、私は計画の実現に全力を注いだ。今まで日本を出たことがなかった私にとっては、外国を知る大きなチャンスだった。私はすぐに準備に取り掛かった。まず、活動先を決める。次に、活動先と頻繁にメールのやりとりを行いながら、計画を練り上げる。そして、奨学金の審査に臨んだ。審査は書類審査と30分にわたる面接審査である。もちろん、どちらも英語で書き、英語で話す。私は決して英語が出来るわけではなかった。しかし、それでも私が審査に合格し、奨学金を頂けることになったのは、活動の目的を明確にし、綿密な計画を立て、絶対に成し遂げてやるという熱い思いを持っていたからだと思う。こうしてこの春、私はインドで充実した活動をすることが出来た。

活動への動機

ここまでを読んで、1つの疑問を抱いた方がおられると思う。語学研修の英語分野であるのに、なぜアメリカやイギリスではなくインドなのかと。確かに、インドは英語が公用語だが、発展途上国である。そんな所でいったい何を学ぶのかと。確かに、それはもっともな意見である。しかし、私はその意見には同意出来ない。インドには発展途上国だからこそ学べることが、非常に多くある。私はこの国で2週間、ボランティアとホームステイを行って、さまざまなことを経験した。
インドでボランティアをしたいと思ったきっかけは、夏に経験した3日間のボランティアにある。特別養護老人ホームでボランティアとして働いたのだが、そこでは話し相手しか出来ず、目の前に助けを求めている人がいても何も出来ない自分に腹を立てた。また、初めて介護の現場を目にして、そこで働く人々のつらさも分かった。そこで、私は自分も困っている人の役に立ちたい、もっと福祉について学びたいと思い、ホームヘルパーの資格の取得を目指した。その中でマザー・テレサの設立したインド・コルカタのチャリティー施設が世界中からボランティアが集まる所だと知り、私も実際にそこに行ってボランティアとして働くことで、施設の人々やほかのボランティアの思いや考えなどを聞いてみたいと思うようになった。これが私をインドへ向かわせた最大の動機である。

ボランティア奮闘記

コルカタにはマザー・テレサが設立した6つのチャリティー施設があり、それぞれ孤児や障害者など利用者が異なっている。それらをまとめるのがマザー・ハウスである。ボランティアをするにはここで登録をしなければならないが、登録さえすればいつでもだれでもボランティアをすることが出来た。これは日本ではなかなかない仕組みである。私はダヤダンという所に登録をした。
ダヤダンは精神や身体に障害を持つ、生後数カ月の赤ん坊から17歳の男の子までの子供たちが100人ほど生活している所だった。障害は目が見えない、歩けないなどさまざまである。私は、朝の8時から12時までと夕方の15時から17時まで、そこでマーシー(インド人従事者)の仕事を手伝った。
ボランティア初日、私は子供たちをトイレに行かせて歯を磨いてあげたり、昼食を食べさせたり、一緒に遊んだりと常に子供たちのそばにいた。最初にトイレに行かせた時などは、子供たちが汚物にまみれた中で歯を磨いてやらなければならなかったので、子供たちを不衛生に思ってしまい近付けず、なかなかうまく出来なかった。>そうしたこともあっ

て、2日目は1日中ずっと洗い場で子供の服やシーツを最初から最後まで手で洗う仕事をしていた。洗いからすすぎに脱水、乾燥とまさに「人間ウォッシングマシーン」となって働いた。ただ、やはり子供たちのことを思って子供たちと接しなければ、せっかくここまで来た意味も半減してしまうと思い直し、次の日からは積極的に子供たちと触れ合った。介護とは何かということを子供たちとのやりとりから学んだのだった。
3日目以降は、私がエクササイズルームで特に重度の障害を持った子供たちのリハビリを任せられるようになり、責任感も出てきた。具体的には、思うように筋肉をコントロール出来ないといった障害を持っている子供たちが器具を使って無理にでも立てるようにしたり、バランスボールを使って運動させたりということだった。六人の子供のリハビリを行うだけだったが、それでも半日掛かりで体力的には相当ハードな仕事だった。ほかにもベッドメーキングや衣類着脱の介助など日本の福祉現場でも見られるような仕事もあり、日本で習得したホームヘルパーの技術が非常に役に立った。

ボランティアは世界各国から来ていて、ボランティアの合間に話をした。昼食もその日に知り合ったボランティア仲間と一緒に中心街まで食べにいった。全く価値観の違う人々の話を聞くことは新鮮でとても良い刺激になった。日本人はもちろん、韓国、香港、フランス、スペイン、オーストラリアと今でも連絡を取り合う仲間がたくさん出来たことも大きい。
ここの子供たちは世界中から集められた寄付金で生活をしている。そして、多くの人々の支えがなければ生きていけない。しかし、障害は一生付き合わなければならないもので、この子供たちはこれからも多くの助けを必要とし続ける。インドには健康であっても経済的な支援や人々の助けを必要としている人が多くいた。将来が有望でも経済的な理由で夢をあきらめるしかない子供たちも大勢いる。それでも、この子供たちに多額の寄付金と労力を投じて世話をすることの意義を考えるたびに、命の尊厳とはいったい何なのかを悩み続ける日々だった。
ほかに私はカリガードという所でも1日許可をもらってボランティアをした。カリガードは死を待つ人々の家ともいわれ、重症と思われる病人が男女それぞれ100人程度生活している。ダヤダンとは全く異なる雰囲気で、その名のとおり、そこで生活している人々は結核や皮膚病などを患っており、寝た切りの方もいた。仕事はダヤダンとあまり変わらず、洗濯や食事の介助が主な仕事だったが、利用者が感染症にかかっていることもあるため、ボランティアは手袋とマスクを付けて仕事に当たった。ここはマザー・テレサが世界で最初に建てた施設であり、ここでボランティアをしたいという人は大勢いる。そのためか、ここで働くボランティアは献身的に働いていて、ボランティアの真の姿を見た気がした。

ホームステイの生活

私はコルカタでの滞在期間中、ホームステイをしていた。私のホスト・ファミリーはマザー、ファーザーと14歳の息子シュワパンの3人家族だった。マザーとシュワパンは英語に堪能で、家族との会話は英語で行っていた。マザーは優しく、ファーザーは明るく、シュワパンは聡明だった。マザーには朝は目覚めのチャイ(インドのミルクティー)を、夕方はおいしいインド料理を作ってもらっていた。もちろん、毎日カレーなのだが、インドのカレーはマサラと呼ばれる香辛料をさまざまに組み合わせて作っているので、飽きることはなかった。今や私の好物はインド・カレーとなっている。シュワパンとは家にいるときによく話をして、インドの歴史や文化について色々と教えてもらった。また、満面の笑みを浮かべているファーザーと撮った写真は今回の活動でのベストピクチャーだった。私はホスト・ファミリーのおかげで本当に充実した毎日を送ることが出来た。トイレでは紙を使わない、シャワーは水しか出ないといったようなインド人の生活をそのまま体験出来たのは貴重な経験となった。この2週間、不便を感じることはあっても、快適だった。
また、今回は語学研修も兼ねていたので、マザーにお願いして友人の先生を呼んでもらい、毎日英語のレッスンを受けた。夕方六時から1時間半のディスカッション形式でインドの宗教から文化、歴史、街の人々の様子までありとあらゆることについて議論をした。私はこのレッスンを通してインドに住む人から見たインドというものを知ることが出来た。多宗教で経済発展の著しいインドは万華鏡のような輝きを放っていると感じた。また、レッスンがなかった日曜日には知り合いにヨガの先生がいるというので、本場インドのヨガを体験した。呼吸法や基本となる型(ポーズ)、ストレッチを教わったのだが、私は体が硬くうまくポーズが決められなかった。だから、日本に帰ってからも続けようと考え、私の趣味に「ヨガ」の2文字が付け加わった。

マザー・テレサの愛

マザー・テレサは生前、カリガードについて「目の前の愛されていない1人の老人を救うために作ったのだ」と言っていた。ただ、愛に飢えている人を愛するために。そのために大きな建物は必要ない。心を救ってあげられる優しさだけがあれば良い。ダヤダンの子供たちもほかの子供たちよりも愛が足りていないのだから愛してあげる必要があるのだと。私の感覚では「寄付金があるのなら、どうしてもっと大きな施設にしないのだろうか。そうすればもっと多くの人々が救えるのに」と思ってしまう。しかし、それはマザー・テレサが望むことではない。どんなに小さなことでも、たとえそれが擦れ違う人にほほえみ掛けるだけであっても、自分に出来ることで人を幸せに出来るのであればそれがボランティアだとマザー・テレサは言う。

もう1つ、私が大金をはたいてインドに来るのであれば、そのお金で洗濯機を1つ寄贈すればそれで済むのではないかということを思った。なぜなら、私たちボランティアが施設でしていたことは洗濯機1台あれば解決してしまうことだったからだ。しかし、それではボランティアでも何でもない。また、インドの人々はそれを望んではいない。私たちがどうこう変えられることではないのだ。もし、インドの人々が洗濯機を必要と思う時が来れば、その時にインドの人々が自らどうにかするのである。これはほかのすべてのことにも当てはまることだと感じた。
こうして出た結論は、結局ボランティアは自分のために行うものだということだった。確かにボランティアの定義は自己犠牲の下で社会に貢献することである。しかし、それは独り善がりな考えに過ぎない。マザー・テレサも自己犠牲の大切さを説いており、人は自己を犠牲にすることで自らの精神が鍛えられ、人を愛することで自らが幸せになれると言っている。1つの例として、ダヤダンで出会った、30年間ボランティアスタッフとしてチャリティー施設で働く日本人女性の話をここで紹介しておく。彼女はマザー・テレサに感化され子供たちをだれよりも熱心に世話をしている。しかし、彼女はほかのボランティアスタッフのことを快く思ってはいなかった。というのも、ボランティアスタッフは子供たちを甘やかし過ぎてしまい、子供たちがわがままになってしまっているというのだ。子供のためにと思っていても必ずしもそうだとは限らない。ボランティアの難しさを感じた。

人々の生きる力

インドで私が強く感じたこと。それは人々の強くそして懸命に明るく生きようとする心である。貧しい生活を余儀なくされている物ごいの親子や身寄りのない子供たちなどは生きるのに必死だった。食べ物をねだって、しつこく私の袖を引っ張ってくる。しかし、私は冷たくあしらうほかはない。ただ、そうしてつらい思いをしていても、彼らは決して命を絶とうとは考えない。日本では一家無理心中やいじめによる自殺などが取りざたされているというのに、インドではそういったことは一切見られない。人々が生きようとする力、生命力にあふれている。どんなに貧しくても陽気で、生きていることに喜びを感じていた。毎日を楽しもうとしていた。私はインドで、生きるとはどういうことなのかを学んだ。

経験を生かす

私は将来、国家公務員として社会に大きなインパクトが与えられる仕事がしたいと思っていた。社会では弱き者が不遇にあっても声を上げることすら出来ずに、辛酸をなめている。そして、その事実にだれも目を向けようとしない。しか

し、未熟な私にはどうすることも出来ず、ただいらだちを抑えるしかなかった。それは特に去年の夏に特別養護老人ホームでボランティアをした時に、またそれを契機にホームヘルパーの資格を取得して実際に日本の福祉の現場で働いた時に、強く感じたことだった。そこから具体的に厚生労働省で福祉制度の整備に携わりたいと思い、より広い見識を得たいとインドでの国際ボランティアを決意したのだ。インドでの活動を終えた今も、その思いは変わっていない。むしろ、思いは一層強くなった。ただ、改めて思うのは今まで私が見て考えていたことはほんの一部のことで、日本にも世界にもまだまだ目を向けなければならにことがたくさんあるのだということだ。福祉、労働、教育、環境、経済、外交。インドという外国の現状を見た後で、振り返って日本を見てみると日本の抱える問題、あるいは日本の良さがよりくっきりと見えるようになった。私はこのインドでの活動をより多くのことに目を向けるきっかけとして、将来につながる糧として、大いに活用していきたいと思っている。

終わりに

私は今回の活動を心の底から楽しめた。確かに、出発前は大きな不安があったし、私の周りの人に多くの心配も掛けた。実際、インドに着いてからも決して快適な生活とは行かなかったし、危険だと感じることが全くなかったとはいえない。しかし、それを上回るだけのものを得ることは出来た。多面国家インド。さまざまなことを見て、さまざまな人に出会い、そしてさまざまなことを考える。私にとってそれが出来る場所だった。
最後に、今回の活動を温かく見守ってくださった先生方、いつも私のことを心配してくれた家族、そして、応援してくれたすべての人に心から感謝の意を表したい。

草のみどり 207号掲載(2007年7月号)