法学部

【活動レポート】小柳 和花奈 (2003年度法学部国際企業関係法学科卒)

「やる気応援奨学金」リポート(1) 国際インターンシップを経験 ハーグで国際法の現場を学ぶ

一路オランダへ

昨夏、私は総合講座、国際インターンシップの第1期生として、オランダのハーグにある化学兵器禁止機関(OPCW)で約1ヶ月のインターンシップを経験した。2003年度から開講の講座だったため前例に従うことも出来ず、加えて国際機関での学部生のインターンも初めてのことで、周囲の期待や好奇心は大きいものの、当の本人はすべて手探りで分からないことだらけのまま突き進むしかない状況だった。
今回の国際インターンシップの活動報告書は総合講座内で1冊にまとめられ、インターン活動そのものに関する学術的な報告を各人が行ったが、ここではそうした報告書に書くことが出来なかったより個人的な体験や感想について記そうと考えている。この活動記が第二期以降の皆さんの参考になれば幸いである。
私は大学1年次に国際法の勉強を始め、2年、3年と国際法を続けるに従って、次第に机上の国際法のみならず国際法が機能する現場に関心を抱くようになった。そこで昨2月に行われた国際インターンの選抜試験に応募し、英語と日本語で行われた面接に、意欲にあふれた積極的な学生が数多く集まってきていることに驚きつつ、4月からの講座開講に胸を膨らませた。
国際インターンのクラスは、前期にインターンに関連する国際問題や国際組織についてゼミ形式で勉強し、夏休み中にインターンシップを行い、その成果を後期の授業で報告するという形態を採った。インターン先は横田洋三教授、柳井俊二教授を始めとする中央大学の教育熱心な国際法の先生方の御尽力により、日本または海外の国際機関もしくは外務省が主だった。
ほとんどの学生が国内のインターンを選ぶ中、無謀にも私は国外のインターンを選び、当初チューリップと風車しか知らなかったオランダでインターンをすることになった。学部生でありながら国際機関でインターンをさせてもらえるうれしさに、大した心配もせず、一般的にいうインターン自体が一体何を意味するのかさえよく分からないうえ、オランダに関する若干の知識と十分とはいい難い国際法の知識、多少の英語力だけを携えて7月の終わりに出発した。

国際法の実務に触れる

しかし、その楽観は化学兵器禁止機関に一歩足を踏み入れた途端吹き飛ぶこととなった。
化学兵器禁止機関は、1993年に締結され、1997年4月29日に発効した化学兵器禁止条約に基づいて設立された機関であり、現在159の締約国から成る。
この条約は、化学兵器の使用のみを禁止し、生産及び貯蔵については禁止せず、また実施の検証機構を持たなかったかつてのジュネーブ議定書(正確には「戦争における窒息性、有毒性、その他のガスの使用及び細菌による戦争手段を禁止する為の議定書」)の欠陥を克服するものであり、締約国は化学兵器禁止機関事務局に対して化学兵器の廃棄状況や関連情報について申告を行い、化学兵器禁止機関の査察官は各国の申告の正確性を、実際にその国で査察を行うことにより検証する。
査察は化学兵器の貯蔵及び関連施設のみならず、締約国の化学産業にも及び、1997年の発効から現在までで1300回以上の査察が実施されている。
ちなみに、化学兵器使用の歴史で最も古いものは、第1次世界大戦においてドイツ軍により、ベルギーのイーペルという街に塩素ガス160㌧(気密構造のボンベ6000本)が投下された時である。1915年4月22日、24日の投下で15,000人が死亡した。第一次世界大戦で使用された化学兵器は124,000㌧にも及び、化学兵器が原因で9万人が死亡した。
これを受けて、1925年のジュネーブ議定書に38ヶ国が署名するものの、1930年代にはモロッコ、アビシニア、中国、1960年代にはベトナム、イエメン、1980年代にはイラン、イラク戦争で引き続き化学兵器が使用された。これらが契機となり、1997年化学兵器禁止条約発効に至るのである。
かかる経緯を持つ化学兵器禁止機関に私は緊張と興奮を持って足を踏み入れた、と書きたいところであるが、足を踏み入れる前に止められた。国際機関はどの機関も、安全確保のためセキュリティーは極めて厳しい。化学兵器禁止機関も例外ではなくゲートとエントランスの二カ所でセンサーチェックが行われ、足を踏み入れるためにはIDカードが必要である。更に機密保持のため、専門員以外はセンサーチェックではじかれてしまうフロアもある。
後に私も機密文書の取り扱い方に関する講習を受け、その徹底ぶりに驚かされた。ともかくその場は厳しく詰問する警備員に何とか私の面倒を見てくださる職員の方の名前を伝え、やっとのことで通してもらった。
中に入ると、今後約1ヶ月のインターンをするにあたり、たくさんの契約書にサインさせられ、IDを作ってもらい、やっとフロアをある程度自由に行き来出来るようになった。国際機関だけあって、フロア内を実にさまざまな国籍の職員が歩き回っている。日本人職員は全職員500人中わずか7人だった。
興味深く施設内を見て回っているうちに、私ははたとインターンの目的について考えた。インターンとはそもそも、その機関の仕事を体験しながら組織形態や機関に関する知識を深めるものである。つまり、通常インターンの仕事内容が学生の研究に即したものであるはずもなく、何らかの明確な目的意識なくインターンを行うだけではただのお手伝いで終わってしまい、全く意味がないのである。

さまざまな国際機関を見る

そこで私は、早速次の日から自分の勉強とインターンの活動を結び付けるための滞在中の計画を立てた。インターンの目的を話すと、担当してくださる方を始めたくさんの職員の方々がインターン成功のために尽力し、さまざまな国際機関に連絡を取り、訪問設定をしてくださった。

そのおかげで、1ヶ月のインターン期間中、ベルギーのイーペル戦争記念博物館、Institute of International Relations、在蘭日本大使館、国際司法裁判所、旧ユーゴ国際刑事裁判所、ライデン大学、化学兵器禁止機関内operations and planning branchなど、実にさまざまな機関で国際法や国際機関に直接携わる方々のお話を伺う機会に恵まれた。
Institute of International Relationsは、世界各国からの学生や研究者を受け入れる研究機関で、国際問題についての膨大な資料を完備し、トレーニングプログラムなども組んでいる。
資料室には、6,000冊の国際問題に関する書物や220の定期刊行物、更に例えば「国連」「安全保障」「難民」などのキーワードごとに16カ国の学術資料や新聞の切り抜きまでまとめられており、一国による情報が調整された一面的な見方ではなく、各国比較により偏りのない情報を得ることが出来る。

在蘭日本大使館ではCWC班の方にお話を伺った。CWCとは、Chemical Weapons Conventionの略であり、つまり化学兵器禁止条約のことである。化学兵器禁止機関は、締約国会議によりすべての事項が決定される。その締約国会議に日本代表として参加されている方々が日本大使館のCWC班である。
国際条約における締約国の代表者が締約国会議に出席して国際機関の運用について決定するということまでは国際法の勉強として当然触れるが、実際に代表をしている方々がどんな方なのか、どういった形で仕事をしているのかは、その特殊性ゆえに自分では想像もつかなかったため、国際法の実務に触れる機会として個人的に大変興味があった。
国際司法裁判所はいわずと知れた、国連の司法における主要機関である。小和田恒氏が裁判官として勤務されていることは知らない人の方が少ないであろう。しかし、裁判官以外についてはほとんど知られていないが、中にはリーガルアドバイザーをなさっている日本女性もいらっしゃって、同性として心強い限りだった。
ライデン大学は、オランダのライデンにある国際法では有名な大学である。1575年、スペインの侵略に対する攻防で勝利を勝ち取ったライデン市民が、オラニエ公ウィリアムから褒美として設立してもらったという大学で、当時その都市に大学があるということは大変な名誉と考えられていたため、ライデン市民は税金免除という褒美を断ってまでも大学設立を望んだそうである。
日本研究科も有名で、構内には壁に俳句が書かれていたり、極真空手や合気道のサークル案内なども出ていた。幸い友人の紹介で国際法の研究をしている学生と話をする機会に恵まれた。
最後に旧ユーゴ国際刑事裁判所であるが、これは旧ユーゴスラビア地域の紛争における戦争犯罪や国際人道法上重大な犯罪を犯した個人を裁くことを目的として1993年5月の国連安全保障理事会決議827により国連憲章第7章の下での強制措置として設立された。
対象犯罪は、①1949年ジュネーブ諸条約の重大な違反②戦争法及び慣例の違反③ジェノサイド④人道に対する罪――である。有名な所ではミロシェビッチ(旧ユーゴ連邦大統領)の裁判などが行われている。
セキュリティーチェックが厳しく、裁判は大変システム化された補充機器を使用して行われる。提出された証拠はスキャナーで裁判官、検察官、弁護人全員のパソコンに映し出される。実際に行われている裁判は30分の時間差を設け、その間に公開すべきでない個人名や証拠を削除し、裁判所内の至る所でほぼ同時放送が行われる。一般的にイメージする法廷とはだいぶ異なった先進的な機関である。検察局捜査部にいらっしゃる日本人職員の方にお世話になった。

将来の道を開く切っ掛けに

このように、私のインターンは本当にたくさんの方々にお世話になって実り多いものとなった。ただの観光旅行や、友人同士の楽しい旅では絶対に得られなかったであろう経験をした。そしてそれは自分の将来の道を開く切っ掛けになったと自負している。カリキュラムとしても初めてということで何の保障もない状態だったこともあり、反対がなかったわけではなく、すべてが順調に行ったわけでもなかった。特に、宿泊先に関しては、日本と同じ感覚で駅周辺であれば安全と考えていたが必ずしもそうではなく、しばらくの間はかなり心細い思いをした。

しかし幸い、化学兵器禁止機関に勤務されている浦野御夫妻のお宅にホームステイさせていただくことになり、以後は大変安全で楽しい日々を過ごすことが出来た。休日ごとにデルフト、クリンゲンダイル、美術館、新旧教会などに連れ出していただき、楽しい旅の思い出もたくさん出来た。
浦野御夫妻を始め、インターン期間中は常に自分を支えてくれる人がいて、父親のように、母親のように、兄姉のように、私に愛情をかけて守ってくれる人たちがいた。一介の学生で、知識も経験もない私に純粋に善意から親切にしてくださる方々に囲まれて、ありきたりのことをいうようだが、自分がいかに周りの方々に支えられているのかを実感した。本当に、心から感謝の気持ちでいっぱいである。個人的なことで大変恐縮だが、この場を借りてお礼を申し上げたい。
このチャンスを与えてくださった横田洋三教授、そしてカリキュラムでお世話になった柳井俊二教授、西海真樹教授、宮野洋一教授、スティーブン・ヘッセ教授、化学兵器禁止機関人事部長の春さん、春さん御家族、浦野御夫妻、相賀さん、大西さん、藤原さん、藤原さん御家族、青木さん、安田さん、阿部さん、小室さん、Ada, Qi, Jose, Alex, Juliana, Saskia, Suri, Juline, 本当にお世話になりました。
そして何よりも、不安要素にあふれた娘の無謀な行動に理解を示し、協力してくれた父母に敬意と感謝を表したい。

草のみどり 175号掲載(2004年5月号)