法学部

【活動レポート】高野 万知子 (国際企業関係法学科3年)

「やる気応援奨学金」リポート(88)
 フィリピンで法律インターン NPOでは貧困問題を調べる

今回、私のフィリピンでの経験を多くの人と共有出来る機会をいただき、大変光栄に思う。ここではごく一部しか紹介出来ないが、それを通して少しでも何か感じていただけたら幸いである。

計画が出来るまで

「私一人に何が出来るのか」。自分自身の価値に対して疑問を投げ掛け始めたことから私の計画はスタートする。社会に出ることを目前に控えた自分に、自信が持てず焦っていたのだと思う。どうにか自分を成長させたいという思いから、自身の関心に基づき考えたのが、法律事務所でのインターンシップと貧困問題調査である。それを英語圏で、と考えた時に真っ先にフィリピンが頭の中に浮かんだ。

 その日から、私はインターネットで法律事務所を探し、何十通もメールを送った。返信をくれた事務所は一つだけだった。私は、このチャンスを逃すまいと英語の履歴書などを必死で準備した。受け入れ許可をいただいた時の安堵感は忘れられない。これでフィリピンに行ける、その喜びを強く感じた。振り返ってみると、計画から実行までを自分の手で成し遂げたことで少し自信がついたのか、フィリピンへの渡航に対する気持ちもどんどん前向きになったと思う。

法律事務所でのインターン

フィリピン到着後、私はメトロ・マニラのビジネス地区、オルティガスセンターに滞在し、同地区内にあるラグマ・ロー・オフィスで四週間のインターンシップを行った。一人で海外に行くのも一人の生活もすべて初めてだったので、日々手探りの状態であった。

 インターンシップでは、私には一つとして課題がなかった。自分がしたいことをしたいように出来る環境を作りたいという、受け入れ先の弁護士の方の配慮である。しかしその配慮が期間を通して常に私を悩ませることになった。事務所では、主にフィリピンの法律文献を読み、法律英語の勉強をして過ごした。「自由」であることでかえって苦労したのは特にこの時である。今自分が何をすべきなのか、という問いと常に闘っていた。少しでも何かを得ようと、たくさんの英語の文献を読み、弁護士の方に質問をした。

 また、週に二、三回外に出る機会もあった。弁護士が裁判所を訪れたり面談などをするためである。私はこの時も積極的に同行するようにした。裁判傍聴に訪れたある日のこと、私はとても驚いた。刑事事件の傍聴に行った際、二五人の被告たちが、数人ずつお互いを手錠でつないだ状態で傍聴席に座っていたからである。オレンジ色のつなぎを着た人ですし詰め状態の傍聴席。立ちながらメモを取る私を気の毒に思った男性の御厚意により、私は人生で初めて囚人の隣に座った。この時感じた言いようもない緊張感は、忘れることが出来ない。傍聴席と法廷の間の柵は、傍聴人を被告人から離し、彼らの安全を確保するために機能している。法律や制度は、文化の違いを大きく反映すること、また常識は国によって大きく異なることを、身をもって体感した瞬間だった。

インターン最終日に事務所の弁護士と

更に、別の日にはロースクールの授業を見学する機会があった。研修先のルー弁護士が講師を務める授業に招かれたのである。授業では、法律的な問題を抱えた市民を招き、学生たちが相談から書類作成まですべてを担当する。費用は一切掛からない。これは、弁護士を雇うお金のない、法律問題を抱えた人に接することで、学生に社会について考える機会を持ってほしいというルー弁護士の考えによるものである。彼自身、フィリピンの社会を変えたいという使命感を強く持っている。この国は、非常に経済格差の大きな国、簡単に言えば、「貧しい人がより苦労する」世の中なのである。ルー弁護士は、経済的に恵まれた一握りの人だからこそ、フィリピン変革の義務があると考えているようだ。

 「フィリピン人が日本人から学ぶべきことは何だと思う?」。ルー弁護士からそう尋ねられた時私は困惑してしまった。普段は、無意識のうちに国自体や国民性の良くないところばかりに目を向けてしまいがちである。フィリピン人から見た日本は、戦争当時の憎き敵であり、アジアの中の裕福な国という印象なのだ。この質問は、私が自分自身の視野の狭さに気付くきっかけとなった。

人々との交流

フィリピンの街の標識の多くは英語で書かれており、一般市民であっても英語で日常会話をこなせるほどに英語が浸透している。一九世紀末からアメリカがフィリピンを支配していた歴史が背景にあるのである。私が出会ったフィリピン人は、皆とてもフレンドリーだった。滞在先周辺の人は名前を呼んで挨拶してくれるほどである。見ず知らずの場所でもこうして声を掛けてくれる人がいることで緊張がほぐれることも多かった。

マニラの風景

そして何と言っても、事務所の三人の女性弁護士の存在は大きい。彼女たちは、全員私と一〇歳も違わない若者ばかりで、友達のように接してくれた。私は基本的に彼女たちに同行していたので、裁判傍聴の際には私の内容などの質問に関して丁寧に答えてくれたのが印象的である。また夜や休日に、一緒に買い物や食事に出掛けることもあった。互いの国のことやたわいのない話で笑い合えたのは本当に大切な思い出だ。帰国後も、彼女たちとは連絡を取り続けており、国籍を超えて掛け替えのない友人を得たことは、私にとって何よりも大きい財産である。

街歩きと貧困

休日には、積極的に外に出ようと決めていたので、毎週末欠かさずタクシーや高架鉄道を利用し、メトロ・マニラ内のさまざまな街を歩いた。フィリピンは約三〇〇年間スペインの支配下にあり、マニラにはイントラムロスと呼ばれる当時の面影を残す地区がある。西洋風石造りの建物が並ぶ街並みに、どこかアジアの香りが漂う不思議な場所。フィリピン人は、自分自身の原点をこのスペイン統治時代に見るようである。このような場所を巡ることは、歴史探訪が好きな私にとってとても興味深く楽しい時間だった。ただ、治安が良くないので、常に警戒心を持つ必要があった。場所によってはすりや連れ去り、強盗なども頻繁に起きるのである。滞在中、私は特に大きなトラブルに巻き込まれなかったが、いかに日本が安全で豊かな国であるかを、日々の生活を通して強く感じた。

 マニラにはさまざまな顔がある。先進国に引けを取らないほどの大都会と、トタン屋根の集落が隣り合って存在する。道路では、裸足の子どもたちが停車中の車の窓越しに商売をしている。ほかにも、私が街を歩いていた時、小さい姉弟が"Money!"と叫びながら目の前に飛び出し、行く手を遮った。断らざるをえないのでそのまま立ち去ったが、一種の罪悪感を感じた。彼らに私はどう映っているのだろうか。こういう現実があることはもちろん知っていたが、体験したショックは大きい。フィリピンの多様な側面を垣間見る経験だった。

ごみと生きる

私には、出発前からどうしても訪れたい場所があった。インターネットで見た、ごみ拾いをして生計を立てる人々の写真。谷に作られたはずのごみ投棄場が、まるで山のようにそびえ立つその地域はフィリピン人の間でも最貧困地域という認識を持たれていた。私は、その場所を見るべく、パヤタスという、ダンプサイト(ごみの集積場が山になって存在する最貧困地域)に住む人々を支援する日本のNPO法人Salt Payatasのスタディーツアーに参加した。

パヤタス訪問

パヤタスの人々の多くは、そのごみの集積場から再利用可能資源を拾い集め、それを換金して生計を立てている。人は彼らをスカベンジャーと呼ぶ。Saltは、この地域の子どもたちの学業支援と女性たちの自立支援を通して、最終的には住民の貧困からの脱出を目標として活動している。私は、Salt学業支援奨学生の子を持つお宅を訪ねてお話を伺ったり、支援施設や女性たちの工房を訪ねて回ったり、座談会を行うなど、丸一日掛けて街を巡った。

 街の環境の悪さには言葉が出なかった。どこもかしこもごみのにおいが充満している。ツアー参加者は日本人学生六人。私たちは見せ物ではない、と感じる住民もいるとスタッフの方が私たちに教えてくださった。ボランティアの難しさは恐らくここにあるのだと思う。

 この地域では一〇年ほど前、ごみ山の一つが土砂崩れを起こし、パヤタスの街の一部をのみ込んだ。その際推定七〇〇人の住民が犠牲になったと言われている。行政はそれ以降対処に乗り出す姿勢を繰り返し示しているが、本質的な改善には至っていない。ダンプサイトは、国からの補助金支給などの対象になることから、行政にとって宝の山なのである。

 Saltの支援で高等教育を受け、パヤタスを出た子どもたちも少なくない。彼らをサポートするのは、力になりたいと願う日本の一般的な人々である。このように国を超えたつながりが誰かを確実に幸せに近付けていると思うと、人一人の力は小さくないことを考えさせられる。この「小さな努力」が持つ大きな可能性が今後より発展していく過程に、私も何らかの形で携わりたいと強く思った。

私一人に何が出来るのか

出発前の原点に立ち返って考える。私は今回のフィリピン研修をやり通したことを、自信を持って誇ることが出来るのは本当に幸せなことである。フィリピンでの日々は私にとってすべてが新鮮で、私は自分がどれだけ狭い世界で生きていたのかを思い知った。このフィリピンでの経験を通して、どういう形であれ、国という概念にとらわれず仕事をしていきたいと強く思うようになった。就職活動を目前に控えた今、そしてこれから先も、「私一人に何が出来るのか」を繰り返し自分に問い掛けたいと思う。

 最後に、計画段階からサポートしてくださった先生方、「やる気応援奨学金」の関係者・職員の皆様、応援してくれた友人、フィリピンで出会ったすべての人、そして何よりこの「自分勝手な」私を許し見守ってくれた両親・家族に心から感謝したい。