法学部

【活動レポート】林 佑美 (政治学科2年)

「やる気応援奨学金」リポート(62) カナダの田舎町で英語漬けに 自分自身と向き合った1カ月

9月の帰国から半年がたとうとしている。今となっては半年前にカナダに1人ぼっちで飛び込んで、右往左往しながらも懸命に1カ月を生きた自分がどこかきらきらしていて誇らしい。あの夏が私にとって人生の中で1番自分自身と向き合い、最も忘れられないものとなったことに疑いはない。

ホームシックってこれのこと?

この留学は私にとって初めての英語圏行きであり、かつ初めての1人旅であった。出発の日、不安と期待とが入り交じり私は今までに体験したことのないような感情に駆られていた。これから始まる1カ月が何の事件も起きず平和に過ぎるのだろうなとカナダでの生活を甘く見ていた私……の考えとは裏腹に早速波瀾万丈な1カ月は幕を開けようとしていた。
悪天候のためバンクーバー空港に遅れて到着した私は、スーツケースを片手に乗り継ぎ先へ懸命に走った。しかし、いくら探しても私が行くべき搭乗口が見付からない。空港の人が私への案内を間違えてしまったのだ。絶対間に合わないと思いつつも、その搭乗口へのバス停を探すため片言の英語で人に尋ね、何とか着いた。しかしこれは事件の前兆に過ぎず、この後、私は人生で初めてホームシックとやらを経験するのだった。
空港に無事に着き、飛行機の搭乗を待っていた私。しかし、なぜか違和感を感じる。何だ?この不安は……と思い、周りをよく見てみると……そう、私を除き皆欧米人。カナダといえば、多民族国家として知られているが、ここにはぽつんと私、1人だけがアジアンだった。それもそのはず、なぜなら今回、私は自らアジアンがいないネイティブだけの場所に行くと目標に掲げたからだ。しかし、空港から早速その状況になるとは予想もしていなかったし、いざ放り出されると不安で仕方がなかった。まるで、映画のワンシーンでも見ているかのようで、自分はどこか違う星にでも迷い込んだのではないかという気までもした。この後がいけなかった。私は東京にいる母に電話をしてしまい、母の声を聞いた瞬間、号泣し人生初のホームシックを味わうことになった。この時、私は本気で心の中でつぶやいた。「やる気(応援奨学金)、ごめんなさい。明日、日本に帰らせて」と。今思うと、こんな受給者は前代未聞だろう。
その後、無事にホームステイ先の家に着いた時、私はどきどきしてはいたが、これから人生で1番濃い1カ月間が始まろうとは思いもしなかった。ちなみに私のホームシックは2日もたたないうちに消えていった。なぜなら、最高のファミリーに恵まれたこと、今回一緒に奨学金を勝ち取った仲間が励ましてくれたこと、そして私が最強の天真らんまんな性格であったからだ。

ど田舎パウエルリバー

私の滞在先パウエルリバーはカナダ西の玄関口として知られるバンクーバーから北に飛行機で30分行った所に位置する小さな田舎町。人口は1万9765人で、どこへ行っても湖と太平洋に囲まれた自然豊かな町。最低限の生活用品が買えるショッピングモールが1つとコンビニが1つあり、そのほかは何もない。
なぜ、私がこんなにも「ど田舎」を選んだのか。それには幾つか理由がある。第1にネイティブの英語を身につけたかったからだ。どこへ行ってもアジア系、特に日本人の割合はとても高いカナダ。しかし、治安も良く自然に恵まれているカナダは私にとって英語を学ぶうえで最高の場所であったため、どこかアジア人がいない所はないかと懸命に探した。そこで出会ったのが、私にとって運命ともいえる場所パウエルリバーだったのだ。私が通っていた語学学校以外の人はすべてネイティブカナディアンだった。自らそのような場所を選んだ理由として、語学学校だけが英語を学ぶ場では、この奨学金が私にとって意味をなさないと思ったからである。せっかく行くならば少しでもハードルを上げ、24時間英語漬けの日々を送りたかった。また他方で、私が育った東京とは全く別の環境で1カ月間暮らしてみたかったからである。案の定、パウエルリバーには自然のほかに何もなかった。大都会で育った私にとって、こんな所で本当に1カ月も過ごせるだろうかと、戸惑いもたくさんあったが、いつの間にかこの大自然に囲まれ、人と人とのつながりを大切にする、スローライフに心地良さを感じ始めていた。

語学学校で度胸がついた

「やる気応援奨学金」の目的の1つは英語の上達であり、大半の受給者が英語上達のために語学学校や大学のESLコースを選択する。つまり、語学学校の選び方によって1カ月間の充実度が大きく左右される。私の選んだ学校Camber Collegeはとても小さな学校で全体で約40人の所であった。私が語学学校を選ぶ条件として第1に、スピーキング力向上に重点を置いていること、第2に少人数なこと、第3にEnglish only policyを持っていることは絶対譲れない条件だった。
特に私の通った学校はEnglish only policyにとても厳しかった。それは、学校内で絶対に母国語を使ってはいけないという規則であった。見付かった場合、2回目までは注意で許してくれるが3回見付かると学校を2日間停学になり、それ以上は学校を追放されてしまうというものであった。初めはただの脅しだと思っていたのだが、実際に停学になった学生が多々いたので、人事ではないと思い英語だけを使おうと必死だったことが今でも思い出される。
午前は固定クラスであり人数は8人程度だった。午前はそれぞれ1時間のボキャブラリー、スピーキング、リスニングの計3時間の授業だった。といってもすべてにおいて学生の意見を求められるもので、実際すべてがスピーキングの授

業なのではないか?と思うくらい英語を使っていた。午前のクラスで最も印象に残っているのは、週1回ショッピングモールへ行って、自分たちの知らない言葉をピックアップしてくる授業である。教科書の中と実際の生活で使う語句は違うことが多いので、この作業が私には新鮮であり、とてもためになった。
午後のクラスは選択授業が2時間あり、1つにMedia&Listeningを選択し、もう1つ選択したのがPublic speakingという授業であった。後者は、毎回先生が新聞を持ってきてその中から自分の興味のある記事を選ぶ。そして、準備時間15分を与えられ、10分間皆の前で内容の要約に加え、自分の考え方を発表するというものだった。10分間英語を公の場でしゃべり続けるということは想像以上に過酷であった。しゃべれないと焦ってしまい、自分の語い力のなさに落胆するばかりであった。しかし、挫折して終わらないのがこの私、と根拠のない自信を持ってあきらめずにこの授業に挑んだ。奨学金をもらって、ここで挫折するなんて格好悪過ぎる。メキシカンになんて負けてられない。メキシカンはとても前向きで、とにかくよくしゃべる。だから日本人はとても静かだと彼らに思われていたので、そのイメージを変えようと私もとにかくべらべらしゃべる努力をしたのだ。
そのような思いで必死に突っ走った1カ月、この授業が本当に1番きついものであったので、学校外の時間でも語いを増やせるように自習も欠かさずした。最後の週のある日、私は「日本の麻薬の広がり」というテーマでプレゼンテーションを行い、さすがに4週間も毎日発表をやってきたので、時間の配分なども初めてきちんと出来、メモをなるべく見ないで自分の言葉で説明することが出来た。そのプレゼンテーションの後の先生のコメントが今でも忘れられない。“Yumi, your presentation became logical.Now you’ve gotten high level skill in English. Its not easy. Well done!”その言葉がうれしくて私の目には思わず涙が浮かんでしまった。
この1カ月、自分の語い力のなさにいらだち、これほど頑張っているけれど本当に私の英語力は伸びているのかと焦りを感じ、たった1カ月で何を得られるのだろうと途方に暮れることも多々あった。しかし、最後にはこのような形で先生に言葉を掛けてもらえて、私の努力した1カ月は報われた気がした。そして得たもの、それは英語を堂々と話す「度胸」だと今は確信している。やはり、自分が考えに考えた学校だからこそ最後まで信念を持って勉強することをやめなかった。そして何よりも「やる気応援奨学金」で来ているからこそ絶対負けないという志があった。

家族とディスカッション

私が滞在したBouncier家は熱心なクリスチャンのお宅であった。家族構成は、子供を六人も育てたお母さん、都市計画の仕事をし家事もこなすお父さん、そして笑顔がチャーミングで人懐こい10歳の女の子の孫であった。本当に家族の仲が良く、毎日夕食後に、お父さんが愛情たっぷりの甘いミルクティーを入れてくれて、家族みんなで一緒に映画を見る。そしてその映画を見ながらお母さんはよく甲高い声で笑う。この時間が私にとってすごく幸福な時間であり家族の一員と感じられる1時でもあった。

そのほかに、Bouncier家にはよくお客さんが来る。毎週のように子供たちが御飯を食べに来たり、キリスト教の宣教師が来たりする。宣教師が来た時は特に面白い。なぜなら、夕食後に決まって国際ディスカッションが始まるからだ。日常会話から始まったと思ったら、いつの間にか社会問題についてディスカッションをしているのだ。私(日本人)とホストメート(スペイン人)、宣教師(ベトナム人)、ファミリー(カナダ人)と……やはりこれだけ国が違うと考え方も多種多様、また必ず“What do you think?”と意見を求められるのでスピーキングの刺激にもなった貴重な時間であった。
そしてもう1人、忘れられないのが小学校五年生のホストシスターとの出会いである。彼女は正真正銘、私の英会話能力を上げてくれた1人なのだ。子供の話す英語というものはとてもスピードが速く、スラングの使用や省略などもするので、とても苦戦した。私の話す英語は、大人ならば少し文法が間違っていても理解してくれるが、子供は正直者だ。分からないことは分からないとはっきり言う。最初のころはそんな自分の英語に落ち込み、シスターとの会話が恥でしかなかった。しかし彼女が私の英語を毎度理解しようとしてくれたので、私もたくさん話し掛け、随時英語を直してもらっていた。今思うと、彼女は私の1番の英語の先生だったのかも知れない。最後の日の朝、お母さんが焼きたてのクッキーを手土産に私に持たせ、ぎゅっとハグをしてくれた。「また絶対戻っておいで」と。「いつか絶対この人たちにお礼をしたい。そのためにも自分の英語力をもっと伸ばして再会する」。そう誓ったのだった。

市役所訪問で環境政策に迫る

今回の留学で英語を学ぶほかにもう1つ私が目的としたもの、それが環境問題であった。そこで私は市役所に事前にアポイントメントを取り、最後の週に自分の集大成として環境政策について担当の方とお話しすることが出来た。ここで2つほど、パウエルリバーで行っている環境政策を紹介したい。1つ目が、Water Weekである。これは市民に水の節約を呼び掛ける趣旨で、期間中は町中のあちらこちらに水を大切に!という紙が張られ、また上下水道へ理解を深めてもらうために、小学生たちを呼び水資源の教育も行われる。
2つ目が、Tax for lakesである。ここパウエルリバーは100近くの湖に囲まれている。どの湖も底が見えるほど水が透き通り管理がきちんとなされている。なぜなら、自治体の提案により市民は年間300カナダ㌦を支払って湖の保護を自治体に任せているからだ。この特別税を市民たちはとても喜んで払っている。ずっと変わらず奇麗な町を守りたい、みんな同じ気持ちなのである。
市役所訪問はまた英語の刺激を受けた場でもあった。やはり、一般の人たちが話す英語のスピードは速いと感じた。「この人たちと普通に会話出来るようになりたい」。日本へ帰る間際に帰国してからの新たな目標を見付けた。

やる気応援奨学金にすべて感謝

私は1年生のこの時期に「やる気応援奨学金」をいただけたことに大きな収穫を感じる。今、振り返ればやる気をやると決意し応募するまでの1カ月半はとても有意義であった。企画書を書くために自身と向き合い、リソースセンターに毎日のように通って周りの人を巻き込むような勢いでアドバイスをいただいたりと私の行動範囲は計り知れないものであった。
実際にカナダで生活をした1カ月間、私はさまざまなことを感じた。欧米人不信になった最初、無我夢中で楽しんだ時間、自分の英語の出来なさに悔しい思いでいっぱいの時間、そこからはい上がりより勉強するようになったこと、本気で将来について考えることもあった。しかし私の中で唯一変わらないものがあった。それはモチベーションの高さであ

る。この点がこの奨学金が持つ最大の魅力の1つなのではないかと今は思う。普通の奨学金であったら、もし自費留学であったならば、私はここまで頑張れていただろうか。困難にぶつかった時、私は常にこう感じていた。「大丈夫、日本であれほど色々なことを考えてきて、あんなにやってきたのだから。私なら大丈夫」と。この意味でも行く前の準備は現地で困難から立ち直らせてくれる打たれ強さの源となったのだ。
そしてこの奨学金の不思議にも面白いところは、行く前後にストーリーが続くことだ。私はリソースセンターを通してたくさんの出会いを得た。やる気で出会った先生方はその後も私の近況を気に掛けてくださり、素晴らしい先輩方ともお話しする機会が増え、自分の将来構想に刺激を受ける。今後のことは帰国後にたくさん考えた。1つには、もっと英語を勉強したいので長期留学に挑戦してみたい。しかしその前に日本で自分の専門分野の基礎をしっかり固めたい。確実にいえることはこの留学を通して私の世界観は180度変わり、本当の意味での広い視野で物事をとらえられるようになった。またモチベーションが常に高く、精神的に強くなった。この内面的に得たものはきっとこの先、どの道に進んだとしても私の将来に役立つと思う。この1年生という何にでも飛び込める時期に、人生最大の財産ともいえることを体験出来たことに幸せを感じる。
最後に、相談に乗ってくださった先輩方、リソースセンターのスタッフの方、やる気の先生方、私たちの将来に投資してくださる寄付者の方、やる気を通して出会ったすべての人に感謝を申し上げたい。

草のみどり 236号掲載(2010年6月号)